Saturday, June 2, 2007

所有論ノート(2)―私的所有権と自己所有権


ロック労働混入説の解釈



 たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少なくともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである。(ロック[1968:32-33])


ジョン・ロックによる私的所有権正当化の議論は現在でも頻繁に参照されているが、彼の議論の解釈は一様でない*1。上に引用した最も有名な一節は、自己の所有たる身体による労働の「混入」が対象についての所有権を発生させると述べているように見えるが、解釈者の主張は一致しない。解釈には幾つかパターンがあるが、大きく分ければ、「労働の混入」という表現を文字通りに受け取る解釈と、それを比喩として受け取る解釈の二つがある。

労働混入説を文字通りに真に受けた場合、困難は山積みになる。まず自己の労働を所有物と見做すことが可能であるかが問題になるが、これを問わないとしても、労働が財に「混入する」と考えることの難しさに、どうしてもつまずかざるを得ない*2。また、仮に「労働の混入」が成り立ち得るとしても、労働を混ぜ合わせたからといって、それが財への所有権が発生する理由になると考えなければならない理由は全くない。自己の所有物を無主物と混ぜ合わせることは、むしろ自己の所有物を失う理由になってもよいはずである。ロバート・ノージックが挙げている例を借りれば、自己の所有であるトマトジュースを海に注いだ場合、彼は海を所有するに至るのか、それとも単にジュースを失った愚か者なのだろうか(ノージック[1995:293-294])。労働混入説自体からは、この答えは出て来ない。

それゆえ、「労働の混入」という表現は比喩に過ぎないと解する者が多い*3。この場合、ロックの意図は、価値の創造などの功績が財への所有権を発生させる、というところにあったのだと理解されることになる。ノージックも、「トマトジュース問題」を挙げた後でこちらの解釈の可能性を検討している。ロックの所有論を価値創造ないし功績からの議論と解することは、おそらく一般的な説得力が最も大きいと思われるが、後述するように無視できない困難がある。

しかし、それよりも私が問題だと思うのは、「労働の混入」という表現を単なる比喩だと切り捨ててしまうならば、同時に自己所有権の議論も切り捨てて構わないことになってしまう点である。ある物を発見したとか採集したなどの功績や、その過程に費やされた時間や手間、その他の資源などの負担、あるいは労働によって対象に付加された価値などを理由として財への所有権を認めるのならば、別に自己所有権の前提など必要ない。しかし、ロックは所有権を主題とする第五章の三節目という冒頭で、私的所有権の第一の論拠の前提として自己所有権について述べているのだから、普通に考えれば、これは解釈上切り捨ててよいことではない。したがって、私はロックの労働混入説を割合正面から受け取るべきであり、比喩として切り捨てるべきではないと考えている*4

とはいえ、別に一つの解釈だけを採る必要はない。後述するようにロックは帰結主義的理由も挙げているし、彼の私的所有権正当化論は、多元的な論拠に基づいていたと考えるべきだろう(森村[1997:77])。

そこで、功績ないし価値創造からの私的所有権正当化の議論が抱える問題について整理しておこう。まず確認しておくべきことは、功績は価値創造に還元されないということである(それゆえ私は先程から両者を区別している)。ロックは所有権が発生する労働の例として、果実の採集なども挙げているが、リンゴを木からもぎ取ったからといって、リンゴに何か価値が付加されるわけではない。それゆえ、所有権発生の根拠とされる功績は、価値創造に限られない*5。「リンゴを木からもぎ取ることは、リンゴをより利用しやすくすることでリンゴの価値を高める」などと言うことは確かに可能ではあるが(森村[1997:67])、そうした一般的でない言い方をしてまで功績を価値創造に一元化する必要はないだろう。

価値創造からの議論に限って言うと、まず発生する所有権が生み出された価値増加分に限られず、対象全体に拡大されるのは何故なのか(ノージック[1995:294])。また、最初の価値創造者だけが排他的な所有権を有し、同じ財に後から価値を付け加えた者が所有権を獲得しないのは何故なのか*6。こうした疑問は、価値創造からの議論そのものによって解決することはできない。

多元的解釈の立場からすれば、ここで労働混入説からの説明を試みるべきかもしれない。労働混入説を、労働の混入によって自己の所有たる身体=人格(person)の範囲が対象まで拡張される(財が自己の一部となる)、という考え方であると解するなら(森村[1997:86]、森村[1995:128])、一度労働を投下した時点で本人と対象が一体化するという理由によって、最初の労働投下者が対象全体への排他的な権利を有することを説明できるようにも思える*7。とはいえ、この場合にも、後から労働を投下した者、ないし価値を付加した者の人格は何故財まで拡張されないのか、複数の人間が同じ財に一体化することは何故できないのか、という疑問が完全に解消されるわけではないから、労働混入説改め人格拡張説を持ち出すことが「後続者問題」を解決するに十分であるとは言えそうにない。


私的所有権の正当化根拠と設定目的



「後続者問題」については後でもう一度触れるとして、改めて労働混入説=人格拡張説について少し述べておきたい。「労働の混入」を比喩だと考える森村進は、この論拠はロックにとって副次的なものであったとする(森村[1997:129])。しかし私は、普通人が一番最初に挙げる論拠は副次的ではないと思うから、先にも述べたようにこの解釈には反対である。私はむしろ、ロックにとって労働混入説=人格拡張説が中心的論拠であり、価値創造からの議論や、私的所有権を認めた方が生産が増大するといった帰結主義的理由の方が副次的であったと思う。

それはともかく、労働混入説=人格拡張説を私的所有権正当化の論拠とするならば、一つ疑問が湧く。それは、例えば森で木の実を発見した者がその木の実の所有権を手に入れるのだとすれば、同じようにして夜空に輝く星の中から誰も知らない星を新発見した者は、その星の所有権を手に入れることになるのだろうか。発見者の身体=人格は、夜空の星まで拡張され得るのか*8。答えは否定的である。森村によれば、所有権は財に関する人々の間の規範的関係であり、そこで重要なのは財が人間にとって利用可能か否かであるから、夜空の星のように人間の手が届かないものは、所有権の議論において最初から存在しないのだという(森村[1997:66])。

しかし、その利用可能性とは何であるのか。おそらくは占有可能性であろう。トマトジュースの例を思い出して考えてみれば、ロックも森村も海への所有権が発生するとは言わないだろうが、混ぜた相手が通りの水たまりであったならば、その液体への所有権を認めてくれそうである。違いは結局取り出せるか否か、占有の対象になり得るか否かなのではないか。そしてこの前提は、言うまでもなく労働混入説=人格拡張説からは出て来ない。それは要するに、夜空の星のような手の届かないものに所有権を認めるのは無意味ないし有害であるという、言うなれば所有権が設定されるそもそもの事情ないし目的から出て来る前提である。それでは、この所有権設定の事情ないし目的とは何かと言えば、それは結局社会一般の利益への考慮といったものに還元されるほかない。

この事情ないし目的は、ロックにおける私的所有権正当化の第三の論拠たる帰結主義的理由と接合されていく。帰結主義的理由には、ロックが挙げている生産増加の他に、財の私有化によって資源利用がもたらす負の外部性が内部化されて財の有効利用に繋がるといった理由なども含まれるが(森村[1995:141])、それは要するに社会一般の全体的・集合的な利益や効率の面で私的所有権を設定することが望ましいという手段的理由である。

多少大雑把な言い方になるが、現実的な所有権秩序に照らして人格拡張や価値創造からは説明できないような不都合の是正は、全てこの帰結主義的理由、ないし社会一般の利益という観点から行われていると見てよい。「夜空の星問題」は、それが所有権設定の目的からして無意味だという理由で解消される。「後続者問題」に臨んで重層的・流動的な所有権設定を否定する論拠になるのも、社会一般の利益のために安定的な所有権秩序を求める観点である*9。労働混入=人格拡張説からは説明できない、不効率な仕方での労働投入による所有権発生の否定を説明できるのも、この観点である。

このように考えられる以上、価値創造・功績からの議論や、労働混入・人格拡張からの議論に、私的所有権正当化の論拠としてある程度の地位を認めてよいとしても(別に認める必然性も無いのだが)、最も一般的かつ基底的な論拠としては社会一般の利益のような帰結主義的理由に拠るべきことは明らかである。そして、そうであるならば、政治的合意が得られる範囲で積極的な再分配を行うために所有権を制限・侵害することには大した障害はない*10。少なくとも、それはリバタリアンが考えるほどには強い制約ではない。


自己所有権論の無理



さて、併せて自己所有権についても述べておこう。森村はロックにならって自己所有権を私的所有権正当化の前提に据え、自己所有権テーゼとしてこれを強く主張している(森村[1995]、森村[2006])。森村によれば、私たちは「各人は等しく独立に自分の身体や生命や自由への権利を持つ」という自己所有権テーゼを既に受け入れている(森村[1995:19])。私たちが、複数の人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にして臓器を分配する「生存のくじ」のような制度に反対するのは、自己所有権テーゼへの支持を証明していると言うのである*11。「たとえXが心臓を患って、心臓移植なしでは死んでしまうとしても、Xは他人に心臓の移植を要求する権利はないし、強制的な心臓移植が正当化されるわけでもない。なぜなら各人は自分の身体への権利をもっており、他人はそれを侵害してはならないからである」(森村[1995:31])。

そしてまた、個人の自律とか自由といった価値も、自己所有権を前提としているのだと森村は言う。なぜなら、「もし自己所有権が前提されていなかったら、各人のもつ自由の範囲が自分の身体に限定される理由はない」から、その自由は他人の身体をも部分的に支配することになってしまう。それが避けられるのは、「各人のもつ自由の対象は自分の身体であって他人の身体ではないという自己所有権テーゼ」が当然視されているからなのである、と(森村[1995:34-36])。

率直に言って、強弁だなという気がする。また、私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が解らない。まず、人間は自己の身体を事実占有し、支配しているから、そのことを主たる原因として「この身体は私のものである」という感覚が生じるということは解る(森村[1995:40-41])。そしてまた、「私は身体である」と言えるからといって、「私は身体を所有する」と言えなくなるわけではないという主張にも賛同しておこう(森村[2006:19])。しかしながら、人は自分の身体を自分の所有物だと考えることもあるかもしれないが、それよりも(自分そのものである)自らの身体は自分にとって決定的に重要なかけがえのないものであり、自分の支配が及ばなければ困るものだという感覚の方が、より根本的・基底的であろう。その「困る」という感覚は、「私のもの」などという手段的な物言いよりも、ずっと決定的な水準に存在している。

「私の身体は私の所有物である」という言説では、「困る」感覚の原因である「私の身体は私そのものである」という事実を含意できないし、「私の身体に関わる事態は私にとって決定的に重要である」という根本的な水準の議論に触れられない。あるいはこう言ってもいいかもしれない。自己所有権テーゼは「私の身体は私のものだ」という物言いを「私の身体は私の所有物だ」という限定的な意味に切り縮めてしまい、この物言いを本来裏打ちしている「私の身体は私にとって決定的に重大なかけがえのないものだ」という感覚を拭い去る、と。

「生存のくじ」に反対する人々は、それでは「困る」という感覚に基づいて反対をしているのであって、必ずしも自己所有権テーゼなるものを受け入れているわけではない。各人にとって決定的に重大なものが脅かされるという感覚に基づく反対を以て、特定のテーゼへの支持の証明と理解するのは、不当な読み替えであろう。

個人が有している生命に関わる権利や基本的な諸自由、重要な事柄についての自己決定権などは、それらがお互いにとって決定的に重要であるという明示的・黙示的な合意によって成立し得るから、別に自己所有権テーゼを前提とする必要などない。Xの自由や権利が通常Yの身体や自由を拘束することに結び付かないのは、Yの身体に関することはXにとって相対的に低い重要性しか持たない一方、Yにとっては決定的に重要であると考えられているからであり、排他的な自己所有権が前提とされているからではない。要するに各人にとっての決定的重要性の程度によって調整されているのであるから、そこに自己所有権テーゼが入る余地は最初からない。

また、人は時に他者の身体に関わることでも自己にとっての決定的な重要性を感ずる時があるから、決定的重要性の感覚を排他性が強い自己所有権テーゼによって置き換えることは、本来の目的に適わずにかえって有害になり得る。この身体を実効支配し、この身体についての最大の利害を負っている私には、この身体に対する最大の権利が認められてしかるべきであるが、私の身体に利害を負う人は私以外にも有り得るのだから、この身体は私の所有物であると最初に言ってしまうことは好ましくない。ひとまず最初には、この身体の所有権など私を含めた誰にもない、と言っておくべきだろう。

さて、森村は自己所有権テーゼを前提として、そこから価値創造と自由の拡張という二つの論拠を中心に私的所有権を正当化しようとする(森村[1995])*12。しかし既に述べたように、価値創造からの議論をするならば自己所有権を前提にする必要などない。森村が「自由からの議論」と呼ぶ、所有者の自由の延長として所有権を正当化する議論が私にはよく理解できないし、それが労働混入=人格拡張説とどこまで異なるのかも解りにくいが、こちらの議論も自己所有権を前提とする必要はあまり感じられない*13。つまり、私的所有権を正当化する上でも、自己所有権テーゼを主張する意味など大して無いのではないか。

このような次第で、結局私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が了解しにくい。それは森村その他の個人的趣味だよ、と言われればそうなのだろうと頷く。実際、森村は自己所有権とは自己決定権とか個人の自律・自由といったものに言い換えてよいなどと言っている。その言い換えは成り立つのかもしれないが、上に述べた理由で反対の言い換えは為すべきでない。結論として、自己所有権テーゼは有害無益な主張である、ということに落ち着く。


<引用文献>

・ロック[1968]『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店(岩波文庫)

・イェーリング[1982]『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波書店(岩波文庫)

・ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳、木鐸社

・森村進[1995]『財産権の理論』弘文堂

・森村進[1997]『ロック所有論の再生』有斐閣

・森村進[2006]「自己所有権論の擁護」『一橋法学』第5巻第2号



*1:この記事ではロックのいわゆる「十分性の制約」や「腐敗の制約」などについては述べないことにする。理由は、それが煩瑣である割には重要に思われないからである。

*2:ただし、後述のように人格拡張説として理解する余地はある。

*3:森村[1997]第二章によれば、S.バックルやG.スリーニヴァザンなどがこの立場を採るようである。また、後述のように森村自身もこの立場に属する。

*4:この点で私はM.ブロッカーに賛成である。森村[1997:86]

*5:なお、私の「功績」という言葉の用法は、森村[1995]および森村[1997]における「労働の辛苦への報酬」を意味する用法とは異なる。

*6:ただし、同じことは功績についても言えそうである。例えば、リンゴを採集してきた者がそれを理由としてリンゴの所有権を獲得するなら、そのリンゴの皮を剥き、小さく切って食べやすくした者がそれを理由として同時に所有権を獲得してもよさそうなものである。

*7:なお、所有物に所有者の人格が拡張されているという考え方は、イェーリング[1982:71-72]にも見られる。

*8:これは、ノージック[1995:293]で指摘されている労働が混入される対象範囲の未確定性の問題にやや近い。ノージックはそこで、火星のある地点を整地した宇宙飛行士が所有するに至るのは、その地点のみか、火星全体か、宇宙全体か、という例を挙げている。

*9:これによって民法上の「一物一権主義」が貫かれることになる。

*10:もっとも、帰結主義的理由によって所有権の無際限な侵害が許されるのであれば、それは権利とは呼べないから、所有権には一応の切り札性が認められるべきではある。ただし、その理由は他の権利と同様、個人の自律のために不可欠であるといった理由で十分であり、所有権に特異な理由(価値創造や人格拡張など)を持ち出す必要はない。

*11:「生存のくじ」について以下を参照。http://www.arsvi.com/0e/l03.htm

*12:森村は価値を創造した者が対象物を獲得する権利を有するのは当然であり、これは人間にとって「それ以上正当化を必要としないような根本的な直観の一つである」と述べている(森村[1995:47])。だが、それは単に功績や負担を理由とした正当化の一つの型であり、他の理由(例えば必要)と比べてすぐれて根本的であるわけではない。私が釣った魚が私のものであると感じられるのは、「私が釣ったから」というそれ以上遡れない理由(直観)によるのではなく、少なくとも私が魚を釣るために費やした費用・時間・手間その他の負担と、実際に釣り上げたという功績を理由として考慮するならば、こうした理由を持たない人よりは私が魚を得る理由を有しているだろう、といった議論が可能である(それを正当であると認めるか否かはまた別の問題である)。そして、魚を釣り上げた私の横に餓死寸前の人がはいつくばっていた場合、私の功績と彼の必要と、いずれが正当な所有権の理由になるのかは自明ではない。

*13:そもそも労働混入=人格拡張説も自己所有権の議論を前提とする必要は無かったような気もする。「いや、ある」という説得的な主張を知っている方には教えて欲しい。


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