Sunday, February 24, 2008

死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について


森達也『死刑』朝日出版社、2008年。


死刑について、安易な二項対立や「べき」論に陥らない形で考えを巡らすために、恰好の良書。基本情報は押さえられているし、死刑囚、元死刑囚、被害者遺族、弁護士、裁判官、検事、刑務官、教誨師、政治家など、様々な立場の人間の語りが登場するので、当該テーマにおける現時点での基本書の一つとして扱っても構わないように思える。特徴は、終盤に近づくほど、論理ではなく情緒こそが死刑問題の核心であるという認識が強調されていく点にあり、この認識はほぼ完全に正しいと私は思う。それだけに、そうした認識を強く押し出すまでの過程が過半を占めている本書だけでは、やや物足りないという感も抱かれる。死刑論議の本質を情緒の水準に見出した上で、さらに何を語ることができるのか。著者の継続的な模索が次回作の形で現れることを期待したい。


ここでは特に、以下に引用する部分から触発された考えを書き留めておく*1


 歩きながらふと思いだす。ドイツ生まれのユダヤ人で政治哲学者のハンナ・アーレントは、ホロコーストの実行責任者だったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、その罪を「凡庸な悪」と形容しながらも、アイヒマンへの死刑執行を肯定した。ただしその理由は、「数百万人の人々を殺したから」ではなく「人類の秩序を破ったから」であると、その著書『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、一九六九年)で主張した。

 刑事司法における個的な報復を否定した彼女のこの思想は、「許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。人間は、自分の罰することのできないものは許すことができず、明らかに許すことができない者は罰することができない」(『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年)に、さらに明確に表れている。つまり「処罰」と「復讐」とをアーレントは徹底して峻別したからこそ、アイヒマンを処刑する理由を、報復ではなく処罰であらねばならないと考えた。

 ある程度の説得性はある。でもある程度だ。もしも「処罰」が「赦し」を意味するのならば、そして「死刑」が「処罰」の一環であると考えるのなら、「死刑」は「赦し」と同義であるということになる。赦しながら処刑する。ここには明らかに論理の破綻がある。[130-131頁]


アレント説が「ある程度」しか正しくない理由を考えよう。思うに、罰することと赦すことに共通の性質を見て、これらと復讐/報復を峻別するまでは、アレントの言うことは当たっている。言葉の意味を遡ってみれば、そのことは解る。「罰する」とは、対象を「こらしめる」ことである。「こらしめる」とは、相手が二度と当該行為をしないようにすること、当該の事態が二度と起こらないようにすることを意味する。他方、「ゆるす/許す/赦す」とは、対象をもう「とがめない」と決めることである。「とがめる」とは、何かについて相手を非難するとか、その責任を追及するなどといったことを意味する。

ここから、処罰と赦しの機能的接続関係が直ぐに知れる。何かの罪を犯した主体は、二度と罪を犯さないようにするための処置を施される(「罰せられる」)が、その処置が遂行されて以後は、過去の罪を採り上げた非難を再び受けないことを期待できる(「赦される」)。罰を与えることで罪は償われたと見做され、赦しが与えられる。したがって、機能面から言えば、処罰とは実質的には赦しに等しい(より正確に言えば、処罰とは赦しが与えられる条件の提供である)。

さて、ここで重要なのは、処罰≒赦しが与えられる「対象」の問題である。つまり、処罰≒赦しは罪を犯した「人」に与えられるのか、「罪」そのものに与えられるのか、という問いだ。答えは明らかに後者であろう。「とがめ」=非難の対象は、人の存在自体ではあり得ず、その人が犯した罪であるとしか考えられない。だから「赦し」は、人ではなく罪に向けられなければならない。同様に、「こらしめ」=再発防止の対象も罪そのものである。したがって、刑罰の目的を不正義を非難することに求めるにせよ、その再発を防ぐことに求めるにせよ*2、罪と人は論理的に分離されなければならない。私たちは、人を罰することができないのだ*3


そして、ここが分かれ道になる。アレント説には一理があるものの、十理ぐらい無い。それは、彼女が刑罰一般と死刑を質的に区別していないからだ。処罰≒赦しは人ではなく罪に対して向けられるものだが、死刑は人そのものを消す。処罰≒赦しの際には罪と人が分離されなければならないのに、死刑は罪と人を串刺しにして葬ろうとする。しかし、罪人の存在を消すことは、二度と罪を犯さないようにすることではなく、「犯せないようにする」ことである。それは処罰ではない。処罰であるためには、その後に「残余」が必要である。それが個別的・自己目的的に完結する復讐/報復ではなく、未来に向かうため(に「なにかを終わらせ」るため)の一般的・社会的手段であるためには、罰の後を生きる者が残されていなくてはならない*4

死刑は罰ではない。死によって罪は償えない。だから、赦しは与えられない。罪人を罪のゆえに葬れば、「もうとがめない」というメッセージの受け手は、永遠に失われる。赦しを受け取る人がいなくなる。死刑に処せられた罪人は、赦されることがない。罪とともに冥界に突き落とされるだけで、罪を抱え続けなければならない。つまり、死刑は罪人に償いの余地を与えない。罪を償わせないままにすること、償いの可能性を摘むことこそが、死刑の特質である。


何かを「償う」ことは、「責任」をどう引き受けるかにかかわっている。これについては、以前、次のように書いたことがある*5


何かあれば責任を取らなければならないものである、という強迫意識は誰にでも植え付けられている。責任とは取るべきもの果たすべきものである、と。そして、そこで想定されている「責任を取る」行為とは、儀式である。しかし、これはあくまで儀式であり、これによって責任を取ったことにしましょう、という取り決めである。そこでは中身は取り残されたまま、形式が合意される。賠償はあくまで賠償であって、過去のそのままの原状を実際に回復するものではない。過去に戻ることもできず、行為/不行為とその結果は常に断絶してしまっている。そこでは「責任(の中身)を取る」ことはできず、儀式(=「責任(の形式)を取る」こと)を行うことで、現在から未来への関係再構築を図る。メディアに限ることはなく、責任とは初めから取れるものではなかったのである。あるいは、そこに何らかの中身を期待するのであれば、それはもはや責任とは異なる何かである、ということになるのかもしれない。

そう考えてくれば、自分が轢き殺した被害者の遺族から「許し」の手紙を受け取ってもなお、毎月遺族に送金し続ける男(「償い」さだまさし)の姿とは、まさしく責任(=形式)に安住せず償い(=中身)を模索し続ける人間の姿だったのかもしれない。


責任って何かね http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20051105/1131175610


死刑は、形式的な意味での償いの可能性を拒否すると同時に、実質的な意味での償いを試み得る主体を消し去ってしまう。それは未来を向いていない。どこかの地点に、留まろうとする。何も終わらせることができない。そう見える。


つまるところ、死刑は刑罰でありながら、罰としての性質を自ら破壊していく、非論理的な刑罰である。死刑が償いの余地を奪う機能を果たすとすれば、それは絶対的に「赦し≒処罰」の思想と対立するとすら言える(「明らかに許すことができない者は罰することができない」)。
では、死刑が存在するのは何故か。被害者及び被害者遺族が自然権として有する「報復権」を、国家が肩代わりしたからと考えるべきなのか。しかし、私は報復権が自然権であるとの見解には与しない*6。そして、あくまで個別的・主観的な問題である復讐/報復は、国家が肩代わりし得る性質のものではない。刑罰は復讐/報復の国家による肩代わりであるとの見方が出て来るのは、刑罰が有する応報的機能の実質的効果としての被害者感情の慰撫が、誤って本質的機能として再解釈された結果ではなかろうか*7
すると今や、死刑の存立根拠は、被害者感情の慰撫を中心とするように思える*8。これは本来、刑罰の結果としてある程度まで副次的に期待できる類の効果であるに過ぎない。それゆえ、論理的には、死刑の存立根拠は失われている。こうして、死刑問題の核心は情緒の水準にあるという「前提」を、私たちは確認することになる。しかし、求められるのは、ここから先の議論なのだ。


さて、最後に付随的な問題を一つ片付けておく。罪人の死によって遂行が確認される刑罰という意味では、終身刑もまた死刑と同じ性質を持っている。ここまでの論理を貫徹するなら、死刑のみならず終身刑も否定されなければならないように思える。それは一般的に言って、受け入れられ得る立場ではないだろう。私自身もやや抵抗感がある。だが、ここまでの論理に不備がないと仮定するなら、この結論を受け入れないわけにはいかない。もとより、刑罰の本質的目的は犯罪予防と再発防止にしかないという私の立場からすれば*9、無条件で死ぬまで自由を拘束し続けるという処置には合理性が無いことになる。十分に更生したとは見做せないとか、再犯の可能性が高いなどといった理由によって拘束を続け、その結果として実質的に終身刑があるのと同じであるという事態はあり得るが*10、どんなに反省しても更生しても社会復帰の可能性が十分でも釈放しないという制度は、採るべきでない。したがって、死刑の代替として終身刑を導入することを求める主張は、支持できない。



*1:なお、死刑をどう捉えるかについては、以下も参照のこと。被害者及び死刑 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1

*2:罰することの主意が「こらしめ」―制裁による更生と予防―に、赦すことの主意が「もうとがめない」と決めること―非難の終結―にあるという事実は、刑罰をめぐる問いの核心にかかわっていてとても興味深い。

*3:人を裁くことはできない。裁くことができるのは、罪だけである。

*4:この辺り、上手く言えていないかもしれない。私が抱いているのは、罰の後に―たとえわずかでも―何らかの余地・余白が伸びていることこそが、罰が罰であるための条件ないし基盤になっているのではないか、という少し漠とした感触である。

*5:責任の本質については、以下の方がまとまっている。責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1

*6:思想史的裏付けが希薄に思えるためである。

*7:なお、誤解されがちだが、復讐/報復なるものは、罪の応報ではない。「同じ目にあわせてやろう」という類の意思は、応報=非難=「とがめ」の意思とは、全く性質が異なる。

*8:あるいは、一般的観点からの非難の主体たるよりも、被害者への共感・一体化を通じた疑似報復による充足感を欲せんとする一部大衆のための疑似慰撫もこれに加えるべきか。

*9:司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1

*10:そうした事態を規範的に許容し得るかについては議論の余地があろうかとは思うものの。


Share