Monday, January 22, 2007

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい


道徳的責任の性質



人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。


無限責任と無責任



規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。


*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。




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