Tuesday, February 6, 2007

自由と管理―パノプティコンと現代社会


パノプティコンと規律訓練権力



ミシェル・フーコーは、強制する権力、抑圧する権力、という従来の権力観を覆す新しい権力観を、ジェレミー・ベンサムが考案した監視塔=「パノプティコン」の例で示したことで有名である。

パノプティコンでは、囚人達はそれぞれ独房に入れられる。独房は円形に配置され、それぞれの入り口は円の中心に向けられている。円形の牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、そこから各独房の内部が見えるようになっている。これに対して、囚人の側からは監視塔の内部をうかがい知る事ができない。それゆえ、実際に監視されているのか否かにかかわらず、囚人は常に監視されている意識を持たざるを得ない。囚人は監視の目を内面化して行動するようになり、自ら行動を律するような「主体」化を迫られる。ここでは、権力行使の主体は監視者や監視の構造であるとともに、監視の目を内面化した被監視者自身である。

フーコーが示したこうした権力の形は、学校、工場、軍隊、病院などあらゆる空間で現れる近代的な権力の在り方だとされ、しばしば「規律訓練型権力」と呼ばれている。その特徴は、支配の対象である各個人に特定の規範を内面化させ、自ら規範に従うよう仕向ける点にある。また、この権力は、規律・訓練される/する各個人にとって、必ずしも不利益になるものではなく、むしろ利益を増進するものである。学校教育に象徴的なように、規律・訓練された主体でなければ近代社会の中で生きていくことは難しいし、規律・訓練されていない主体ばかりでは近代社会は立ち行かない。その意味で、こうした権力は我々を「生かす」権力、我々の役に立つ権力である。


フーコー的権力観の失効?



ところで、近年では、パノプティコンの例を用いた規律訓練型権力の存在様式としては説明しがたい事態が出現していることが、盛んに議論されている。

例えば鈴木謙介は、一方的な可視性によって被監視者が不可避的に自律するように仕向けるフーコー的権力観によって監視カメラを捉えるとすれば、監視カメラが被監視者から見える位置にあることが重要であり、場合によっては「カメラのような形をしたものが天井からぶら下がっていさえすればいいはずである」が、「カメラが一見それとわからないような形状になったり、センサーや無線などを用いた「見えない」ものになっていく」傾向が見られる現状はそうした説明から逸脱するものである、と指摘している*1。確かに、ここには事態の変化がある。

そうした変化は、監視の目的が変化したことによる。新たに現れてきた「見えない監視」は、従来の監視のように被監視者の自己規律を目的としてはいない。新たな監視は、被監視者の行動を記録したり、情報を収集したり、資格を認証したりするために用いられる。そこでは被監視者を規律することよりも、その情報を記録して管理することが目的とされている。被監視者の内面よりも、データが重要なのだ。そして、今や監視と管理の技術は民間領域へと拡散している(「監視国家」から「監視社会」へ)。現代社会においては監視は遍在しており、決して国家の独占物ではない。

例えば、子どもの安全のために電子タグが利用され、交通の利便のためにsuicaやETCが用いられ、通信の利便のために携帯電話が使われる。suicaや携帯電話にクレジットカードを連動させて買い物をすることもできる。我々は、こうした安全や利便のために自らの位置情報や行動記録、消費記録を提供する。それは、市場メカニズムの中で、我々が消費者としての自由選択によって、監視され、管理されることを自発的に望むことを意味している。つまりそれはビッグ・ブラザーによる監視などではなく、いわば多数のリトル・ブラザーによる多元的管理である。我々は、自らの個人情報のデータベースがあらゆるところに存在することで、その場に応じた個人認証が可能になり、その場に応じたサービスを享受できるのである。

重要なことは、こうした管理社会が、人々の自己決定によって成立していることである。確かに、依然として国家による監視の問題は存在する。そして、国家=ビッグ・ブラザーによる監視と民間=リトル・ブラザーによる管理が結び付く危険も存在する*2。だが、その場合にも、監視と管理は、魅力的なサービスのために必要な対価としての個人情報の提供に基づいて行われるだろう。それは基本的には、あくまでも我々の自由を拡大し、多様な選択肢を可能にするために、我々自身の選択によって行われる。

それゆえ、この監視と管理は確かに権力ではあるが、人々の欲望に応じて、それを実現するために作動している。では、このように権力が人々の欲望を実現するために働くのであれば、そもそもそれにに抵抗する必要があるのだろうか。そこで失われているものは何なのだろうか。これは難しい課題である。抵抗の必要などない、という回答も十分有り得るだろう。抵抗するべきだと考える場合にも、なぜ、何に対して、どのように、抵抗すべきなのかについての答えは容易には見つからない。それゆえ、今回は棚上げにしておこう*3


パノプティコンの第二の意味



我々がここで第一に確認しておくべきことは、現代型の管理社会においては確かに、パノプティコンを象徴とした権力図式が当てはまらない場面が多くなってきているということである。だが、実は、パノプティコンの象徴に見るべき重要な特徴は、一般的に強調されるような一方的な可視性による自己規律化だけにあるわけではない。パノプティコンには、「側面での不可視性」という第二の重大な特徴を見出すことができる。

それは、囚人たちが独房に収容されている点に示される。パノプティコンにおいて、各囚人は一人の人間として一個の部屋を与えられる権利を承認されている一方で、隣接する囚人と相互に交流や情報交換することを決して許されず、完全に孤立している。隣に収容されている囚人と深く知り合うこともできない以上、囚人が頼ることができるのは監視者以外に存在せず、彼は監視者への依存を深めていかざるを得ない。パノプティコンは、囚人に監視者との二者関係を迫ることによって、囚人が不可避的に監視者への依存を深めていくような構造を有しているのである。

この点は、特に現代において、きわめて示唆に富む。それは、価値の多元化が著しく進んだ現代社会では、人々に共通の価値を見出しにくいために社会の統合感が弱まり、不安が喚起されることで、 個人の公権力への依存が強まりやすいからである。


自由な社会における国家への依存



高度消費社会では、人々はそれぞれ異なる商品を異なるスタイルで消費する。第三次産業が盛んな都市社会においては、労働時間は一律ではない。発達した交通機関のために、居住/生活/労働の空間はそれぞれ異なっていることが多い。国際化によって外国人住民が絶えず流入してくる。結果として、ライフスタイルは多様化し、近隣住民同士の接触機会は減少する。匿名性が高く、相互に無干渉であるだけでなく無関心であることが多い。

こうしたライフスタイルの多様化は、家族や地域の結合力を弱め、流動性を高める。他方で、企業においても雇用の流動性が高まり、帰属意識は弱まっていく。総じて個人の「集団離れ」が進み、国家に対峙する存在としての「社会」における中間集団は、弱体化して統合力を失っていく。他方で、情報技術の発達が価値を共有する者との接触を容易にしており、個人は生活の大部分を同質的な仲間とだけ接触して暮らすことが可能になる(「島宇宙化」)。

すると人々は、価値を同じくする者同士、親しく接する者同士ではない相手は、得体の知れない人物であると感じ、容易に信用しないようになる。そうした社会では、現実の治安状況とは無関係に、側面での不可視性ゆえの不安が増大し、セキュリティ意識が上昇する。その結果、様々な場面で国家権力に依存するような状況が出現するようになる。


パノプティコンとしての現代日本



実際、1990年代末以降の日本では、体感治安が悪化していくのと並行して、従来国家権力が踏み込まなかった私的領域への国家的介入が進んだ。それは例えば、ストーカー、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、高齢者虐待、動物虐待などに関わる。浜井浩一によれば、近年の治安悪化論の根拠とされている犯罪認知件数の増加および検挙率の低下は、1999年の桶川ストーカー事件を契機とする警察の方針転換を反映したものである *4。警察の不手際や消極姿勢への批判に応える形で、2000年以降、警察は被害届の積極的受理や、事件通報およびトラブル相談への積極的対応の方針を打ち出し、さらに市民に対して被害やトラブルの相談を警察に持ち込むよう積極的に働きかけるようになった。その結果、認知件数が増加しただけでなく、従来は介入を控えていたレベルのトラブルにも対応せざるを得なくなったために負担が増大し、検挙率の低下に繋がったとされる。

こうした転換は、民事への介入をできるだけ制限するために事後対応を中心とする司法警察から、事前の予防を目的として国民生活への積極介入を旨とする行政警察への転換と見做すこともできる。それ自体、極めて重大な転換ではあるが、それよりも注目に値することは、こうした転換が国民によって要請されたものであるという事実である。その背景には、「社会」における紛争解決能力が衰弱したことと、個人の権利意識が強くなったこと、二つの要因の重なりが存在している。

「社会」の紛争解決能力の衰弱は、個人の「集団離れ」によるものである。ただ、従来は家族、地域、労働組合、企業といった中間集団が一定の紛争解決能力を有していたことが事実であるとしても、その「解決」の内実が権威的調停による和解や揉み消し、黙殺であった場合が少なくなかったであろうことは、想像に難くない。その点を加味するならば、そうした「社会」による権利侵害からの解放という面も含めて、個人の権利意識の強化を重く見るべきだろう。

例えば、人権保護法案や個人情報保護法といったイシューが個人の権利保護を名目として現れ*5、それに対して多くの人々が積極的に反対しないのは、マスコミを含む「社会」内における権利侵害や差別から個人を守るためには、国家権力に頼る必要がある、という認識が少なからず共有されているからであろう*6。家族や地域が流動性を増している現代においては、「社会」=「側面」の得体の知れない人々を頼るよりも、個人としての権利に基づいて国家の権力を頼った方が、より確実で安心できるのである*7。そして、権利の尊重と個人主義を基調とする限り、そうした意識に対しては、容易に逆らいがたいものがある*8

結局、リバタリアン(あるいはポストモダニスト)が望むような多様な価値の自由な追求は、自由=多様であるがゆえの不安からセキュリティへの欲望を呼び起こし、強い国家権力への個人の依存を避けがたくする*9。それはリバタリアンが直面せざるを得ない内在的な困難である。ロバート・ノージックは、「全員が住むべき最善の社会が一つある」という考えを否定して、各人が「自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとする」ことを可能にするために、複数のユートピアの「枠」である「メタ・ユートピア」として最小国家を構想した*10。そうしたメタ・ユートピアは非常に魅力的であるが、その基盤を維持するためには結局、安全保障政策や治安政策を担う強力な国家が必要となる。それはとても単純でつまらない結論であるが、否定しがたい結論である。


治安共同体の病理



また、価値の多様化や、それに伴う家族や地域の流動化は、保守的ノスタルジーを喚起して、地域の連帯感や、何らかの共通価値(道徳、文化、伝統、ナショナリズム)への欲求を拡大する側面も持つ*11

例えば、日本では最近、「子どもの安全」をテコにして地域防犯活動が活発化して様々な取り組みが行われている*12。それは地域社会の自主的取り組みであり*13、その活況を見る限り、時計の針を戻したような地域コミュニティの再生が実現しつつあるようにも思える。だが、現実には、そうした活動の基礎に一貫して不安と不信が横たわっているため、通学路に立って子どもの安全を守る防犯ボランティアの人々といえども、普段着で道を歩けば一転、不審者扱いされかねない。そうした「治安共同体」では、向こうからやって来る人物が子どもの頭を撫でようとしているのか、子どもの胸をナイフで突き刺そうとしているのか分からない、という不安におびえなければならない*14。自由な社会ゆえの根拠なき不安に基づく体感治安は、いつまでも好転しないのである。

地域の自発的な防犯取り組みは、目に付きやすい社会の異端者を、不審者として見とがめやすい*15。そして、そうした「不審者」の多くが、失業者、ホームレス、障害者、外国人である。こうした社会的弱者が大量に刑務所に送られることによって、現在、刑務所は過剰収容に陥っている。彼らの多くは刑務所での労務もおぼつかないため、社会に出ても働くことは難しい。もちろん、不審者を一掃しようとする地域に居場所はない。結局、彼らの多くが、最後のセーフティネットとしての刑務所で生涯の大部分を送ることになる。ここに至っては、パノプティコンはもはや比喩ではない。彼らは現実の牢獄に、深く依存せざるを得ない*16


新自由主義の栄華かリベラリズムの完成か



ここまで治安の問題を中心に述べてきたが、他の面でも同じである。経済的な問題について見ても、個人の国家への依存は進むだろう。たとえ「小さな政府」となって福祉が削られたとしても、企業や家族、地域に頼れない人々は、公的福祉を頼るしかない。個人が「集団離れ」によって「社会」からの自由を手に入れたということは、一人では立ち行かなくなった時に「社会」に頼ることはできないということである。最後に残るのは、どんなに冷たくとも、それが刑務所という形であっても、国家しかない。

まとめよう。パノプティコンの第一の特徴である一方的な可視性による自己規律に注目するならば、確かに権力図式の描写にパノプティコンを用いることが有効である場面は、より限られてきている。だが、第二の特徴としての側面での不可視性による監視者への依存に注目するならば、権力図式の描写にパノプティコンを用いることには未だ現代的意味があると考えることができる。現代社会では、個人の権利は丁重に保護されるし、多様な価値の自由な追求が認められる。だが、個人はそうした自由な選択のためにリトル・ブラザー達による多元的な管理の下にあり、そうした多元的管理とビッグ・ブラザーによる一元的管理が結び付く危険性もある。また、自由=多様な社会であることゆえの不安からセキュリティ意識が肥大化し、様々な場面で個人の側から国家権力による積極的な介入や出動を要請するような事態が生じやすくなっている(あるいは共通価値を復権させようとする動きが生じやすくなる)。それは流動性の増大によって、もはや家族・地域・企業といった中間集団をはじめとする「社会」には個人を保護する受け皿としての役割を担うことが難しいからであり、個人が「社会」内部の様々な拘束からの自由を欲したためでもある。個人は、自らの欲望を実現してくれるリトル・ブラザー達に依存する一方で、そうした欲望充足を可能にする自由と権利を保護してくれる国家への依存を強めていくのである。

こうした事態は、リバタリアニズムが欲望したメタ・ユートピアの屈折した形での実現であると言うこともできるかもしれないし、経済的自由を徹底しようとする立場と保守的価値観を重視する立場との結託を重視するならば、リバタリアニズムと言うよりも新自由主義や新保守主義という言葉を用いた方がいいかもしれない。しかし、私はこの事態はある意味で(old/new)リベラリズムが追求してきた価値がかなりの程度で実現した事態、リベラリズムの完成とすら呼ぶべき事態なのかもしれないと考えている。その意味について立ち入って述べることはここではしない。ただ、繰り返すように、我々はまず、何に対して、いかなる理由で、いかなる方法によって抵抗するのかを問い直さねばなるまい。

最後に、二点ほど書き付けておく。一点目は、民間のリトル・ブラザー達による多元的管理とビッグ・ブラザーによる国家的管理が密接に結び付いた時、些細な法の踏み外しも許容しない「法の完全実行」が実現する可能性があるということ*17。それは望ましいだろうか。二点目は、セキュリティそのものが消費されるべき欲望の対象となってしまえば、それは選択の自由の問題であり、止めることは難しいということ。そこでは現実の治安状況がどうあれ、もはや問題にはならないであろう。



*1:鈴木謙介[2005]『カーニヴァル化する社会』講談社:講談社現代新書、70頁。

*2:例えば、住基カードが民間のサービスを受けるために必要なIDになるなど。その情報がNシステムと結び付くかもしれない。こうした様々な形での監視・管理の可能性や、そうした権力の性質についての詳細な議論は、東浩紀『情報自由論』を参照。

*3:この問題も含む興味深い考察を数多く行っているものとして、東浩紀・大澤真幸[2003]『自由を考える』NHK出版:NHKブックス、を参照。

*4:以下、浜井浩一・芹沢一也[2007]『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』光文社:光文社新書、第1章に拠る。

*5:「自己の情報をコントロールする権利」なるものの主張は、その権利の保護主体としての国家権力の強化を要請せざるを得ない。

*6:犯罪被害者保護の運動をこの文脈で捉えることもできる。

*7:こうした事態の背景に、リベラリズムは親密圏における問題に鈍感である、というフェミニズムによる批判のインパクトを読み込むこともできるかもしれない。ここには公私の分離やその境界の決定、すなわち国家が関わるべき範囲の是非という問題が横たわっているが、これ以上踏み込まない。

*8:個人の権利をよりきめ細かく保護しようとすると国家権力が肥大化しかねないというジレンマは従来の自由主義=立憲主義の土台に関わるものであり、こうしたジレンマゆえに、憲法に「国民の責務」を書き込むべきであるというようなロジックが入り込む隙間が出てくるのかもしれない。

*9:そもそも、多様な価値を尊重する社会を維持するためには、そうした多文化主義/文化多元主義の基盤を破壊するような者の排除、つまり最低限のセキュリティが不可欠なのである。

*10:ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社、504‐506頁。

*11:そうした欲求に基づく保守的運動は、流動化に疲弊する人々を惹き付けて統合することで社会秩序を維持しようとするため、一層の流動化をもたらす新自由主義的立場と対立するようでありながら、共犯関係にあるようでもある。

*12:こうした活動を「日本の治安が悪化していることは間違いないと思います」「日本でもコミュニティの「社会的連帯感」が強いときは治安がよかったのです」といった誤った認識に基づいて称揚している最近の恥ずべき例として、菊池理夫[2007]『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』講談社:講談社現代新書、159‐162頁。

*13:あるいは、それは地域の治安対策を部分的に民間に委託しながら進められる、新たな行政警察の形かもしれない。

*14:以上、浜井・芹沢前掲書、第3章に拠る。

*15:以下、浜井・芹沢前掲書、第4章に拠る。

*16:日本の刑務所の現状についての興味深い報告として、浜井浩一[2006]『刑務所の風景―社会を見つめる刑務所モノグラフ』日本評論社、を参照。



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