Tuesday, March 4, 2008

事実が必要とされない理由


死刑や治安悪化言説についても当てはまる現代に共通の問題として、「必ずしも事実が求められていない」ということが挙げられる。求められているのは事実よりも物語であることが多い。死刑の犯罪抑止力を証明する根拠が無いことをいくら説いても、死刑存置派が減ることはなく、治安の悪化を示すデータが見当たらないことをいくら訴えても、治安悪化神話の支配的影響力は衰えない。

もちろん、「事実」を指し示す言説があまり行き渡っていないという面もあるだろう。マスコミの影響力を「主犯」として最も問題視する立場の人々は、その点を強調する。だが、森達也が各所で指摘しているように、マスコミがあるステレオタイプの報道図式を採用し続けるということは、何だかんだ言いつつもそれを求める層、マスコミの紋切型報道を支える土壌が確実に存在しているということである。そういう土壌こそ、マスコミによって耕されたのかもしれない。だが、どちらが先かは一概に言えるものではなく、各種の「神話」は、マスコミによる報道とそれを求め・受容する側との相互作用の中で作られてきたと考えるべきだろう。

そうした循環構造を見ずに一方向的な関係を想定するのは、単に楽観的に過ぎると言うだけではなく、怠惰であると言うべきだろう。マスコミ批判だけを繰り返して事足れりとしている人は(そういう人がいるとしてだが)、置き去りにしておけばいい。私は全くフォローしていないが、「ニセ科学」批判においても、単に「ニセ科学」を批判して「正しい情報」を提示するに留まらず、「ニセ科学」的なものを受容する層の分析に歩を進めていることと思う(きっと、そうだろう)。「事実」なり「正しい情報」なりを提供するだけではなく、土壌を分析しつつ、そこに手を入れていかなければ目的を達成できそうにないという点では、経済政策や社会政策についても同様のはずだ。

それで、「事実が求められていない」件だが、その理由を端的に言えば、今がポストモダンだからである。最近は安直に理解したポストモダン論を一括りに罵倒するような言論が増えているように見えるが、その一因は多分、ポストモダン論に新鮮味が失われたからだろう。なぜ新鮮味が失われたかと言えば、それはポストモダンはもう「来るべき時代」ではなく、今・この時間になってしまったから、目の前にある当然の現実のままになってしまったから、だ。よく勘違いしている人がいるが、「ポストモダン」論と「ポストモダニズム」は違う(「グローバリゼーション」論と「グローバリズム」が違うように)*1。ポストモダン的事態を肯定するか否かにかかわらず、ポストモダンとしての現代を認識することはできる。もちろん、「現代は、過去と比べて「ポストモダン」と呼べるだけの差異を持っていない」という異論はあり得るが、その次元で争うのはここでは止めておこう。「今がポストモダンだ」ということにしておかないと*2、ここで語りたいことが語りにくいから。

語りたいのは、必ずしも事実が求められない理由であり、その理由は「全てが相対化されてしまっているから」ということに尽きる。別に再帰的近代化などと言わずとも、何もかもが相対化され尽くしているのは現代に生きていればわかる。ここ10~15年に生まれた世代にとっては、生まれたときから世界は世界そのものだろう。自分の居る位置を認識するに当たっての視野が、特定の街や国に限られていない。積極的に求めなくても、あらゆる地域・あらゆる分野についての情報が大量に飛び込んでくる。加えて、ビデオカメラやらデジカメやら写メールやらブログやらで、絶えず自己参照・自己言及が強いられる。これでは、相対化を避けろと言う方が無理だろう。居ながらにして、様々に異なったライフスタイルや価値観が自然と目に入る。その時、何かの伝統やイデオロギーを純真素朴に信じる方が難しい。でも、だからこそ、信じられる「何か」が強く欲求される*3。その「何か」に代入されるのが、各種の物語である*4

事実ではなぜダメなのか? 事実は相対化されてしまうからである。我こそは「事実」を知っていると主張する人々は、異口同音にマスコミを「偏っている」として批判するものだ。色んな立場から様々な情報(それも専門的な)が行き交うと、私たちは何を信じていいか分からない。鈴木(謙介)さんが、事実をめぐる論争は結局「情報戦」と化して、一種、不毛なことになる(うろ覚え)みたいなことをどこかで述べていたのも、ここからしてみると理解できる。人は信じたいものを信じる。何を信じていいのか分からないのなら、なおさらである。でも、何のために信じるのか? それはアイデンティティを形作るためだ。全てが相対化されざるを得ない状況の中で、アイデンティティの断片を相互に繋ぎ止めるために、信じられる物語が必要とされるのである*5

「必ずしも事実が求められない」ような事態がもたらされるにあたって、学問の側から一役買った立場を具体的に挙げれば、構築主義/構成主義だろう。その役割が顕著だったのは歴史認識問題で、歴史にとって重要なのは客観的な「事実」なのか、主観的ないし多元的な「物語」なのかについて、左右入り乱れての論争が展開された(ことと思う)。一方で右派(の一部)が、「日本民族」とか「天皇」などといったことは所詮フィクションかもしれないけれども、国民が団結し、国家が統合を得るためには、必要な物語なのだと主張する。他方で左派(の一部)が、たとえ客観的な証拠とは食い違う部分があったとしても、個々の人間の「語り」にはその人にとっての真実が含まれており、それは本人のアイデンティティを構成するとともに、歴史を多元化して豊かにするものだと主張する。「物語」ではない(より)客観的な歴史を希求する立場の人々は、両者から挟撃されることになった。

北田暁大などは、それが右派によっても使われるようになったことを以て、構築主義/構成主義に一つの限界を見出しているようだが、そうした戦略論的・情況論的問題意識からのみ「限界」を突きつけていいものかは疑問である*6。構築主義/構成主義が一つの学問的立場である以上、政治的立場にかかわらずそれを応用できるのは至極当然のことだ。構築主義/構成主義が限界に行き当たったと見做すなら、その理由はむしろ、ポストモダン論と並行して(あるいはその一員として)機能した末に、目の前に在る当たり前のポストモダン=現代に還元されてしまったからだと考えた方がいい。だって、「全てのものは社会的に構築/構成されている」なんて、言われて/言ってみると、とんでもなく当たり前のことじゃないか?*7 So what? 重要なのはその先だろう。そこで「それなら何でもアリだっ!」となって極端な物語を提示したり支持したりするようになるのか、そうでないのか*8

どうも結論が見えて来ないが、現代の社会学者が「アイデンティティ」(と「コミュニケーション」)ばかりを採り上げて論じるのには、それなりの必然性がある。「社会」学が本来「関係」の学だということもあるが、情報の送り手だけではなく受け手固有の問題も重視されなければならない以上、いわゆる「正しい情報」そのものはあくまで前提であって、議論の主旨や目的にはなり得ないのだ(全ての場合がそうだとは言えないにしても)。じゃあ事実が必要とされていないなら、「より良い」物語を普及させればいいのか、それとも、物語云々に拘泥するのを止めて物理的な水準でコントロールを働かせればいいのか、あるいはもっと別の方法があるのか、そういうことは今の私には言えない。ただ、(これは国家論について考えていった場合にも行き着くところだが)例えば宮台真司が「幸福論」とか言い出したり、東浩紀が独特の国家観を示したりすることには、ある種の蓋然性があるということを、あまり見くびらない方がいい*9


*1:東浩紀はこの区別に注意を促していた。

*2:本当は時期/時代の名前は何でもいいのだが。

*3:以下も参照。スピリチュアル的なものとモノ・サピエンス的なもの http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070429/1177836073

*4:ジョック・ヤングは、差異や多様性が称揚されるとともに商品としてパッケージ化され、消費されることを通じて、差異は「本質化」され、アイデンティティとして強調されるようになると指摘している。ジョック・ヤング『排除型社会』洛北出版、2007年、153頁、263頁以下。

*5:代表的な「ニセ科学」とされる血液型言説が、少なくない日本人にとって自己像をまとめ上げるための手段の一つとして用いられているのは示唆的である。

*6:もちろん、北田がこうした観点からのみ限界を見出しているとは思わないが。

*7:もちろん、数の上では、そう考えない人の方が今でも多いのかもしれないけど。

*8:そう言えば昔、「居直り」について論じたことがあったな。

*9:あぁ、こういうふうに鈴木、北田、宮台、東、とその筋ではキャッチ―な名前ばかり出して話すせいで、ある角度から偏見を持って見られるんだろうな。


No comments:

Post a Comment

Share