Saturday, August 16, 2008

続・「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話


未だ当たっておくべき文献は残っているのだが、もとより論文を書くわけでもないし、それなりに文献を渉猟する中で既にある程度言えることも出て来たので、ひとまず書いておくことにしよう。なお、本エントリは以下の二つのエントリの続きとして書かれるので、予め参照を乞いたい。





「国が仇を討ってやるから、勝手にやるな」



まず、全国犯罪被害者の会で代表幹事を務める岡村勲の手になる文章の一節を引いておきたい*1


 人問誰しも犯罪、特に重大な犯罪の被害者や遺族になれば、加害者に対して応報感情を持つのは当然だ。

昔は「仇討ち」という制度があった。殺害された被害者の近親者は、休職して仇討ちに行く。捜査費用は本人持ちだ。首尾よく目的を達して帰国したら、武士の鑑として賞賛され、復職する。途中の艱難辛苦に堪えかねて、脱落した者もいたろうが、それはともかく被害者の応報感情を満たす道は開かれていた。この制度は明治になっても続き、同15年公布の旧刑法で禁止となった(石井良助『大系日本史叢書4法制史』314頁)。私的制裁を許すと法秩序が保てない、国が仇を討ってやるから、勝手にやるな、ということだったのだろう。


注目したいのは、最後の一文である。「国が仇を討ってやる」との「契約」が国家と国民の間に交わされた事実の存在を裏付ける根拠は示されていない。そのような「契約」は、あくまでも岡村の想像の中に在るに過ぎない。これまで私たちは、岡村同様に「契約」の存在に注意を促し、「だから」国家による刑罰は被害者による復讐を肩代わりする装置として在るのだ、との語りを多く耳にしてきた。だが、思えば奇妙なことに、そのような「契約」の存在が明示された例は聞かない。それは、実際には「契約」など存在しなかったからではないのか。私にこのエントリを書かせている中核的な疑念は、このようなものである。タイトルに据えられている言葉も、そのような意味を持つ。

この出発点を忘れないで欲しい。つまり、私の関心が最も強く向けられているのは、近代化に伴って刑罰権を回収していく国家が、犯罪の被害に遭った者による復讐の代行を引き受けるような姿勢を明示的/黙示的に採ったという歴史的事実が確認できるかどうかなのである。そのような事実が確認できるのならば、「だから…」と主張されることには裏付けがあると認められる。逆に、そのような事実が確認できないのならば、当該の言説は神話を拠りどころにしていると判断せざるを得ない。最終的に私は(前回に引き続いて)後者の立場に傾くことになるのであるが、そうした結論に至るまでの道程を以下で順に辿っていこう。


日本刑事法制史の中の復讐



ここでは、日本における刑事法の歩みと各時代の特徴を、かいつまんで押さえておきたい。


上代・上古における「つみ」とは、神に対して「包み/慎み」隠さねばならないような、神の忌み嫌うもの・神聖を害するものの意味であり、その内容には悪事・悪行の他に疾病・不具・災厄・災難・醜穢なども含まれていた*2。「つみ」に対しては、それによって生じた「けがれ」を「はらふ」ことによって、神の怒りを鎮めなければならない*3。かくのごとく当時の犯罪観は宗教的なものであり、「犯罪者」に対して行われるのは今あるような刑罰と言うよりも、宗教的儀式としての「はらへ」であり「みそぎ」であった。

その後、律令制が整備されて以降には、儒教的道徳が犯罪観の基盤を成した。刑事政策の眼目は道徳的秩序の維持・回復に据えられていたから、一般予防のみならず、犯人の教化などを通じた特別予防も重視され、その両方が刑罰の目的であった。また、刑罰は公権力が行うものとする公刑主義が採られていたため、私刑は当然に制限されていた*4

鎌倉期に入ると、刑罰の目的として一般予防に重点が置かれるようになる。その背景には、律令制を支えた儒教的道徳から武家社会を支配する封建的道徳へと、刑事政策の基盤が移ったことがあろう。犯罪者の内面を顧慮する姿勢を保つことは、武断的色彩が濃くなるにつれて困難になるのだろうか。室町期から戦国期へと、時代を下るごとに一般予防主義への傾きは強くなっていくことになる*5。戦国期に喧嘩両成敗法が登場するのも、このような文脈の中でのことである*6。室町期に至る武家政治においても公刑主義は変わらず、私刑・敵討は禁止されていた。戦国期も同様だが、この時期に部分的ながら敵討を許容する例が現れ始め、それが徳川幕府の採用するに至って、江戸期の敵討公許制が形作られることになる*7

江戸期においても公刑主義が原則であり、一般的には私刑は禁止されているのであるが、所定の手続きを経て幕府の許可を得る限りで、親や兄などの敵を討つことが許された*8。以前のエントリで私は、敵討を為し得たのは基本的に武士階級の者だけであっただろうとの推測から、日本においても私的刑罰権が承認される範囲には階層的な限定性があったのではないかと想定を示した*9。現に、敵討は「主として武士につき」認められた制度であるとの解説もあるが*10、他方で庶民もほぼ同様の手続きを通じて敵討が可能であったとの伝もある*11。後者によれば、庶民による申請は容易に許されなかったものの、江戸末期においてはむしろ庶民による敵討の方が多くなったとされるので、日本における復讐の階層的限定性はあまり強くなかったのであろう。なお、江戸期においても一般予防が刑罰の主目的と見做されていることは変わらない*12

明治3年に制定された「新律綱領」には、「闘殴律」なる条文が見られる。これは、祖父母ないし父母を殺された者が敵討を行って犯人を殺すと笞50の刑に処するけれども、現行犯の時点で犯人を殺して官に告げれば罪を免ずるという規定である。明治6年2月の37号布告が復讐を禁じたことによって同条文の免罪規定は廃されたが、反発が大きかったのであろう、同年4月の122号布告で復活を見た。敵討を許容する規定の全廃は、明治13年公布(15年施行)の旧刑法の制定による*13。この時ようやく、近代国家的な刑罰権の独占が完成したと言えよう*14


敵討の「違法」性



以上は、日本法制史学の主流的見解である。ポイントは、ひとまず二点ある。第一に、刑罰の目的は一貫して一般予防を主としていること。つまり、歴史的に見れば、刑罰は常に何らかの意味での社会秩序の維持・強化のために科されてきたということである。第二には、敵討が制定法によって認められていたのは、江戸期とその前後の短い期間に留まること。中世においては復讐が自由だったと言うのは、それこそ神話であるに過ぎない。

もっとも、第二点については『喧嘩両成敗の誕生』を著した清水克行の反論がある*15。清水は、敵討を公権力が公認していた事実は「近世以前の日本ではほとんど確認できない」と述べて、敵討が制定法の上では禁止されていたことを認める*16。だが、社会通念としては敵討が「違法行為」であるとは考えられていなかったし、現に室町政府内には父祖の敵討を無罪とする判断を示す者が現われていることが確認できると言う*17。清水の記述によっては室町期以前の「社会通念」がどうであったのかは不明であるが*18、「現存する公権力の制定法がいずれも敵討を禁止しているからといって、それが必ずしも中世社会全体の中で敵討が違法行為であるとみなされていたことの証拠にはならない」との主張は確かに正しい*19。正しいのだがしかし、それは「戦後の法制史学の最大の誤り」と言うよりも、法制史研究の射程ないし範疇をどこまでに設定するかという方法論上の問題と見るべきだろう。

無論、清水が指摘するように、公権力による制定法に限らず社会内に存在している多元的な法慣習に着目することは重要であるが、「法制史」なるものを描く場合に、多元的な法慣習にまで目配りをすることがどこまで可能であり、どこまで目指されるべきなのかは、簡単に答えが出せる問題ではない。「もっと目配りをするべきだ」との主張なら受け容れ易いが、目配りをしていないから事実認識としても間違えていると主張するなら、粗雑に過ぎるだろう。憶測を含むことになるが、「戦後の法制史学」は多分、敵討が制定法上は長く認められていなかったことを記述してきただけで、「だから敵討は現実にも行われていなかった」とまでは言っていなかっただろうから、いわば強調点の相違が在るに過ぎない。少なくとも私は、公権力による制定法と社会内の法慣習を同水準で扱うべきだとは考えないし、それゆえに多元的な法慣習の中で認められていたから敵討が「違法」であるとは考えられていなかったとの主張に対して、すんなりと首肯する気にはならない。社会内の法慣習は、実定法によって採用されている部分を除けば基本的に実定道徳と見做すべきであり、その道徳――広い意味での「法」――に適っていることと、実定法――「法律」や「法規」――によって認められていることは最低限区別が必要である*20

だから、近世以前の日本においては敵討は制定法上は違法であったけれども、現実には社会内部の様々な法慣習に基づきながら盛んに行われていた。そう言えばよいだけである。前回のエントリでは農民からフェーデの権利が剥奪されていった中世ヨーロッパの歴史を書いたが、現実には禁止されたフェーデを農民が行うケースはしばしばあったという*21。かくのごとく現実は多面的であるが、しかし制定法への違背が存在するからといって制定法の存在が直ちに無意味になるわけではないのであって、その内容をそれとして捉えておくことは軽視できることではない。したがって、江戸期目前に至るまで敵討が公権力には認められたかった事実の意味は――加えて、公権力の許可を得ない敵討が認められたことはないという事実の意味も――、小さくならない。


中世における復讐の意味



ヨーロッパについての話が出たところで、前回のフォローの意味も込めて、このまま少し舞台を移そう。

古代から中世までのヨーロッパにおける復讐の主体になったのはジッペ(氏族)であり、個人ではなかった。個人に向けられた攻撃は、ジッペ全体への挑戦と見做され、加害者側のジッペとの私闘=フェーデを引き起こす。フェーデを行うことは単なる権利であるだけではなく、義務でもあった。その際に問題になるのはジッペ全体の名誉であり栄光であったから、被害者本人やその家族/遺族の感情はあまり重要でなかったと思われる。実際、フェーデにおいて標的とされるのは加害者本人であるよりも、相手方のジッペにおける主だった者や、被害者と同等の地位にある人間であった*22

また、宗教上の犯罪や、夜間の窃盗、放火、強姦などの「破廉恥罪」のように国家や人民全体の法益を損なうような特別な違法行為(アハト事件)に対しては「平和喪失」が宣言された。これは加害者が法の外に放逐されることを意味し、以降、彼は単なる「狼」として追い立てられ、狩られる対象となる。誰もが彼を殺してもよい、と言うよりもむしろ、「狼」は狩らねばならないとされるのである。平和喪失者については、その殺害を妨げるべく彼の氏族が保護を与えることは許されない*23。アハト事件とは、フェーデが許されない種類の犯罪なのであり、それゆえに国家的刑法の萌芽とされる*24

アハト事件において問題となるのは、社会秩序の毀損である。犯人は国家および人民全体の敵と見做されることになるが、それは毀してはならない秩序を毀したからである。犯人が法の外に置かれてジッペの保護も失い私刑の対象とされるのは、社会秩序に対する重大な毀損を行った者を社会全体の敵として適切に処理することによって、社会内の秩序を回復するためである。その際、犯人に対する刑の執行は、宗教的儀式の性格を帯びている。すなわち、社会の構成員が共同して犯罪者を処理する儀式を通じて、社会秩序が回復されたとの見做しが行われる。そのような機能が働いていると考えられるだろう*25。だとすれば、これはいわば「社会からの復讐」、すなわち応報としての刑罰の現れであると見做せることになる。

以上のような中世ヨーロッパ事情から、中世における復讐の観念が、現代の私たちとはやや違った意味合いを持っていることがうかがえる。その違いを端的に言えば、現代の復讐観念は(近代化を反映して)個人単位であるのに対して、中世の復讐観念は集団単位、共同体単位である、ということである。そして、この点については、日本も概ね同様のことが言える。中世日本社会に見られる「衡平感覚」「相殺主義」は*26、中世ヨーロッパと似ている。敵討において重視されるのが相互の共同体の名誉である点も、敵討の標的にされるのが加害者本人であるよりも被害者と同等の地位にある者である点も、フェーデと同じである*27。そこでは、被害者本人やその家族/遺族の感情は置き去りにされることが少なくないし、加害の事実がどうであったかや、加害者が誰であるのかといった事実なども重視されないことがある。つまり、中世における復讐は、被害を受けた個人のためにあるのではなかったし、復讐を為し得る権利が帰属するのは個人であるよりも彼が帰属する共同体であった。このような事実を無視して、近代的個人主義を前提とする現代の私たちが、「中世においては復讐が認められていたが、国家がその権利を奪った」と語り、国家が無ければあらゆる個人の手に復讐の権利が渡っているはずであると想定するのは、現代的眼差しから過去を錯視するアナクロニズムと言わざるを得ない。


「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」と語ることの意味



長い論述になった。強調しておいた出発点を覚えているだろうか。問いはこうだった。歴史的に見て、近代国家が刑罰権を独占するにあたって国民に復讐の肩代わりを約束したという事実は確認できるか。答えは、「確認できない」。それは日本の刑事法制史を辿って見せた段階で既に明らかだった。統治者はただ淡々と、復讐を禁じ、私刑を廃しただけである。制定法を見る限りは、そうとしか言えない。

しかし、社会内部の実定道徳としては敵討が許容されてきた長い歴史が在るし、直前の江戸期においては公権力も敵討を容認していたのであるから、被治者の側に「復讐を禁じるなら、国家が代行してくれなければいけない」との強い要望が広く存在していたことは想像するに難くない。だから、「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」との見解が現代まで引き継がれて流通していることには、それなりの理由があるとは思う。とはいえ、制定法の意味を軽視できないことは強調した通りであるし、現に「契約」は見出せないのであるから、そうした言説はやはり神話なのである。

私が「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」との言説が神話であると指摘するのは、そうした言説を語ってはいけないということを意味しないし、言説の内容そのものを論駁したことにもならない。歴史的にはともかく、「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」べきだ、と主張することは妨げられないからである。私が示したのは、例えば岡村が想定しているような「契約」は歴史的に確認できないので、「契約」の存在を前提としながら「だから刑罰は…」と語るなら、それは妥当しないということに留まる。歴史的事実においては「刑罰は国家による復讐の肩代わり」として措定されたことはないが、規範的主張の一つとして「刑罰は国家による復讐の肩代わり」であるべきだと主張するのは自由である。ただ、その主張が歴史的裏付けに支えられない独立した主張であることについての認識を求めたい*28



*2:石井良助『体系日本史叢書4 法制史』(山川出版社、1964年)、25頁。大久保治男・茂野隆晴『法律学全書8 日本法制史』(高文堂出版、1983年)、34頁。

*3:石井前掲書、26頁。大久保・茂野前掲書、38-39頁。

*4:石井前掲書、73頁。大久保・茂野前掲書、90-91頁。

*5:石井前掲書、137-138頁。大久保・茂野前掲書、159-160頁。

*6:石井前掲書、138-139頁。大久保・茂野前掲書、168頁。

*7:石井前掲『法制史』、213頁。石井良助編『法律学演習講座 日本法制史』(青林書院、1959年)、285-286頁。

*8:石井前掲『法制史』、213-214頁。大久保・茂野前掲書、227-230頁。石井編前掲『日本法制史』、286-287頁。

*9:このような想定は、岡村の文章を見ても、決して特異でないことが分かる。だが、復讐を為し得たのが武士階級だけであったとするなら、近代において国家がその権利を剥奪したからといって、なぜ国家が国民全体について復讐の肩代わりを引き受けなければならないのだろうか(前回のエントリにおいて私が階層的限定性に注意を促した意味はどこまで理解されたのだろう)。岡村においては、この論理的齟齬が齟齬と見做されていない。もとより、この国では誰もが無根拠に特権的階級(サムライ!)の末裔の心づもりで居るのだ。

*10:石井前掲『法制史』、314頁。

*11:石井編前掲『日本法制史』、287頁。

*12:牧英正・藤原明久編『日本法制史』(青林書院、1993年)、147、225-226頁。

*13:高柳真三『日本法制史(二)』(有斐閣(有斐閣全書)、1965年)、198頁。石井前掲『法制史』、314-315頁。

*14:川口由彦『新法学ライブラリ‐29 日本近代法制史』(新世社、1998年)、160頁。

*15:同書をご教示して頂いた「とおりすがり」さんに感謝する。

*16:清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社(講談社選書メチエ)、2006年)、37頁。

*17:同、37-39頁。

*18:同書を読む限り、清水は室町期の事例のみを語りながら日本中世の全体像について描こうとする無理を為しているように見える。

*19:清水前掲書、40頁。強調は原文傍点。

*20:私は、法についての認識態度において法実証主義に与する。

*21:ハインリッヒ・ミッタイス『ドイツ法制史概説』(世良晃志郎訳、創文社、1954年)、323頁。

*22:ミッタイス前掲書、43-44、46頁。阿部謹也『刑吏の社会史』(中央公論新社(中公新書)、1978年)、42-43頁。

*23:例外はある。

*24:ミッタイス前掲書、44-47頁。阿部前掲書、44-45頁。

*25:阿部前掲書、95-96頁。

*26:清水前掲書、119頁。

*27:清水前掲書、169頁。

*28:こうした規範的主張を打ち出したい者が、それでも何らかの裏付けを得ようとして採る方法は幾つか考えられる。社会契約説的な論理を援用するのも、その一つであろう。それについては以前に検討し、否定的な評価を与えたが、おそらく今回の論述はその評価を補強しているはずである。詳細については、また機会があれば検討して述べることにしよう。


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