Thursday, October 18, 2007

民主主義についての不可解な使い分け


加藤秀一『ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい』の末尾に、大略次のような主張が(橋爪大三郎の著書が示されつつ)書き込まれている。


「民主主義=多数決」という考えを捨て去らねばならない。なぜなら、民主主義の本質とは「議論を尽くす」ことであるから。 …①


このネタでエントリ書くのもいい加減しつこいのだが、それでも民主主義理論は私のライフワークの一つだというアイデンティティがあるので一応書いておこう。


これまで私は、上記のような型にはまった主張を幾度となく目にしてきた。今改めて目にして型どおりのウンザリ感とともに抱かれる疑問は、彼らはなぜ「イコール」と「本質」という二つの言葉を使い分けるのだろうか、ということである。例えば、こういう主張なら解る。


「A≠B」である。なぜなら、「A=C」であるからだ。 …②


しかし、「議論を尽くす」派はこうは言わない。彼らの言い方はこうである。


「A≠B」である。なぜなら、Aの本質はCであるからだ。 …③


明らかに説明不足である。「本質」とは一体どういう意味なのか(「本質」は他にも「根本原理」「中核」「核心」などに言い換えられる)。「本質」が「イコール」を意味しているのなら②は③と同じ意味であるから主張の内実を理解しやすい。だが、普通はそうではないだろう。

ほとんどの「議論を尽くす」派は、多数決の必要性を否定するまでには至らない。「議論を尽くす」べきだと言いつつ、多数決無しで民主主義(民主政)が成り立つとも思っていない。彼らは、「民主主義=議論を尽くすこと」と言い切るまでの踏ん切りがつかないのだ。そう言ってしまえば、「それでは民主主義は何も決定できませんね」と言い返されるのが目に見えているからである。彼らが民主主義の「本質」云々といった、それだけでは若干意味不明の主張に落ち着くのはそのせいだろう(そこまで詰めて考えているとも思わないが)。

だが、多数決の必要性そのものは否定しないのであれば、なぜ以下のように主張しないのか。


「A≠B」である。なぜなら、「A=B+C」であるからだ。 …④


このように「民主主義=議論を尽くすこと+多数決」と主張されるなら、どれほど理解し易いだろう。けれども、このような明快な主張を採る者は少ないように思う。なぜか。私には理解しかねるが、「議論を尽くす」派にとって多数決というものは、とにかく民主主義にとってできるだけ遠ざけるべき「何か不純なもの」として捉えられており、たとえ限定的な形でも民主主義と等号で結ばれる位置に置かれることには抵抗感があるのかもしれない。


だが、過去に指摘したように、「ある価値理念にとって本質的なのは、それが必然的に否定するものと正当化するものが何であるのか、という一点である」*1。仮にある人物が自らの信じる正義に従って行動した場合に、ある局面において暴力行使が避け難いことを認め、暴力行使を「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは自らの正義に基づいて暴力行使を正当化したことにほかならないだろう。この時に彼が自らの正義と暴力行使との必然的な結び付きを否定するとしたら、私はそれを欺瞞だと断ずることにいささかのためらいも覚えない*2

同様に、民主主義に従って政治的決定を行おうとした場合に、ある局面において多数決が避け難いことを認め、多数決を何にせよ「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは民主主義の理念から多数決を正当化したことにほかならない以上、そこで民主主義と多数決との必然的な結び付きを否定するのは恥ずべき欺瞞である。

民主主義が最終的にせよ何にせよ多数決を「止むを得ない」ものとして正当化するのなら、それはそういう理念なのである。いかなる主張をするにせよ、まずはその点を認めてから出発して欲しい。


ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい


*2:いや、この正義が完全に実現される場合にはそうした暴力も現れることが無いのだ、と言われるかもしれない。だから問題は正義が不完全にしか実現されていないことであって、正義そのものではないのだ、と言われるかもしれない。しかしながら、そのような正義が完全に実現するための条件が現実的に整う可能性が果たして存在するのか、極めて疑わしいし(実際民主主義についてはそういう事態―全員一致―は稀だし、稀な事態が現出する場合には隠された暴力行使が疑われるのが普通である)、率直に言って私はそういった可能性は存在しないと思う。


Monday, October 1, 2007

正義の味方と悪の大魔王―『20世紀少年』についての小論


以前書いたように、漫画『DEATH NOTE』には相対主義的な正義観が貫かれている*1。この作品の世界においては勝者こそ正義であり、そこでは、「思想の相対性」を超越するような「真の正義」が在り得るのか否か、在り得るとしたらそれはどのような正義か、といったような倫理的な問いは初めから放棄されている。私自身は価値相対主義者なので、そうした正義観そのものに違和感を覚えることはない。けれども、絶対的な「真の正義」が在り得るのかという問いが、子供でも言えるようなシニカルなだけの答えを返すことで切り捨ててしまってよいものだとも思わない。
それゆえにこそ、私は過去にこの問題をやや詳細に扱ったのだが*2、ここではそうした政治哲学的議論の傍らに寄せる小論という形で、『DEATH NOTE』に対置されるべき作品である漫画『20世紀少年』について若干のことを述べてみる。「真の正義」をめぐる問いと絡めて『20世紀少年』を論じることに意味があるのは、この作品においては、相対主義を貫く『DEATH NOTE』とは対照的に、「正義の味方」と「悪の大魔王」の対決という二項対立的な構図が意識的に持ち込まれているからである。


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