Friday, August 31, 2007

イデア論的現実批判と抑圧の移譲構造


デリダが間違えたのは、不完全なものが知られるためには完全なものが想定されていなければならない、と考えたことだ。これは、完全無欠の理想たるイデアを虚偽と迷妄に満ちた現実に対比させたプラトンの思想に連なる考え方である。もっとも、老子や孔子も同じように、太古の昔に理想的な秩序が存在したのだという根拠不明・証明不能な想定に基づいて現実を批判していたから、こうした考え方は、とても普遍的なものだ。私は、「神と正義について」で*1、こうした考え方を否定した。概略、次のようにである。


実在するかどうか分からず、実在する可能性を証明できないような究極的な理想(神=正義)を想定した上で、それを批判の準拠点に措定し、理想との対比において、堕落した・蒙昧な・虚偽の・不道徳の・不正義の・不完全な現実を批判するという形式が、普遍的に採用されている。しかしながら、究極的に「正しい」真理・善・正義・神・世界・社会などがどこかに存在すると想定すると仮定したとしても、そうした究極的な理想の姿を描き、解釈し、それと現実との距離を測るのは、主観的であり不完全である特定の誰かでしか有り得ない。哲学、倫理学、社会理論、その他、いかなる装いを採ろうとも、これは結局、宗教が体現する形式に等しい。つまり、社会的な現実から遠く離れたどこかに究極的な理想を設定し、理想との距離に基づいて現実を批判するという手法は、客観的であり普遍的であるはずの究極的理想が、特定の誰かの恣意によって横領され、不完全な主観的理想へとすり替えられる危険を、常に有しているのである、と。


さて、こうした手法への批判を、もう少し卑近な問題に即して構成するとどうなるのだろう。かつて丸山眞男は、戦前戦中の「超国家主義」日本を分析する過程で、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という構造を見出した。それは、全ての価値と規範の体系が、最高価値たる天皇からの相対的距離を規準として成立している社会体制であり、そこでは、最高価値に「相対的に近い」上の者から下の者へと抑圧が譲渡されていくようになっている。抑圧した者は上からの抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない。そして、帰責対象の上昇経路を辿れば天皇がその終着点であるかと思えば、天皇でさえも皇統というより上位の伝統に連なっているに過ぎず、究極の最高価値の地位は抽象的・観念的な伝統によって占められるために、責任は最終的に霧消されてしまうしかない。丸山は、こうした抑圧の移譲構造こそ、近代的主体の存在しない日本社会の病理だと診断したのである。

この構造が、日本の特徴であって他では見出しにくいのかどうか、私には解らない。しかしともかく、単純に抑圧の移譲構造とそれによる無責任体制という部分だけに着目するなら、これは今でも普遍的に見受けられる。かつて姑にいびられた嫁は、自分が姑になったら嫁をいびるようになる。かつて上級生にしごかれた下級生は、自分が上級生になったら下級生をしごくようになる。それは、(丸山自身も経験したところの)入隊の早い者が遅い者をしごき、いびるという軍隊の姿と同じではないか。そこには、自分たちも上の世代からしごかれ、いびられ、さげすまれ、それによって鍛えられてきたのであるから、下の世代もそうした経験を持つべきであり、この「抑圧」は愛情の現れなのだし、彼らも時が経てば私たちに感謝するようになるさ、という「抑圧→成長→統合」物語が介在している、かどうかは知らない。だが、こうした若者批判論などにも見受けられる抑圧の移譲構造は、宗教に似ている。

そもそも丸山が分析した大日本帝国自体、宗教国家であった。価値の高低がそこからの相対的距離で測られる規準であるところの最高価値が、突き詰めれば皇統という実在も確かならない抽象的な観念に行き着いてしまう。それは、現実を規律・規制するための価値規準が、究極的には定かならぬものであることを意味する。つまり、ここでの規準はどこかに存在している/していたはずの究極的価値の「物語」、すなわち神話なのである。抑圧の移譲構造が宗教に近しいという意味がこれで理解できよう。そして、この神話は、プラトンが想定したところのイデア、老子・孔子が想定したところの太古の理想的秩序、デリダが想定したところの究極的正義、これらの物語と互換可能なものである。つまり、抑圧の移譲構造が宗教と似ているように、究極的理想を準拠点とする現実批判が宗教と似ているように、宗教に似ている両者同士も似ている。

抑圧の移譲構造においても、やはり究極的理想/価値の横領は容易に起き得る。下の世代をいびる上の世代は、自分たちが経験していないようなことであっても、私たちもこれを経験してきたんだ・私たちはもっと辛いことに耐えて頑張ってきたんだ、などと言いながら、それを下の世代に押し付けることができる。その時、上の世代は、より上の世代と下の世代との間に立って、継承されてきた「伝統」や「歴史」の解釈権を独占し、下の世代を抑圧する自らの行為を正当化しながら、行為の責任をより上の世代へと放り投げることができる。彼らは、最も理想的であるどこかの世代、あるいは最終的な帰責先となるどこかの世代(それが本当に存在したのか、物語られている通りだったのかは不明である)への「相対的近さ」によって、自己の正当化と責任の無化を為し得ているのである。

ここでは理想の横領が起こっている。あるいは伝統の、歴史の、価値の、何でもいい。ともかく何かが横領され、すり替えられている。時に何らかの要因によって「目覚め」て、「何故こんな時代になってしまったのだ」などとのたまいながら、同世代を、あるいは自分より上の世代をも、より上の世代の「理想の姿」を準拠点とすることで批判しようとする人間がいるが、彼は年齢ではなく「目覚めた」という体験によって他者と比べて理想への「相対的近さ」を手に入れたと信じているのである。もちろんそれは、彼の主観的解釈によって再構成された理想像に過ぎないのだが。しかし、思えば、人はいつもそのようにして、つまり恣意的に解釈されただけの主観的認識を理想として想定した上で、そこへの相対的近さによって自己を正当化したり無責化したり、他者を批判したり問責したりしている。

日露戦争頃までの明治の日本人を懐かしむ人も、それ以後から敗戦までの時代の精神を懐かしむ人も、戦後すぐの悔恨共同体≒平和と民主主義の精神を懐かしむ人も、安保闘争での「民主主義の勝利」を懐かしむ人も、全共闘時代の「闘争」における躍動を懐かしむ人も、市民としてべ平連に参加したことを懐かしむ人も、経済成長を支えたモーレツさを懐かしむ人も、バブル時代の華やかさを懐かしむ人も、皆どこかを理想として再解釈し、美化した上で、そこへの「相対的近さ」によって自己を正当化し、自己の地位を高め、他の世代や他の人々より優位に立ったつもりになって自己肯定感を味わっているのではないのか(あるいは、バブル後の就職氷河期世代も、10年後20年後、自分たちはあんな苦境に耐えたのに今の若者は…、と語り出さない保証は無い)。上の世代が、存在したのかどうか、本当に語られる通りだったのか分からない特定の時代を、理想として独占的に措定し、解釈し、そこからの遠さを以て下の世代を批判し、翻って「相対的近さ」を以て自己を肯定するのは、ずるい。そして、胡散臭い。やっていることは神のお告げに従って信徒の振舞いを正そうとする教祖と変わらないのだ。

こうした抑圧の移譲構造を排除するためには、特定の時点や特定の姿を理想として措定することを止めなければならない。世代間・時代間を同じ地平で捉える必要があるのだ。比較や優劣の評価をしてはならないということではない。どこかを絶対的・究極的理想として特権的な価値規準に据えた上で、そこからの相対的距離の遠近によって現実を評価ないし批判するという手法を採るのを止めなければならないと言っているのである。これはとても難しい。たぶん実現は無理だろう。学問の世界においても、究極的な「正しさ」は、私たちが生きている間には辿りつけないかもしれないが、必ずどこかにあるはずだと考えている人が多いのだし。そもそも宗教が無くならないことが、この手法を退けることの難しさを示している。仮構としてでも価値規準としての理想を設定することは便利だから、おいそれと捨てられる手法ではない。それに、人は自分を正当化し、肯定しないと生きていけないのかもしれない。まぁ、それでも批判することはできる。私はそういう道を行こう。


ところで赤木さんや後藤さんの主張も、ここ10年20年だけでなくて少なくとも戦後思想に対する評価や戦後に対する歴史観などが併せて示されるようになれば、もう少し射程と尖鋭さを増して一層面白くなるんじゃないかなぁ。とか、八月=戦争関連の思考との絡みで、いっそのこと戦後「平和」主義を全否定・総批判していくような形で論陣を張れば面白いのかなぁ、などと考えたりしつつ、このエントリの着想を得たので書いた。書きながら繋がればいいなと思ったけど、あんまり繋がらなかったので付記しておいた。


Thursday, August 30, 2007

「生の無条件の肯定」の不可能性


野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」『コーラ』第2号、2007.8.15


人間の生命に内在的価値が存在し、誰であっても、どんな人生であっても「生きてよい」ことは、少なくとも建前上、ほとんどの人が認めている。人権が認められているとは、そういうことだ。「生きてよい」生にもかかわらず、厚生が著しく低いような生は、社会的配慮によって一定水準まで厚生を引き上げられるべきだということも、多くの人が認めている。生存権や社会権とは、そういうことだ。

だから、出発点、あるいは中心的な主張において、理論的には、この論文に新しい・独自なことは特に無い。ただ、その周囲のことについて、幾らか述べておく。


 さらにここから一歩踏み込んでみよう。それでは善とは何か。それは人生そのものだということができまいか。人生そのものが、倫理的な善なのであると。死とは、いっけん悪のようであるが、人生の完成地点であるという意味においては、善でも悪でもない。むしろ、人生は幸せであるべきだ。その意味で、幸せな人生、善い人生というのは、同語反復なのである。問題は、現状において「幸せでない」生、「善くない」生を、「幸せ」で「善い」生へと変えていくことにある。


ここの論理が、よく解らない。何故か、倫理的に善いことと、幸福であることとが、区別されていない。「よい」という言葉の中で、無媒介に結び付けられている。「よい」=肯定できる=価値を見出すことができる、という等置が為されているのならば、「価値」には倫理的な善悪の評価に関わる価値と、効用や利益の評価に関わる価値の二種類があるはずなので、「善い」と「良い」(としておく)は区別されるべきであるはずなのに。為されるべき区別が何故か為されないので、次の箇所もねじれてくる。


 すべての生は、よい生である。たとえば、重度の身体・知的障害者や、無脳症児、認知症者などがいっけん「生きるに値しない生」に見えるのは、彼らが適切なケア=「魂の配慮」を享受していないからである。そしてそのために、彼らの生がいちじるしく制限されているからなのである。それは、さまざまな障害者や患者の「生の現実」という諸相から観察し得る事実である。だとすれば問題は、障害者や患者に、「よい生」を与えない社会的制度や、そのような制度――障害者や患者の「よい生」を実現しないような制度――の基盤となる人々の意識にこそあることになる。
 たとえば、自分のことすら行うのが機能的に独力では不可能な障害者や、自分が何をしたいのかを独力で決定し、私たちに分かる表現で伝えることすら不可能な障害者も、適切な支援さえあれば、地域の中で自立した生活を営むことは可能である。それは、たとえば自立生活を営む障害者たちが身をもって証明している。自分で独力においてできないということは、自分も周囲も大変だったりするが、それはそれ以上でも以下でもない。大切なことは、「大変さ」を評価し、それを誰が、いかに社会的制度によって負担していくかなのであり、「大変」であるからその生が価値がないとか、生きる意味がないとかいう横滑りを許さないことである。


私には、ゾウリムシの生は「生きるに値しない生」であるように見えるが、それはゾウリムシに「よい生」を与えない社会的制度や、その制度の基盤となる私たちの意識のせいなのだろうか。思うに、仮にゾウリムシとしての生においての厚生を高める条件が整えられたとしても、それを「よい生」だ、生きるに値する生だと考え、受け入れる人間は、そう多くないだろう。なぜなら、たとえそれが「善い生」であっても、自分にとって「良い生」でなければ、生きるに値するとは思えないからである。客観的な諸条件を整えてくれたところで、自らがその生に価値を見出し、肯定できなければ、「良い生」にはならない。ある生が生きるに値するかどうかは、他者ないし社会から「生きてよい」と認められるかどうかの問題ではなく、自らが生きたいと思うか否かの問題である。

障害者が倫理的に生きるべきでない生だと考えている人はあまりいないだろうが、自分が障害者になったら、その生は生きるに値しないとか、生きる意味がないと考える人は結構いるだろう。十全たる制度が整備され、人々の意識が変わった社会においても、自分は障害者としては生きたくない、障害者としての生は自分にとって生きるに値しないと考える人はいるだろう。それは主観的評価の問題である。それは、ある方面に対しては酷く暴力的な価値判断の表明であるかもしれないが、そういうふうに思えること自体は如何ともし難い(そこに差別意識が存在するのか否かはこの際どうでもよい―ただし、差別意識を論ずるのならばゾウリムシに対する差別意識も併せて考えられたい)。第三者的に見れば何一つ非の打ちどころのないような生を送っているように思える人物であっても、こんな生は生きるに値しないと考えて自殺することは有り得る。それは主観的評価の問題である。彼に対して「生きてよい」と述べたところで、そんなことは解っているとの返答を得られるだけだろう。生きることが倫理的に善であることを認めていても、生きることが耐えがたい不効用を、とりわけ社会的諸条件の整備や人々の意識の変革によっては消し去ることができない不効用をもたらすために、この生は「生きるに値しない」と考えられてしまうことは、如何ともし難い。

社会的諸条件の整備によっては左右できないものは、この際どうでもよいと考えるのは一つの立場であるし、私自身がそうした立場に近いけれども、とりあえず何かねじれか混乱があるようだということのみ指摘した。もう一点に対しては、もう少し積極的な異論を持っている。


 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」は、どうしようもなく現存してしまう。しかし、その枠の中で最善の方法を選ぶ、というのは、エコノミーの問題に過ぎない。なるほど、エコノミーは重要であることを私は認めよう。けれども、どの位置において重要であるかは、問われるべきである。たとえば、病院内や研究室内において、そのような指針は必要であるだろう。だとしても、なぜ重要なのか。それはいちいちその現場で考えていては、救われる者も救われないからこそ必要なのではないのか。そうだとすれば、そうした指針は「現場において思考を停止する」ための「処方箋」としてこそ、重要になってくるのではないのか。言い換えれば、エコノミーの問題――「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」という枠組みの中における最適解の問題――は、それじたい倫理ではあり得ないということである。

 それでは、倫理であり得るもの――と私が考えるもの――とは何か。それは、「そのような状況をなくしていくこと」に他ならない。つまり、二者択一を強いるこのような社会構造こそを倫理は問題にしなければならないのである。現実に二者択一をする場合においても、その選択は、倫理の位相において正当化されてはならず、処方箋や「落としどころ」の位相でしかないことを認識すべきなのである。


二者択一が避けられないからこそ倫理という正当化の体系が求められるのに、二者択一が強いられる状況そのものを無くしていくことこそ倫理であり、二者択一が避けられないことを所与の前提とした選択は倫理と呼ぶべきでないと言うのは、倫理という語彙に対する無意味かつ有害な特権化・神聖化である。こういうことを言うのは、万が一に危険が襲ってくる可能性を排除しきれないからこそセキュリティが必要とされるのに、危険が襲ってくる可能性を無くしていくことこそ真のセキュリティであって、危険が襲ってくる可能性が排除しきれないことを所与の前提とした配慮はセキュリティと呼ぶべきではない、などと言うのと同程度に馬鹿げている。両方をセキュリティと呼べばよいのである。両方を倫理と呼べばよいのだ。

あるいは、他により善い選択肢があるべきなのに、それが選択不可能なために、可能な範囲でよりマシな選択肢を選ぶことしかできない事態にある限り、倫理が存在し得ないと言うのなら、この世に倫理は在り得ない。最も「よい」選択肢が何時・何処でも選択可能な世界とは、どこにも存在し得ないユートピアであるからだ。この世には「エコノミー」しか在り得ないし、在り得る倫理は「エコノミー」としてしか在り得ない。ここで「エコノミー」と呼ばれている事態を、私なら政治と呼ぶ。倫理は原初的に政治的なものである。最後に、この点について述べて終えよう。

この論文の中で、「倫理は、正当化されることなく選び取られるべきものである」と述べられているが、私はこれに賛同する。「倫理体系というのは、その内部においては整合的であるべきであるが、それじたい決して正当化され得ない」。なぜなら、究極的に「正しい」根拠が無いからである。それならば、倫理は選び採られるしかない。宣言されるしかない。信じられるしかない。ならば、それは政治的な性格を有する。なぜなら、根拠が無いのにある事態を正しい/善いと言い、別の事態を正しくない/悪いと言って区別し、一方を持ち上げ・他方を貶め、対立を作り出すから。そして、また、何の根拠もなく、倫理によって覆われるべき範囲を勝手に画定し、その外側へ誰か/何かを押し出すことによって、亀裂を生みだし、対立を生じさせるから。

簡単な話である。倫理が人間のみを適用対象とすることを、倫理を遵守すべきとされ、倫理によって保護されるべきとされる範囲を人間の間、人間の関わる領域に限定することを、倫理は正当化できない。人の生は生きるに値するが動物の生は生きるに値しない(ゆえに殺してもよい)という倫理が選び採られる時、私たちは動物を倫理の外側に排除することによって、人間に対する「生の無条件の肯定」を成立し得ている。倫理の適用範囲が動物を含むまで拡大されたなら植物を、植物を含むまで拡大されたなら自然物を、自然物を含むまで拡大されたならその他の無生物を、その他の無生物を含むまで拡大されたなら未だ見ぬ何物かを、誰か/何かを倫理の外側に放擲することによってはじめて、倫理は立ち上がる。倫理を道徳や法と呼び変えても同じである。

ここでは、この動かしがたい事実を、規範の原初的政治性と呼んでおくことにしよう。この世界が政治を消滅させることができない以上、「生の肯定」には何らかの「条件」が伴わざるを得ない(ヒトの…云々)。その意味で「生の無条件の肯定」とは不可能性を伴った営為であるし、幾ばくかの欺瞞を抱懐せずには掲げることができない標語である。


Wednesday, August 29, 2007

民主主義とは何か


価値理念としての民主主義と区別される概念としての民主政とは、当該政治的共同体内における対等なメンバー間による討論と投票によって政治的決定を為す政治体制を意味する。民主政が最低限果たしている役割は、「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」ことにある*1。一般に、基本的人権を認められた個人は、自己に関わる事柄について、他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる。だが、各人の意見や諸権利は対立することがあり、その対立が特に社会全体に関わる事柄である時には、統一的な決定がなされねばならない。その際、政治的決定手続きとして民主政が採用されることになるが、民主政における最終的決定手続きとして全員一致方式が採られることはあまり多くない。なぜなら、あらゆる場合に全員一致の決定を得ることは非常に困難であり、全員一致が実現できない場合には、極めて少数の成員の自己決定権を尊重するために大多数の自己決定権を実現できないことになるためである*2。三分の二など過半数よりも多い賛成を必要とする特別多数決も、同様に少数決としての性格を持つことから、採られる場合が少ない。最もよく用いられるのは過半数の賛成で決定とする単純多数決であり、それは、一般に、この方式ができるだけ多くの自己決定権を実現するために最も適した方式であるためである*3

政治体制としての民主政と、決定方式としての多数決原理は、一応は相互に独立の概念である。だが、両者の結び付きは論理必然的なものである。民主政が選択されるべきであるのは、個々人に平等な自己決定権を認める以上、まず政治的決定過程への参加可能性を確保しなければならないからである*4。そして、広く一般的な政治参加の上で決定を為す際、自己決定権をできるだけ多く実現するためには多数決原理を選択しなければならない。したがって、民主政を採るべきであると考える者は、最終的には多数決も受け容れなければならない。さらに言えば、それ自体は価値中立的な政治体制であり決定方式であるにすぎない民主政や多数決を望ましいと考える価値理念こそが、民主主義の名で呼ばれるべきイデオロギーである。すなわち、ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える立場が価値理念としての民主主義なのである*5

このように述べると、「民主主義を多数決と同一視するべきではない」といった反発が寄せられそうである。だが、そうではない。民主主義が必然的に多数決原理と結び付くからといって、それは民主主義が多数決原理に等しいことを意味するわけではない。私が述べているのは、「自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの」と考える価値理念としての民主主義が、その目的を実現するための最適な手段として多数決原理を採用し、その実行を正当化することには論理的な必然性がある、ということに過ぎない。民主主義を多数決と同一視しているわけでも、前者を後者に還元してしまっているわけでもない。民主主義理念の目的からすれば、自己決定権をできるだけ多く実現するために有用な手段が多数決以外に存在するのであれば、多数決と併用することは何ら排除されるべきではないし、それが多数決のみを用いるよりも一層多くの自己決定権が実現される蓋然性をもたらす手段であれば、その採用はむしろ要請すらされる。

私たちの多くが、最終的には多数決を行うことになると知りながら、それ以前にじっくりと議論を尽くすべきであるとか、多数派は少数派の意見にきちんと耳を傾けるべきであるなどと考えているのは、そうした過程を経ることが、最初から多数決を行うよりも、できるだけ多くの人々にとって満足ないし納得できる決定が行われることに繋がりやすいだろう(できるだけ多くの自己決定権が実現されやすいだろう)、と信じているからである。このような考えに賛同しない者、すなわち、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが決定内容への納得を醸成しやすいとか、人々が有している選好が変容する可能性は議論を経ることで高まるなどといった(かなり説得的に思える)主張を受け容れない者は、票決以前の討論をそれほど重視することなく、早々に票決を行ってもよいと考えるだろう。そうだからといって、こうした立場の人々が民主主義に反対しているわけではない。彼らは単に、自己決定権をできるだけ多く実現するという民主主義の理念は、票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程を経ることを必ずしも要請しているわけではない、と考えているに過ぎない。票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程をどの程度重視するのかの違いは、その過程が自己決定権をできるだけ多く実現するという目的の達成のためにどの程度役立つものなのか、という評価の違いに基づくものであり、その対立は、あくまでも民主主義理念内部での対立にほかならない。

ここで、立場の異なる二つの考え方に共通しているのは、自己決定権をできるだけ多く実現する上で最も基本的な手段は多数決であるという認識である。民主主義理念は票決以前に議論をじっくりと尽くすことを要請しており、その過程を経ることは不可欠であると考える立場からしても、多数決を手放すわけにはいかない*6。議論を通じて人々の選好が変容し、あるいは妥協が成立し、全員一致の合意が得られれば、その結果を歓迎しない理由はないが、そのような場合は稀である。ならば、そのように議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として、対等なメンバー間における多数決によって決定を下すことは避けることができない。なぜなら、既述のように、多数決こそ、できるだけ多くの自己決定権を実現するための最適手段であるからである。したがって、結局は、多数決に基づく決定を、(それによって自己決定権を実現不可能な少数者を含む)当該政治的共同体における全成員に対して正当化可能であるという信念が、価値理念としての民主主義の核心なのである。ここに民主主義理念と多数決原理との必然的な結び付きを見ないのは、欺瞞以外の何ものでもない。

もちろん、繰り返すように、多数決を正当化可能であるということは、民主主義理念一般が共有する最低限の条件にすぎず、そこから先については、民主主義内部にも多様な分岐が有り得る。例えば、前述のような、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが民主主義理念の要請するところであるかどうかをめぐる対立がそうである。所与の多数派と少数派の構図を温存したまま決定を為すよりも、できるだけ広範な人々の同意を取り付けることを目指すコンセンサス型の民主主義を支持する立場は、いわば自己決定権の実現において目指される「できるだけ多く」の内容を、より豊かなものにしようとする立場である。いわゆる参加民主主義や討議民主主義などの理論も、こうした立場と方向性を同じくするものであると言えよう。

また、自己決定権をできるだけ多く実現するという理念に従うだけでは、望ましくない帰結がもたらされる危険性があると考える立場からは、自己決定権実現の最大化原理が適用されない範囲を予め定めておくという方法が案出されることになる。立憲主義がそれである。立憲主義は、単純多数派の決定によっては脅かされないような個人の権利などを憲法で規定しようとする。この立場は、コンセンサス型民主主義などが民主主義理念を内在的に発展させようとする考え方であるのに対して、民主主義理念に外在的な制約を加えようとするものである*7。多くの国が立憲主義を伴う立憲民主主義を採用している現在、純粋な民主主義理念だけを単独で採用する立場は、むしろごく稀であると言える。多かれ少なかれ、「できるだけ多く」の内容をより豊かに発展させようとする方向性と、「できるだけ多く」の原理に一定の制約を課しておこうとする方向性が併存する場合が一般的である。

あるいは、そもそも自己決定権を実現するための土俵である民主政を構成する要件であるところの、政治的平等と人民主権の意味内容についての解釈自体が、多様で有り得る*8。平等とは何かをめぐって、例えば政策Xについての選好強度が強い者の一票と、Xについてあまり関心が無く弱い選好しか持っていない者の一票を等しく扱うべきか否か、といった論点が出現する。同様に、人民の範囲とはどこまでか(女性は?未成年は?政治的無能力者は?在住外国人は?等)、主権とは何を意味するのか(統治の正統性の淵源か、統治権力そのものか、憲法制定権力か)、人民が主権を有するとはどういう意味なのか(人民が直接統治すべきなのか、人民が選挙した代表が統治すればよいのか、選挙されなくても代表が人民のために統治すればよいのか)、といった点について、多様な解釈が提出されることになる。大まかに言えば、政治的平等と人民主権という要件を満たす可能性がどの程度確保されているのかということが、ある政治体制がどの程度民主的であるかの指標になるから、政治的平等や人民主権の意味内容の解釈が多様で有り得るということは、私たちの感覚からすればおよそ民主的とは思えないような政体であっても、民主的であると主張されたり信じられたりする余地が存在するということである*9

以上のように、価値理念としての民主主義を「ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える」イデオロギーとして定義したところで、デモクラシーをめぐる諸問題について何らかの根本的解決がもたらされるわけではない。ここでは単に、各論者の規範的立場に依拠して提出される多様な見解が錯綜し、民主主義の意味をめぐる議論が混迷を余儀なくさせられている事態に対して、民主主義理念一般に共通する最低限の核心的条件を抽出して提出することにより、概念を整理し、議論に一定の見通しを与えるために微々たる寄与を為そうとしたに過ぎない。ここから各自の規範的立場が、より整理された形で練磨されるならば、至上の喜びである。




*1:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』筑摩書房、39頁。

*2:当然のことながら、ここで言う自己決定の権利とは、自らが支持できる決定が為された場合にはじめて実現される権利を意味しているのであり、決定過程に参加したことだけで実現されたと見做されるべき性質のものではない。たとえ参加の上であっても、支持できない決定が為された場合には、その人の自己決定権は実現を妨げられたことになる。

*3:長谷部[2004]、20‐21頁。

*4:確かに、長谷部が述べるように(同、30‐31、38‐39頁)、民主政を選択するべき理由としては複数の理由が挙げられ得るであろうが、ここでは最も根底的と思われる理由のみを挙げた。

*5:したがって、純粋な意味での民主主義者は、手続きの遵守を至上の価値として他のいかなる帰結的価値にもコミットしない筈である。徹底した民主主義者は、結果を問わない。実際私には、価値理念としての民主主義に真にコミットしている人は、そう多くないように見える。

*6:多数決型民主主義に対してコンセンサス型民主主義の優位を説いたA.レイプハルトは、コンセンサス型民主主義も「多数派による統治を少数派の統治よりも優先する点で多数決型民主主義と同じ」であるが、「多数決ルールはあくまで最低限の必要条件としているにすぎない」と述べている。つまり、多数決は「最低限の必要条件」として民主主義一般が共通に採用する原理なのである。アレンド・レイプハルト[2005]『民主主義対民主主義 多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』粕谷祐子訳、勁草書房、1-2頁。

*7:この点、多文化国家において採用されているような、特定集団への議席割り当てや拒否権付与を伴う多極共存型民主主義も、同様の方向性にあると言えよう。

*8:政治的平等と人民主権が民主政の要件である点について、ロバート・A.ダール[1970]『民主主義理論の基礎』内山秀夫訳、未来社、77頁。

*9:そこでは最早多数決すら必要とはされないかもしれない。拍手喝采政治や独裁政治においても、それが人々が「ほんとうに望んでいるもの」を実現しているのだと信じられるなら、単に建前だけのことではなく、主観的には本気で、人々の自己決定権が実現されており、とても民主的な政治であると考えられる可能性も存在するのである。


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