Monday, January 15, 2007

司法論ノート―利害関係者司法に向けて


刑罰の意味と役割



刑罰とは、社会秩序の維持を目的として、定められた「罪」が行われることを予防するために設定されているコストである。したがって、刑罰は基本的に目的刑でしか有り得ない。事前に罪とそれに応じた刑罰が定められている(罪刑法定主義)という前提の下で、合理的選択の結果として違法行為を為した者は、定められたコスト=刑罰を負わなければならない。多くの場合、既定の社会秩序に対する違反行為は社会道徳に対する違背行為と意味的に大きく重なり合って受容されるため、刑罰の執行は社会的には道徳的非難として受け取られる。こうした刑罰の社会的意味は、道徳的規律として副次的に社会秩序の維持に資するため、秩序維持を目的とする上では、刑罰=コストという認識が普及するよりも都合がよい。したがって、刑罰=道徳的非難という社会的意味の理論的外皮としてのみ(だが半永久的に)、応報刑論が維持され得る。だが、刑罰の中心的意味が違法行為についての強制的な対価徴収にあることを忘れてはならない。

しかしながら、ここで注意すべきは、コストとベネフィットを冷静かつ合理的に判断し、その判断に基づいた選択の結果として違法行為を為す者は、実際には多くないという点である。現実には、家庭環境、生育過程、教育程度、経済状況、交友関係、健康状態、精神状態など、さまざまな社会・経済的および個人的要因、また間接的および直接的要因、あるいはそれらの絡み合いによって、合理的判断が不可能または困難であったり、選択の範囲や時間的余裕が著しく限定されていたりすることから違法行為を為す者がほとんどである。したがって、裁判および処罰の過程においては、これらの個別事情(情状)に応じて既定のコストを削減した上で、削減したコストの代替として、再犯予防を目的とした教育・訓練・実践・治療などのフォローおよびケアを刑務に並行させなくてはならない。個別事情を考慮せずに違法行為だけに着目してコスト=刑罰を与えることは、非現実的な合理的人間像に基づいて個人だけに犯罪の責任を帰することを意味し、到底受け入れ難い措置である。


近代的刑事司法と被害者保護



現在、犯罪被害者の保護を訴える運動が盛り上がりを見せているが、その背景には、これまでは犯罪者の人権ばかりが守られて被害者の人権が無視されてきた、という認識が存在している。確かに、近代刑法は犯罪者の人権を保護することを大きな目的として、国家の権力濫用を防止するようにつくられている。それは、近代国家および近代刑法の成立過程に由来している。近代国家は、復讐その他の自力救済を禁じ、個人や社会に本来備わっている紛争解決能力の大部分を取り上げた。このため、処罰権力が国家に一元化され、犯罪は被害者に対する犯罪ではなく、国家に対する犯罪として扱われるようになった。 その結果として、刑事司法のプロセスは基本的に国家と犯罪者の二者関係となり、被害者が占める地位は極めて限定的なものに留まってきたのである。

犯罪被害者の地位向上は確かに重要な課題であるが、こうした歴史的経緯を踏まえると、現在の被害者保護運動の危うさも指摘せずにはいられない。近代的な刑事司法プロセスにおいて被害者が疎外されるのは、紛争解決能力を国家に一元化した結果であった。そこでは、加害者もまた受動的な立場であるにすぎないのであって、紛争解決に主体的に関わることができる地位は与えられていない。つまり、従来の刑事司法プロセスにおいては、当該紛争の当事者である被害者と加害者、その他の利害関係者は、当該紛争解決についての主体的な関与を制約されているのである。

そうであれば、犯罪被害者の地位向上は本来、国家から当該紛争の利害関係者全体に紛争解決能力を部分的に取り戻そうとする文脈の中に位置づけられるべきである。だが、現在の被害者保護運動の多くは、他の利害関係者から切り離す形で被害者だけに特別の地位を与えようとしているように見える。それは、被害者に対する国家による「保護」を求めようという発想に由来するものである。こうした発想においては、依然として国家が独占的な紛争解決主体であり続けるのであって、紛争解決プロセスにおける利害関係者の役割を極めて限定的なものに留める従来的刑事司法の性格は何ら変わらないことになる。

例えば、被害者が法廷で被告に直接質問ができるようになったとしても、両者の上位に位置する裁判官が独占的に裁きを下す構造は何も変わっていない。それは確かに被害者の地位向上ではあるかもしれないが、刑事司法の基本構造を組み替えるほどの変革ではない。もちろん多くの被害者保護運動は刑事司法のパラダイム転換など求めていないだろう。だが、国家による「保護」という形で被害者の地位向上を進めることが生みかねない危険は、十分に自覚しておく必要がある。実名報道/匿名報道の問題において顕著に見られるように、現在、国家の裁量余地が個人の「保護」を名目として拡大する傾向にある。被害者の地位向上の方法を国家による「保護」に求めることは、紛争解決能力の国家による独占を強めることで、国家の権力拡大傾向に棹を差しかねないのである。それゆえ、被害者の地位向上という課題は、国家中心の刑事司法から利害関係者中心の刑事司法への部分的移行という全体の文脈の中で達成されるべきものとして、再認識されなければならない。


修復的司法と利害関係者司法



利害関係者中心の刑事司法を建設するための基礎となるのが、修復的司法という考え方である。ハワード・ゼアによれば、従来の「応報的司法」においては刑罰が国と加害者との勝負によって決定されたのに対して、修復的司法においては、犯罪は人々の関係の侵害と把握され、被害者・加害者・地域社会の主体的関与による関係の修復が目指される*1。修復的司法プロセスにおいては、犯罪による侵害の修復という観点から、被害者と加害者が主体的な紛争解決主体と見做される。被害者と加害者は、地域社会や第三者の協力の下で継続的な対話を行い、被害の回復と加害者の更生を実現するための方法についての合意形成が図られる。

利害関係者中心の刑事司法は、基本的にこうした修復的司法の延長線上に構想することができる。加害者と対話などしたくないし会いたくもないと考える被害者の意思は尊重されるべきであるから、応報的司法を完全に放棄することはできない。だが、被害者をはじめとする利害関係者の希望によって選択可能な形で、応報的司法プロセスと並行する修復的司法プロセスの制度設計を行っていく必要がある。被害者と加害者の対話を重視する修復的司法は、被害者に「赦し」を強いるのではないかと危惧されることがあるが、応報的司法と修復的司法を制度的に並立させることによって、被害者に対する「赦しの圧力」が強まることを回避することができるだろう。修復的司法は応報的司法と対置されて語られるが、むしろ紛争解決主体としての被害者と加害者のニーズを重視する点を修復的司法の本旨と捉えて、応報的司法と狭義の修復的司法を並立させる制度の全体を広義の修復的司法として再定義することも可能に思われる。ただ、それでは「修復」を重視する修復的司法固有の特徴が希薄化されてしまうので、並立的制度の全体はやはり利害関係者司法とでもしておくのが妥当であろう。

修復的司法に対しては、加害者の更生など「被害者側にとってみればどうでもいいこと」であり、「加害者と被害者を同列にしている」ことは疑問である、といった批判が向けられている*2。だが、最初に述べたように、刑事司法は本来的に社会全体の秩序維持を目的としているのであって、道徳的非難や応報、被害者感情の慰撫といった役割を担うものではない。したがって、司法制度上、被害者だけを特別扱いすることはできない。それは、利害関係者を中心に据える刑事司法プロセスにおいても同様である。利害関係者司法は主要な利害関係者全てのニーズを重視するもので、被害者だけを特別視することがあってはならない。加害者と「「ああだこうだ」のやりとりは一切したくない」、「伝えたいことを伝えさえすればそれでいい」という被害者の感情は自然なものであろう*3。だが、相手に何かを伝えたいならば相手から何かを受け取らねばならず、加害者から何も受け取りたくないのであれば応報的司法を選択するしかない。修復的司法は加害者と被害者をはじめから「同列」に扱うものとして存在しているのだから、加害者に対する一方的な断罪や非難が修復的司法では困難であるというのは、欲求実現の方法の求め先を誤っただけであって、修復的司法に対する批判としては筋違いと言わざるを得ない。

さて、応報的司法プロセスは公的機関の運営によるほかないが、修復的司法プロセスは、法的枠組みの中で公的機関の協力を得ながら、民間主導で運用していくべきである。利害関係者間の対話を仲介するメディエーションや、利害関係者のケアといった役割を担うのは、非国家的主体の方が適している。利害関係者を中心に据えた司法プロセスの設計は、国家の役割を必要最低限に限定することを求める。そこでは基本的に、被害者や加害者は「保護」されるのではなく、紛争解決に「関与」していくのである(ただし、利害関係者自身の意思を尊重する本旨から、積極的な関与が強いられるようなことは避けられなければならない)。

なお、ゼアをはじめとする修復的司法の唱道者は、地域社会の役割を強調するが、現在の日本において地域社会の役割に大きな期待を寄せるのは非現実的であるし、地域社会の介入が望ましくない場合もある。紛争解決能力を国家から社会へと部分的に取り戻していくことは重要であるが、単純に中間団体や地域社会の影響力を増すことで個人への前近代的介入を招くようなことがあってはならない。国家と社会、双方からの個人への影響力を適度に制限するためには、利害関係者中心の司法プロセスの運営を、法的に権限と役割を明確化された専門的なメディエーション機関に委ねる必要がある。利害関係者司法の実現のためには、こうしたメディエーション機関やメディエーターの整備・養成が急務である。



*1:ハワード・ゼア[2003]『修復的司法とは何か』新泉社。

*2:藤井誠二編[2006]『少年犯罪被害者家族』中公新書ラクレ、116頁。

*3:同、117頁。




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