Tuesday, March 4, 2008

死刑の現在性



浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データでみる日本社会の実情」

芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読むcase8 変容する権力と死刑の関係」


既に先月号になったが、『論座』2008年3月号から、死刑についての論考二本。
この内、芹沢の連載では、近代以降の死刑の変質を、①矯正を主たる目的とする近代的刑罰観の確立とともに、死刑の存在役割が「矯正不可能な者」を消去する作業に移行していったこと、②それゆえに死刑の執行が公開の場から閉ざされた密室への「退行」を余儀なくされたことによって*1、特色付けている。これは丸々フーコーの描いた図式を用いたもので、以下で採り上げたような宮崎哲哉の発言の補足として読まれるといいだろう。


被害者及び死刑

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1


矯正不可能だから殺そう、と言うのは、まさしく「死の中に廃棄する」ような権力の働きである。前のエントリで私は罰を「二度と罪を犯さないようにする」ための処置であると定義≒解釈し、そうした前提に基づいて死刑を自己破壊的な刑罰と断じたが*2、これに対しては次のような反論が可能かもしれない。曰く、矯正不可能な犯罪者(異常者)に対しては、二度と罪を犯さないようにすることが「できない」のであって、仮にこれを死刑とせずに収監して矯正の対象としても、矯正が完了してはじめて釈放され得るという論理に従えば、彼は結局死ぬまで釈放されないだろう(実質的終身刑)。「結果」が同じならば、最初から死刑にしてしまって、被害者感情の慰撫に多少なりとも役立てた方が、随分とマシなのではないか?

このタイプの反論は、私が指摘したような死刑の特質(刑罰としての非論理性)を認めた上で成り立ち得る、一種プラグマティックな死刑擁護論だ。重要なのは論理の一貫性よりも別なところに在る、という立場においては素朴な被害者感情慰撫論と共通だが、いわゆる「情緒」へのコミットの度合いでは少し違う角度からの立論として見做せる。これに対する有効な再反論があり得るだろうか。よく解らない。そもそも論理の問題を一旦棚上げにしてしまう(と言うより煮詰め尽くしてしまう)と、後はもう選択の問題、決断の問題、意思の問題に尽きてしまうようにも思える。森達也の暫定的結論も、「私は~したくない」だった。しかし、意思の問題に還元してしまう手前には、未だ考えてみる必要と余地が残されているようにも、思える、ので、どうしたらいいのかな…、というところで留まっているんだが。


*1:しかし、看過できない例外として、アメリカはどうなる?

*2:死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


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