Saturday, May 12, 2007

比較不能性など存在しない


長谷部恭男は、ある人が何かを「かけがえのない」ものと見做す時、その「かけがえのない」ものは、他のものと比較不能になると言う。「かけがえのなさ」はふつう、代替不能性を意味する。そして、比較不能であるとは、二つの物事について、「いずれかが他方よりもよいというわけではなく、かつ両方の価値が等しいわけでもない」場合を意味するとされる。その上で、長谷部は次のように述べる。


 つまり、かけがえのない、他の何ものとも比べられない友情を手に入れるためには、ある友情関係を、そのようなものとみなすことが必要条件となる。百万円では友人を裏切れないが、一億円なら裏切るという人は、その友情をかけがえのないものとは考えていない。百万円では安すぎるというだけである。また、なぜ友情がかけがえがないのか、なぜ他のもの、たとえば金と比較してそれほど重要なのか、と問う人は、そもそもかけがえのない友情を手に入れることのできない人である。友情を比較不能だとみなす人にとって、友情と他のものとを比較衡量する客観的な物差しは存在しない。そのような物差しの存在を否定することが、かけがえのない友情を取り結ぶ能力を構成する。


(長谷部恭男「比べようのないもの」『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、2000年、31‐32頁)


しかし、いくら金を積まれても友情は裏切れないと考えているからといって、その人にとって友情が比較不能であるという証明になるだろうか。その人は、何らかの物差しに基づく比較によって、友情を優位に置いているだけかもしれない。そして、恋人とか自分の生命などといったもののためには、友情を裏切ることを厭わないかもしれない。

たとえば、百万円あっても愛する恋人の命を救えないが、一億円あれば救える時に、一億円で友人を裏切ることを選んだ人は、その友情をかけがえのないものとは考えていなかったのであろうか。そうではなかったと仮定しよう。この人にとって、友人も恋人も、かけがえのない(代替不能な)存在であった。しかし、この人は恋人を選んだ。なぜだろうか。それは、少なくともこの人にとって、友情を裏切ってでも恋人を救うことが何らかの意味で「よい」ことだと思えたからだろう。すると、この人は少なくとも何らかの主観的な物差しによって、かけがえのないもの同士を比較した上で決定を下したことになる。

これでは長谷部の議論は成り立たなくなる。一体、何が問題だったのだろう。それは、長谷部が代替不能性と比較不能性を混同していることである。かけがえのないものは、比較不能であるように思える。けれども、私たちは実際、かけがえのないもの同士の間で選択を迫られることが多いし、選択の際には何らかの形で比較をしている。そうである以上、代替不能性は比較不能性とは異なる。友人と恋人を比較して、いずれかを選んだということは、他方をかけがえのないものであるとは考えていない、ということを意味しないのである(逆に言えば、何かを代替不能であると見做すことは、それが他のものと比較不能になることを意味しない)。

さらに言うならば、私たちは常に様々な制約の中で無数の選択を行っていかねばならず、その際には何らかの基準を設けて比較を試みているはずである。そして、比較の対象には、代替不能なものも含まれる。つまり、私たちにとって、比較不能性など存在しない。存在するのは、代替不能性だけである。




比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論


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