Friday, October 17, 2008

かかわりあいの政治学2――個体の「本質」を疑う


(承前)


前回、何が「自分のこと」であるのかは、何が自分に「関係する」のかについての意識に依存していることを述べて、いわゆる「自己決定」原理が前提としている論理を抉り出して見せた*1。今回は、その関係の主体、意識する主体について、掘り下げて考えてみたい。丁度、roryさんに言及を頂いたのを契機に、少し前に気になった一節を思い出したので、それを足掛かりにしよう。


言語哲学の有力説によれば、名前(固有名)は、決して(それによって指示される個体の)性質についての記述に還元されえない。「大澤真幸」という名前は、「社会学者で、大学教員で、松本の出身で……」といった、アイデンティティの内容を示す諸性質の記述に置き換えることはできない。理由は簡単だ。これら諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だからである。だから人は「大澤真幸が松本出身でなかったならば」等のことを、いくらでも仮想できる。要するに、名前は、個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示しているのだ。


[大澤真幸『不可能性の時代』岩波書店(岩波新書)、2008年、65頁]


この考えは、ほぼ完璧に間違いである*2。「諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だから」との主張は無根拠であり、ただ直感に訴えているに過ぎない。「諸性質の記述」を「確定記述」と呼ぶが、現に存在している「大澤真幸」の確定記述を一つ変えても同じ「大澤真幸」であり続けられると考えるのは、単なる錯覚である。これは別著で大澤自身が出している例だが、仮に大澤が虫に変身して過去の意識も失ったとしたら、その後でもなお、その虫を「彼」――かつて私たちが意味していた「大澤真幸」――であると考えるのは無理な話だし、間違ってもいる*3

個体は、確定記述を含めて、全体で「その個体」として構成されているので、記述が書き換えられれば、その度毎に「大澤真幸」の指示内容は更新されていく。今現在の大澤真幸は、松本出身であるから――ないしは松本出身であると信じているから――今のような大澤真幸になった。同じ遺伝子を持っていても、別の地に生まれ育ち、別の経験をし、別の人間関係を築き、別の職業に就けば、私たちが意味する「大澤真幸」にはならない。彼は、社会学者となり、大学教員になったからこそ、今存在しているような大澤真幸へと至ったのである。そして、唯一無二の個体としての「大澤真幸」は、定義上、時空間を通じて一個しか存在しない。したがって、「松本出身でなかった大澤真幸」は、現に松本出身である大澤真幸とは別の個体である。

今現在の大澤真幸(マサチA)と仮想された「大澤真幸」(マサチB)が同一人物であるように思えるのは、今現在の大澤真幸の像を通じて仮象を構築しているからである。これと基本的に同種の誤りとして、過去の「大澤真幸」(マサチC)や未来の「大澤真幸」(マサチD)をマサチAと完全に同一視することがある。マサチAは、マサチB・マサチC・マサチDのそれぞれと大半の確定記述を共有しているが、単にそれだけである。確定記述がほとんど一致していても、完全に一致していなければ同一人物とは言えない。


マサチAをマサチB・マサチC・マサチDと同一人物であると思い込む誤りが生じるのは、確定記述の集積に還元されない「余剰」、すなわち個体に固有の「本質」が存在しているとの想定があり、その「本質」の存在によって「大澤真幸」であることを同定できると考えられているからである*4。しかし、その「余剰」とは一体何であるのか。

おそらく、そんなものは存在しない。存在するのは個体の唯一無二性だけである。個体が唯一無二であるのは、絶対に他の個体と重複しない「本質」を保有しているからではない。無数の確定記述の組み合わせと、それを総合する「器」としての個体が今・此処に存在しているという端的な事実が、それ自体として唯一無二でしか在り得ないのである。


もちろん私たちの直感は、確定記述を一つ違えた自己(私B)や、過去および未来の自己(私C/私D)を、今現在の自己(私A)と同一人物だと教える。また、社会生活や法制度においても、私Aを私Cや私Dと同一人物であると見做さなければ、著しい混乱が引き起こされてしまうだろう*5。だが、少なくともマサチA≒マサチB≒マサチC≒マサチDと考える――社会運営上の必要からマサチA=マサチB=マサチC=マサチDと「見做す」――ためには、「余剰」の想定など必要無い。単に複数の「マサチ」の間で大半の確定記述――すなわち〈関係〉――が共有されているから彼らを同一視するのだと、ありのままの事実に即して考えればよい。
個体の確定記述は一瞬一瞬に更新されていくので、今現在の私は、この文章を書き始めた時の私とは全然別人である。しかし、他の個体との差異に比べれば、異時点の私に生じた差異などはほとんど無視できる程に微小であろう。したがって、異時点間における人格の同一性が相対的であることを一旦認めるなら、自己の利害と他者の利害を同水準で配慮しなければならなくなる、と考えるのは無理がある*6。私はそうした極端なことを主張したいのではなく、個体の「本質」のような不明朗な想定に頼って個体間の差異を絶対化するよりも*7、確定記述の重なりと差異という観点から、個体の構成と個体間の関係を一元的に(フラットに)把握することによって、より見通しが良くなるのではないかと言いたいだけである。



*1:誰も覚えていないであろう連載の第2回目であるが、当然のように再開してみる。

*2:私は言語哲学に詳しくないが、この説は研究者から一般の人に至るまで広範に支持されている様に思う。法学分野での「有力説」とは多数の支持を得るまでには至っていないものの説得的な論拠を提示している説を意味するが、ここで示されている説は法学で言うところの通説ないし多数説となっているのではないだろうか。

*3:衝撃的な「変身」の後でもなお、その個体に固有の「本質」が(たとえわずかでも)残されていたと描く数多のファンタジーは、記憶の連続性を前提とする限り、「諸性質のすべてを失っ」た後でも「本質」が残されるという事態を描けてはいない。ある想定がファンタジーとしても描けないということは、それが人間の想像力を超えており、(私たちにとって)根源的に在り得ない事態であるということを意味する。

*4:論点先取。

*5:思うに、確定記述に還元されない「余剰」とは、マサチBやマサチCやマサチDがマサチAと同一人物にしか思えないという感覚に基づいて、遡及的に構成された想定である。

*6:D.パーフィットがこれに類する主張をしている。議論の詳細は、北田暁大『責任と正義』(勁草書房、2003年)を参照。

*7:私の主張はもしかすると解りにくいかもしれないので端的に確認すると、「個体は確定記述に還元し得るが、唯一無二である」との旨である。なお、この意味での唯一無二性は、「この私」も「この消しゴム」も、完全に同等である。


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