Monday, July 7, 2008

被害者が負うもの・負わないもの


藤井誠二が犯罪被害者に密着し過ぎていることは既に明らかだが、この本の第1章での本村洋への同一化の程度は甚だしい。私は別にそれを批判しようとは思わないけれども(藤井は研究者ではない)、ノンフィクションライターとしても結構ギリギリの線を歩いているような気がする。

タイトルが示す通り、本書は「殺された側」に固有の論理があるという前提で編まれている。だが、ざっと読んだ限りでは、その論理を彫り出して見せようとする藤井自身がどういう立場性で以て、どのような「論理」あるいは「倫理」で以て「殺された側」の論理に寄り添っているのかが、ほとんど語られていないように思う。そういう観点からすると、書かれている内容に賛同するかどうかとは別のところで、作品としての本書は完結性を得ていないと言うか、不十分な面が大きい。題された強い言葉を、内容が消化しきれていないという印象を受ける。


「殺された側の論理」がどのような内実を持つものなのか、それ自体も整理された形で提示されているとは言い難いが、目を留めざるを得ない興味深い記述は在る。特に私が強い印象を受けたのは、とにかく「罪」に対して「罰」が下されればよいのだ、という徹底した応報観念だった。


 この流れをどう受け止めるかは立場や思想によって考え方があるだろうが、被害者遺族は一貫して罪に見合った罰を求めているのに対して、「殺した側」が「更生の可能性」を持ち出してきても一方通行になってしまう。

 なぜならば大多数の遺族にとって、加害者の「更生」は(するにこしたことはないが)二の次三の次の問題であって、かつ「真の」更正など期待はしていないのである。もっと言えば「どうでもいいこと」なのだ。私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきたが、これが遺族の心情であると断言することができる。

 更生しようが、しまいが、やった罪に対するフェアな罰を望んでいる。更生しているから減刑してもいい気持になるのではないかとか、寛大な処分を司法に求めてもいいという心情になるのではないかというのは、勝手な第三者の想像である。


[45-46頁]


「[地下鉄サリン事件の被害者遺族高橋シズヱの発言]……加害者が反省しているかどうかなんて裁判官にわかるはずがない。どんな犯罪をなしたのかという、事件時の加害行為だけを見て裁いてほしい。……」

[中略]

 2006年、東京高裁は控訴趣意書を期日までに提出しないことを理由に、首謀者・松本智津夫の公判を打ち切り死刑が確定したが、弁護団の主張通りに裁判を引き延ばしていたら、いったい何年かかったのだろうか。だが「事実」を知るということは、社会のためにも必要なことだと私は思う。

 しかし、殺された側から見れば「加害者の本当の気持ちや動機」など知りたくもない場合が多いし、とくに「反省の心」など信用できるはずがないのも当たり前である。

 そもそも加害者の「心」の読み合い合戦をしたところで誰かに真実がわかるのだろうか、という意見ももっともだと思う。それこそが裁判を長引かせているのだ、と。この命題と被害者の権利をどう両立させればいいのか。議論を尽くす必要がある。


[214-215頁]


犯罪の「理解」から、端的な処罰へ。その是非は措くにしても、こうした流れが強いものとなっていることは明らかであろう*1。本書の各所で表明される精神障害者の不可罰ないし減刑を定めた刑法39条への厳しい視線も、この流れと一体である。


ところで、「私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきた」から、「これが遺族の心情であると断言することができる」と述べられることは、看過できることだろうか。藤井は、死刑の維持と執行は犯罪被害者遺族共通の望みであるかのように語る中で、犯罪被害者遺族でありながら死刑廃止を訴える原田正治を「例外中の例外である」と断じる。そのような被害者や遺族は「ごくわずか」であり、「100家族以上の被害者遺族を取材した経験がある私は、そのような方にじっさいにお目にかかったことはない」、と(217頁)。何だ、それは。率直に言って、私はイラッとした。犯罪被害者が抱える何らか固有のものを抽出しようとする際に、紛れもなく犯罪被害者の一人である人物の経験と立場を、「例外」の一言で簡単に排除することが許されるのか。「殺された側の論理」を提示する作業とは、多数派の犯罪被害者の立場を一般化して押し出すことを意味するのだろうか。それは身勝手な「第三者の想像」よりも幾分かマシかもしれないが、果たしてどれほどの違いがあるだろう。「100家族以上の犯罪被害者遺族」に会ってきた経験を過小評価するつもりはないが、それが何の保証になるわけでもない。原田のような例外に「お目にかかったことはない」と言う。それでは、原田に会いに行けばよい。なぜ、会わないのか。ここでは、そのことを問わざるを得ない。


少し脱線(?)した。最後に、個人的に最も重要だと感じる点を引いておく。


 仮に「償う」という行為があるとしても、それは殺された側と殺した側の何らかの形での交わりを意味する。それははたして安全なのか。安全は誰が保証するのだろうか、両者の間に介入して調整をする立場の人間はいるのか……。

 加害者が「生きて償う」ことは、殺された側にとってみれば高いリスクを伴うことだということを、私たちは想像してみるべきなのだ。


[220頁]


そう、当事者同士が直に接触することには、大きなリスクが伴う。例えば自力救済としての復讐にせよ、返り討ちにされるリスクは小さくない。裁判という仕組みは、一面ではそういったリスクを縮減する機能を果たしている。確認するが、「裁判」とは、当事者間の紛争に対して第三者的な立場から公権力が裁定を下すことである。国家が裁判を行って加害者を罰するのなら、そうでない場合と比べて被害者が行うことは少ない。被害者が負うリスクも、小さくなる。国家が行う「裁判」なる仕組みの中で被害者の権利を拡充し、また被害者の望みを判決に反映しようとすることは、被害者のリスクを小さく保ったまま、「得られる」ものを最大化しようとすることになる。それが悪いと言いたいわけでは、必ずしもない。ただ、そうした流れの先では国家の影響力がずっと大きいままに保たれ、当事者/利害関係者を主体とした紛争解決という方向性での可能性は育たないだろうな、と。そう思うのである。


以下、参考まで。


被害者及び死刑

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1

死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


*1:以前、「何も解らないまま麻原を死刑にしてもいいのか」との問いに答えた江川紹子が、「もう十分だ、事実が解明される望みが薄いのにこれ以上時間をかける意味はない」という趣旨のことを述べていたのを思い出した。


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