Wednesday, January 17, 2007

平和を諦める


平和主義とは何か



俗に言う「平和主義」は平和を愛好する思想という意味で使われているが、厳密な意味での平和主義はそれとは異なる。平和主義はまず「絶対平和主義」と「相対平和主義」の二つに分けられる。前者は、戦争や軍隊の保持をいかなる条件においても許容せず、その廃絶を目指す思想であり、後者は、戦争や軍隊の保持という選択肢を排除しないが、それに出来る限り制限をかけようとするものである。ただし、私は、後者は平和主義の名に値しないと考える。国家の廃絶を目指さないが、それに出来る限り制限をかけようとする思想を「相対アナーキズム」とは言わない。ここでは、絶対平和主義のみを平和主義の名に値する思想として扱う。

さて、平和主義の定義についてさらに詳しく検討しておこう。一般的意味での「平和」とは戦争が無い状態を指す。したがって、この定義に基づく「平和主義」は、戦争とその手段および原因になり得る軍隊の廃絶を目指す。しかし、平和学の第一人者であるヨハン・ガルトゥングは、そうした従来の「平和」概念を「消極的平和」であるとして、戦争に限らない暴力の欠如=「積極的平和」こそが平和主義の真の目標であると説く*1

このように暴力の欠如が「平和」であると定義し直すならば、「平和主義」の意味自体も変わってくる。ガルトゥングによれば、平和を妨げているのは戦争などの「直接的暴力」だけでなく、あらゆる不自由や不平等を生み出すような体制や状況を含む「構造的暴力」もまた、平和に対立する暴力の一種である。ガルトゥングの主張に対しては、「平和」の意味範囲を無際限に広げすぎるなどの批判も向けられているが、ひとまずこうした考え方があることを視野に入れると、(絶対)平和主義にも二種類あることがわかる。すなわち、戦争および軍隊の廃絶を目指す「狭義の平和主義」と、構造的暴力も含んだ暴力すべての廃絶を目指す「広義の平和主義」である。


平和主義の不可能性



いずれの平和主義も、端的に言って不可能か、それに限りなく近い理想を掲げている。このような極めて高い理想を掲げることには、いくつかの難点がある。解りやすいところでは、あまりに高い理想を掲げることで、現実にたいする冷静な認識を曇らせやすい、という点が挙げられる。ただし、理想を語るか否かに関わらず現実認識が曇る危険性は常に誰にでも有り得る以上、この点はそれほど重大とは言えない。

続いて挙げられるのは、理想として掲げられるユートピア自体が、欺瞞を含んだ擬似ユートピアである危険性が高く、仮にそれが実現されても理想の実現とは言い難い、という点である。例えば、狭義の平和主義にとっての理想でありユートピアであるのは、戦争と軍隊の廃絶された世界である。しかし、実際には軍隊が廃絶されたからといって、真に問題であるはずの暴力が廃絶されるわけではない。軍隊の廃絶された世界でも法が存在し、警察が存在するだろう。軍隊が無い代わりに、超強力な警察と国境警備隊が整備されるとすれば、狭義の平和主義の意味はよくわからない。この点は、国家の廃絶にばかり気を払って、非国家的アクターの暴力を軽視するアナーキズムと共通する問題である。

戦争を本当に無くそうと思ったら世界政府をつくる必要があるが、その際、世界警察は非常に強力な暴力を保持しなければならないだろう。それは、狭義の平和を守るために必要とされる暴力だ。別に世界政府でなくとも、国連の集団安全保障体制がこの暴力に対応する。戦争を無くそうとするのが、人死にを、暴力を無くそうという目的に基づいているとすれば、戦争が無くなりさえすればユートピアの実現だと言うのは、他の暴力を無視した欺瞞でしかない。軍隊の廃絶ばかりにこだわるのは、フェティシズムでしかない。狭義の平和主義が目指す理想は、きわめて限定的な暴力撤廃でしかなく、とても「理想」と言えるものではない。このように考えてくると、高い理想を掲げることの問題性と併せて、狭義の平和主義が平和主義の名に値しない立場であることも明らかになる。

高い理想を掲げることがもたらす問題の三点目は、掲げられる「理想」自体が恣意的に設定されることの不可避性である。つまり、それが誰にとっての「理想」であり、どこまでの範囲に及んで、どの程度の水準を目指すものなのか、ということが暗黙の内に、誰かによって恣意的に定められることが避け難い、ということである。例えば、広義の平和主義のように、あらゆる暴力の廃絶を理想に掲げるとしよう。しかし、「暴力を廃絶すべし」という規範的命令が適用される範囲はどこまでなのか。多くの人々は、暗黙の内にそれを人間相互に限定してしまうが、その根拠は自明ではない。なぜ他の動物への、植物への、その他の物質への暴力行使は許されるのか。

また、そもそも広義の平和主義が廃絶を目指す「暴力」とは、どこまでの範囲を意味するのか。物理的暴力だけを指すとすれば、あまりにも狭い。身体だけでなく、その内面にまで干渉・介入してくる行為は、紛れもなく暴力的でる。しかし、そうすると私達は暴力から逃れられなくなる。あらゆる教育は暴力的であるし、誰かと会話をすることも暴力的要素を含んでいる。さらに現代思想の水準からすると、そもそも私達が必ずその内部に生まれてくる言語体系そのものが、本来固有な存在であるはずの他者を代替可能な次元に還元してしまうという意味で常に暴力的なのである*2

このような身も蓋もない言い方に対しては反発したくなるかもしれないが、間違いなく私達は暴力の内部で生まれ育っているし、その外部には決して出られない。ここにおいて、あらゆる暴力の廃絶という究極的な理想がどういう状況を指しているのか、誰も想像すらできないはずである。それにもかかわらず、私達が何らかの「理想」として「暴力の廃絶」を設定できるということは、極めて恣意的にその意味範囲と目標程度を限定している、ということを意味する。そして、そうであるとすれば、その「理想」「暴力」「廃絶」の定義という行為こそが、紛れもなく暴力的ではなかろうか。少なくとも、限定された目標範囲から外された存在にとってはそうであろう。残念なことに、「暴力の廃絶」という理想を掲げること自体が、何処かの誰か/何かに対しての暴力行使に違いないのである。

そうであるとすれば、もはや、最初に「理想」を設定するアプローチを採ることは出来ない。何らかの遠い目標を置くこと自体を批判しているのではない。「全き理想」というものを設定することが不可能である、と言っているのだ。「全き理想」のつもりで設定したものが必然的に何かの限定=暴力を既に含んでいる、という事実をひとたび認識した上で仮に何らかの「理想」(目標)を設定しようとすれば、その基礎に暴力行使があることを引き受けざるを得ない。すると、「理想」の前には必ず、かき消せない暴力という現実認識が先行することとなり、理想先行型アプローチは採ろうとしても採れないことになる。したがって、この点を自覚しない安易な理想語りは批判されなければならない。理想を語るためには、現実の引き受けが必要不可欠なのだ。

「全き理想」としてのあらゆる暴力の廃絶は不可能であるということは、広義の平和主義が破綻せざるを得ないことを意味する。広義の平和主義が暴力の定義や平和を享受すべき対象をある範囲に限定した瞬間、そこで語られるユートピアは狭義の平和主義と同様、擬似ユートピアへと堕する。平和主義の名に値するのは、あらゆる暴力の廃絶を掲げる最広義の平和主義だけである。そして、この意味での平和主義とは不可能性の追求であり、最初から破綻を約束されている。すなわち、平和主義の名に値する平和主義とは、現実には不可能な立場を意味するのである。

あらゆる暴力の廃絶が不可能である以上、平和を望む者は自らが行使する暴力について明確に認識し、それを引き受けなければならない。それは、まず最広義の平和、最も究極的な意味での平和を諦めるということを意味する。平和を望む者は、まず究極的な平和を諦めなければならないのだ。


*1:ヨハン・ガルトゥング[1991]『構造的暴力と平和』中央大学出版部。

*2:この点について一冊で理解することは難しいが、とりあえず高橋哲哉[2003]『デリダ』講談社や高田明典[2006]『世界をよくする現代思想入門』ちくま新書などから入って、デリダやウィトゲンシュタインその他について学ぶのがよかろう。




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