Tuesday, August 8, 2006

刑法39条を擁護してみる


刑法第39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。②心神耗弱者の行為は、その罪を減軽する。」


この条文は近年激しい批判にさらされているが、私にはどうも改正する必要が強く感じられないので、少し擁護してみる。先に参考文献を挙げておく。


呉智英・佐藤幹夫編『刑法三九条は削除せよ!是か非か』洋泉社、2004年

芹沢一也『狂気と犯罪』講談社プラスアルファ新書、2005年

芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社プラスアルファ新書、2006年

佐藤直樹『刑法39条はもういらない』青弓社、2006年

宮崎哲弥・岩波明・久坂部羊「法と病の隙間に逃避する犯罪者を許すな」『諸君』2006年7月号


さて、39条について述べる前に、まず私の刑法/刑罰観について述べておく必要がある。なぜなら、39条についての議論は必然的に刑法全体についての認識を問われる性質を持っているからだ。

私見によれば、刑罰とは社会秩序の維持を目的として、定められた「罪」が行われることを予防するために設定されているコストである。ここから、読者は私の刑罰観の基底に目的刑論が敷かれていることを了解するだろう。事前に罪とそれに応じた刑罰が定められている(罪刑法定主義)という前提の下で、合理的選択の結果として違法行為を為した者は、定められたコスト=刑罰を負わなければならない。多くの場合、既定の社会秩序に対する違反行為は社会道徳に対する違背行為と意味的に大きく重なり合って受容されるため、刑罰の執行は社会的には道徳的非難として受け取られる。こうした刑罰の社会的意味は、道徳的規律として副次的に社会秩序の維持に資するため、秩序維持を目的とする上では、刑罰=コストという認識が普及するよりも都合がよい。したがって、刑罰=道徳的非難という社会的意味の理論的外皮としてのみ(だが半永久的に)、応報刑論が維持され得る。だが、刑罰の中心的意味が違法行為についての強制的な対価徴収にあることを忘れてはならない。

しかしながら、ここで注意すべきは、コストとベネフィットを冷静かつ合理的に判断し、その判断に基づいた選択の結果として違法行為を為す者は、実際には多くないという点である。現実には、家庭環境、生育過程、教育程度、経済状況、交友関係、健康状態、精神状態など、さまざまな社会・経済的および個人的要因、また間接的および直接的要因、あるいはそれらの絡み合いによって、合理的判断が不可能または困難であったり、選択の範囲や時間的余裕が著しく限定されていたりすることから違法行為を為す者がほとんどである。したがって、裁判および処罰の過程においては、これらの個別事情(情状)に応じて既定のコストを削減した上で、削減したコストの代替として、再犯予防を目的とした教育・訓練・実践・治療などのフォローおよびケアを刑務に並行させなくてはならない。個別事情を考慮せずに違法行為だけに着目してコスト=刑罰を与えることは、非現実的な合理的人間像に基づいて個人だけに犯罪の責任を帰することを意味し、到底受け入れ難い措置である。

以上のような立場からは、ほぼ完全に合理的判断が可能であるか、ある程度まで合理的判断が可能であり、違法行為以外の選択を為す余地(他行為可能性)があったにもかかわらず違法行為を選択した者が、その他行為可能性の程度を考慮された上で罰せられるのは当然と言える(この点につき、佐藤前掲書168頁のように確信犯や常習犯も他行為可能性を持たないと考える立場は、他行為可能性の意味を理解しないものである)。逆に、合理的判断が全く不可能であり、他行為可能性を有しなかった者は罰せられるべきではないから、刑法39条は削除するべきでないように思われる。さらに踏み込んだ私見を述べれば、むしろ一律に14歳未満の者を罰しないことを定め、個別事情を考慮することを阻むような41条こそ削除に値するように思われる(刑法第41条「十四歳に満たない者の行為は、罰しない。」)。


さて、このような私見を前提にした上で、39条に対する個別の批判意見を簡単ながらいくつか検討していこう。まず、精神障害者だけを特別視して裁判および処罰の過程から排除するのは不平等である、という主張について(例えば芹沢前掲『狂気と犯罪』8頁など多数)。もし刑法について、違法行為者には責任能力者=合理的人間と責任無能力者=非人間の二種類が明確に画されて存在するものである、という二元論に立つのであれば不平等であるとの批判も成り立つが、上で述べたように両者が連続的であると捉える立場を採るのであれば、心神喪失者は程度問題の最も極端なケースとして免責されるだけであるから、精神障害者の非人間視や差別を意味することはないと言える。

次に、起訴便宜主義(不親切ながら、説明は省く。刑法初心者には井田良『基礎から学ぶ刑事法』を薦める)や起訴前鑑定を問題視する主張、あるいは精神鑑定そのものをいい加減であるとする主張について(やはり多数)。まず、起訴便宜主義は精神障害者だけに限った問題ではないし、それ自体は維持すべきものであろう。確かに、起訴便宜主義、起訴前鑑定、精神鑑定そのもの、いずれも多くの問題をはらんでいることは認めるが、基本的には運用の問題であるように思えるため、39条を削除するまでの理由としては弱いだろう(個別の論点については、呉・佐藤前掲書の滝川一廣論文などを参照)。

続いて、犯罪者の個性や内面を詳しく調べ上げ、彼を理解しようとするような近代的刑事裁判のあり方そのものを批判する主張について(芹沢前掲『狂気と犯罪』131頁以下)。この点については現行刑法に対する批判者内でも意見に隔たりがあるようだが(佐藤前掲書36‐37頁などではむしろ個別の情状が重視されている)、個別事情を考慮することが適切な処罰を与えるために必要不可欠であることは明白であり論を俟たない。繰り返すように、違法行為だけに着目して個別事情を考慮しないならば、非現実的な合理的人間像(佐藤の言葉を借りれば「自由意志‐理性的人間像」)を前提とすることになるだろう。芹沢は「社会はともかく、刑事裁判が犯罪者の個性に注意を払うというのは、かなり問題があるのではないか」と述べているが(同、136頁)、私はむしろ逆ではないかと思う。刑事裁判は個別事情を詳しく吟味しなければならないが、社会が個別の犯罪者への理解欲望にとりつかれることは危険である。社会は個別の犯罪者についてではなく、その犯罪の一般的要因や社会的文脈にこそ注意を払うべきである。

最後に、従来の措置入院制度や「心神喪失者等医療観察法」(2003年7月成立)による、違法行為を犯した精神障害者の保安処分的拘束を問題視する主張について(佐藤、芹沢が再三強調)。細かい説明は省くが、批判者はこうした現行制度が実際の犯罪事実によってではなく、「再犯のおそれ」という曖昧な理由で精神障害者その他を拘束できる仕組みになっていることを危険視する。観察法については、司法の関与が無かった従来の措置入院に対して司法的合議体の判断に基づいて拘束が行われることや、一般の精神病院から専門の病棟・施設に収容するようになったことなど、利点もあったと思われる(岩波明は観察法の利点を強調している)が、保安処分としての性質が変わらず、むしろ強まったことは確かであろう。

私は、この点を39条にまつわる議論の中で最も尖鋭な部分だと考える。もし対象となっている精神障害者が犯したとされる違法行為について「犯罪」が成立しているということを前提にすれば、再犯予防のための治療行為として専門の施設に収容する処置は十分肯定し得る。しかしながら、現実には観察法や措置入院の対象は、39条を理由にして不起訴処分や無罪となった精神障害者たちである。裁判が行われていない者を犯罪者と見做すことはできないし(推定無罪)、現に無罪となった者を罰することはできない。それにもかかわらず保安処分によって彼らの身体や行動を拘束するのは矛盾している。つまり、39条によって心神喪失者は「罰しない」はずであるのに、保安処分によって実際には罰が与えられているのである。こうした矛盾を回避するためには、あるいは確かに39条を削除し、精神障害をあくまでも情状の一つとして扱うことが最もすっきりとした方策であるかもしれない。その場合には、罪を犯した精神障害者は既定のコストを負う代わりに、再犯防止を目的とした治療のために医療刑務所のような専門の施設に収容されることとなり、我々は彼らを司法の枠組みの中で整合的に拘束することが可能になる。

読者は多少面を食らったかもしれないが、私は、最終的に39条を削除する方が整合的で望ましいかもしれないとの結論に達した。私は依然、それほど強硬に削除を支持するものでもないが、さりとて強硬に削除に反対する理由もないように思われるので、とりあえず暫定的な結論としてこのようなところに落ち着いてもよいかなと思っている。皆さんはいかがであろうか。


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