Wednesday, August 29, 2007

民主主義とは何か


価値理念としての民主主義と区別される概念としての民主政とは、当該政治的共同体内における対等なメンバー間による討論と投票によって政治的決定を為す政治体制を意味する。民主政が最低限果たしている役割は、「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」ことにある*1。一般に、基本的人権を認められた個人は、自己に関わる事柄について、他者の不当な干渉や強制をはねつける自己決定の権利を持つとされる。だが、各人の意見や諸権利は対立することがあり、その対立が特に社会全体に関わる事柄である時には、統一的な決定がなされねばならない。その際、政治的決定手続きとして民主政が採用されることになるが、民主政における最終的決定手続きとして全員一致方式が採られることはあまり多くない。なぜなら、あらゆる場合に全員一致の決定を得ることは非常に困難であり、全員一致が実現できない場合には、極めて少数の成員の自己決定権を尊重するために大多数の自己決定権を実現できないことになるためである*2。三分の二など過半数よりも多い賛成を必要とする特別多数決も、同様に少数決としての性格を持つことから、採られる場合が少ない。最もよく用いられるのは過半数の賛成で決定とする単純多数決であり、それは、一般に、この方式ができるだけ多くの自己決定権を実現するために最も適した方式であるためである*3

政治体制としての民主政と、決定方式としての多数決原理は、一応は相互に独立の概念である。だが、両者の結び付きは論理必然的なものである。民主政が選択されるべきであるのは、個々人に平等な自己決定権を認める以上、まず政治的決定過程への参加可能性を確保しなければならないからである*4。そして、広く一般的な政治参加の上で決定を為す際、自己決定権をできるだけ多く実現するためには多数決原理を選択しなければならない。したがって、民主政を採るべきであると考える者は、最終的には多数決も受け容れなければならない。さらに言えば、それ自体は価値中立的な政治体制であり決定方式であるにすぎない民主政や多数決を望ましいと考える価値理念こそが、民主主義の名で呼ばれるべきイデオロギーである。すなわち、ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える立場が価値理念としての民主主義なのである*5

このように述べると、「民主主義を多数決と同一視するべきではない」といった反発が寄せられそうである。だが、そうではない。民主主義が必然的に多数決原理と結び付くからといって、それは民主主義が多数決原理に等しいことを意味するわけではない。私が述べているのは、「自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの」と考える価値理念としての民主主義が、その目的を実現するための最適な手段として多数決原理を採用し、その実行を正当化することには論理的な必然性がある、ということに過ぎない。民主主義を多数決と同一視しているわけでも、前者を後者に還元してしまっているわけでもない。民主主義理念の目的からすれば、自己決定権をできるだけ多く実現するために有用な手段が多数決以外に存在するのであれば、多数決と併用することは何ら排除されるべきではないし、それが多数決のみを用いるよりも一層多くの自己決定権が実現される蓋然性をもたらす手段であれば、その採用はむしろ要請すらされる。

私たちの多くが、最終的には多数決を行うことになると知りながら、それ以前にじっくりと議論を尽くすべきであるとか、多数派は少数派の意見にきちんと耳を傾けるべきであるなどと考えているのは、そうした過程を経ることが、最初から多数決を行うよりも、できるだけ多くの人々にとって満足ないし納得できる決定が行われることに繋がりやすいだろう(できるだけ多くの自己決定権が実現されやすいだろう)、と信じているからである。このような考えに賛同しない者、すなわち、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが決定内容への納得を醸成しやすいとか、人々が有している選好が変容する可能性は議論を経ることで高まるなどといった(かなり説得的に思える)主張を受け容れない者は、票決以前の討論をそれほど重視することなく、早々に票決を行ってもよいと考えるだろう。そうだからといって、こうした立場の人々が民主主義に反対しているわけではない。彼らは単に、自己決定権をできるだけ多く実現するという民主主義の理念は、票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程を経ることを必ずしも要請しているわけではない、と考えているに過ぎない。票決以前にじっくりと議論を尽くすという過程をどの程度重視するのかの違いは、その過程が自己決定権をできるだけ多く実現するという目的の達成のためにどの程度役立つものなのか、という評価の違いに基づくものであり、その対立は、あくまでも民主主義理念内部での対立にほかならない。

ここで、立場の異なる二つの考え方に共通しているのは、自己決定権をできるだけ多く実現する上で最も基本的な手段は多数決であるという認識である。民主主義理念は票決以前に議論をじっくりと尽くすことを要請しており、その過程を経ることは不可欠であると考える立場からしても、多数決を手放すわけにはいかない*6。議論を通じて人々の選好が変容し、あるいは妥協が成立し、全員一致の合意が得られれば、その結果を歓迎しない理由はないが、そのような場合は稀である。ならば、そのように議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として、対等なメンバー間における多数決によって決定を下すことは避けることができない。なぜなら、既述のように、多数決こそ、できるだけ多くの自己決定権を実現するための最適手段であるからである。したがって、結局は、多数決に基づく決定を、(それによって自己決定権を実現不可能な少数者を含む)当該政治的共同体における全成員に対して正当化可能であるという信念が、価値理念としての民主主義の核心なのである。ここに民主主義理念と多数決原理との必然的な結び付きを見ないのは、欺瞞以外の何ものでもない。

もちろん、繰り返すように、多数決を正当化可能であるということは、民主主義理念一般が共有する最低限の条件にすぎず、そこから先については、民主主義内部にも多様な分岐が有り得る。例えば、前述のような、票決以前にじっくりと議論を尽くすことが民主主義理念の要請するところであるかどうかをめぐる対立がそうである。所与の多数派と少数派の構図を温存したまま決定を為すよりも、できるだけ広範な人々の同意を取り付けることを目指すコンセンサス型の民主主義を支持する立場は、いわば自己決定権の実現において目指される「できるだけ多く」の内容を、より豊かなものにしようとする立場である。いわゆる参加民主主義や討議民主主義などの理論も、こうした立場と方向性を同じくするものであると言えよう。

また、自己決定権をできるだけ多く実現するという理念に従うだけでは、望ましくない帰結がもたらされる危険性があると考える立場からは、自己決定権実現の最大化原理が適用されない範囲を予め定めておくという方法が案出されることになる。立憲主義がそれである。立憲主義は、単純多数派の決定によっては脅かされないような個人の権利などを憲法で規定しようとする。この立場は、コンセンサス型民主主義などが民主主義理念を内在的に発展させようとする考え方であるのに対して、民主主義理念に外在的な制約を加えようとするものである*7。多くの国が立憲主義を伴う立憲民主主義を採用している現在、純粋な民主主義理念だけを単独で採用する立場は、むしろごく稀であると言える。多かれ少なかれ、「できるだけ多く」の内容をより豊かに発展させようとする方向性と、「できるだけ多く」の原理に一定の制約を課しておこうとする方向性が併存する場合が一般的である。

あるいは、そもそも自己決定権を実現するための土俵である民主政を構成する要件であるところの、政治的平等と人民主権の意味内容についての解釈自体が、多様で有り得る*8。平等とは何かをめぐって、例えば政策Xについての選好強度が強い者の一票と、Xについてあまり関心が無く弱い選好しか持っていない者の一票を等しく扱うべきか否か、といった論点が出現する。同様に、人民の範囲とはどこまでか(女性は?未成年は?政治的無能力者は?在住外国人は?等)、主権とは何を意味するのか(統治の正統性の淵源か、統治権力そのものか、憲法制定権力か)、人民が主権を有するとはどういう意味なのか(人民が直接統治すべきなのか、人民が選挙した代表が統治すればよいのか、選挙されなくても代表が人民のために統治すればよいのか)、といった点について、多様な解釈が提出されることになる。大まかに言えば、政治的平等と人民主権という要件を満たす可能性がどの程度確保されているのかということが、ある政治体制がどの程度民主的であるかの指標になるから、政治的平等や人民主権の意味内容の解釈が多様で有り得るということは、私たちの感覚からすればおよそ民主的とは思えないような政体であっても、民主的であると主張されたり信じられたりする余地が存在するということである*9

以上のように、価値理念としての民主主義を「ある政治的共同体の成員を平等な自己決定権を有する者と考え、この自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの、と考える」イデオロギーとして定義したところで、デモクラシーをめぐる諸問題について何らかの根本的解決がもたらされるわけではない。ここでは単に、各論者の規範的立場に依拠して提出される多様な見解が錯綜し、民主主義の意味をめぐる議論が混迷を余儀なくさせられている事態に対して、民主主義理念一般に共通する最低限の核心的条件を抽出して提出することにより、概念を整理し、議論に一定の見通しを与えるために微々たる寄与を為そうとしたに過ぎない。ここから各自の規範的立場が、より整理された形で練磨されるならば、至上の喜びである。




*1:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』筑摩書房、39頁。

*2:当然のことながら、ここで言う自己決定の権利とは、自らが支持できる決定が為された場合にはじめて実現される権利を意味しているのであり、決定過程に参加したことだけで実現されたと見做されるべき性質のものではない。たとえ参加の上であっても、支持できない決定が為された場合には、その人の自己決定権は実現を妨げられたことになる。

*3:長谷部[2004]、20‐21頁。

*4:確かに、長谷部が述べるように(同、30‐31、38‐39頁)、民主政を選択するべき理由としては複数の理由が挙げられ得るであろうが、ここでは最も根底的と思われる理由のみを挙げた。

*5:したがって、純粋な意味での民主主義者は、手続きの遵守を至上の価値として他のいかなる帰結的価値にもコミットしない筈である。徹底した民主主義者は、結果を問わない。実際私には、価値理念としての民主主義に真にコミットしている人は、そう多くないように見える。

*6:多数決型民主主義に対してコンセンサス型民主主義の優位を説いたA.レイプハルトは、コンセンサス型民主主義も「多数派による統治を少数派の統治よりも優先する点で多数決型民主主義と同じ」であるが、「多数決ルールはあくまで最低限の必要条件としているにすぎない」と述べている。つまり、多数決は「最低限の必要条件」として民主主義一般が共通に採用する原理なのである。アレンド・レイプハルト[2005]『民主主義対民主主義 多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』粕谷祐子訳、勁草書房、1-2頁。

*7:この点、多文化国家において採用されているような、特定集団への議席割り当てや拒否権付与を伴う多極共存型民主主義も、同様の方向性にあると言えよう。

*8:政治的平等と人民主権が民主政の要件である点について、ロバート・A.ダール[1970]『民主主義理論の基礎』内山秀夫訳、未来社、77頁。

*9:そこでは最早多数決すら必要とはされないかもしれない。拍手喝采政治や独裁政治においても、それが人々が「ほんとうに望んでいるもの」を実現しているのだと信じられるなら、単に建前だけのことではなく、主観的には本気で、人々の自己決定権が実現されており、とても民主的な政治であると考えられる可能性も存在するのである。


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