Thursday, December 6, 2007

被害者及び死刑


宮崎哲弥・藤井誠二『少年をいかに罰するか』講談社:講談社+α文庫、2007年


 過去の少年法をめぐる議論は、法務省や検察、弁護士、矯正施設など制度として少年犯罪に関わる立場の人間が、年齢引き下げなどで少年犯罪が減るかどうかという社会効果の観点からしか議論をしてこなかった。当時の新聞の投書も、その「効果」について自分はあると思う、ないと思うという二者択一的なものばかりです。社会的に「効果が期待できない論」が支持されたのだと思います。

 今回も少年法改正に反対した人々――弁護士や学者などの専門家――の論理はほとんど当時と変わっていなくて、厳罰化は効果があるとか、ないとかをずっと言ってきた。ところが、犯罪被害者やその遺族の人々が訴えてきたのはそういうことではなく、、せめて自分たちにも加害者側と同等の権利や情報がほしい、適正で公平な手続きをしてほしいということなのです。少年法の不公平さや不適正さを問題にしてきたのです。

 つまり、言っていることがまったくかみ合わないわけで、効果論でうねりを押し戻そうというのははじめから意味がなかった。与党は効果論を持ち出していましたから、それに反論する必要はあったのですが、本流はちがうところにあったといえると思います。[119-120頁、藤井の発言]


この指摘は、統計上は犯罪が増加したとも凶悪化したとも言い難いと指摘したとしても、必ずしも厳罰化を求める声や体感治安の悪化に対する歯止めにはならない、という過去の私の指摘とパラレルに読める*1。犯罪被害者遺族自身が望んでいるところとは必ずしも一致しないとは言え、被害者の権利向上への支持拡大と治安悪化・厳罰化言説とは、その土壌において繋がっている。治安悪化言説への批判や厳罰化効果の過大視への反論はそれとして必要であるとしても、何かそれだけでは足りないものが残ってしまう。土壌のところまで、届かないのである。

公平さや適正さというのは、一つのポイントだろうと思う。被害者の権利向上を訴える立場は、国家が個人に対して当然に認めるべき正当な地位・権利が認められていない、という見方に拠っている。この考え方が、従来の憲法学や刑事法学、あるいはリベラル左派や「人権派」弁護士などの考え方と摩擦する。摩擦するのだが、それは決して保守的な考え方ではなく、むしろ人権という観念を推し進めた進歩的なものである。ここには自由主義‐個人の権利‐国家権力の役割をめぐる逆説的と言うのか、ねじれたと言うのか、曲がりくねったような立ち位置の割り振りが見出せるが、煩瑣になるので、詳しくはいずれ別の形で議論することにしよう。

なお、本書では治安悪化言説への詳細な批判が行われるとともに、そうした言説が盛り上がる要因についても若干の検討が為されている。宮崎は現代の少年犯罪に「質的変化」を見出すかについて、概ね慎重な見方を採っているが、藤井は犯罪の動機や背景に対する「理解可能性」が失われてきており、それは少年が社会から「離脱」した結果ではないか、という宮台真司に近い見方を示している。もっとも、少年の内面が実際に変化しているかどうかを争わなければ、かつては「理解」の対象と見做されてきた少年が、ある時期から理解不能な「モンスター」と見做されるようになったという指摘は芹沢一也も繰り返し行っている。芹沢はそうした変化の立役者が宮台にほかならないと見做しているのだが、少年の内面が実際に変化したにせよ、言説が変化しただけであるにせよ、それらが変化した理由をより遡って考える必要があることを否定する余地は無い。


他に気になったものとして、宮崎の発言から取り上げたい部分がある。まず、自らが死刑反対派であると述べながらも、「死刑廃止論者は権力の走狗だ」との池田清彦の言に同調しつつ、宮崎はこう続ける。


 まったくその通りで、犯人を殺したいと思っている被害者やその代理人たる被害者遺族にとって、死刑廃止国家は「その野蛮な感情をコントロールせよ」「加害者を許せ」と命じる権力主体に他ならないんだよ。そういう意味では菊田幸一氏や安田好弘氏なんか、完全に権力の補完装置に出しているといえる。

(中略)

 整理しておくと、こういうことね。

 権力というのは元々「死なせる権力」に他ならなかった。命を奪い得る、殺し得るという機能によって人々を規律し、統制する。これを政治権力と呼んできたのです。

 死刑はその最も象徴的な事例で、国家は一罪人を合法的に殺害することができるわけです。他の誰一人として法に抵触することなく、人を彩めることはできない。たとえ、被害者遺族であっても。これが近代社会の原則です。つまり合法的に人命を奪い得る可能性こそが、近代的な国家権力の本体だったのね。

 ところが、この権力観は時代遅れになりつつある。むしろ「生かす権力」の作用が大きくなってきているということを、歴史思想家のミシェル・フーコーが看破した。彼は「死なせる権力」に対し、「生かす権力」、「生―権力」という権力概念を提示しました。

(中略)

 要するに、死の恐怖によって人々を従わしめていた古い権力から、健康な生を予め規格化し、それへの欲望を煽ることで管理やコントロールを強めていく新しい権力へと重心をシフトさせているというわけ。

 池田清彦氏の死刑廃止論批判もおよそこの視角に添ったものです。私が我慢ならないのは、多くの死刑廃止論者がこういう権力側のシフトにまったく鈍感だということ。

 その鈍感さこそが、犯罪被害者を徒に体制の側、権力サイドに追いやってしまっているのに、そこにぜんぜん気づいていない点。これが救い難い。[21‐23頁]


実際には、フーコーは以下のように述べている。


 私は別のレベルで、死刑を例にとることもできただろう。死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その法、その人格に危害を加えるものに対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。[ミシェル・フーコー『知への意志』渡辺守章訳、新潮社、1986年、174-175頁、強調引用者]


宮崎の発言だけを読むと、生‐権力へのシフトが進めば必然的に死刑が廃止されるとフーコーが考えているように理解してしまいかねないが、そうではなく、要は、死刑が維持されるとしても、その機能は変質すると言っている。

それから、多くの死刑廃止論に一種の鈍感さが伴っているという指摘には首肯できるところもあるが、権力が以上のようにシフトしているからといって死刑廃止を訴えることが「権力の走狗」になることかと言えば、疑問である。左翼であろうが「人権派」であろうが、国家権力にある一定の機能を期待していることは、その他の立場と変わりが無い。死刑廃止を訴えているからと言って、国家権力を否定していることにはならない。テレビ番組の中で某ジャーナリストが、死刑廃止を訴えているくせに国家の裁判を利用しようとするのは矛盾だとの旨を述べているのを見たことがあるが、これは暴論である。死刑廃止論は国家廃止論ではない。在る法に従うことと在る法を改善しようとすることは矛盾しないし、死刑廃止を訴える言論人やら弁護士やらが国家の法に頼ることは言行不一致ではない。彼らは国家権力の機能の在り方を変えようとしているに過ぎないからである。翻って、死刑廃止国家が被害者に感情の統制を命じる権力を行使するとしても、死刑廃止論者が「権力の走狗」とまで呼ばれる筋合いは無い。何らかの局面で国家権力の機能を肯定し、支持し、利用し、促進するような態度を採ることが「走狗」たることであるのなら、国家廃止論者を除く死刑廃止論者はもとより「権力の走狗」である*2


宮崎は以上の議論と絡んで、以下のようにも述べている。すなわち、国家は社会契約によって人々から復讐の権利を含む自然権を移譲されることで刑罰という暴力を独占する権利を得ているが、国家が抽象的な「法益」なるものの保護に徹し、具体的な被害者やその遺族の利益を保護し、移譲された復讐権を代行していないのであれば、復讐権を個々人に返還して自力救済が認められなければならない。それゆえに、被害者および被害者遺族に対して、国家に報復という権利を代行して実現することを求める「人権」を保障することが重要になってくる、と(29-31頁)。

しかし、ここで疑問なのは、国家はそもそも「復讐権」を代行実現する義務を負っているのか、ということである。宮崎は殺人罪の保護法益である「人の生命」が非常に抽象的で具体的な「その人」の利益を直接に示しているわけではないことを指摘しているが、法がその内部で具体的な個々人を名指ししてその利益を保護すると宣言することができるのだろうか。社会契約説を採って国家の役割が自然権の代行実現にあるとしても、それが具体的な個々の紛争における復讐の代行を含むと考えるのは、多分妥当していないだろう。宮崎は、本村洋との出会いによって「被害者に人権は認められない」という従来の立場を変容させざるを得なくなったと述べているが、おそらくはそのために、ここでの宮崎の論理は滅裂しているように見える。

ちなみに、ロックは以下のように述べている。


 このようにして、自然状態においては、各人が他人に対する権力を得るようになる。けれどもそれは、その掌中に属する罪人を処分するに当って、自分の激しい感情や法外なでたらめに依ってするというような絶対的恣意的な権力なのではない。それはただ冷静な理性と良心とが、罪人の違反に釣合うものとして指示する程度のものを、いいかえれば賠償、抑制として役立つであろう範囲のものを、その者に酬いるだけの権力に過ぎない。なぜなら、賠償と抑制というこれら二つだけが、一人の人間が他人に対して、われわれの刑罰と呼ぶ害悪を、合法的に加え得る理由なのであるから。自然法を犯すことによって、犯則者は、神が人間の相互的安全のために、彼らの行為に加えたところの制限である理性と一般的衡平の規則以外の、別の規則に従って生きることを自ら宣言する。このようにして人々を傷害と暴行から保護すべき紐帯は、彼によって軽侮破壊されるのであるから、彼は人類にとって危険なものとなるのである。これは、全人類および、自然法によって設けられたその平和と安全とに対する、侵害である。したがって各人は、人類全体を維持するためのその権利によって、彼らにとって有害なものを制止し、必要な場合には破壊することができる。かくして、何人であれこの法を犯した者に対して、その行為を悔悟させ、これによってその者、およびこれに倣ってその他の者が同様の悪を為すのをやめさせるような罰を加え得るのである。こういう場合に、またこういう根拠によって、各人は、犯罪者を処罰し、かつ自然法の執行者となる権利を有するのである。[ロック『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店:岩波文庫、1968年、14‐15頁、傍点を省略]


国家はこうした自然権を回収して成立するわけだが、自然法の段階で既に「人類にとって」という観念が持ち出される。果たしてこれは抽象的な法益たる「人の生命」とどう違うのか。具体的な個々人の利益に基づいた復讐権なるものは、そもそも想定されていたのだろうか*3。ロックが社会契約説の全てではないが、私は疑問に思う。そういうところから被害者の人権を持ち出すのは無理があるのだ。


少年をいかに罰するか (講談社プラスアルファ文庫)

*2:お互い「権力の走狗」とか何とか、そういう言い方、いい加減に止めにしないか。つまらんから。

*3:個人から国家へと自然権が移譲されたことと、国家によって自力救済が禁止されて合法的な暴力が独占されたこととが結合されて理解された結果、個人的な復讐権も国家に移譲されたという考えが出てきたのかもしれない。だが、復讐権は移譲されたのではなく、端的に禁止されたのではないか?。この点につき不勉強な私はご教示を賜りたい。


Thursday, October 18, 2007

民主主義についての不可解な使い分け


加藤秀一『ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい』の末尾に、大略次のような主張が(橋爪大三郎の著書が示されつつ)書き込まれている。


「民主主義=多数決」という考えを捨て去らねばならない。なぜなら、民主主義の本質とは「議論を尽くす」ことであるから。 …①


このネタでエントリ書くのもいい加減しつこいのだが、それでも民主主義理論は私のライフワークの一つだというアイデンティティがあるので一応書いておこう。


これまで私は、上記のような型にはまった主張を幾度となく目にしてきた。今改めて目にして型どおりのウンザリ感とともに抱かれる疑問は、彼らはなぜ「イコール」と「本質」という二つの言葉を使い分けるのだろうか、ということである。例えば、こういう主張なら解る。


「A≠B」である。なぜなら、「A=C」であるからだ。 …②


しかし、「議論を尽くす」派はこうは言わない。彼らの言い方はこうである。


「A≠B」である。なぜなら、Aの本質はCであるからだ。 …③


明らかに説明不足である。「本質」とは一体どういう意味なのか(「本質」は他にも「根本原理」「中核」「核心」などに言い換えられる)。「本質」が「イコール」を意味しているのなら②は③と同じ意味であるから主張の内実を理解しやすい。だが、普通はそうではないだろう。

ほとんどの「議論を尽くす」派は、多数決の必要性を否定するまでには至らない。「議論を尽くす」べきだと言いつつ、多数決無しで民主主義(民主政)が成り立つとも思っていない。彼らは、「民主主義=議論を尽くすこと」と言い切るまでの踏ん切りがつかないのだ。そう言ってしまえば、「それでは民主主義は何も決定できませんね」と言い返されるのが目に見えているからである。彼らが民主主義の「本質」云々といった、それだけでは若干意味不明の主張に落ち着くのはそのせいだろう(そこまで詰めて考えているとも思わないが)。

だが、多数決の必要性そのものは否定しないのであれば、なぜ以下のように主張しないのか。


「A≠B」である。なぜなら、「A=B+C」であるからだ。 …④


このように「民主主義=議論を尽くすこと+多数決」と主張されるなら、どれほど理解し易いだろう。けれども、このような明快な主張を採る者は少ないように思う。なぜか。私には理解しかねるが、「議論を尽くす」派にとって多数決というものは、とにかく民主主義にとってできるだけ遠ざけるべき「何か不純なもの」として捉えられており、たとえ限定的な形でも民主主義と等号で結ばれる位置に置かれることには抵抗感があるのかもしれない。


だが、過去に指摘したように、「ある価値理念にとって本質的なのは、それが必然的に否定するものと正当化するものが何であるのか、という一点である」*1。仮にある人物が自らの信じる正義に従って行動した場合に、ある局面において暴力行使が避け難いことを認め、暴力行使を「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは自らの正義に基づいて暴力行使を正当化したことにほかならないだろう。この時に彼が自らの正義と暴力行使との必然的な結び付きを否定するとしたら、私はそれを欺瞞だと断ずることにいささかのためらいも覚えない*2

同様に、民主主義に従って政治的決定を行おうとした場合に、ある局面において多数決が避け難いことを認め、多数決を何にせよ「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは民主主義の理念から多数決を正当化したことにほかならない以上、そこで民主主義と多数決との必然的な結び付きを否定するのは恥ずべき欺瞞である。

民主主義が最終的にせよ何にせよ多数決を「止むを得ない」ものとして正当化するのなら、それはそういう理念なのである。いかなる主張をするにせよ、まずはその点を認めてから出発して欲しい。


ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい


*2:いや、この正義が完全に実現される場合にはそうした暴力も現れることが無いのだ、と言われるかもしれない。だから問題は正義が不完全にしか実現されていないことであって、正義そのものではないのだ、と言われるかもしれない。しかしながら、そのような正義が完全に実現するための条件が現実的に整う可能性が果たして存在するのか、極めて疑わしいし(実際民主主義についてはそういう事態―全員一致―は稀だし、稀な事態が現出する場合には隠された暴力行使が疑われるのが普通である)、率直に言って私はそういった可能性は存在しないと思う。


Monday, October 1, 2007

正義の味方と悪の大魔王―『20世紀少年』についての小論


以前書いたように、漫画『DEATH NOTE』には相対主義的な正義観が貫かれている*1。この作品の世界においては勝者こそ正義であり、そこでは、「思想の相対性」を超越するような「真の正義」が在り得るのか否か、在り得るとしたらそれはどのような正義か、といったような倫理的な問いは初めから放棄されている。私自身は価値相対主義者なので、そうした正義観そのものに違和感を覚えることはない。けれども、絶対的な「真の正義」が在り得るのかという問いが、子供でも言えるようなシニカルなだけの答えを返すことで切り捨ててしまってよいものだとも思わない。
それゆえにこそ、私は過去にこの問題をやや詳細に扱ったのだが*2、ここではそうした政治哲学的議論の傍らに寄せる小論という形で、『DEATH NOTE』に対置されるべき作品である漫画『20世紀少年』について若干のことを述べてみる。「真の正義」をめぐる問いと絡めて『20世紀少年』を論じることに意味があるのは、この作品においては、相対主義を貫く『DEATH NOTE』とは対照的に、「正義の味方」と「悪の大魔王」の対決という二項対立的な構図が意識的に持ち込まれているからである。


Friday, August 31, 2007

イデア論的現実批判と抑圧の移譲構造


デリダが間違えたのは、不完全なものが知られるためには完全なものが想定されていなければならない、と考えたことだ。これは、完全無欠の理想たるイデアを虚偽と迷妄に満ちた現実に対比させたプラトンの思想に連なる考え方である。もっとも、老子や孔子も同じように、太古の昔に理想的な秩序が存在したのだという根拠不明・証明不能な想定に基づいて現実を批判していたから、こうした考え方は、とても普遍的なものだ。私は、「神と正義について」で*1、こうした考え方を否定した。概略、次のようにである。


実在するかどうか分からず、実在する可能性を証明できないような究極的な理想(神=正義)を想定した上で、それを批判の準拠点に措定し、理想との対比において、堕落した・蒙昧な・虚偽の・不道徳の・不正義の・不完全な現実を批判するという形式が、普遍的に採用されている。しかしながら、究極的に「正しい」真理・善・正義・神・世界・社会などがどこかに存在すると想定すると仮定したとしても、そうした究極的な理想の姿を描き、解釈し、それと現実との距離を測るのは、主観的であり不完全である特定の誰かでしか有り得ない。哲学、倫理学、社会理論、その他、いかなる装いを採ろうとも、これは結局、宗教が体現する形式に等しい。つまり、社会的な現実から遠く離れたどこかに究極的な理想を設定し、理想との距離に基づいて現実を批判するという手法は、客観的であり普遍的であるはずの究極的理想が、特定の誰かの恣意によって横領され、不完全な主観的理想へとすり替えられる危険を、常に有しているのである、と。


さて、こうした手法への批判を、もう少し卑近な問題に即して構成するとどうなるのだろう。かつて丸山眞男は、戦前戦中の「超国家主義」日本を分析する過程で、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という構造を見出した。それは、全ての価値と規範の体系が、最高価値たる天皇からの相対的距離を規準として成立している社会体制であり、そこでは、最高価値に「相対的に近い」上の者から下の者へと抑圧が譲渡されていくようになっている。抑圧した者は上からの抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない。そして、帰責対象の上昇経路を辿れば天皇がその終着点であるかと思えば、天皇でさえも皇統というより上位の伝統に連なっているに過ぎず、究極の最高価値の地位は抽象的・観念的な伝統によって占められるために、責任は最終的に霧消されてしまうしかない。丸山は、こうした抑圧の移譲構造こそ、近代的主体の存在しない日本社会の病理だと診断したのである。

この構造が、日本の特徴であって他では見出しにくいのかどうか、私には解らない。しかしともかく、単純に抑圧の移譲構造とそれによる無責任体制という部分だけに着目するなら、これは今でも普遍的に見受けられる。かつて姑にいびられた嫁は、自分が姑になったら嫁をいびるようになる。かつて上級生にしごかれた下級生は、自分が上級生になったら下級生をしごくようになる。それは、(丸山自身も経験したところの)入隊の早い者が遅い者をしごき、いびるという軍隊の姿と同じではないか。そこには、自分たちも上の世代からしごかれ、いびられ、さげすまれ、それによって鍛えられてきたのであるから、下の世代もそうした経験を持つべきであり、この「抑圧」は愛情の現れなのだし、彼らも時が経てば私たちに感謝するようになるさ、という「抑圧→成長→統合」物語が介在している、かどうかは知らない。だが、こうした若者批判論などにも見受けられる抑圧の移譲構造は、宗教に似ている。

そもそも丸山が分析した大日本帝国自体、宗教国家であった。価値の高低がそこからの相対的距離で測られる規準であるところの最高価値が、突き詰めれば皇統という実在も確かならない抽象的な観念に行き着いてしまう。それは、現実を規律・規制するための価値規準が、究極的には定かならぬものであることを意味する。つまり、ここでの規準はどこかに存在している/していたはずの究極的価値の「物語」、すなわち神話なのである。抑圧の移譲構造が宗教に近しいという意味がこれで理解できよう。そして、この神話は、プラトンが想定したところのイデア、老子・孔子が想定したところの太古の理想的秩序、デリダが想定したところの究極的正義、これらの物語と互換可能なものである。つまり、抑圧の移譲構造が宗教と似ているように、究極的理想を準拠点とする現実批判が宗教と似ているように、宗教に似ている両者同士も似ている。

抑圧の移譲構造においても、やはり究極的理想/価値の横領は容易に起き得る。下の世代をいびる上の世代は、自分たちが経験していないようなことであっても、私たちもこれを経験してきたんだ・私たちはもっと辛いことに耐えて頑張ってきたんだ、などと言いながら、それを下の世代に押し付けることができる。その時、上の世代は、より上の世代と下の世代との間に立って、継承されてきた「伝統」や「歴史」の解釈権を独占し、下の世代を抑圧する自らの行為を正当化しながら、行為の責任をより上の世代へと放り投げることができる。彼らは、最も理想的であるどこかの世代、あるいは最終的な帰責先となるどこかの世代(それが本当に存在したのか、物語られている通りだったのかは不明である)への「相対的近さ」によって、自己の正当化と責任の無化を為し得ているのである。

ここでは理想の横領が起こっている。あるいは伝統の、歴史の、価値の、何でもいい。ともかく何かが横領され、すり替えられている。時に何らかの要因によって「目覚め」て、「何故こんな時代になってしまったのだ」などとのたまいながら、同世代を、あるいは自分より上の世代をも、より上の世代の「理想の姿」を準拠点とすることで批判しようとする人間がいるが、彼は年齢ではなく「目覚めた」という体験によって他者と比べて理想への「相対的近さ」を手に入れたと信じているのである。もちろんそれは、彼の主観的解釈によって再構成された理想像に過ぎないのだが。しかし、思えば、人はいつもそのようにして、つまり恣意的に解釈されただけの主観的認識を理想として想定した上で、そこへの相対的近さによって自己を正当化したり無責化したり、他者を批判したり問責したりしている。

日露戦争頃までの明治の日本人を懐かしむ人も、それ以後から敗戦までの時代の精神を懐かしむ人も、戦後すぐの悔恨共同体≒平和と民主主義の精神を懐かしむ人も、安保闘争での「民主主義の勝利」を懐かしむ人も、全共闘時代の「闘争」における躍動を懐かしむ人も、市民としてべ平連に参加したことを懐かしむ人も、経済成長を支えたモーレツさを懐かしむ人も、バブル時代の華やかさを懐かしむ人も、皆どこかを理想として再解釈し、美化した上で、そこへの「相対的近さ」によって自己を正当化し、自己の地位を高め、他の世代や他の人々より優位に立ったつもりになって自己肯定感を味わっているのではないのか(あるいは、バブル後の就職氷河期世代も、10年後20年後、自分たちはあんな苦境に耐えたのに今の若者は…、と語り出さない保証は無い)。上の世代が、存在したのかどうか、本当に語られる通りだったのか分からない特定の時代を、理想として独占的に措定し、解釈し、そこからの遠さを以て下の世代を批判し、翻って「相対的近さ」を以て自己を肯定するのは、ずるい。そして、胡散臭い。やっていることは神のお告げに従って信徒の振舞いを正そうとする教祖と変わらないのだ。

こうした抑圧の移譲構造を排除するためには、特定の時点や特定の姿を理想として措定することを止めなければならない。世代間・時代間を同じ地平で捉える必要があるのだ。比較や優劣の評価をしてはならないということではない。どこかを絶対的・究極的理想として特権的な価値規準に据えた上で、そこからの相対的距離の遠近によって現実を評価ないし批判するという手法を採るのを止めなければならないと言っているのである。これはとても難しい。たぶん実現は無理だろう。学問の世界においても、究極的な「正しさ」は、私たちが生きている間には辿りつけないかもしれないが、必ずどこかにあるはずだと考えている人が多いのだし。そもそも宗教が無くならないことが、この手法を退けることの難しさを示している。仮構としてでも価値規準としての理想を設定することは便利だから、おいそれと捨てられる手法ではない。それに、人は自分を正当化し、肯定しないと生きていけないのかもしれない。まぁ、それでも批判することはできる。私はそういう道を行こう。


ところで赤木さんや後藤さんの主張も、ここ10年20年だけでなくて少なくとも戦後思想に対する評価や戦後に対する歴史観などが併せて示されるようになれば、もう少し射程と尖鋭さを増して一層面白くなるんじゃないかなぁ。とか、八月=戦争関連の思考との絡みで、いっそのこと戦後「平和」主義を全否定・総批判していくような形で論陣を張れば面白いのかなぁ、などと考えたりしつつ、このエントリの着想を得たので書いた。書きながら繋がればいいなと思ったけど、あんまり繋がらなかったので付記しておいた。


Thursday, August 30, 2007

「生の無条件の肯定」の不可能性


野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」『コーラ』第2号、2007.8.15


人間の生命に内在的価値が存在し、誰であっても、どんな人生であっても「生きてよい」ことは、少なくとも建前上、ほとんどの人が認めている。人権が認められているとは、そういうことだ。「生きてよい」生にもかかわらず、厚生が著しく低いような生は、社会的配慮によって一定水準まで厚生を引き上げられるべきだということも、多くの人が認めている。生存権や社会権とは、そういうことだ。

だから、出発点、あるいは中心的な主張において、理論的には、この論文に新しい・独自なことは特に無い。ただ、その周囲のことについて、幾らか述べておく。


 さらにここから一歩踏み込んでみよう。それでは善とは何か。それは人生そのものだということができまいか。人生そのものが、倫理的な善なのであると。死とは、いっけん悪のようであるが、人生の完成地点であるという意味においては、善でも悪でもない。むしろ、人生は幸せであるべきだ。その意味で、幸せな人生、善い人生というのは、同語反復なのである。問題は、現状において「幸せでない」生、「善くない」生を、「幸せ」で「善い」生へと変えていくことにある。


ここの論理が、よく解らない。何故か、倫理的に善いことと、幸福であることとが、区別されていない。「よい」という言葉の中で、無媒介に結び付けられている。「よい」=肯定できる=価値を見出すことができる、という等置が為されているのならば、「価値」には倫理的な善悪の評価に関わる価値と、効用や利益の評価に関わる価値の二種類があるはずなので、「善い」と「良い」(としておく)は区別されるべきであるはずなのに。為されるべき区別が何故か為されないので、次の箇所もねじれてくる。


 すべての生は、よい生である。たとえば、重度の身体・知的障害者や、無脳症児、認知症者などがいっけん「生きるに値しない生」に見えるのは、彼らが適切なケア=「魂の配慮」を享受していないからである。そしてそのために、彼らの生がいちじるしく制限されているからなのである。それは、さまざまな障害者や患者の「生の現実」という諸相から観察し得る事実である。だとすれば問題は、障害者や患者に、「よい生」を与えない社会的制度や、そのような制度――障害者や患者の「よい生」を実現しないような制度――の基盤となる人々の意識にこそあることになる。
 たとえば、自分のことすら行うのが機能的に独力では不可能な障害者や、自分が何をしたいのかを独力で決定し、私たちに分かる表現で伝えることすら不可能な障害者も、適切な支援さえあれば、地域の中で自立した生活を営むことは可能である。それは、たとえば自立生活を営む障害者たちが身をもって証明している。自分で独力においてできないということは、自分も周囲も大変だったりするが、それはそれ以上でも以下でもない。大切なことは、「大変さ」を評価し、それを誰が、いかに社会的制度によって負担していくかなのであり、「大変」であるからその生が価値がないとか、生きる意味がないとかいう横滑りを許さないことである。


私には、ゾウリムシの生は「生きるに値しない生」であるように見えるが、それはゾウリムシに「よい生」を与えない社会的制度や、その制度の基盤となる私たちの意識のせいなのだろうか。思うに、仮にゾウリムシとしての生においての厚生を高める条件が整えられたとしても、それを「よい生」だ、生きるに値する生だと考え、受け入れる人間は、そう多くないだろう。なぜなら、たとえそれが「善い生」であっても、自分にとって「良い生」でなければ、生きるに値するとは思えないからである。客観的な諸条件を整えてくれたところで、自らがその生に価値を見出し、肯定できなければ、「良い生」にはならない。ある生が生きるに値するかどうかは、他者ないし社会から「生きてよい」と認められるかどうかの問題ではなく、自らが生きたいと思うか否かの問題である。

障害者が倫理的に生きるべきでない生だと考えている人はあまりいないだろうが、自分が障害者になったら、その生は生きるに値しないとか、生きる意味がないと考える人は結構いるだろう。十全たる制度が整備され、人々の意識が変わった社会においても、自分は障害者としては生きたくない、障害者としての生は自分にとって生きるに値しないと考える人はいるだろう。それは主観的評価の問題である。それは、ある方面に対しては酷く暴力的な価値判断の表明であるかもしれないが、そういうふうに思えること自体は如何ともし難い(そこに差別意識が存在するのか否かはこの際どうでもよい―ただし、差別意識を論ずるのならばゾウリムシに対する差別意識も併せて考えられたい)。第三者的に見れば何一つ非の打ちどころのないような生を送っているように思える人物であっても、こんな生は生きるに値しないと考えて自殺することは有り得る。それは主観的評価の問題である。彼に対して「生きてよい」と述べたところで、そんなことは解っているとの返答を得られるだけだろう。生きることが倫理的に善であることを認めていても、生きることが耐えがたい不効用を、とりわけ社会的諸条件の整備や人々の意識の変革によっては消し去ることができない不効用をもたらすために、この生は「生きるに値しない」と考えられてしまうことは、如何ともし難い。

社会的諸条件の整備によっては左右できないものは、この際どうでもよいと考えるのは一つの立場であるし、私自身がそうした立場に近いけれども、とりあえず何かねじれか混乱があるようだということのみ指摘した。もう一点に対しては、もう少し積極的な異論を持っている。


 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」は、どうしようもなく現存してしまう。しかし、その枠の中で最善の方法を選ぶ、というのは、エコノミーの問題に過ぎない。なるほど、エコノミーは重要であることを私は認めよう。けれども、どの位置において重要であるかは、問われるべきである。たとえば、病院内や研究室内において、そのような指針は必要であるだろう。だとしても、なぜ重要なのか。それはいちいちその現場で考えていては、救われる者も救われないからこそ必要なのではないのか。そうだとすれば、そうした指針は「現場において思考を停止する」ための「処方箋」としてこそ、重要になってくるのではないのか。言い換えれば、エコノミーの問題――「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」という枠組みの中における最適解の問題――は、それじたい倫理ではあり得ないということである。

 それでは、倫理であり得るもの――と私が考えるもの――とは何か。それは、「そのような状況をなくしていくこと」に他ならない。つまり、二者択一を強いるこのような社会構造こそを倫理は問題にしなければならないのである。現実に二者択一をする場合においても、その選択は、倫理の位相において正当化されてはならず、処方箋や「落としどころ」の位相でしかないことを認識すべきなのである。


二者択一が避けられないからこそ倫理という正当化の体系が求められるのに、二者択一が強いられる状況そのものを無くしていくことこそ倫理であり、二者択一が避けられないことを所与の前提とした選択は倫理と呼ぶべきでないと言うのは、倫理という語彙に対する無意味かつ有害な特権化・神聖化である。こういうことを言うのは、万が一に危険が襲ってくる可能性を排除しきれないからこそセキュリティが必要とされるのに、危険が襲ってくる可能性を無くしていくことこそ真のセキュリティであって、危険が襲ってくる可能性が排除しきれないことを所与の前提とした配慮はセキュリティと呼ぶべきではない、などと言うのと同程度に馬鹿げている。両方をセキュリティと呼べばよいのである。両方を倫理と呼べばよいのだ。

あるいは、他により善い選択肢があるべきなのに、それが選択不可能なために、可能な範囲でよりマシな選択肢を選ぶことしかできない事態にある限り、倫理が存在し得ないと言うのなら、この世に倫理は在り得ない。最も「よい」選択肢が何時・何処でも選択可能な世界とは、どこにも存在し得ないユートピアであるからだ。この世には「エコノミー」しか在り得ないし、在り得る倫理は「エコノミー」としてしか在り得ない。ここで「エコノミー」と呼ばれている事態を、私なら政治と呼ぶ。倫理は原初的に政治的なものである。最後に、この点について述べて終えよう。

この論文の中で、「倫理は、正当化されることなく選び取られるべきものである」と述べられているが、私はこれに賛同する。「倫理体系というのは、その内部においては整合的であるべきであるが、それじたい決して正当化され得ない」。なぜなら、究極的に「正しい」根拠が無いからである。それならば、倫理は選び採られるしかない。宣言されるしかない。信じられるしかない。ならば、それは政治的な性格を有する。なぜなら、根拠が無いのにある事態を正しい/善いと言い、別の事態を正しくない/悪いと言って区別し、一方を持ち上げ・他方を貶め、対立を作り出すから。そして、また、何の根拠もなく、倫理によって覆われるべき範囲を勝手に画定し、その外側へ誰か/何かを押し出すことによって、亀裂を生みだし、対立を生じさせるから。

簡単な話である。倫理が人間のみを適用対象とすることを、倫理を遵守すべきとされ、倫理によって保護されるべきとされる範囲を人間の間、人間の関わる領域に限定することを、倫理は正当化できない。人の生は生きるに値するが動物の生は生きるに値しない(ゆえに殺してもよい)という倫理が選び採られる時、私たちは動物を倫理の外側に排除することによって、人間に対する「生の無条件の肯定」を成立し得ている。倫理の適用範囲が動物を含むまで拡大されたなら植物を、植物を含むまで拡大されたなら自然物を、自然物を含むまで拡大されたならその他の無生物を、その他の無生物を含むまで拡大されたなら未だ見ぬ何物かを、誰か/何かを倫理の外側に放擲することによってはじめて、倫理は立ち上がる。倫理を道徳や法と呼び変えても同じである。

ここでは、この動かしがたい事実を、規範の原初的政治性と呼んでおくことにしよう。この世界が政治を消滅させることができない以上、「生の肯定」には何らかの「条件」が伴わざるを得ない(ヒトの…云々)。その意味で「生の無条件の肯定」とは不可能性を伴った営為であるし、幾ばくかの欺瞞を抱懐せずには掲げることができない標語である。


Wednesday, August 29, 2007

民主主義とは何か


価値理念としての民主主義と区別される概念としての民主政とは、当該政治的共同体内における対等なメンバー間による討論と投票によって政治的決定を為す政治体制を意味する。民主政が最低限果たしている役割は、「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」ことにある*1。一般に、基本的人権を認められた個人は、自己に関わる事柄について、他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる。だが、各人の意見や諸権利は対立することがあり、その対立が特に社会全体に関わる事柄である時には、統一的な決定がなされねばならない。その際、政治的決定手続きとして民主政が採用されることになるが、民主政における最終的決定手続きとして全員一致方式が採られることはあまり多くない。なぜなら、あらゆる場合に全員一致の決定を得ることは非常に困難であり、全員一致が実現できない場合には、極めて少数の成員の自己決定権を尊重するために大多数の自己決定権を実現できないことになるためである*2。三分の二など過半数よりも多い賛成を必要とする特別多数決も、同様に少数決としての性格を持つことから、採られる場合が少ない。最もよく用いられるのは過半数の賛成で決定とする単純多数決であり、それは、一般に、この方式ができるだけ多くの自己決定権を実現するために最も適した方式であるためである*3

政治体制としての民主政と、決定方式としての多数決原理は、一応は相互に独立の概念である。だが、両者の結び付きは論理必然的なものである。民主政が選択されるべきであるのは、個々人に平等な自己決定権を認める以上、まず政治的決定過程への参加可能性を確保しなければならないからである*4。そして、広く一般的な政治参加の上で決定を為す際、自己決定権をできるだけ多く実現するためには多数決原理を選択しなければならない。したがって、民主政を採るべきであると考える者は、最終的には多数決も受け容れなければならない。さらに言えば、それ自体は価値中立的な政治体制であり決定方式であるにすぎない民主政や多数決を望ましいと考える価値理念こそが、民主主義の名で呼ばれるべきイデオロギーである。すなわち、ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える立場が価値理念としての民主主義なのである*5

このように述べると、「民主主義を多数決と同一視するべきではない」といった反発が寄せられそうである。だが、そうではない。民主主義が必然的に多数決原理と結び付くからといって、それは民主主義が多数決原理に等しいことを意味するわけではない。私が述べているのは、「自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの」と考える価値理念としての民主主義が、その目的を実現するための最適な手段として多数決原理を採用し、その実行を正当化することには論理的な必然性がある、ということに過ぎない。民主主義を多数決と同一視しているわけでも、前者を後者に還元してしまっているわけでもない。民主主義理念の目的からすれば、自己決定権をできるだけ多く実現するために有用な手段が多数決以外に存在するのであれば、多数決と併用することは何ら排除されるべきではないし、それが多数決のみを用いるよりも一層多くの自己決定権が実現される蓋然性をもたらす手段であれば、その採用はむしろ要請すらされる。

私たちの多くが、最終的には多数決を行うことになると知りながら、それ以前にじっくりと議論を尽くすべきであるとか、多数派は少数派の意見にきちんと耳を傾けるべきであるなどと考えているのは、そうした過程を経ることが、最初から多数決を行うよりも、できるだけ多くの人々にとって満足ないし納得できる決定が行われることに繋がりやすいだろう(できるだけ多くの自己決定権が実現されやすいだろう)、と信じているからである。このような考えに賛同しない者、すなわち、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが決定内容への納得を醸成しやすいとか、人々が有している選好が変容する可能性は議論を経ることで高まるなどといった(かなり説得的に思える)主張を受け容れない者は、票決以前の討論をそれほど重視することなく、早々に票決を行ってもよいと考えるだろう。そうだからといって、こうした立場の人々が民主主義に反対しているわけではない。彼らは単に、自己決定権をできるだけ多く実現するという民主主義の理念は、票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程を経ることを必ずしも要請しているわけではない、と考えているに過ぎない。票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程をどの程度重視するのかの違いは、その過程が自己決定権をできるだけ多く実現するという目的の達成のためにどの程度役立つものなのか、という評価の違いに基づくものであり、その対立は、あくまでも民主主義理念内部での対立にほかならない。

ここで、立場の異なる二つの考え方に共通しているのは、自己決定権をできるだけ多く実現する上で最も基本的な手段は多数決であるという認識である。民主主義理念は票決以前に議論をじっくりと尽くすことを要請しており、その過程を経ることは不可欠であると考える立場からしても、多数決を手放すわけにはいかない*6。議論を通じて人々の選好が変容し、あるいは妥協が成立し、全員一致の合意が得られれば、その結果を歓迎しない理由はないが、そのような場合は稀である。ならば、そのように議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として、対等なメンバー間における多数決によって決定を下すことは避けることができない。なぜなら、既述のように、多数決こそ、できるだけ多くの自己決定権を実現するための最適手段であるからである。したがって、結局は、多数決に基づく決定を、(それによって自己決定権を実現不可能な少数者を含む)当該政治的共同体における全成員に対して正当化可能であるという信念が、価値理念としての民主主義の核心なのである。ここに民主主義理念と多数決原理との必然的な結び付きを見ないのは、欺瞞以外の何ものでもない。

もちろん、繰り返すように、多数決を正当化可能であるということは、民主主義理念一般が共有する最低限の条件にすぎず、そこから先については、民主主義内部にも多様な分岐が有り得る。例えば、前述のような、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが民主主義理念の要請するところであるかどうかをめぐる対立がそうである。所与の多数派と少数派の構図を温存したまま決定を為すよりも、できるだけ広範な人々の同意を取り付けることを目指すコンセンサス型の民主主義を支持する立場は、いわば自己決定権の実現において目指される「できるだけ多く」の内容を、より豊かなものにしようとする立場である。いわゆる参加民主主義や討議民主主義などの理論も、こうした立場と方向性を同じくするものであると言えよう。

また、自己決定権をできるだけ多く実現するという理念に従うだけでは、望ましくない帰結がもたらされる危険性があると考える立場からは、自己決定権実現の最大化原理が適用されない範囲を予め定めておくという方法が案出されることになる。立憲主義がそれである。立憲主義は、単純多数派の決定によっては脅かされないような個人の権利などを憲法で規定しようとする。この立場は、コンセンサス型民主主義などが民主主義理念を内在的に発展させようとする考え方であるのに対して、民主主義理念に外在的な制約を加えようとするものである*7。多くの国が立憲主義を伴う立憲民主主義を採用している現在、純粋な民主主義理念だけを単独で採用する立場は、むしろごく稀であると言える。多かれ少なかれ、「できるだけ多く」の内容をより豊かに発展させようとする方向性と、「できるだけ多く」の原理に一定の制約を課しておこうとする方向性が併存する場合が一般的である。

あるいは、そもそも自己決定権を実現するための土俵である民主政を構成する要件であるところの、政治的平等と人民主権の意味内容についての解釈自体が、多様で有り得る*8。平等とは何かをめぐって、例えば政策Xについての選好強度が強い者の一票と、Xについてあまり関心が無く弱い選好しか持っていない者の一票を等しく扱うべきか否か、といった論点が出現する。同様に、人民の範囲とはどこまでか(女性は?未成年は?政治的無能力者は?在住外国人は?等)、主権とは何を意味するのか(統治の正統性の淵源か、統治権力そのものか、憲法制定権力か)、人民が主権を有するとはどういう意味なのか(人民が直接統治すべきなのか、人民が選挙した代表が統治すればよいのか、選挙されなくても代表が人民のために統治すればよいのか)、といった点について、多様な解釈が提出されることになる。大まかに言えば、政治的平等と人民主権という要件を満たす可能性がどの程度確保されているのかということが、ある政治体制がどの程度民主的であるかの指標になるから、政治的平等や人民主権の意味内容の解釈が多様で有り得るということは、私たちの感覚からすればおよそ民主的とは思えないような政体であっても、民主的であると主張されたり信じられたりする余地が存在するということである*9

以上のように、価値理念としての民主主義を「ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える」イデオロギーとして定義したところで、デモクラシーをめぐる諸問題について何らかの根本的解決がもたらされるわけではない。ここでは単に、各論者の規範的立場に依拠して提出される多様な見解が錯綜し、民主主義の意味をめぐる議論が混迷を余儀なくさせられている事態に対して、民主主義理念一般に共通する最低限の核心的条件を抽出して提出することにより、概念を整理し、議論に一定の見通しを与えるために微々たる寄与を為そうとしたに過ぎない。ここから各自の規範的立場が、より整理された形で練磨されるならば、至上の喜びである。




*1:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』筑摩書房、39頁。

*2:当然のことながら、ここで言う自己決定の権利とは、自らが支持できる決定が為された場合にはじめて実現される権利を意味しているのであり、決定過程に参加したことだけで実現されたと見做されるべき性質のものではない。たとえ参加の上であっても、支持できない決定が為された場合には、その人の自己決定権は実現を妨げられたことになる。

*3:長谷部[2004]、20‐21頁。

*4:確かに、長谷部が述べるように(同、30‐31、38‐39頁)、民主政を選択するべき理由としては複数の理由が挙げられ得るであろうが、ここでは最も根底的と思われる理由のみを挙げた。

*5:したがって、純粋な意味での民主主義者は、手続きの遵守を至上の価値として他のいかなる帰結的価値にもコミットしない筈である。徹底した民主主義者は、結果を問わない。実際私には、価値理念としての民主主義に真にコミットしている人は、そう多くないように見える。

*6:多数決型民主主義に対してコンセンサス型民主主義の優位を説いたA.レイプハルトは、コンセンサス型民主主義も「多数派による統治を少数派の統治よりも優先する点で多数決型民主主義と同じ」であるが、「多数決ルールはあくまで最低限の必要条件としているにすぎない」と述べている。つまり、多数決は「最低限の必要条件」として民主主義一般が共通に採用する原理なのである。アレンド・レイプハルト[2005]『民主主義対民主主義 多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』粕谷祐子訳、勁草書房、1-2頁。

*7:この点、多文化国家において採用されているような、特定集団への議席割り当てや拒否権付与を伴う多極共存型民主主義も、同様の方向性にあると言えよう。

*8:政治的平等と人民主権が民主政の要件である点について、ロバート・A.ダール[1970]『民主主義理論の基礎』内山秀夫訳、未来社、77頁。

*9:そこでは最早多数決すら必要とはされないかもしれない。拍手喝采政治や独裁政治においても、それが人々が「ほんとうに望んでいるもの」を実現しているのだと信じられるなら、単に建前だけのことではなく、主観的には本気で、人々の自己決定権が実現されており、とても民主的な政治であると考えられる可能性も存在するのである。


Saturday, July 7, 2007

科学的なるものの概念



科学とは何か



「科学とは何か」(A)と問われる時、そこには常に、「科学とは何であるべきか」(B)という問いがはらまれている。私が問いAに答えて「科学とは~である」と定義した瞬間に、その定義からはみ出すものは非科学=科学ならざるものとされ、決して科学と名指されるべきではないことになる。ここでは、問いAに答えることは、「科学と名指されるべきものはこのような条件を満たすものでなければならない」といった規範的限定を伴う規範的立場の表明を意味する。したがって、問いAが問いBから完全に独立して成り立つ事態は、およそ想定し難い。

BではないAを問うための一つの方法として、現実社会において「科学」という語彙がどのような意味で用いられているのかを分析した上で、様々な使用例から最大公約数的な「科学」の意味を取り出す仕方が考えられる。もっとも、現実に「科学」という語彙がXという意味で用いられていることが「科学とはXである」ことを必然的に意味するわけではなく、この定義に対する規範的な異議申し立て(「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」)は有り得るから、この方法を採ってAに答える場合にも、「科学とはXを意味するべきである」という規範的主張としての性格が完全に消え去るわけではない。

ただし、「科学」という語彙が現実にどのような意味で用いられており、どのような機能を果たしているのかを把握するという限定された目的のためならば、「科学とはXである」と定義することに伴う規範的色彩は希薄になる。すなわち、そこで「科学とはXである」という定義を行うことは、「現実把握のために、さしあたり以下では「科学」という語彙をこのような意味で使用する」といった規約的定義を行うという「宣言」であるにすぎない。こうした定義は規約的なものであるから、「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」といった規範的な異議申し立ては一般的に無効となる。もちろん、規約的定義に対しても「現実の把握のためにはそのような定義は妥当ではない」といった種類の批判は可能だが、これは規範的な異議申し立てとはひとまず異なるレベルに属する批判である。

そこで、限定された目的に供する規約的定義としてではあるが、問いAに対応する定義を私なりに提出しておこう。


科学とは、私たちが何らかの形で関わる世界の在り方を、何らかの方法によって解明し、論理的に説明しようとする営みである。


「何らかの形で関わる」とは、私たちが見たり、聞いたり、話したり、嗅いだり、触れたり、感じたり、考えたり、想像したりできればよいのであって、その対象が実際に存在しているか否かは問題ではない。「世界」とは、ありとあらゆる事物と現象の全てを指す。「解明」とは、そうした事象の性質・機能・原理・法則・関係などを明らかにすることであり、その方法として主に観察や実験、反省的思弁などが用いられるが、「何らかの方法によって」とあるように、その他の方法も用いられ得る。「論理的に説明」とは、何らかの根拠に基づいた思考の筋道が示され得るような方法によって、自己ないし他者が理解可能な形で現実を認識ないし伝達することを意味する。それは、世界の在り方について抱かれる「なぜ~か?」という疑問を解くために有用な理屈を提示することであり、その説明が「真の」現実、あるいは「現実そのもの」と一致しているか否かは、問題ではない。

以上の定義によれば、かなり広範な営為が科学として把握されることになる。例えば、「去年、雨乞いをしたら雨が降ったから、雨乞いをすれば雨が降る」といった粗雑な帰納に基づく推測も、「神がおわすならば、われらは救われるはずだ」といった宗教的な前提に基づく演繹も、一定の根拠に基づいて論理的な説明を試みようとしている以上、多少なりとも科学としての性格を有していると言える。私たちはこれらと同程度か、もう少しだけ精緻な論理的説明を日常的に行っているから、私たち自身の日常生活の中に、科学的な営みは溢れ返っていることになる。科学的性格の濃淡は、当該の根拠およびそれに基づく説明に従うならば、現実をどれだけ合理的・整合的に理解することができるようになるか、という相対的な尺度によって測られるのである。哲学・倫理学・思想史研究・歴史学・文学・神学など、通常は科学として把握されることが相対的に少ない諸学問も、研究対象を精査した上で、最も合理的と思われる結論ないし解釈を提示して、その論理的な弁証を試みようとする点で、科学の外に出ることはない。

しかし、このような包括的に過ぎるようにも思える定義を用いるならば、科学ではないものを探す方が難しくなるのではないか、という疑問が抱かれるかもしれない。例えば、単なる勘に基づいた判断も科学的営為なのであろうか。確かに、勘は一種の根拠として捉えられるかもしれないが、勘から直接導かれる判断には、世界の在り方を解明・説明しようとする独自の論理体系が伴われておらず、その点で科学的性格を欠いている。また、特定事象に対する規範的判断および規範的主張は、世界の解明や説明から離れて実践に踏み込んだ営みであるので、科学とは言い難い。このように考える場合、倫理学が科学に含まれ得るか疑問が生じる。それは、最終的には科学からは離れると考えてよいだろう。だが、世界の特定の部分について発せられる「なぜ~(べき)か?」という疑問を解くための論理的説明を試みるという点で、少なくともその過程において、あるいは中途まで、科学的性格を有すると言い得る。


科学と非科学の区別



さて、ここまでの私の説明に納得した人がどれだけいるだろうか。上記のような包括的な定義で満足する人は多くない。そうした人々は、「科学」という語彙の意味について、更なる限定化を求め、問いBの領域へと踏み込むのである。

問いBはしかし、いささか漠然としているので、そこで期待されているであろう答えが導けるような具体化を試みるならば、以下のように再構成可能であると思われる。「科学とは何を目的とするのか。そして、その目的を達成するために、どのような方法を採るべきなのか」(C)。

そこで、BやCに答えようとする者は、様々な基準を持ち出して、科学が科学であるための条件を限定化しようとする。持ち出される基準は再現可能性や反証可能性、可塑性、問題解決能力など多様であるが、実際のところ、そうした基準に絶対的なものは無く、科学と非科学とを明確に区別することは困難であるとされる*1。つまり、科学としての性質は程度の問題であって、科学と非科学の間には広いグレーゾーンが存在しているのであるから、両者を截然と区別するような境界線を引くことはできないのだと言う。

しかし同時に、「科学と非科学の間に区別を設けることができないと考えるべきではない」とも言われる。そうした主張は、次のような論法で行われる*2

前提1:「ハゲでない人から髪を1本抜いてもハゲにならない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲではない」を認めるならば、髪が10000本ある人から髪を1本ずつ抜いていった場合を考えることによって、「髪が0本の人でもハゲではない」という結論が導けるが、これはおかしい。ハゲの人とハゲでない人の違いは程度問題かもしれないが、両者の間には厳然とした違いが存在するはずである。そこで、前提1:「ある人から髪を1本抜いてもその人がハゲかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲであるという信念の度合いは極めて低い」を設定して考えてみるならば、問題が解決できる。すなわち、髪が10000本ある人から髪を1本抜いたところで、彼がハゲであるかについての信念の度合いは「ほとんど」変わらないとしても、わずかの変化が積もり積もって、髪が0本になるまでには彼がハゲであるという信念の度合いが100%近くになっていることは十分考えられる。

同じことが科学と非科学の関係についても言えるだろう。つまり、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことはできないにしても、幾つかの基準をチェックリスト的に用いることによって、どれくらい科学的であるかという程度を測ることはできる。そして、どの基準からもほとんど科学的性格が見出せないようなものは、明らかに非科学であると見做すことができる。したがって、科学と非科学の間にグレーゾーンが存在するからといって、両者を区別することはできないと考えることは間違いであり、両者の間には厳然とした違いが存在するのである。


科学/疑似科学と名指す欲望



以上のような論法には、説得力がある。私が用いた規約的定義の場合にも、定義=限定を行っている以上、そこから明らかに外れるものは「非科学」と名指されざるを得ない。何が明らかに外れるのかということを判断する基準が確定していないとしても、「科学」の定義から明らかに外れるものは「非科学」である、という想定は必然的に受け入れなければならない。その点で、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことが困難であるとしても、両者の区別を放棄するべきではないという立場は、それ自体として妥当である。

しかしながら、私がここで考えてみたいのは、こうした立場を採る人々が「非科学」として「科学」から区別しようとしているものを、「疑似科学」や「ニセ科学」といった名前で呼び、それらが「科学」を「僭称」することを批判しているという事態についてである*3

疑似科学やニセ科学として名指されるための条件は、「科学ならざるものでありながら、科学を自称するか、科学であるかのような装いをする」(Y)ことに求められるだろうと思う。伊勢田哲治や菊池誠は、こうした疑似科学ないしニセ科学の実例として、創造科学や占星術、ある種の代替医療、血液型性格判断、マイナスイオン家電、ゲルマニウム製品、ゲーム脳などを挙げている。だが、上で述べたような彼らの立場からすれば、疑似科学ないしニセ科学と名指されるような理論においても、ある程度の科学的性格が見出されることは有り得る。一般的には、それらは科学的性格が希薄であるとは言えても、科学的性格を全く有していないと言えるような場合はそれほど多くないようである。例えば創造科学について伊勢田は、「ほとんど科学と呼べない」とは述べていても、それが「非科学である」とか「科学ではない」などとは断言していない*4

しかしながら、疑似科学ないしニセ科学をY(科学を僭称する非科学)のように定義したとするならば、希薄ながらもある程度の科学的性格を有しているものや、「ほとんど科学とは呼べない」かもしれないが、わずかながらも科学的な部分を備えているものなどを、疑似科学ないしニセ科学と名指すことは、厳密に言えば不正確であろう。もちろん、疑似科学ないしニセ科学を「科学的性格が著しく希薄であり、科学的であると見做し得る部分を極めて限定的にしか備えていないにもかかわらず、科学的性格を誇張するか、科学的と見做し得る程度が相当に高いかのような装いをする」(Z)ものなどと定義する場合には、それらはグレーゾーンを含んだ範囲を意味する用語として、「非科学」とは区別される。だが、伊勢田や菊池においては、どちらかと言えば、ZよりもYのような定義が堅持されているように見える。若干の不正確さを伴わせてまで、科学的性格が希薄ではあるが非科学であるかどうか不明確な理論を、非科学であることを想起させるような疑似科学ないしニセ科学といった語彙によって名指そうとするのはなぜなのか。

ハゲの例から考え直そう。そもそも、ハゲと非ハゲを区別しなければならない必然性は存在しない。頭髪の多少を観念するならば頭髪が全く無い状態も観念せざるを得ないが、そうした相対的な程度の違いを記述するためには、頭髪が多い/少ない/無いといった相対的な表現方法を用いれば足りる。したがって、頭髪が無い状態だけを指して特別の言葉を用いる必然性は無い。そこで頭髪が無い状態を指してハゲと呼ぶようになるのは、そのような特別の言葉を用いた限定的な指示を行いたいという欲望が存在するからである。

もし、ハゲという語彙が本来、頭髪が全く無い状態のみを意味したのであれば、頭髪が少ない状態を指してハゲと呼ぶのは不正確であるが、現在ではハゲという語彙はそのような意味で使用されている。それはおそらく、少なくとも現在では、ハゲという語彙によって名指すことを欲望されているのは、頭髪が無い状態から薄い状態までを含めた広い範囲であるということだろう。すると、ハゲという語彙の使用を支える欲望とは、頭髪が薄い状態を頭髪が無い状態に引き付けて解釈したいという欲望なのではなかろうか。

科学についても、基本的には科学的性格が濃いか薄いか、強いか弱いか、という相対的な表現が存在すれば十分であり、科学的性格が全く認められないものも有り得るであろうが、そうしたものだけを取り上げて名指すことにさしたる必要性は存在しない。しかし、ひとまず「非科学」という言葉が存在する。そして、「非科学的」という言葉が、おそらくは科学的性格が全く見出せないわけではないような理論に対しても使われることがある。それは、科学的性格が希薄であるものを、科学的性格を有しないものに引き付けて解釈したいという欲望に基づく行為なのではないか。

おそらく、疑似科学とかニセ科学などといった呼称は、そのような欲望をより直接に投影したものであろう。創造科学その他の科学的性格が希薄な理論を批判する際には、基本的には、「科学的性格が希薄であるにもかかわらず、科学的性格を不当な程に誇張している」と批判すれば足りるはずであるが、それを敢えて疑似科学ないしニセ科学と名指そうとすることが、特定の欲望ないし目的意識を体現している。

そうした欲望ないし目的意識の中心は、いわゆる疑似科学やニセ科学による科学の「僭称」がもたらす社会的不利益を極小化しようとするものであると思われ、それ自体として私も部分的に共有したいと思うものである。疑似科学とかニセ科学などといった名指しがなされ、科学的性格が希薄な理論が科学的性格を有していないものに引き付けて解釈される時、そこには前述の不正確さが伴うが、そうした不正確さは実践的な目的意識の前では瑣末な理論的齟齬であるにすぎないと見做されるのかもしれない*5

しかしながら、私はそうした不正確さがはらみかねない危険性の方に目が行く。科学的性格が希薄ながらも全く存在しないわけではない理論が、疑似科学ないしニセ科学と名指され、ほぼ非科学と同義に解釈されることが一般化するならば、相対的であるはずの科学的性格の差異が絶対化され、科学と非科学の本質的な差異と見做されるようになってしまうのではないか。それは丁度、頭髪の相対的多少に基づくにすぎないはずのハゲという語彙が、何かそうした絶対的・本質的な人間的特徴を持つ集団が存在するかのような印象を伴わせて使われることがあるように。

おそらく、疑似科学ないしニセ科学という名指しによって、そうした本質主義的な想定を強化するような機能が生まれる事態は、いわゆる疑似科学ないしニセ科学による科学の「僭称」を批判する人々の目的意識から著しく遠い帰結である。だが、疑似科学ないしニセ科学という名指しを支える欲望には、そういった帰結を呼び込みかねない芽が全く存在しないわけではない。その芽とは、明確には指示することができないとしても、どこかに「真の科学」が存在するはず/べきであり、同時に決して科学と呼ぶべきでないものが確実に存在するという想定である。それは問いBに踏み込んだ以上、避けることのできない想定であるが、一つの規範的な立場でしかない。「科学」とは一つの概念であるから、その定義は一様ではないし、本質的に科学であるものや本質的に科学でないものなど存在しない。それにもかかわらず私たちは「科学とは何か/何であるべきか」と問うた瞬間から、科学なるものと科学ならざるものを分けて考えてしまい、そしてそうした区別は、しばしば本質主義的な区別に傾きやすいのである。

もちろん、Bを問うことが、必ず本質主義に傾くわけではない。しかし、疑似科学とかニセ科学といった用語は、「これは科学だ」「これは科学ではない」といった明確な断定に傾きやすい私たちの本質主義的な欲望を刺激し、そうした欲望によって利用されかねないという危険性を伴っている。それゆえ、科学的性格が希薄な理論を特に名指したいならば、疑似科学とかニセ科学といった非科学を想起させるような語彙を用いるのではなく、より正確な別の表現を用いるべきである。私には巧い代替案が思い浮かばないが、例えば「未成熟な科学」などのような相対的差異を前提とした呼称が望ましいと思う。


科学を科学の外部に基礎づける



最後に、科学とその外部との関係について考えてみよう。「科学の成果をしつけや道徳の論拠として用いるべきではない」などと言われることがあるが、これは間違っている。事実から価値を導くことはできないとしても、事実を提示することによって、価値にかかわる説得の論拠にすることはできる。例えば、人の命は一つしかないから命を大切にしなさいとか、人生は一回きりだから後悔が無いように生きなさいなどと言われることがあるが、これらは特定の事実を特定の道徳の論拠に用いている。人間が一度死んでも生き返ることが可能であれば、こうした道徳的言明の説得力は変化し得るが、だからといってこうした論法が妥当でないということにはならないであろう。ある道徳を正しいものとして受け入れるかどうかは、各人が自らの頭で考えることであるが、その過程で科学の成果を参考にすることは有り得るのである。

したがって、科学はその外部で行われる規範的な議論とも深くかかわっている。科学の目的を何に求めるべきかは規範的な問いに属するが、ここではひとまず最大公約数的な理解に基づく規約的な仕方で、それを「世界の在り方についてのより合理的・整合的な理解をもたらすこと」に求めておこう。これは科学そのものの、つまり科学に内在的な目的であり、科学的営為の成否は、まずこの目的を達成した程度によって測られることになる。これを(1)真理性のテストと呼んでおこう。

科学の成否はひとまず(1)によって測られるが、通常はそれだけでは済まない。科学は次に、それがいかなる利益に資そうとしているかという志向性によっても評価される。それは、a.自己の利益、b.特定の他者の利益、c.特定の集団や社会の利益、d.人間一般の利益、e.人間より広い範囲の存在の利益、いずれの目的に従うのかはともかく、科学それ自体の外部に位置する何らかの目的に役立つことを目指す限りにおいて、社会的に有意味であると見做される。学問とは、科学的な研究を体系的・専門的に行う営みであるが、純粋に科学内在的な目的のみに従い、真理性を高めることを追求するような学問研究者は、通常は専門家と言うよりも好事家に分類される。ふつう専門家とは社会的に有意味な専門性を備えた者を言うが、好事家も専門家であることには違いが無いから、社会的に有意味な専門的研究を行う者を「社会的専門家」、自身の知識欲や好奇心のみに従って専門的な研究を行う者を「好事的専門家」と呼んでおこう。社会的に有意味な科学と好事的な科学とを分けたり、前者の内部における志向性の優劣を評価したりすることを、ここでは(2)志向性のテストと呼ぶ。

さらに、本来の志向性にかかわらず、それがもたらす実際の帰結によって科学的営為を評価することを(3)帰結のテストと呼ぼう。主観的には好事的であるにすぎない専門的研究も結果的に莫大な社会的利益をもたらすことが有り得るし、世のため人のためを思ってなされた専門的研究が、とてつもない害悪をもたらすことも有り得る。科学は、その成果の提示ないし活用によって現実に働きかけるが、その働きかけの帰結に従って、科学にとっての外部的観点から評価されることになる。(3)によって否定的な評価を下された科学的営為は、ふつう成功したとは言わない。あるいは、科学に内在的な目的にとっては成功しても、科学にとっての外部的観点からは失敗したと見做されたことになる。このフィードバックによって、科学は自らを反省し、修正を試みるのである。

ふつう専門家と呼ばれる場合に、単なる知識欲と好奇心のみに従って研究を行う好事家が想定されないのは、専門性には社会的意義と責任が求められるべきであると考えられているからである。そうした意義と責任は、(2)および(3)のテストに基づいて測られたり求められたりする。社会が専門家に学問=専門的な科学的研究を許すのは、それが社会的な意義を持ち、その帰結に責任を負う限りにおいてである。その意味で、科学/学問/専門性とは、自らの外部の価値に基礎付けられなければならない。自らの外部の価値に無頓着な科学は、ただ趣味に属するのみであり、社会的な支持を得ることを望み難い。

科学/学問/専門性がその外部に基礎付けられなければならないということは、それが自らの外部に存在する認識や価値を批判してはならないということを意味しない。科学はむしろ、自らの外部に存在するものを積極的に批判することによって、現実への働きかけを絶えず行うべきである。科学は自らが生み出した成果によって既存の社会を破壊することもできるし、必ずしもそれを控えるべきではない。だが、同時にそうした営為も(2)や(3)によって評価され、時に批判される。それは専門性を支える社会の側からの専門性への批判であり、そうした批判に臨んで科学/学問/専門性は反省と修正を迫られる。そうした相互批判が建設的に機能するような構造を形成・維持することが重要なのであって、専門性に学ばない社会と、現実の社会に学ばない専門性とは、共に唾棄されるべきなのである



*1:伊勢田哲治[2003]『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会。

*2:伊勢田[2003]、9頁、259‐260頁。

*3:伊勢田[2003]。菊池誠「視点・論点 まん延するニセ科学」(http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten)。菊池誠「「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)」(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html)。

*4:伊勢田[2003]、261頁。

*5:もちろん、そうした不正確さなど存在しないという立場が主流なのかもしれない。それは、疑似科学ないしニセ科学の定義としてZに近いものが採用されるからかもしれないし、そもそも非科学とはそれを非科学であると見做す「信念の度合い」が100%に近いことによって非科学なのであり、必ずしも100%でなくても非科学であると見做して問題ないと考えられるからかもしれない。しかし後者の場合、それは「厳然とした違い」によって科学と非科学を区別できたことになるのだろうか。


Saturday, June 2, 2007

所有論ノート(2)―私的所有権と自己所有権


ロック労働混入説の解釈



 たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少なくともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである。(ロック[1968:32-33])


ジョン・ロックによる私的所有権正当化の議論は現在でも頻繁に参照されているが、彼の議論の解釈は一様でない*1。上に引用した最も有名な一節は、自己の所有たる身体による労働の「混入」が対象についての所有権を発生させると述べているように見えるが、解釈者の主張は一致しない。解釈には幾つかパターンがあるが、大きく分ければ、「労働の混入」という表現を文字通りに受け取る解釈と、それを比喩として受け取る解釈の二つがある。

労働混入説を文字通りに真に受けた場合、困難は山積みになる。まず自己の労働を所有物と見做すことが可能であるかが問題になるが、これを問わないとしても、労働が財に「混入する」と考えることの難しさに、どうしてもつまずかざるを得ない*2。また、仮に「労働の混入」が成り立ち得るとしても、労働を混ぜ合わせたからといって、それが財への所有権が発生する理由になると考えなければならない理由は全くない。自己の所有物を無主物と混ぜ合わせることは、むしろ自己の所有物を失う理由になってもよいはずである。ロバート・ノージックが挙げている例を借りれば、自己の所有であるトマトジュースを海に注いだ場合、彼は海を所有するに至るのか、それとも単にジュースを失った愚か者なのだろうか(ノージック[1995:293-294])。労働混入説自体からは、この答えは出て来ない。

それゆえ、「労働の混入」という表現は比喩に過ぎないと解する者が多い*3。この場合、ロックの意図は、価値の創造などの功績が財への所有権を発生させる、というところにあったのだと理解されることになる。ノージックも、「トマトジュース問題」を挙げた後でこちらの解釈の可能性を検討している。ロックの所有論を価値創造ないし功績からの議論と解することは、おそらく一般的な説得力が最も大きいと思われるが、後述するように無視できない困難がある。

しかし、それよりも私が問題だと思うのは、「労働の混入」という表現を単なる比喩だと切り捨ててしまうならば、同時に自己所有権の議論も切り捨てて構わないことになってしまう点である。ある物を発見したとか採集したなどの功績や、その過程に費やされた時間や手間、その他の資源などの負担、あるいは労働によって対象に付加された価値などを理由として財への所有権を認めるのならば、別に自己所有権の前提など必要ない。しかし、ロックは所有権を主題とする第五章の三節目という冒頭で、私的所有権の第一の論拠の前提として自己所有権について述べているのだから、普通に考えれば、これは解釈上切り捨ててよいことではない。したがって、私はロックの労働混入説を割合正面から受け取るべきであり、比喩として切り捨てるべきではないと考えている*4

とはいえ、別に一つの解釈だけを採る必要はない。後述するようにロックは帰結主義的理由も挙げているし、彼の私的所有権正当化論は、多元的な論拠に基づいていたと考えるべきだろう(森村[1997:77])。

そこで、功績ないし価値創造からの私的所有権正当化の議論が抱える問題について整理しておこう。まず確認しておくべきことは、功績は価値創造に還元されないということである(それゆえ私は先程から両者を区別している)。ロックは所有権が発生する労働の例として、果実の採集なども挙げているが、リンゴを木からもぎ取ったからといって、リンゴに何か価値が付加されるわけではない。それゆえ、所有権発生の根拠とされる功績は、価値創造に限られない*5。「リンゴを木からもぎ取ることは、リンゴをより利用しやすくすることでリンゴの価値を高める」などと言うことは確かに可能ではあるが(森村[1997:67])、そうした一般的でない言い方をしてまで功績を価値創造に一元化する必要はないだろう。

価値創造からの議論に限って言うと、まず発生する所有権が生み出された価値増加分に限られず、対象全体に拡大されるのは何故なのか(ノージック[1995:294])。また、最初の価値創造者だけが排他的な所有権を有し、同じ財に後から価値を付け加えた者が所有権を獲得しないのは何故なのか*6。こうした疑問は、価値創造からの議論そのものによって解決することはできない。

多元的解釈の立場からすれば、ここで労働混入説からの説明を試みるべきかもしれない。労働混入説を、労働の混入によって自己の所有たる身体=人格(person)の範囲が対象まで拡張される(財が自己の一部となる)、という考え方であると解するなら(森村[1997:86]、森村[1995:128])、一度労働を投下した時点で本人と対象が一体化するという理由によって、最初の労働投下者が対象全体への排他的な権利を有することを説明できるようにも思える*7。とはいえ、この場合にも、後から労働を投下した者、ないし価値を付加した者の人格は何故財まで拡張されないのか、複数の人間が同じ財に一体化することは何故できないのか、という疑問が完全に解消されるわけではないから、労働混入説改め人格拡張説を持ち出すことが「後続者問題」を解決するに十分であるとは言えそうにない。


私的所有権の正当化根拠と設定目的



「後続者問題」については後でもう一度触れるとして、改めて労働混入説=人格拡張説について少し述べておきたい。「労働の混入」を比喩だと考える森村進は、この論拠はロックにとって副次的なものであったとする(森村[1997:129])。しかし私は、普通人が一番最初に挙げる論拠は副次的ではないと思うから、先にも述べたようにこの解釈には反対である。私はむしろ、ロックにとって労働混入説=人格拡張説が中心的論拠であり、価値創造からの議論や、私的所有権を認めた方が生産が増大するといった帰結主義的理由の方が副次的であったと思う。

それはともかく、労働混入説=人格拡張説を私的所有権正当化の論拠とするならば、一つ疑問が湧く。それは、例えば森で木の実を発見した者がその木の実の所有権を手に入れるのだとすれば、同じようにして夜空に輝く星の中から誰も知らない星を新発見した者は、その星の所有権を手に入れることになるのだろうか。発見者の身体=人格は、夜空の星まで拡張され得るのか*8。答えは否定的である。森村によれば、所有権は財に関する人々の間の規範的関係であり、そこで重要なのは財が人間にとって利用可能か否かであるから、夜空の星のように人間の手が届かないものは、所有権の議論において最初から存在しないのだという(森村[1997:66])。

しかし、その利用可能性とは何であるのか。おそらくは占有可能性であろう。トマトジュースの例を思い出して考えてみれば、ロックも森村も海への所有権が発生するとは言わないだろうが、混ぜた相手が通りの水たまりであったならば、その液体への所有権を認めてくれそうである。違いは結局取り出せるか否か、占有の対象になり得るか否かなのではないか。そしてこの前提は、言うまでもなく労働混入説=人格拡張説からは出て来ない。それは要するに、夜空の星のような手の届かないものに所有権を認めるのは無意味ないし有害であるという、言うなれば所有権が設定されるそもそもの事情ないし目的から出て来る前提である。それでは、この所有権設定の事情ないし目的とは何かと言えば、それは結局社会一般の利益への考慮といったものに還元されるほかない。

この事情ないし目的は、ロックにおける私的所有権正当化の第三の論拠たる帰結主義的理由と接合されていく。帰結主義的理由には、ロックが挙げている生産増加の他に、財の私有化によって資源利用がもたらす負の外部性が内部化されて財の有効利用に繋がるといった理由なども含まれるが(森村[1995:141])、それは要するに社会一般の全体的・集合的な利益や効率の面で私的所有権を設定することが望ましいという手段的理由である。

多少大雑把な言い方になるが、現実的な所有権秩序に照らして人格拡張や価値創造からは説明できないような不都合の是正は、全てこの帰結主義的理由、ないし社会一般の利益という観点から行われていると見てよい。「夜空の星問題」は、それが所有権設定の目的からして無意味だという理由で解消される。「後続者問題」に臨んで重層的・流動的な所有権設定を否定する論拠になるのも、社会一般の利益のために安定的な所有権秩序を求める観点である*9。労働混入=人格拡張説からは説明できない、不効率な仕方での労働投入による所有権発生の否定を説明できるのも、この観点である。

このように考えられる以上、価値創造・功績からの議論や、労働混入・人格拡張からの議論に、私的所有権正当化の論拠としてある程度の地位を認めてよいとしても(別に認める必然性も無いのだが)、最も一般的かつ基底的な論拠としては社会一般の利益のような帰結主義的理由に拠るべきことは明らかである。そして、そうであるならば、政治的合意が得られる範囲で積極的な再分配を行うために所有権を制限・侵害することには大した障害はない*10。少なくとも、それはリバタリアンが考えるほどには強い制約ではない。


自己所有権論の無理



さて、併せて自己所有権についても述べておこう。森村はロックにならって自己所有権を私的所有権正当化の前提に据え、自己所有権テーゼとしてこれを強く主張している(森村[1995]、森村[2006])。森村によれば、私たちは「各人は等しく独立に自分の身体や生命や自由への権利を持つ」という自己所有権テーゼを既に受け入れている(森村[1995:19])。私たちが、複数の人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にして臓器を分配する「生存のくじ」のような制度に反対するのは、自己所有権テーゼへの支持を証明していると言うのである*11。「たとえXが心臓を患って、心臓移植なしでは死んでしまうとしても、Xは他人に心臓の移植を要求する権利はないし、強制的な心臓移植が正当化されるわけでもない。なぜなら各人は自分の身体への権利をもっており、他人はそれを侵害してはならないからである」(森村[1995:31])。

そしてまた、個人の自律とか自由といった価値も、自己所有権を前提としているのだと森村は言う。なぜなら、「もし自己所有権が前提されていなかったら、各人のもつ自由の範囲が自分の身体に限定される理由はない」から、その自由は他人の身体をも部分的に支配することになってしまう。それが避けられるのは、「各人のもつ自由の対象は自分の身体であって他人の身体ではないという自己所有権テーゼ」が当然視されているからなのである、と(森村[1995:34-36])。

率直に言って、強弁だなという気がする。また、私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が解らない。まず、人間は自己の身体を事実占有し、支配しているから、そのことを主たる原因として「この身体は私のものである」という感覚が生じるということは解る(森村[1995:40-41])。そしてまた、「私は身体である」と言えるからといって、「私は身体を所有する」と言えなくなるわけではないという主張にも賛同しておこう(森村[2006:19])。しかしながら、人は自分の身体を自分の所有物だと考えることもあるかもしれないが、それよりも(自分そのものである)自らの身体は自分にとって決定的に重要なかけがえのないものであり、自分の支配が及ばなければ困るものだという感覚の方が、より根本的・基底的であろう。その「困る」という感覚は、「私のもの」などという手段的な物言いよりも、ずっと決定的な水準に存在している。

「私の身体は私の所有物である」という言説では、「困る」感覚の原因である「私の身体は私そのものである」という事実を含意できないし、「私の身体に関わる事態は私にとって決定的に重要である」という根本的な水準の議論に触れられない。あるいはこう言ってもいいかもしれない。自己所有権テーゼは「私の身体は私のものだ」という物言いを「私の身体は私の所有物だ」という限定的な意味に切り縮めてしまい、この物言いを本来裏打ちしている「私の身体は私にとって決定的に重大なかけがえのないものだ」という感覚を拭い去る、と。

「生存のくじ」に反対する人々は、それでは「困る」という感覚に基づいて反対をしているのであって、必ずしも自己所有権テーゼなるものを受け入れているわけではない。各人にとって決定的に重大なものが脅かされるという感覚に基づく反対を以て、特定のテーゼへの支持の証明と理解するのは、不当な読み替えであろう。

個人が有している生命に関わる権利や基本的な諸自由、重要な事柄についての自己決定権などは、それらがお互いにとって決定的に重要であるという明示的・黙示的な合意によって成立し得るから、別に自己所有権テーゼを前提とする必要などない。Xの自由や権利が通常Yの身体や自由を拘束することに結び付かないのは、Yの身体に関することはXにとって相対的に低い重要性しか持たない一方、Yにとっては決定的に重要であると考えられているからであり、排他的な自己所有権が前提とされているからではない。要するに各人にとっての決定的重要性の程度によって調整されているのであるから、そこに自己所有権テーゼが入る余地は最初からない。

また、人は時に他者の身体に関わることでも自己にとっての決定的な重要性を感ずる時があるから、決定的重要性の感覚を排他性が強い自己所有権テーゼによって置き換えることは、本来の目的に適わずにかえって有害になり得る。この身体を実効支配し、この身体についての最大の利害を負っている私には、この身体に対する最大の権利が認められてしかるべきであるが、私の身体に利害を負う人は私以外にも有り得るのだから、この身体は私の所有物であると最初に言ってしまうことは好ましくない。ひとまず最初には、この身体の所有権など私を含めた誰にもない、と言っておくべきだろう。

さて、森村は自己所有権テーゼを前提として、そこから価値創造と自由の拡張という二つの論拠を中心に私的所有権を正当化しようとする(森村[1995])*12。しかし既に述べたように、価値創造からの議論をするならば自己所有権を前提にする必要などない。森村が「自由からの議論」と呼ぶ、所有者の自由の延長として所有権を正当化する議論が私にはよく理解できないし、それが労働混入=人格拡張説とどこまで異なるのかも解りにくいが、こちらの議論も自己所有権を前提とする必要はあまり感じられない*13。つまり、私的所有権を正当化する上でも、自己所有権テーゼを主張する意味など大して無いのではないか。

このような次第で、結局私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が了解しにくい。それは森村その他の個人的趣味だよ、と言われればそうなのだろうと頷く。実際、森村は自己所有権とは自己決定権とか個人の自律・自由といったものに言い換えてよいなどと言っている。その言い換えは成り立つのかもしれないが、上に述べた理由で反対の言い換えは為すべきでない。結論として、自己所有権テーゼは有害無益な主張である、ということに落ち着く。


<引用文献>

・ロック[1968]『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店(岩波文庫)

・イェーリング[1982]『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波書店(岩波文庫)

・ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳、木鐸社

・森村進[1995]『財産権の理論』弘文堂

・森村進[1997]『ロック所有論の再生』有斐閣

・森村進[2006]「自己所有権論の擁護」『一橋法学』第5巻第2号



*1:この記事ではロックのいわゆる「十分性の制約」や「腐敗の制約」などについては述べないことにする。理由は、それが煩瑣である割には重要に思われないからである。

*2:ただし、後述のように人格拡張説として理解する余地はある。

*3:森村[1997]第二章によれば、S.バックルやG.スリーニヴァザンなどがこの立場を採るようである。また、後述のように森村自身もこの立場に属する。

*4:この点で私はM.ブロッカーに賛成である。森村[1997:86]

*5:なお、私の「功績」という言葉の用法は、森村[1995]および森村[1997]における「労働の辛苦への報酬」を意味する用法とは異なる。

*6:ただし、同じことは功績についても言えそうである。例えば、リンゴを採集してきた者がそれを理由としてリンゴの所有権を獲得するなら、そのリンゴの皮を剥き、小さく切って食べやすくした者がそれを理由として同時に所有権を獲得してもよさそうなものである。

*7:なお、所有物に所有者の人格が拡張されているという考え方は、イェーリング[1982:71-72]にも見られる。

*8:これは、ノージック[1995:293]で指摘されている労働が混入される対象範囲の未確定性の問題にやや近い。ノージックはそこで、火星のある地点を整地した宇宙飛行士が所有するに至るのは、その地点のみか、火星全体か、宇宙全体か、という例を挙げている。

*9:これによって民法上の「一物一権主義」が貫かれることになる。

*10:もっとも、帰結主義的理由によって所有権の無際限な侵害が許されるのであれば、それは権利とは呼べないから、所有権には一応の切り札性が認められるべきではある。ただし、その理由は他の権利と同様、個人の自律のために不可欠であるといった理由で十分であり、所有権に特異な理由(価値創造や人格拡張など)を持ち出す必要はない。

*11:「生存のくじ」について以下を参照。http://www.arsvi.com/0e/l03.htm

*12:森村は価値を創造した者が対象物を獲得する権利を有するのは当然であり、これは人間にとって「それ以上正当化を必要としないような根本的な直観の一つである」と述べている(森村[1995:47])。だが、それは単に功績や負担を理由とした正当化の一つの型であり、他の理由(例えば必要)と比べてすぐれて根本的であるわけではない。私が釣った魚が私のものであると感じられるのは、「私が釣ったから」というそれ以上遡れない理由(直観)によるのではなく、少なくとも私が魚を釣るために費やした費用・時間・手間その他の負担と、実際に釣り上げたという功績を理由として考慮するならば、こうした理由を持たない人よりは私が魚を得る理由を有しているだろう、といった議論が可能である(それを正当であると認めるか否かはまた別の問題である)。そして、魚を釣り上げた私の横に餓死寸前の人がはいつくばっていた場合、私の功績と彼の必要と、いずれが正当な所有権の理由になるのかは自明ではない。

*13:そもそも労働混入=人格拡張説も自己所有権の議論を前提とする必要は無かったような気もする。「いや、ある」という説得的な主張を知っている方には教えて欲しい。


Saturday, May 12, 2007

比較不能性など存在しない


長谷部恭男は、ある人が何かを「かけがえのない」ものと見做す時、その「かけがえのない」ものは、他のものと比較不能になると言う。「かけがえのなさ」はふつう、代替不能性を意味する。そして、比較不能であるとは、二つの物事について、「いずれかが他方よりもよいというわけではなく、かつ両方の価値が等しいわけでもない」場合を意味するとされる。その上で、長谷部は次のように述べる。


 つまり、かけがえのない、他の何ものとも比べられない友情を手に入れるためには、ある友情関係を、そのようなものとみなすことが必要条件となる。百万円では友人を裏切れないが、一億円なら裏切るという人は、その友情をかけがえのないものとは考えていない。百万円では安すぎるというだけである。また、なぜ友情がかけがえがないのか、なぜ他のもの、たとえば金と比較してそれほど重要なのか、と問う人は、そもそもかけがえのない友情を手に入れることのできない人である。友情を比較不能だとみなす人にとって、友情と他のものとを比較衡量する客観的な物差しは存在しない。そのような物差しの存在を否定することが、かけがえのない友情を取り結ぶ能力を構成する。


(長谷部恭男「比べようのないもの」『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、2000年、31‐32頁)


しかし、いくら金を積まれても友情は裏切れないと考えているからといって、その人にとって友情が比較不能であるという証明になるだろうか。その人は、何らかの物差しに基づく比較によって、友情を優位に置いているだけかもしれない。そして、恋人とか自分の生命などといったもののためには、友情を裏切ることを厭わないかもしれない。

たとえば、百万円あっても愛する恋人の命を救えないが、一億円あれば救える時に、一億円で友人を裏切ることを選んだ人は、その友情をかけがえのないものとは考えていなかったのであろうか。そうではなかったと仮定しよう。この人にとって、友人も恋人も、かけがえのない(代替不能な)存在であった。しかし、この人は恋人を選んだ。なぜだろうか。それは、少なくともこの人にとって、友情を裏切ってでも恋人を救うことが何らかの意味で「よい」ことだと思えたからだろう。すると、この人は少なくとも何らかの主観的な物差しによって、かけがえのないもの同士を比較した上で決定を下したことになる。

これでは長谷部の議論は成り立たなくなる。一体、何が問題だったのだろう。それは、長谷部が代替不能性と比較不能性を混同していることである。かけがえのないものは、比較不能であるように思える。けれども、私たちは実際、かけがえのないもの同士の間で選択を迫られることが多いし、選択の際には何らかの形で比較をしている。そうである以上、代替不能性は比較不能性とは異なる。友人と恋人を比較して、いずれかを選んだということは、他方をかけがえのないものであるとは考えていない、ということを意味しないのである(逆に言えば、何かを代替不能であると見做すことは、それが他のものと比較不能になることを意味しない)。

さらに言うならば、私たちは常に様々な制約の中で無数の選択を行っていかねばならず、その際には何らかの基準を設けて比較を試みているはずである。そして、比較の対象には、代替不能なものも含まれる。つまり、私たちにとって、比較不能性など存在しない。存在するのは、代替不能性だけである。




比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論


Tuesday, February 6, 2007

自由と管理―パノプティコンと現代社会


パノプティコンと規律訓練権力



ミシェル・フーコーは、強制する権力、抑圧する権力、という従来の権力観を覆す新しい権力観を、ジェレミー・ベンサムが考案した監視塔=「パノプティコン」の例で示したことで有名である。

パノプティコンでは、囚人達はそれぞれ独房に入れられる。独房は円形に配置され、それぞれの入り口は円の中心に向けられている。円形の牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、そこから各独房の内部が見えるようになっている。これに対して、囚人の側からは監視塔の内部をうかがい知る事ができない。それゆえ、実際に監視されているのか否かにかかわらず、囚人は常に監視されている意識を持たざるを得ない。囚人は監視の目を内面化して行動するようになり、自ら行動を律するような「主体」化を迫られる。ここでは、権力行使の主体は監視者や監視の構造であるとともに、監視の目を内面化した被監視者自身である。

フーコーが示したこうした権力の形は、学校、工場、軍隊、病院などあらゆる空間で現れる近代的な権力の在り方だとされ、しばしば「規律訓練型権力」と呼ばれている。その特徴は、支配の対象である各個人に特定の規範を内面化させ、自ら規範に従うよう仕向ける点にある。また、この権力は、規律・訓練される/する各個人にとって、必ずしも不利益になるものではなく、むしろ利益を増進するものである。学校教育に象徴的なように、規律・訓練された主体でなければ近代社会の中で生きていくことは難しいし、規律・訓練されていない主体ばかりでは近代社会は立ち行かない。その意味で、こうした権力は我々を「生かす」権力、我々の役に立つ権力である。


フーコー的権力観の失効?



ところで、近年では、パノプティコンの例を用いた規律訓練型権力の存在様式としては説明しがたい事態が出現していることが、盛んに議論されている。

例えば鈴木謙介は、一方的な可視性によって被監視者が不可避的に自律するように仕向けるフーコー的権力観によって監視カメラを捉えるとすれば、監視カメラが被監視者から見える位置にあることが重要であり、場合によっては「カメラのような形をしたものが天井からぶら下がっていさえすればいいはずである」が、「カメラが一見それとわからないような形状になったり、センサーや無線などを用いた「見えない」ものになっていく」傾向が見られる現状はそうした説明から逸脱するものである、と指摘している*1。確かに、ここには事態の変化がある。

そうした変化は、監視の目的が変化したことによる。新たに現れてきた「見えない監視」は、従来の監視のように被監視者の自己規律を目的としてはいない。新たな監視は、被監視者の行動を記録したり、情報を収集したり、資格を認証したりするために用いられる。そこでは被監視者を規律することよりも、その情報を記録して管理することが目的とされている。被監視者の内面よりも、データが重要なのだ。そして、今や監視と管理の技術は民間領域へと拡散している(「監視国家」から「監視社会」へ)。現代社会においては監視は遍在しており、決して国家の独占物ではない。

例えば、子どもの安全のために電子タグが利用され、交通の利便のためにsuicaやETCが用いられ、通信の利便のために携帯電話が使われる。suicaや携帯電話にクレジットカードを連動させて買い物をすることもできる。我々は、こうした安全や利便のために自らの位置情報や行動記録、消費記録を提供する。それは、市場メカニズムの中で、我々が消費者としての自由選択によって、監視され、管理されることを自発的に望むことを意味している。つまりそれはビッグ・ブラザーによる監視などではなく、いわば多数のリトル・ブラザーによる多元的管理である。我々は、自らの個人情報のデータベースがあらゆるところに存在することで、その場に応じた個人認証が可能になり、その場に応じたサービスを享受できるのである。

重要なことは、こうした管理社会が、人々の自己決定によって成立していることである。確かに、依然として国家による監視の問題は存在する。そして、国家=ビッグ・ブラザーによる監視と民間=リトル・ブラザーによる管理が結び付く危険も存在する*2。だが、その場合にも、監視と管理は、魅力的なサービスのために必要な対価としての個人情報の提供に基づいて行われるだろう。それは基本的には、あくまでも我々の自由を拡大し、多様な選択肢を可能にするために、我々自身の選択によって行われる。

それゆえ、この監視と管理は確かに権力ではあるが、人々の欲望に応じて、それを実現するために作動している。では、このように権力が人々の欲望を実現するために働くのであれば、そもそもそれにに抵抗する必要があるのだろうか。そこで失われているものは何なのだろうか。これは難しい課題である。抵抗の必要などない、という回答も十分有り得るだろう。抵抗するべきだと考える場合にも、なぜ、何に対して、どのように、抵抗すべきなのかについての答えは容易には見つからない。それゆえ、今回は棚上げにしておこう*3


パノプティコンの第二の意味



我々がここで第一に確認しておくべきことは、現代型の管理社会においては確かに、パノプティコンを象徴とした権力図式が当てはまらない場面が多くなってきているということである。だが、実は、パノプティコンの象徴に見るべき重要な特徴は、一般的に強調されるような一方的な可視性による自己規律化だけにあるわけではない。パノプティコンには、「側面での不可視性」という第二の重大な特徴を見出すことができる。

それは、囚人たちが独房に収容されている点に示される。パノプティコンにおいて、各囚人は一人の人間として一個の部屋を与えられる権利を承認されている一方で、隣接する囚人と相互に交流や情報交換することを決して許されず、完全に孤立している。隣に収容されている囚人と深く知り合うこともできない以上、囚人が頼ることができるのは監視者以外に存在せず、彼は監視者への依存を深めていかざるを得ない。パノプティコンは、囚人に監視者との二者関係を迫ることによって、囚人が不可避的に監視者への依存を深めていくような構造を有しているのである。

この点は、特に現代において、きわめて示唆に富む。それは、価値の多元化が著しく進んだ現代社会では、人々に共通の価値を見出しにくいために社会の統合感が弱まり、不安が喚起されることで、 個人の公権力への依存が強まりやすいからである。


自由な社会における国家への依存



高度消費社会では、人々はそれぞれ異なる商品を異なるスタイルで消費する。第三次産業が盛んな都市社会においては、労働時間は一律ではない。発達した交通機関のために、居住/生活/労働の空間はそれぞれ異なっていることが多い。国際化によって外国人住民が絶えず流入してくる。結果として、ライフスタイルは多様化し、近隣住民同士の接触機会は減少する。匿名性が高く、相互に無干渉であるだけでなく無関心であることが多い。

こうしたライフスタイルの多様化は、家族や地域の結合力を弱め、流動性を高める。他方で、企業においても雇用の流動性が高まり、帰属意識は弱まっていく。総じて個人の「集団離れ」が進み、国家に対峙する存在としての「社会」における中間集団は、弱体化して統合力を失っていく。他方で、情報技術の発達が価値を共有する者との接触を容易にしており、個人は生活の大部分を同質的な仲間とだけ接触して暮らすことが可能になる(「島宇宙化」)。

すると人々は、価値を同じくする者同士、親しく接する者同士ではない相手は、得体の知れない人物であると感じ、容易に信用しないようになる。そうした社会では、現実の治安状況とは無関係に、側面での不可視性ゆえの不安が増大し、セキュリティ意識が上昇する。その結果、様々な場面で国家権力に依存するような状況が出現するようになる。


パノプティコンとしての現代日本



実際、1990年代末以降の日本では、体感治安が悪化していくのと並行して、従来国家権力が踏み込まなかった私的領域への国家的介入が進んだ。それは例えば、ストーカー、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、高齢者虐待、動物虐待などに関わる。浜井浩一によれば、近年の治安悪化論の根拠とされている犯罪認知件数の増加および検挙率の低下は、1999年の桶川ストーカー事件を契機とする警察の方針転換を反映したものである *4。警察の不手際や消極姿勢への批判に応える形で、2000年以降、警察は被害届の積極的受理や、事件通報およびトラブル相談への積極的対応の方針を打ち出し、さらに市民に対して被害やトラブルの相談を警察に持ち込むよう積極的に働きかけるようになった。その結果、認知件数が増加しただけでなく、従来は介入を控えていたレベルのトラブルにも対応せざるを得なくなったために負担が増大し、検挙率の低下に繋がったとされる。

こうした転換は、民事への介入をできるだけ制限するために事後対応を中心とする司法警察から、事前の予防を目的として国民生活への積極介入を旨とする行政警察への転換と見做すこともできる。それ自体、極めて重大な転換ではあるが、それよりも注目に値することは、こうした転換が国民によって要請されたものであるという事実である。その背景には、「社会」における紛争解決能力が衰弱したことと、個人の権利意識が強くなったこと、二つの要因の重なりが存在している。

「社会」の紛争解決能力の衰弱は、個人の「集団離れ」によるものである。ただ、従来は家族、地域、労働組合、企業といった中間集団が一定の紛争解決能力を有していたことが事実であるとしても、その「解決」の内実が権威的調停による和解や揉み消し、黙殺であった場合が少なくなかったであろうことは、想像に難くない。その点を加味するならば、そうした「社会」による権利侵害からの解放という面も含めて、個人の権利意識の強化を重く見るべきだろう。

例えば、人権保護法案や個人情報保護法といったイシューが個人の権利保護を名目として現れ*5、それに対して多くの人々が積極的に反対しないのは、マスコミを含む「社会」内における権利侵害や差別から個人を守るためには、国家権力に頼る必要がある、という認識が少なからず共有されているからであろう*6。家族や地域が流動性を増している現代においては、「社会」=「側面」の得体の知れない人々を頼るよりも、個人としての権利に基づいて国家の権力を頼った方が、より確実で安心できるのである*7。そして、権利の尊重と個人主義を基調とする限り、そうした意識に対しては、容易に逆らいがたいものがある*8

結局、リバタリアン(あるいはポストモダニスト)が望むような多様な価値の自由な追求は、自由=多様であるがゆえの不安からセキュリティへの欲望を呼び起こし、強い国家権力への個人の依存を避けがたくする*9。それはリバタリアンが直面せざるを得ない内在的な困難である。ロバート・ノージックは、「全員が住むべき最善の社会が一つある」という考えを否定して、各人が「自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとする」ことを可能にするために、複数のユートピアの「枠」である「メタ・ユートピア」として最小国家を構想した*10。そうしたメタ・ユートピアは非常に魅力的であるが、その基盤を維持するためには結局、安全保障政策や治安政策を担う強力な国家が必要となる。それはとても単純でつまらない結論であるが、否定しがたい結論である。


治安共同体の病理



また、価値の多様化や、それに伴う家族や地域の流動化は、保守的ノスタルジーを喚起して、地域の連帯感や、何らかの共通価値(道徳、文化、伝統、ナショナリズム)への欲求を拡大する側面も持つ*11

例えば、日本では最近、「子どもの安全」をテコにして地域防犯活動が活発化して様々な取り組みが行われている*12。それは地域社会の自主的取り組みであり*13、その活況を見る限り、時計の針を戻したような地域コミュニティの再生が実現しつつあるようにも思える。だが、現実には、そうした活動の基礎に一貫して不安と不信が横たわっているため、通学路に立って子どもの安全を守る防犯ボランティアの人々といえども、普段着で道を歩けば一転、不審者扱いされかねない。そうした「治安共同体」では、向こうからやって来る人物が子どもの頭を撫でようとしているのか、子どもの胸をナイフで突き刺そうとしているのか分からない、という不安におびえなければならない*14。自由な社会ゆえの根拠なき不安に基づく体感治安は、いつまでも好転しないのである。

地域の自発的な防犯取り組みは、目に付きやすい社会の異端者を、不審者として見とがめやすい*15。そして、そうした「不審者」の多くが、失業者、ホームレス、障害者、外国人である。こうした社会的弱者が大量に刑務所に送られることによって、現在、刑務所は過剰収容に陥っている。彼らの多くは刑務所での労務もおぼつかないため、社会に出ても働くことは難しい。もちろん、不審者を一掃しようとする地域に居場所はない。結局、彼らの多くが、最後のセーフティネットとしての刑務所で生涯の大部分を送ることになる。ここに至っては、パノプティコンはもはや比喩ではない。彼らは現実の牢獄に、深く依存せざるを得ない*16


新自由主義の栄華かリベラリズムの完成か



ここまで治安の問題を中心に述べてきたが、他の面でも同じである。経済的な問題について見ても、個人の国家への依存は進むだろう。たとえ「小さな政府」となって福祉が削られたとしても、企業や家族、地域に頼れない人々は、公的福祉を頼るしかない。個人が「集団離れ」によって「社会」からの自由を手に入れたということは、一人では立ち行かなくなった時に「社会」に頼ることはできないということである。最後に残るのは、どんなに冷たくとも、それが刑務所という形であっても、国家しかない。

まとめよう。パノプティコンの第一の特徴である一方的な可視性による自己規律に注目するならば、確かに権力図式の描写にパノプティコンを用いることが有効である場面は、より限られてきている。だが、第二の特徴としての側面での不可視性による監視者への依存に注目するならば、権力図式の描写にパノプティコンを用いることには未だ現代的意味があると考えることができる。現代社会では、個人の権利は丁重に保護されるし、多様な価値の自由な追求が認められる。だが、個人はそうした自由な選択のためにリトル・ブラザー達による多元的な管理の下にあり、そうした多元的管理とビッグ・ブラザーによる一元的管理が結び付く危険性もある。また、自由=多様な社会であることゆえの不安からセキュリティ意識が肥大化し、様々な場面で個人の側から国家権力による積極的な介入や出動を要請するような事態が生じやすくなっている(あるいは共通価値を復権させようとする動きが生じやすくなる)。それは流動性の増大によって、もはや家族・地域・企業といった中間集団をはじめとする「社会」には個人を保護する受け皿としての役割を担うことが難しいからであり、個人が「社会」内部の様々な拘束からの自由を欲したためでもある。個人は、自らの欲望を実現してくれるリトル・ブラザー達に依存する一方で、そうした欲望充足を可能にする自由と権利を保護してくれる国家への依存を強めていくのである。

こうした事態は、リバタリアニズムが欲望したメタ・ユートピアの屈折した形での実現であると言うこともできるかもしれないし、経済的自由を徹底しようとする立場と保守的価値観を重視する立場との結託を重視するならば、リバタリアニズムと言うよりも新自由主義や新保守主義という言葉を用いた方がいいかもしれない。しかし、私はこの事態はある意味で(old/new)リベラリズムが追求してきた価値がかなりの程度で実現した事態、リベラリズムの完成とすら呼ぶべき事態なのかもしれないと考えている。その意味について立ち入って述べることはここではしない。ただ、繰り返すように、我々はまず、何に対して、いかなる理由で、いかなる方法によって抵抗するのかを問い直さねばなるまい。

最後に、二点ほど書き付けておく。一点目は、民間のリトル・ブラザー達による多元的管理とビッグ・ブラザーによる国家的管理が密接に結び付いた時、些細な法の踏み外しも許容しない「法の完全実行」が実現する可能性があるということ*17。それは望ましいだろうか。二点目は、セキュリティそのものが消費されるべき欲望の対象となってしまえば、それは選択の自由の問題であり、止めることは難しいということ。そこでは現実の治安状況がどうあれ、もはや問題にはならないであろう。



*1:鈴木謙介[2005]『カーニヴァル化する社会』講談社:講談社現代新書、70頁。

*2:例えば、住基カードが民間のサービスを受けるために必要なIDになるなど。その情報がNシステムと結び付くかもしれない。こうした様々な形での監視・管理の可能性や、そうした権力の性質についての詳細な議論は、東浩紀『情報自由論』を参照。

*3:この問題も含む興味深い考察を数多く行っているものとして、東浩紀・大澤真幸[2003]『自由を考える』NHK出版:NHKブックス、を参照。

*4:以下、浜井浩一・芹沢一也[2007]『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』光文社:光文社新書、第1章に拠る。

*5:「自己の情報をコントロールする権利」なるものの主張は、その権利の保護主体としての国家権力の強化を要請せざるを得ない。

*6:犯罪被害者保護の運動をこの文脈で捉えることもできる。

*7:こうした事態の背景に、リベラリズムは親密圏における問題に鈍感である、というフェミニズムによる批判のインパクトを読み込むこともできるかもしれない。ここには公私の分離やその境界の決定、すなわち国家が関わるべき範囲の是非という問題が横たわっているが、これ以上踏み込まない。

*8:個人の権利をよりきめ細かく保護しようとすると国家権力が肥大化しかねないというジレンマは従来の自由主義=立憲主義の土台に関わるものであり、こうしたジレンマゆえに、憲法に「国民の責務」を書き込むべきであるというようなロジックが入り込む隙間が出てくるのかもしれない。

*9:そもそも、多様な価値を尊重する社会を維持するためには、そうした多文化主義/文化多元主義の基盤を破壊するような者の排除、つまり最低限のセキュリティが不可欠なのである。

*10:ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社、504‐506頁。

*11:そうした欲求に基づく保守的運動は、流動化に疲弊する人々を惹き付けて統合することで社会秩序を維持しようとするため、一層の流動化をもたらす新自由主義的立場と対立するようでありながら、共犯関係にあるようでもある。

*12:こうした活動を「日本の治安が悪化していることは間違いないと思います」「日本でもコミュニティの「社会的連帯感」が強いときは治安がよかったのです」といった誤った認識に基づいて称揚している最近の恥ずべき例として、菊池理夫[2007]『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』講談社:講談社現代新書、159‐162頁。

*13:あるいは、それは地域の治安対策を部分的に民間に委託しながら進められる、新たな行政警察の形かもしれない。

*14:以上、浜井・芹沢前掲書、第3章に拠る。

*15:以下、浜井・芹沢前掲書、第4章に拠る。

*16:日本の刑務所の現状についての興味深い報告として、浜井浩一[2006]『刑務所の風景―社会を見つめる刑務所モノグラフ』日本評論社、を参照。



Monday, January 22, 2007

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい


道徳的責任の性質



人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。


無限責任と無責任



規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。


*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。




Saturday, January 20, 2007

九条燃ゆ前に(2)


(1)へ


現実主義的理想主義的護憲論



現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、あいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。

渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊の武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」*1

最近、改憲論への包括的な反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い*2。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党や社民党も多くの部分を共有しており、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える*3。愛敬は渡辺と同じように自衛隊を違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。

以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊は違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。

こうした理解の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊を違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。

また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。

愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避して「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものであることは指摘しないわけにはいかない。


啓蒙主義的護憲論



高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる*4。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ*5

ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている*6。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。

高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう*7。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。

高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。


「新しい歯止め」論と護憲の方法



理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。

これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有していないわけではない。だが、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、難がある。あるいは、法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、なお困難は残る。私自身は、解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が主張する「明文改憲最悪論」や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には、一定の説得力があると考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している*8

しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。

明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。無責任と言われるかもしれないが、この先は護憲派の読者自身による更なる思索に委ねたい。


(完)



*1:渡辺の主張は以下による。渡辺治[2005]『憲法「改正」』旬報社。今井一編[2004]『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店。

*2:愛敬浩二[2006]『改憲問題』ちくま新書。


*4:高橋・斎藤[2006]102頁。

*5:同、111‐114頁。

*6:長谷部[2006]23‐24頁。

*7:高橋・斎藤[2006]40‐141頁では、「だまされない」ようにするべきことが強調されている。

*8:伊勢崎賢治[2004]『武装解除』講談社現代新書、236頁。




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