Wednesday, November 29, 2006

『DEATH NOTE』に思想は無い


『DEATH NOTE』には、相対主義的な価値観が貫かれている。夜神月(=キラ)は神(悪魔)的な力で犯罪者と自己への抵抗者を次々と死に至らしめていく。その力を恐れる人々は犯罪行為や不道徳な行為を控えるようになり、世界にはキラによる平和が訪れる。キラによる平和の前に、キラを追う捜査員もキラを捕まえることが正義であるのか疑問を抱く。これに対して、表面上は捜査員の一員でもある月の答えはシンプルである。すなわち、キラが我々捜査員との戦いに勝利すればキラは正義であり、我々がキラを捕まえればキラは悪となる、それだけであると。ここから、新世界の神として振舞うことを目指す月自身も、絶対的かつ普遍的な正義を信じていないことが明白となる。月は、相対的でしかない正義の争いの中で、キラの正義が勝利を収めることを望むにすぎない。

月が主観的にであれ全き正義を望んでいたと考えるのは、浅薄な誤解である。もとより、月が神的な力を手にするのは偶然であり、その力を積極的に行使するようになる第一の動機は「退屈」であった。悪を駆逐して新世界の神になるという信念は、後から自らを納得させるものとして持ち出された理由に過ぎない。月がキラとなったのは必然ではなく、キラは他の人間でも有り得た。つまり、キラはローカル(相対的)な一個人でしかない月の自己幻想が肥大化された存在であり、キラが掲げる正義は実際は月の主観的独善でしかない。そして、月自身も基本的にはこのことを自覚していた。

『DEATH NOTE』に特徴的なのは、キラ捜査の指揮を執る二人のLもまた、相対主義的価値観を共有していることである。二代目Lであるニアは、初代L(竜崎)以来、キラととの戦いはどちらが上かを証明するだけの戦いだった、と語る。ニアは最後にキラの正義の相対性を月に突きつけるが、それはニアがキラの正義を拒絶していることは意味しても、絶対的かつ普遍的な正義を信じていることを意味しない。二人のLはただ、従来の正義秩序への脅威を取り除こうとするだけである。作中では、全き正義を信じた者は裏切りに遭う。神の裁きを信じる魅上照は、神と信じた月の最後の醜態を目にして後に発狂し、死に至ったとされる。

キラによる平和を米国大統領が公式に追認する場面は、キラの正義の相対性をよく示している。記者会見で、大統領はキラが正義であるとまでは言わず、むしろキラの力による支配への屈服であることを強くにじませる。それは、従来の力による正義が新たな力による正義に取って代わられるシーンであって、真の唯一神が発見されたシーンではない。月の自己幻想は普遍的に共有されることはなかった。それゆえ、月が死んでしまえば、キラのことなど忘れられたかのように従来の正義秩序が戻るのである。

もちろん、キラを真の神として崇める人々は多数登場するし、物語の最後にキラ教団が描かれることで、月が確かに神となったことが分かる。だが、そこでの神はあくまでもローカルな神であり、月が目指した「新世界の神」、すなわち普遍的な絶対神ではない。月の自己幻想は一つの共同幻想へと発展してその死後にも残ったが、世界全体を覆うまでには至らなかったのである。それは、一貫して相対主義的価値観が支配する物語の性格上、初めから予定されていたことであった。こうしたことから、『DEATH NOTE』に思想は無い、と(やや煽りを含めてではあるが)言ってよい。この作品の中心部分をなすのは月とLの知的遊戯であり、神や正義をめぐる問いは、表面上はともかく実質的にはほぼ放棄されている。もちろん、そのことは必ずしも直ちに否定的な評価を意味するものではないが、少なくとも神や正義をめぐる問いにおいて真剣に採り上げるだけの内容を持っていないことは明らかである。

それにもかかわらず、これまで『DEATH NOTE』について論じてきたのは、『20世紀少年』を論じるための前提あるいは比較対象として有用ではないか、と考えたゆえである。あくまでも相対主義的価値観に貫かれていただけに、正義対悪という二項対立のジレンマに陥ることを徹底的に拒否し得た『DEATH NOTE』に対して、『20世紀少年』では「正義の味方」と絶対悪(「悪の大魔王」)の対立構図が意識的に描かれようとしているように見える。……






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