Monday, January 7, 2008

民主主義は裁判員制度を支持しない


2008年を迎えた。次に迎えるのは2009年である。2009年には、裁判員制度の開始が予定されている。裁判員制度は、国民の司法参加の名の下に導入されたものであり、いわば民主主義の理念をその基礎に据えていることになっている。だが実際には、裁判員制度が民主主義理念の実現の一環として推進されるのは、論理の筋を違えた話である。

「民主主義」と言った場合に何を意味するのかは、それによって議論の内容の過半が左右される程に重要である。ここでは、しばしば語られているように、「治者と被治者の同一性」こそが価値理念としての民主主義の内実に当たるものであると考えよう*1。これは要すれば、ある政治的決定から影響を被る者はその決定作成に参与することができるべきである、という考え方である。この考え方を政治分野に限らない決定一般に拡張すれば、その論理の型は、いわゆる自己決定原理と重なる。以上から、統治権力の在り方・用い方について自己決定原理を適用しようとする理念こそが民主主義である、との理解が得られる。

通俗的な民主主義理解においては、それが何であれ、国家が担ってきた仕事の中に一般市民が参入していくことが実現したり、国家権力の運用に市民の手が加わることが可能になったりすれば、民主主義の具体化であると考えられがちである。しかしながら、それは民主主義がいかなる内容を持つ思想なのかということをじっくりと省みて考えた経験を持たない者による、空虚な民主主義礼賛に過ぎない*2。現に、裁判員制度導入の理由として第一に挙げられることが多いのは、「市民の健全な常識」を司法の場に注入できること、という具体性を欠いた意味不明の論拠である。

民主主義の内実を治者と被治者の同一性に求める理解に立つならば*3、複数の主体間で何らかの紛争が生じた場合の解決は、当事者間による交渉か、そこに重要な利害関係者を交えた協議によって図られるのが理想となるはずである。第三者による権威的調停は、自己決定の原理に違背するものであるから、民主主義理念それ自体からは出て来ることのない考え方である。このことは、権威的調停に携わる第三者が専門性を備えた官僚裁判官であろうが、無作為に抽出された一般市民であろうが、変わることは無い。ここから、裁判員制度を民主主義によって基礎付けようとする論理の無理が、直ちに理解されるだろう。

無作為抽出の市民は、裁判の対象となる事件の利害関係者ではなく、選挙によって選ばれた代表者でもない。第三者性において官僚裁判官と等しく、専門性において官僚裁判官に劣り、代表性を帯びることもない*4。そうした立場の人間が司法権力の行使に携わることを正当化する余地は、少なくとも民主主義理念の観点からは存在しない。裁判員制度を価値理念としての民主主義から導出したり正当化したりすることは、論理的な不可能事である。

では仮に、裁判官を選挙で選ぶことにする、という司法制度改革案であったとしたら、話は違っただろうか。同じ国民の司法参加を掲げるにしても、選挙を経た代表者が司法権力の行使に携わるのなら、それは民主主義理念の具体化として正当化できるのではないか。だが、そもそも特定の個別的紛争を扱う裁判の場での決定は、広範な人々に影響を及ぼすことが一般的である政治的決定とは性質が異なるため、地理的に区切られた選挙区から選出された代表が裁きを下すべき理由は乏しい。政治的決定とは異なり、判決によって影響を被る「被治者」の範囲は、より限定されている。民主主義の理念を司法分野に適用するならば、地域の代表者が裁きを下すよりも、当事者中心の紛争解決を専門性の備わった第三者が支援する制度の方が、より理想的である。

結局、民主主義理念は裁判員制度を支持しない。ここでは、裁判が迅速化するとか、難解な専門用語が解り易くなって裁判が身近なものになるとか、口頭主義によって調書偏重が正されて従来の99.9%の有罪率が維持できなくなるとか、市民の社会運営に対する責任の自覚が促されるなどといった、その他の制度推進理由については触れないことにする*5。だが、それらのいずれも、裁判員制度を支持する理由としては不足であると思う。私には、裁判員制度を導入すべき積極的な理由が見出せない。もし、私が間違っているか、民主主義理念の理解を違えるかで、民主主義の観点から裁判員制度を導出ないし正当化することは可能であると考える人がいるならば、是非ご教示願いたい。実際、多くの国で陪審制や参審制が用いられているという事実は、民主主義理念の異なる理解の仕方の所在をうかがわせる。


なお、司法制度全般についての私の考え方は、以下の①にまとめてある。また、誰が決定を下すべきなのかという問題を考えるための整理として、②が多少は役に立つことがあるかもしれない。


①司法論ノート―利害関係者司法に向けて

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1



②政治過程または一般的決定過程におけるステージ・アクター・評価

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070909/1189335617



*1:こうした理解は私見とは異なる。私自身は、民主主義理念の中核を占めるものは「自己決定の最大化」を積極的に肯定する思想であり、それは治者と被治者の同一性原理とは相容れないと考えている(この点については、私の学士論文「利害関係者の討議と決定」第3章第2節を参照。より詳しくは、近日提出予定の修士論文「利害関係理論の基礎」補論で論じている)。しかし、いずれの理解を採っても民主主義理念は裁判員制度を支持することは無いので、ここでは問題にしない。

*2:『裁判員制度』の著者である丸田隆は、国民が選挙に参加することは「主権の行使の一つ」であると述べているが(丸田隆『裁判員制度』(平凡社:平凡社新書、2004年)46頁)、ここから裁判員制度推進論者の民主主義理解の程度が概ね知れる。単一不可分の主権は国民一人一人には分有されず、選挙による代議士の選出が、主権の行使の在り方を定める一般意思の形成のための一過程に過ぎないものであることは、憲法学・政治理論において常識に属する。国民一人一人は主権を行使することはできず、ただ行使の過程に部分的に参与することができるのみである。無闇に民主主義や国民主権を謳う人間ほど、その観念の理論的実態について知ることが少ない。ひとまずルソーの『社会契約論』だけでも読むべきだろう。

*3:政治理論においては、こうした理解は比較的一般的なものである。

*4:厳密には代表と言えるものではないが、選出されるメンバーの社会的属性を当該地域・集団の社会構成に近似させることで代表性を代替する方法(いわゆる「社会学的代表」)も主張し得る。だが、6名の裁判員の中でそれを為すことは現実的ではないだろう。

*5:最後の推進理由については過去に批判したことがある。責任と自由―2.必要と負担 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20060921/1158839150


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