Tuesday, October 27, 2009

「一般意思2.0」の勘所、あるいは「データベース民主主義」の理論的位置


私の論文などに興味がある人はごく少数でしょうから、ブログマターに戻って先日の話を続けましょう。

デモクラシーについての私の理論的立場は既にお話したので、今回は東的デモクラシー論が持つ可能的意味にグッと焦点を絞りたいと思います。東さんは「朝生」終了後から、ご自身のツイッターで自らが構想する新たなデモクラシー像について断続的に説明していらっしゃいます。その中で、「データベース民主主義」こそ自分が意図するところだと語っておられる。ほとんど鈴木謙介さんの言う「数学的民主主義」の言い換えですが*1、私の考えでは、これは同時に「データベース全体主義」とも言い換えられます。

早とちりしないで下さい。全体主義だから悪いと言いたいのではありません。現代社会では「良い全体主義」が可能になっているのではないか(それに抵抗すべきか否か)、といった議論は、社会思想分野におけるトレンドになりつつあります*2。全体主義でも構わないとするのも、今やそれほど無茶な立論ではないのです。東さんが自分で民主主義を名乗るか全体主義を名乗るかは、重要ではありません。紛れも無く民主主義でありながら同時に全体主義でもあるという体制は、解釈次第では可能です。


民主主義とは何を意味するかを基礎から捉え直すためには、まずこちらの講義を読んで下さい。以下、そこで述べられていることへの理解を前提として議論を進めます。注目して頂きたいのは、末尾近くにある、「実質的自己決定」の実現による「もう一つの民主主義」について述べている箇所です*3。対応する詳細な理路は論文で展開して見せましたので、引用します。


 注意すべきなのは、民主政と多数決が必然的に結び付くとはいえ、両者は形式上相互に独立であるという理論的事実である。デモクラシーにとっての尖鋭な問題は、この隙間に潜む。集合的問題に対する統一的決定を形成する役割を担う民主政は、人民の内部に意見の相違が見られる場合には多数決を断行することに必然的理由を提供できるが、意見の相違が「見られない」場合や、特殊意思そのものが表明されない場合には、敢えて差異を露わにすべく議論を促す内在的理由を持たない。

 一般意思が人民にとって「私の意思」であると言うのならば、人民主権において重要なのは、一般意思を形成する手続きや主権者意思の執行を担う主体であるよりも、現実に一般意思が「私の意思」と一致しているか否かのはずである。言い換えるならば、「意思形成にどれだけ参加できるか」という形式上の問題よりも、「私の意思がどれだけ正しく代表されているか」とか「一般意思は私の利益とどれだけ合致しているのか」などの実感の問題の方が、人民主権の本質を体現しているのではないか――少なくともそう解釈することは不可能ではない。たとえ制度上の政治参加が困難であり、自己決定への意思を表に出すことはできなくとも、一般意思が自分の意思と一致しており、統治が自らの選好を体現するように行われている限り、自己決定の達成感や自己実現の感覚――積極的自由――を享受することはできる。

 いわば「実質的自己決定」――自己決定を為すまでもなき自己決定の実現――とでも言うべきトンネルを通じて「国家による自由」を生み出すこの理路は、規範的是非はともかく、有り得る一つのデモクラシー解釈である。それは現に、理論的領域ではC.シュミットが展開した立場と部分的に重なりを持つし、歴史的には多くの君主制国家や独裁国家、社会主義国家などで体現されてきた思想と共通する。拍手喝采政治や前衛政治を執る国家が民主的であることを標榜するとしても、それを僭称や偽装と即断することはできない。そこにはデモクラシー観の相違が横たわっていると考えるべきなのであり、少なくとも当該国家の体制内部では、その体制が民主的であると真に信じられる余地は十分に存在するのである。


(「自由の終焉――「配慮」による内破と「自己性」への転回――」、14-15頁。注は略)



どうでしょうか。民主主義かつ全体主義であることは可能だ、と申し上げた意味が、おおよそ見当付いたのではないでしょうか。

自己決定とは自分が望む内容の決定を為すことなので、決定過程への参加にかかわらず、決定内容が自分の望みに合致していれば、実質的に自己決定が実現したものと見做すことができます。政体としての「民主政」と区別される価値理念としての「民主主義」は、できるだけ多くの自己決定の実現を追求価値と考えますが、手段は問うていません。それゆえ、「みんな」の望みがかなうなら、討論はおろか投票さえ、それを行う必然性は失われるのです。

もうお気付きでしょう。「データベース民主主義」が提起しているのは、これまで「拍手・喝采」を介して行われてきたことが、今ではグーグルその他のテクノロジーを介してもっと精緻な仕方でできますよ、ということなのです。

繰り返しますが、だからけしからんという言い方は、私はしません。それどころか、理論的観点からすれば、ここには大した変化はありません。

先日の議論を思い出して下さい。抽象的な集合体でしかない「国民」は、(「自治」や「代理」ではなく)「代表」されるしかないと言いました。これを「国民代表」と呼びますが、その範囲には裁判官などの官僚も含まれます。彼らも部分ではない国民全体の利益に尽くす義務があるからです。この具体例から理解できるように、実のところ、国民代表の地位は選挙とは無関係です*4。これは知っておくべき理論的事実だと思います。要するに王様だろうが独裁者だろうが、理論的には「国民」を代表しているはずなのです。逆に言えば、日本が世界に誇っている代議民主政と独裁制の違いなど、理屈上はさほど大きなものとは言えないということになります。

同様に、国民代表の中身が政治家から機械的なシステムに代わっても、理論的な意味が変わるわけではありません。民主主義が民主主義であるために最も重要なのは、「代表」する者が人々の自己決定を実現してくれるか、「われわれ」の利益が現に達成されるかということであり、実現・達成の範囲が拡大するほど、民主主義的には好評価が与えられることになります。したがって、何らかのデータベースやプログラムによって構成されたシステム――私はこれらを前掲の論文で<それIt>と呼びました――の自動的な働きが「われわれ」の実質的自己決定を「できるだけ多く」可能にしてくれるのであれば、それはデータベースを「代表」とする民主主義が機能しているのだと見做してよいでしょう*5


さて、前回は東的デモクラシー論が「代表」に敵対的であると解した上で、「代表」の不可避性を説いてみたわけです。しかしながら、今回お話ししてきたように、捉え方次第では、東さんの構想はむしろ「代表」の中身を刷新するものなのだ、と解することもできます。「朝生」での発言に限定されない前後の文脈からすれば、こちらの方がより適切でしょう*6。と言うのも、彼はいつでも討論など積極的な政治参加には一顧だにしておらず、「自治」や「代理」が重視されていると判断する材料は乏しいからです。言及されるのは常に、機械的に作動する何らかのプログラムのみです。東さんの考えでは、「自治」ないし「代理」が不可能な政治的無能力者の利害も、システムが自動的に計算に入れ、調整してくれるはずだと期待されることになるのでしょう。

とどのつまり、構想の途にある「データベース民主主義」、ひいては「一般意思2.0」の要点は、代表/代理の原理がどうとか、直接/間接の民主政が云々といった議論とは、かなり隔たったところに在るのだと理解すべきです。それは、はじめからそうなのです。ネットによる直接民主政の可能性を検討したり、衆愚への傾きを指摘したりすることは、それ自体としては重要かもしれませんが、こと当該の文脈においては、完全にピントを外したものです。議論の勘所は、テクノロジーの発達によって可能になるかもしれない、新たな形での「民主政抜きの民主主義≒全体主義」――そこでは私たちはほとんど何もしなくても望むものを手に入れられます――を許容できるかどうか(それを否定すべき理由は存在するのか)、そちらの方に在ります。

この辺り、詳しくは前掲の私の論文を読んで下さい(昨日紹介したものです)。「データベース民主主義≒全体主義」の実現可能性については、私には判断することができません。理論的な評価・賛否については、これまでの記事に書いてきました。ご本人に語る場があるのにもかかわらず、第三者がこのような「解説」を施すことは本来控えるべきかもしれませんが、東さんのデモクラシー論に対して政治学的な観点から言及している人は少ないように思えるので、私が用意できる限りの政治学的ツールを使って議論を立てさせて頂きました。多少なりとも参考にして頂ければ幸いですが、あとはご本人のまとまった著述を楽しみに待つことにしましょう。


*1
*2:以下などを参照して下さい。


*3:そこで使われている「人民」の語は、前回話した「国民」と互換的な意味で使われていると理解して下さい。

*4:杉原泰雄『国民主権の研究』(岩波書店、1971年)、308-311頁。

*5:<それ>を「代表」と見做すことが実際に可能か、そうした「国民代表」を前提にした国民統合が可能かどうかは別の問題としてありますが、ここでは問いません。東さん自身は、人々が<それ>を「代表」と見做したり、あるいは意識したりする必要さえ無いと考えておられると思います。

*6:どちらにしても政治学的な民主主義モデルへの再解釈・再構成を経た理解になるわけですが。


Saturday, October 24, 2009

ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解


私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5~10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。

過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日本社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で多面的な観点から現代社会を分析した結果、東さんのポストモダン論が概ね支持し得るものであるとの確かな感触を得ています。

他方で賛成し難いのは、彼がいわゆる「選好集計モデル」、つまり各々のメンバーが予め持っている意見や立場を単に集計すれば最適な意思決定が得られるとの想定に依拠していると思われる部分です。今回はSNSに言及していますから、ただ電子的投票を行うだけでなくウェブ上で直接討論するということも含めて「直接民主政」を考えているのかもしれませんが*1、彼の一連の議論において政治過程の中心イメージは常に「投票」であり、「討論」への言及が為されることはまずありません。しかしながら、既に別の記事で論じたように、「自分の欲求を実現するためには、所与の選好のまま投票するよりも、意見の違う人と話し合ってから判断した方が良い場合もあ」りますから、「私たちの自己決定(自分が望む結果をもたらすような決定)を可能にするためにこそデモクラシーがあるとすれば、直接投票が常に最も民主的な方法であるとは限らない」のです。


東的デモクラシー論に賛成できる点と賛成できない点をそれぞれ敷衍させる形で、さらに話を進めていきたいと思います。「覚え書き」で詳細に検討したように、ポストモダンとは、社会が高度に流動化し、「島宇宙」化し、共通前提を失ってより小さな単位へと切り離されていく(個人化)状況を表しています。政治家や官僚が忖度する「民意」なるものは、元々各種調査の対象としてしか存在しない何か漠然とした集合体でしかないわけで、本来は内部に差異や対立を抱えて一つにまとめようもないものを無理矢理にまとめあげているに過ぎません。したがって、解釈の客体としてしか在り得ない「民意」は常にフニャフニャと捉えどころのないものとしてしか現れず、その「代表」とはただでさえ融通無碍なものです。ゆえに、社会の一体性が失われていくポストモダン下では、全体を統合的に「代表」することが一層困難・無理な行為となり、本来は全く立場を異にする人々を糾合して疑似的な連帯を創出する「ポピュリズム」が不可避的に帰結されるようになります*2

これは、従来の「代表」統治、すなわち一元的政治過程における政府統治=「ガバメント」の限界を示す認識にほかなりません。社会は多様化・細分化しているのに選択の余地がほとんど無い二大政党制では対応できるわけがないとの不満はここから来ていますし、政治的有効性感覚の低下と無党派層の増加の最大の要因も、同じところに発しています。だから東さんが政治的意思決定の仕組みを根幹から考え直すべきだと主張することは物凄く理にかなっているし、90年代以降の政治学的認識とも大略一致するわけです。特に政治理論の分野で言えば、従来型の「利益集団自由主義」に対抗して出て来た「討議/熟議デモクラシー」が現在トレンドになっています。ただし、これは先に述べた「選好集計モデル」を批判して、投票よりも市民・政府・専門家を含めた討論過程を重視する考え方なので、東的デモクラシー論とは方向性が異なることに注意が必要です。


私自身はと言えば、討議/熟議デモクラシーの議論に大きな関心を寄せつつも、それとは微妙に力点が異なるStakeholder Democracy(利害関係者民主政)を新たなデモクラシー像として提唱しています。この考え方は、個々の主体が有する私的な利害関心を重視して、多様な利害関心が政治過程に伝達・反映されるための回路を再整備しようとすると同時に、従来の政治過程から社会内へと決定権を積極的に委譲して「利害関係者stakeholder」間での合意形成による決定および執行を支援・推進する点に特徴があります。ポストモダンでは従来の政治過程の外に巨大な影響力を有する企業や個人が存在し、政治課題の専門性も高まっているため、「ガバメント」の修繕・改良としての作業と並行して、「政治の遍在」を視野に入れた一般統治=「ガバナンス」を制度的に構築していかなければならないとの問題意識が前提されているのです*3

「ガバナンス」と言った時、それが単なる「市民参加」であっては意味がありません。何か漠然と一枚岩的な形で観念された「市民」は、結局抽象的な「国民」の別の名でしかなく、代表統治を補完するための付属物にしかならないからです。現在盛んに論じられている討議/熟議デモクラシーを私が片手落ちだと思うのは、政治的意思決定の在り方を刷新する様々なアプローチを提起してはいるものの、従来の政治過程(ガバメント)の外で何ができるかということ(ガバナンス)への関心が相対的に低く、社会内の「サブ政治」を含めた決定過程一般に適用可能な理論的成果が豊かとは言えないことです。この理論の「公共性」志向もその一因でしょうが、そのようにして大文字の政治から独立しきれない理論は、ややもすれば昔ながらの「参加民主主義」に話し合うことの大切さを付け加えただけで、やがて後景に退いていくかもしれません。


ガバメントの改善と同時にガバナンスの確立が必要であるということは、「代表」と並立して「自治」、ないしは少なくとも「代理」の政治が存在しなければならない、ということです。しかし、もはや「代表」が困難だと言うなら、「自治」ないし「代理」だけで行ってはダメなのでしょうか。東さんはインターネットのようなコミュニケーションツールの発達次第で直接民主政が可能な規模は拡大していくのであって、直接民主政の実現を阻んでいるのは物理的な障害と、それに規定された人々の想像力不足だけだと言います。これは、理論的に言うなら究極的には「代表」は廃止できるし、廃止すべきである、との捉え方であると解するのが自然でしょう。ですが、政治学的観点から言わせてもらえば、「代表」の存在理由はそれほど簡単に割り切れる話ではありません。

ポイントの理解には、憲法学における「国民nation」と「人民peuple」の区別が役立ちます。これは私が極めて重要だと考えているために何度も繰り返し書いていることでありまして、コンパクトに説明した記事平易に語った記事の両方を参考にしてもらいたいと思います。肝心なのは、具体的な直接行動が可能であるために「代理」原理との結び付きが強い政治的意思決定有能力者としての「人民」には、精神障害者や年少の子どもが含まれないことです*4。非「人民」にも利害は存在しますが、彼らはそれに基づいて「自治」を行うことはできませんし、そのまま「代理」してもらうことも望めません。もちろん一部の「人民」が身近な非「人民」の利害に「共感」してそれを自らの利害に同化させて行動することは有り得ますが、理論的に言えば、政治的意思決定無能力者の利害をそれとして忖度できるのは「代表」政治だけなのです*5

「人民主権」の怖いところは、部分の利害を体現する政治主体が全体を動かしてもよいと公式に認め、政治的無能力者の意思――あるいは政治的敗者の意思――は考慮するに足らないとする果断さにありますが、グーグルやツイッターによる「数学的民主主義」の実現に期待を寄せる論者も同じ果断さを持てるのでしょうか。

私は、無理だと思います。「人民主権」による「代理」統治には、時間軸もありません。現時点で直接に行動できる政治主体の利害が全てなのです。一般の人々がそのような政治を望むとは思えません。過去世代や未来世代を含んだ超歴史的な「国民」概念による代表統治とは、決定的な違いがあるのですが、「代表」と「代理」の別と言っただけでは、普通はここまで考えられてはいません。直接民主政への障害は規模だけだと主張する東さんも、多分この問題を真剣に考えたことは無いのではないでしょうか。「自治」はおろか、「代理」してもらうことさえできない主体が存在し、私たちがそれを切り捨てることができない以上*6、抽象的な「国民」が「代表」される契機を全廃することは不可能なのです。私は、ここに代表政治の不滅性を宣言することができます。


かくして、曖昧な「民意」なるものへの拘泥からも、私たちは完全に自由となることは望めません。しかし、注意を喚起しておきたいことがあります。性質上、「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下しているのです。つまり、本当で言えば、「国民」の統合感が衰えてきているので、「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなのです。ところが表面的には、通俗的な意味での「ポピュリズム」が云々されるように、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになっています。「民意」が過剰に仰がれていることよりもむしろ、実質的な有効性が失われつつあるにもかかわらず、未だに――あるいは今になって――代表統治的観念が枢要な認識枠組みとして重視されていることこそ、真の問題なのです。

したがって、為されるべきことはシンプルです。ガバメントではなく、ガバナンスに対応する新たな概念を生み出し、代表原理と自治ないし代理原理とを両立させるような総合的な認識枠組みを構築すること。そうした作業が必要とされているのです。「民意」とは別の新たな概念としては例えば「利害関係者意思」のような言葉が有り得るのかもしれませんし、Stakeholder Democracyこそ新たな認識枠組みの役割を果たすものでなければならないと、個人的には思っています。


最後に。代表政治は不滅だと、私は言いました。それは「国民」が、ナショナリズムが不滅だと言うことです*7。しかし、ポストモダン化が進行する中で、ナショナリズムの形も変わっていくとは思いますし、変わっていくべきだとも思います。私は、政治的無能力者にも利害は在るんだとも言いました。インターネットを介した直接民主政では彼らの利害に配慮することは難しいですが、彼らが独自の利害を有していることを明確に認定し、同時に彼らは有能力者と対等な社会のメンバーであると示す簡単な方法があります。ベーシックインカムです*8。同じ「国民」として社会というゲームを共有する者には、同じ「賭け金stake」が配られるべきです。たとえ自分自身では賭けられないとしても、彼の前にチップを置いておくことには意味があるのです。


*1:しかし「パブリック・コメントを洗練させる」としか言っていないことからすると、討論までは視野に入れていないのかもしれません。

*2:例えば「官僚」のように、「アイツがみんな悪いんだ」とスケープゴートをつくってしまえば、目指すところが全然違う人同士でも話が成り立つわけです。

*3:なお、この「ガバメント」と「ガバナンス」の用法は私独自のもので、政治学一般で通用するものではありません。ただし、両概念の対比は近年しばしば行われています。

*4:投票権を持たなくても他の政治的活動は可能なので、未成年全般が政治的無能力者であるわけではありません。

*5:もっとも、その場合の無能力者たちは抽象的な「国民」に含まれる一要素として観念されるに過ぎないわけですが、それでも考慮されるのとされないのとでは大きな違いです。

*6:過去世代や子どもの利害を切り捨てることは、自らの存立の基盤を切り崩すことになります。

*7:おや、これは私が「覚え書き」で書いた主張とは矛盾する見解かもしれない。自分で書いていて気付きました。ただ、大きくは強調点の違いだと思いますので、敢えて調整せずに公にしてみます。

*8:ベーシックインカムには東さんも多大な期待を寄せているようですから、その点では未来国家像において近いところがあると思います(全部が全部ではありませんが)。東さんの言葉で言えば「ポストモダンの二層構造」における下の部分、つまりセキュリティの層においてのみ機能するのがこれからの国家で、それを体現するのがベーシックインカムである、と。


Saturday, October 17, 2009

当事者と利害関係者の違い


当事者と利害関係者」@Soul for Sale PhaseⅡ、より。


ステイクホルダーという概念が社会問題の中で有効に機能するのは、これまで発言を認められてこなかった人々を「当事者」として当該の出来事の中に巻き込んでいくときだ。それは会社経営に権利を持つ、株主と経営者以外の人々は誰かとか、環境問題に対する、「直接の影響」を被る範囲はどこまでかとか、そういう場面で噴出する。だからステイクホルダーとしての当事者は、必然的にその境界を揺るがし、曖昧にしていく傾向にある。

それに対して社会問題を扱う研究者にとっての「当事者」とは、これまで「蚊帳の外」だった人々に、物言う権利があることを示し、彼らの声に耳を傾ける必要性を訴えるという点で、人を「アイデンティファイ」する振る舞いに関わっている。つまり「誰が当事者か」という問題を確定することから、社会問題の性格付けを変えるというものなのだ。そしてこの言葉は、何らかの「アイデンティティ」を必要としている人々を巡る社会問題の中で使われがちであることを含め、どちらかというと「境界を確定する」ために用いられることが多いようだ。

もしかしたらそれで大した問題はないのかもしれないけど、例えばまちづくりに関する「当事者」とは、「そこに住所を持つ人」なのか「そこを訪れるすべての人」なのか、なんてことを考え出すと、「当事者を巡るポリティクス」は、とたんに問題の本質へと切り込んでくるものになる。また、時間の話も重要だ。いまある状態にいる人だけが当事者なのか、それともかつてそういう経験をした人はみな「当事者」たる資格を有するのか。その辺りのことって、誰か考えているんだろうか。

本当なら、何か別の言葉を発明した方がいいのかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスと社会問題の関係は複雑だし、ましてや研究の世界でそれを扱うとなると、すごくデリケートな問題が多々発生するのだし。きっと「私たち・が・当事者だ」というのと「私たち・も・利害関係者だ」という物言いとの間にこそ、マジモンの権力が横たわっているのではないか。


「その辺りのこと」は、私が考えています。正確に言えば、考えた結果を既に論文の中で書きました(『利害関係理論の基礎』、第1章第5節2「利害関係者と当事者」)。当事者概念と利害関係者/stakeholder概念のそれぞれについて考察されたものは幾つもありますが、二つの概念を比較して異同と理論的関係性について詳細に検討を加えた例は稀有なはずです。


stakeholder概念が「境界」を曖昧にしていくのに対して、当事者概念は「境界」を画定しようとするとの指摘は的確だと思います。ただ、stakeholderという言葉を使う人も何らかの利害関心・問題関心からそうしている以上、曖昧にするだけして、そのままでいいとは思わないでしょう。その人たちも、普通はどこかで画定へと向かうはずなのです。他方で、当事者概念によって「アイデンティファイ」を行おうとする人たちだって、今まで「蚊帳の外」だったことへの異議申し立てとしてそうするわけですから、既存の「境界」を揺すぶるというプロセスを必ず経ることになります。

つまり、異なる文脈で使われがちであるように思われる二つの概念ですが、それぞれが社会問題の中で占めている位置と言うか、果たしている機能は大して変わらないのです。ほとんど同じだと言ってもいい。文脈が違うように思えるのは、使う人の強調点の違いが反映されているためだと考えるべきでしょう。


stakeholderの範囲を問題にして、利害関係って何だろうかと真剣に考え始めると、それはどこまでも際限無く広がってしまい得るものだということに気付きます。利害関係の中身は理論上何でも有り得ますから、ある問題に対して、誰もがstakeholderで有り得るのです。当事者概念がstakeholder概念と違うのは、そこで既存の「境界」を問題にする時に、「境界」の中に入って「物言う権利」を認められるべき主体が、人物単位・属性単位で予めハッキリと想定されていることです。誤解を恐れずに言えば、stakeholder概念は手続き、当事者概念は結果に相対的な力点を置いていると捉えるのが解り易いのかもしれません。

敢えて意地の悪い言い方をすれば、当事者なるものは、誰の声を重んじて誰の声を無視するのかという排除の意志を、より露骨な仕方で伴わせている概念なのです。無論、急いで付け加えなければなりませんが、「境界」の画定という排除を必然的に伴う点では、利害関係概念も政治性と無縁ではありません。ただ、そうした政治的な価値意識や権力の作用が、一連のプロセスにおけるどの時点で介入し、働くのか。その点に違いが見出せるのだということです。


 それゆえ、当事者概念を定義するに当たっては、本人体験性を条件とする狭義の当事者と、本人以外の関係者を含めた広義の当事者を区別した野崎の議論に準じるのが、最も適切であると思われる。すなわち、狭義の当事者the person in questionとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人」を意味し、広義の当事者the person concernedとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人、およびその関係者」を意味する。

 だが、ここで直ちに気づくことは、広義の当事者の定義が「関係者」の定義に依存しており、それゆえに不完全であるということである。本人以外の関係者を当事者に含める限り、「関係者とは誰か」という問いに答えなければ、「当事者とは誰か」という問いに答えたことにはならない。そうであれば、当事者性についての研究は、最終的に利害関係についての研究によって補完されなければならないだろう。

 また、より根本的な問題も存在する。それは、「本人体験」とはどのような体験でも有り得るために、当事者とは誰でも有り得ることである。不登校という事象についての「本人体験」として一般に想定されるのは不登校そのものの経験であるが、不登校の子供を持つ親にとっては、自分の子供が不登校であるということは紛れもない「本人体験」であるし、不登校の生徒を担当する教師にとっては、担当する生徒が不登校であるということは同様に「本人体験」である。それぞれの体験と、体験から表出される感情はそれぞれに個別的・唯一的であり、その意味での「重み」に優务があるわけではない。

 また、不登校者、親、教師、その他の関係者は、不登校という事象における自らの体験に基づくニーズをそれぞれに有していると推測できる。したがって、当事者たる要件を本人体験ないし体験に基づくニーズに求めるのであれば、論理的には、不登校という事象における当事者は、不登校者、親、教師、その他の関係者の誰でも有り得る。

 こうした事実は、「当事者とは本人体験者である」といった定義が、それだけでは当事者の範囲をほとんど限定しないということを意味する。それにもかかわらず、不登校の中心的な当事者が不登校者であると一般に見做されているように、特定の事象について特定の体験が当事者性の指標とされやすいのはなぜであろうか。誰もが当事者で有り得るのに特定の当事者のみが当事者として現れるのはなぜであろうか。

 それは、私たちが当事者を指示するに当たって、複数の「本人体験」および体験に基づいたニーズ=<利害>の間に予め優先順位を想定し、重要であると考える体験およびニーズを有する当事者だけをその事象における当事者として見做すという選択を行っているからである。不登校者の親や担当教師よりも不登校者自身が中心的な当事者として扱われ、しばしば不登校者のみが当事者として扱われるのは、不登校者自身の体験およびニーズの方がより重大であると考えられているからであり、不登校についての専門家が不登校の当事者として扱われないのは、専門家にとっての個別の不登校に直面するという体験およびそこから生じるニーズがあまり重大でないと考えられているからである。

 つまりここでは、多様な「本人体験」に基づく多様な当事者集団の中から、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべきであると考えられた当事者を狭義の当事者(本人)と見做し、二次的に配慮すべきであると考えられた当事者を広義の当事者(関係者)と見做す、という選択が行われていることになる。このように考えるならば、当事者概念の意味内容、あるいは当事者性の要件には、規範的予断が含まれていると言わねばならず、それは記述理論の観点からして欠陥が見出されたということである。

 他方、当事者たる要件としての本人体験と体験から生じるニーズを<利害関係>と見做すことは可能であるから、当事者概念および当事者性についての議論は、利害関係理論の枠内で説明可能である。特定の問題状況において、「当事者は誰々である」という有意味な限定を為すことは、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべき利害関係者を選択し、彼に当事者という呼称を付するということにほかならない。したがって、当事者概念は、利害関係理論の内部に位置付け直されるべきである。

 もっとも私は、こうした事実を指摘することによって、当事者概念を用いることが無意味であると言いたいわけではない。ただ<利害関係>概念と当事者概念の異同と、それぞれの適性を明らかにしたいだけである。本人体験を要件とする当事者概念は、「体験」が可能な特定の行為、状態、事件、事案などを前提として用いられるため、事物そのものなどに対しても用いることのできる<利害関係>概念よりも汎用性が低い。それゆえ、政治的対立状況や問題状況を包括的に記述するためには、<利害関係>概念の方が適している。

 また、野崎が指摘しているように、個別性・排他性の強調と結び付きやすい当事者概念の使用は、結果として「当事者ではない人たちを寄せつけないような強度」を持って排他的・権威的に機能してしまいがちであり、「当事者の言っていることが「当事者であるだけで」正当性を帯びてしまう」傾向を生みやすい点にも注意が必要である。利害関係者という概念は、当事者という強い言葉が意味する範囲から洩れてしまいがちな周辺的関係者を含めた多様な人々を同一平面上で捉えることによって、当事者とされる人々の地位を敢えて相対化するような視座を提示することができる。それは、問題状況を反省的に捉え直す上で大きな寄与を為すことができるだろう。

 ただし、本人体験という中心部を明確に照らし出し、押し出す力強さと、抽象を拒み、固有性を提示することができる点で、当事者概念には大きな強みがある。<利害関係>概念は広範な当事者・関係者を同じ地平で捉えるために、そうした政治的突破力を弱める方向に働いてしまいやすいようにも思える。それゆえ、<利害関係>概念と当事者概念は、領域と場面によって使い分けられればよいのであって、相互排他的であると見做す必要はない。


(前掲論文、81-83頁。注を略。文中の「野崎の議論」は、野崎泰伸「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』第14号、2004年)を指す。)

Saturday, September 5, 2009

ステークホルダー民主主義の射程


濱口桂一郎『新しい労働社会』の末尾近くでは、目指すべき方向性として「ステークホルダー民主主義」への言及が見られる。まだ全体をきちんと読めていないので、書評ということではないが、これは一応私の専門に属することなので、備忘がてら思うところを書き留めておきたい。



私の知る限り、日本で「ステークホルダー民主主義」なる言葉を使っての議論の蓄積はほとんど無い。海外でも、“stakeholder democracy”や“stakeholder society”について語られている事例は若干存在するものの、いずれもあまり突っ込んだ議論とは言えない*1。これまで当ブログでは、「現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望」や「利害対立と民主主義モデル」などでstakeholder democracyの具体像を素描したり民主主義モデルとしての相対的位置を示したりしてきたが、それらの議論は2008年1月に提出した私の修士論文補論の成果に基づいている。そこで私は、stakeholder democracy(利害関係者民主政)について、その理論的文脈上の意味から具体的な制度構想にまで踏み込んだ、おそらく国内外を通じてもかなり先駆的であろう議論を展開した*2。そういう立場からすると、少なからぬ人に注目されている好著の中で「ステークホルダー民主主義」への肯定的言及が為されていることは、素直に嬉しく思う。


しかし同時に色々考えるところはある。同書の中では先ず「産業民主主義」の語が頻出しており、その上で登場する「ステークホルダー民主主義」は、いわば産業民主主義の現代版として扱われている印象を受ける。それは決して間違いではないのだが、果たしてそのような解釈だけで十分かと言われれば、気安く是とは答えにくい面がある。確かに、特にshareholder capitalismに対するstakeholder capitalismの議論文脈から辿ってstakeholder democracyが理解される場合には、かつての――と過去形にするのは不適切かもしれないが――産業民主主義ないし経済民主主義のイメージを下敷きにした受容が為されるのは無理のないことだと思う。けれども、stakeholder capitalismの議論は(それがドイツや日本を参照しているとしても)あくまでも英米のものであって大陸ヨーロッパのものではないし、shareholderへの対抗概念としてのstakeholderの語には最初から権利的ニュアンスが分かち難く付随している。つまりそこには、解り易く言うと「アングロ・サクソン的な」個人主義や私的所有権観念が少なからず影を落としているわけで、「平等としてのデモクラシー」の色彩が濃い「社会的デモクラシー」の流れを汲む大陸ヨーロッパ的な産業民主主義とは異質な部分も小さくないはずなのである。

私はそのように異なる文脈の双方から財産を継承できる「stakeholder ~」という考え方に魅力を感じているので、これから盛り上がるべきstakeholder democracyの議論が産業民主主義的な解釈のみに回収されてしまうとしたら残念だと思う。何より、古い言葉と同じことを言うためだけに使われるなら、新しく登場してきた言葉に固有の意義が存在しなくなってしまう。また、産業民主主義的な解釈に引きずられると、どうしても労働の現場に議論の対象が限定されてしまい、包括的な社会構成原理たり得るはずのstakeholder democracyの可能性が縮減されてしまいかねない(もちろん、労働をテーマとする濱口著が論の対象を限定することに問題があるわけではない)。

1996年から97年にかけてトニー・ブレアが“stakeholder economy”について語った時、彼は国民一人一人がstakeを持つべきだとした。ここでのstakeとは、ざっくり言えば社会内において正当に認められるべき権利や地位を意味する。人々はstakeを持つことによって社会に包摂されるし、stakeに基づいて社会参加することに対して相応の責任を負うとされた*3。ここからも解るように、英語圏における「stakeholder ~」の議論は基本的に個人単位であると同時に、社会全般に広がる射程を持っている。


私が“stake”のニュアンスを的確に把握するために有用だと思うのは、これを「賭け金」と捉えることである。stakeholderを重視するということは最低限の賭け金を提供するということであり、国家にせよ、職場にせよ、地域にせよ、学校にせよ、家庭にせよ、その内部での決定に参加できる元手を保障してあげることを意味する。このように考えると、stakeholder democracyの考え方はベーシック・インカムの理念と非常になじみやすいことが理解できると思う*4。国民全てに万遍なく支給される基本所得は、まさに社会参加の賭け金と見做し得るからである。

ニュー・レーバーのポリシーを濱口さんに講じるような釈迦に説法を犯すつもりはないが、濱口さんがベーシック・インカムの考え方に否定的なことは、やはり産業民主主義的なstakeholder democracy解釈と無関係ではないのかな、という気はする。濱口さんは、あくまでもコーポラティズム的な枠組みの中で労組ができるだけ幅広い労働者の利害を代表していくことが基本だと考える。私もそれが現実的だと思わないわけではないのだが、ただそこでは、利害が考慮される単位は職場や組合という集団であることが前提になってしまっている(と言わざるを得ないと思う)。コーポラティズム的な枠組みの中で解釈されたstakeholderは、利害関係者たるまでには至らずに、利害関係集団であるに留まる*5。そうすると、提起される「ステークホルダー民主主義」の主体は個々人であるよりも労働的連帯に基づく集団が中心になり、あるいは少なくとも労働の営みに接続された個人でなければ、ステークホルダーとは見做されないということなのかもしれない。賭け金は、無条件で全ての個人に分配されるべきものではない、ということになるわけだ。


ただ、私自身は前掲のエントリでも明確にしたように、個人化の進行によって利害が多様化し錯綜する現況では、ひとまず個人を単位として最低限の賭け金を保障するベーシック・インカムの考え方は、望ましい方向性を示していると思う*6。stakeholder democracyを支持するならベーシック・インカムにも賛成するはずだ/べきだと主張するつもりは更々無いが、stakeholder democracyの可能性が幅広い範囲に開けていることは強調しておきたい。


*1:例えば以下に収められている幾つかの論文。



*2:それに先立つ本論第1章第1節では、経営学およびビジネスエシックスにおけるstakeholder theoryの成果を整理するとともに、“stakeholder”および“stake”の概念・語句について語源と用例の両面から詳細な考察を行った。

*3:前述の修論第1章第1節2を参照。

*4:別にベーシック・キャピタルでもいいわけだが(実際にB.アッカーマンはstakeholderの言葉を使ってBCを構想しているわけだし)。


*5:コーポラティズム的な枠組みはそれ自体として重要だけれども、stakeholder democracyの可能性をその範囲に限定してしまうことはない。

*6:実際にベーシック・インカムそのものを導入するか否かは別問題であるし、それこそ産業民主主義・コーポラティズム的な営為を含む利害反映回路全般の再整備が同時に行われるべきであるとの前提は付くが。


Monday, July 20, 2009

読売のエゴイスト



松尾邦之助という人は、戦前は読売新聞特派員としてパリ支局長を務め、戦後は論説委員・副主筆にまで登りつめたジャーナリストでありながら、アナーキズムや個人主義について広く研究し、シュティルナーについて本を書いたり、アン・リネルの小説を訳したりした異色の人物です。アンドレ・ジイドや辻潤、石川三四郎、新居格などと親交を結びながら、正力松太郎の下で働いていたという、何とも面白い経験を持ちます。

この本は、日本が敗戦を迎えたことでパリから帰国するところから始まり、占領下を中心に、戦後日本で過ごす日々をつづったものです。執筆は60年代末頃らしく、未定稿を大澤正道が編集し、解説を付けています。特派員として出会った日本を含む各国高官・政治家とのエピソードや、戦後の読売争議の内幕などが率直な筆致で語られており*1、歴史好きな人ならば、純粋なエッセイとして面白く読めると思います(また、文化芸術に造詣が深い人だったようで、交流した多くの詩人・小説家・画家の名前が登場します)。

出版社からの紹介は、以下。


http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/shahyo0607.html


シュティルナーの思想を受容した上で、自分なりの哲学を確立していた――日本では他に辻潤がいるぐらいの――稀有な人だったと思います。


「そう思うのは錯覚だよ。君は国家権力による強制を前に恐怖していながら、内心では抵抗を感じるだろう。そうした抵抗精神を君の内側に持っていれば、どんな強い権力でも、抵抗する君の精神を殺したり奪うことはできないよ。どんなに強い権力でも、君のエゴを奪うことは出来ないのだ。君はつねに〝個〟であり、最も自然な意味でエゴイストなんです。君のことをエゴイストだということは、所詮、君が君であり、君以外の何者でもないということなんだ」


[198頁]


*1:ちなみに、渡邉恒雄の名前は登場しません。


Thursday, June 4, 2009

日米同盟の正体



著者は外務省で駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任後、2002~2009年に防衛大学校教授として危機管理を講じた経歴を持つ。私は不勉強なもので読んでいないが、著作『日本外交 現場からの証言』が山本七平賞を受賞しているそうである*1

しかし、そんな著者情報は大して重要ではない。この本はとても良いし、その良さは立場から得たインサイダーな情報に頼ったものではないからだ。現時点で日米関係について学び・考えるために必須の数冊を挙げるとして、この本が入らないなら間違いだろう。政治家やメディア関係者に限っては、最低限この本の議論水準を踏まえて仕事をして欲しいと切に願う。

先日のエントリの話題(の一部)であったミサイル防衛についても言及があったので、議論の一端を紹介する意味で引用したい。著者は、ウィリアム・ペリー(元米国国防長官)の論文に依拠しながら、言う(238-239頁)。


 米国は潜在的脅威国とかなり距離がある。迎撃の準備体制を整える時間がある。この米国ですら、ペリーはミサイル防衛の実効性に、疑問を持っている。日本は相手がミサイルを撃って数分で反応しなければならない。ある米国関係者は、撃ち落とせるのはまだミサイルが最高速度に至っていない最初の二分間が勝負と言う。その際は現場兵士の瞬時の判断に依存する。ミサイルはまだ相手国領空内である。

 さらに核攻撃を行おうとする際には、ミサイル、航空機等様々な手段を使って攻撃をかけてくる。これらの敵の核攻撃に対し防御を築くのは技術的にほぼ不可能であろう。

 ミサイル防衛がマジノラインくらいの信頼性を得る可能性はない。立派なマジノラインを築きましたといっても、迂回攻撃があれば何の意味もない。日本がミサイル防衛に巨額の資金を投入することは、間違った安全保障概念に道を開き、防御の優先順位の付け方を間違う可能性が高い。


「では先制攻撃だ」と切り返す向きもあろうが、日本はそれを有効に遂行する能力を持っていないとして、敵地攻撃論は引用箇所の直前で既に退けられている。そして、ミサイル防衛や敵地攻撃論は、北朝鮮だけを見て、その他の有力な潜在的脅威としての中国やロシアを見ない議論である、と批判されている。

撃たれたら防げず、撃たれる前に潰すことも不可能なら、あとは撃たせないようにするしかないわけである。なるほどその目的をどのようにして実現するかを考えるのが、戦略的な安全保障というものなのだろう。私もそう思う。


Sunday, May 31, 2009

精神障害者をどう裁くか


良書である。既に多数の著作を持つ現役の精神科医が、とりわけ法に触れた精神障害者の扱いに焦点を当てながら、社会が精神障害者にかかわる仕方について検討を加えている。

まず精神障害の定義と分類から始まり、データに拠って触法精神障害者の実態が描写された後に(第1章)、精神障害者処遇の歴史を遡ることで刑法39条を支える思想の形成過程が辿られる(第2章)。既に良く読まれている芹沢一也の著作と併せて読むことを薦めたい。



次に、日本の精神保健福祉法と医療観察法の成り立ちと運用実態について詳細な解説が加えられる(第3章、第4章)。コンパクトな整理の意義もさることながら、触法精神障害者の処遇に関心を持つ諸論者から立場を超えた批判にさらされた医療観察法への比較的高い評価が注目されるところである。

臨床に携わってきた立場から人道主義的見解の「非現実性」や精神医学への誤解を正す終盤からは、さらに刺激的な収穫が得られるだろう(第5章、第6章)。特に39条との関わりでは、異なる立場の論者によって編まれた論文集と包括的な批判論を併読することで論点の理解と思考の深まりを一層期待できるはずである(併せて参照)。


個人的には、末尾近くで引かれている弁護士の証言がなかなか衝撃的であった。孫引きとなるが、一部を抜き出しておこう(209-210頁、強調は引用者)。

 例えば放火罪の場合は、放火罪は非常に立証が難しいんですね。現行犯でやらないといけない。現場近くでにやにやして立っている。あいつはいつも立っているなと。おかしい、捕まる。で、当然のことですけども、IQはぎりぎりです。五〇いくか、六〇いくかよくわからないけれども、簡易鑑定にかかるわけですね、大体、放火というと。ちなみに簡易鑑定は大体二五万ぐらいするんですけれども。放火だと割合と簡易鑑定というのはとりやすいという傾向があります。というか、大体とりますね。それをやりますとIQの値というのはぎりぎりが出ます。

 ぎりぎりが出たときに、じゃあ裁判所はどうするか。で、さっきの世間体の話をすると、放火罪で捕まえましたと、で、捕まえた人間を刑務所に送らないとたたかれるだろうと。一つはそういう恐怖心みたいなのを裁判所は持ちます。検察官も同じです。これは責任能力を争わないというか、そこを問題にしない方向で行こうという、一種の談合的なものが生まれます。

 じゃあ弁護側はどうするか。一応争うふりをします。ふりをしていて、僕がそうやったということを言いたくはありませんけれども。一応争うということをとったとしても、しょせん材料がない。じゃあどうすればいいかという方向が正直言って見えないのです。で、刑務所に行ってしまう。弁護人のほうはどうするかといったときに、さっき言ったのは、横でにやにやしているという状況で、もしかするとこれは無罪なんじゃないかというケースがあるのです、正直言って。責任能力がないという方向での無罪で争うことはもちろんあるんですけど。話を聞いていて全然支離滅裂なんですね、被告人の言っていることというのは。


本書全体の議論にふくらみを与えているのは、豊富な実例の描写である。触法精神障害者の処遇に関心を持つ人は多くないかもしれないが、被害者感情の重視に基づいて39条への批判が高まる一方で、現在の刑務所が居場所を失った精神障害者で溢れていることも知られるようになっている。裁判員制度もスタートした今、手元に置いておきたい一冊であることは疑いがなかろう。


Friday, May 29, 2009

国会議員の世襲制限に関する憲法学的考察


まず、世襲制限が憲法で認められている職業選択の自由を侵すために不可能であるとの議論があるが、これは正しくない。

職業選択の自由とは、個人が自らの就職・転職・退職を決定し、選択した職業を遂行するにあたって、国家の規制を受けないことを意味する。しかし、これは他の憲法上の自由と同様、「原則として」規制を受けないのであって、例えば「公共の福祉」と言われるような正当な理由がある場合には、その限りではない。

現に届出・許可・資格などが必要な職業はたくさんあるし、売春のように全面的に禁止されている職業もある。当の規制が必要とされる理由と、その目的実現のための手段としての妥当性について議論が分かれることはあっても、そもそも規制が「不可能」であるということはない*1


では、特定の個人に特定選挙区からの立候補を禁ずることが許されるとすれば、どのような目的に拠ることになるだろうか。

議員世襲の帰結に着目する議論からは、(1)後援会や政治資金団体の継承による既得権益との相対的に強固な結び付きが議員活動に不適切なバイアスを生じさせる、(2)世襲候補の高い当選可能性のために有能な人材の参入が妨げられる、(3)特定の層から議員が再生産されることによって社会内に存在する多元的な価値の反映が困難になる、などの問題点が指摘されている。

加えて、権利相互の均衡に着目することで、世襲候補の乱立が再生産する障壁と非流動性が有権者の選挙権・被選挙権の実質的な行使を阻害している、と立論することも不可能ではない。

いずれにしても、これらの問題の解消を目的とすることは、職業選択の自由への制限を正当化し、憲法上の問題を回避するに十分な程度の理由は提供しているように思う。


また、憲法上の参政権の一部たる被選挙権を盾に世襲制限を退けようとする議論もある。被選挙権は主として立候補の自由を意味しているが、その中に出馬する選挙区を制限されない自由までが含まれているのかは分からない。憲法が保障する被選挙権の趣旨が特定個人の政治参加を国家が不当に制限することの予防にあるとすれば、特定選挙区からの出馬を時限的に制限する程度の規制が許され得ないとも思えない。

さらに、より理念的な観点から言うと、(一旦選出された議員が選出母体の意思を議会内に反映しようとするならともかく)これから「(部分代表ではない)国民代表」たる国会議員として選ばれようとする候補者に対して、自らの選出母体を選ぼうとする彼の意思を尊重すべき理由など存在するだろうか。それは自らが代表したい利益を選ぶことであり、日本国憲法が採っているとされる国民主権(ナシオン主権)の立場に反するのではないか*2。立候補一般の自由は保護すべきであるとしても、自らの選出母体を選べることが憲法上の保護に値する自由であるかどうか、甚だ疑問である。


以上の検討の次第から、私は世襲制限が憲法上の権利を制限するから政策として「筋が悪い」とは思わない*3。しかしながら、それは単に憲法上の障害を理由とした世襲制限批判には与しないというだけのことで、世襲制限立法に賛成しているわけではない。実際のところ、世襲を制限したからといって、政治家の質が高まったり、より多元的な価値の反映が可能になったりすることが期待できるかと言えば、疑問が大きい。政党が内規によって世襲候補を公認しないと決めることは構わないと思うが、法律として世襲候補の出馬に制限を加えるのは、あまり好ましい方法ではないと思う。少なくとも、同じ政策目的を実現するためなら、その前に行うべき手段は幾らでもあるはずだろう。

主体の合理性を仮定すれば、世襲候補が有力政党に公認されるのは彼が最も当選可能性が高いと判断されたからであり、当選可能性が高いということは有権者が彼を最も議員に相応しい候補だと判断するだろうということである。ならば、そこで本来問題とすべきは世襲候補が有利になり易い選挙制度や選出過程、世襲候補を選び出す選出母体などであって、候補者自身の属性ではない。当たり前のことではあるが、やはり世襲はあくまでも結果なのである。国会や政党に占める世襲議員の割合など、結果だけに着目し、その結果をコントロールするために、候補者の属性に直接縛りをかけようとする。世襲制限が政策として「筋が悪い」とすれば、かくのごとき安易な目的と手段ゆえにこそ、そう見做されるべきであろう*4


*1併せて参照。なお、本文リンク先で結論とされている「世襲が有利にならない選挙制度をつくる」べきだとの主張自体は至極尤もである。


*3:そもそも政策とは誰かの権利を制限するものであり、政策の筋の良し悪しはそんなことで決まるわけではない。

*4:同じことは高齢制限や多選制限についても言えるし、部分的にはジェンダーバランスをはじめとするポジティブアクションについても言える。


Sunday, May 24, 2009

リスクと不確実性について


少し前の話になるが、kaikajiさんとBaatarismさんの以下のやりとりに触発されて考えたことをまとめておく。



論点となっているのはリスク管理とコスト&ベネフィットの考慮である。話題自体は(政治)経済学的な色彩が強いけれども、リスク概念は分野によって意味合いがそれぞれ異なるので、まず用語の整理から始めよう。

社会学では、危険dangerリスクriskを区別することが多い*1。危険が人に危害を及ぼす可能性のあるもの全般、あるいはその可能性そのものを指すとすれば、社会学的概念としてのリスクは、人が行った何らかの選択や決定に伴う不確実性から生じる不安を意味している。天災など自らの選択の帰結ではない現象は、危険には含まれるが、リスクではない。社会学的リスクは、近代化の進展によって拡大した個人の自由が伴う未来予測の不確実性を背景としており、その不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されている。

他方、主に自然科学分野で為されているリスク・マネジメントについての議論では、リスクとの区別が問題になるのは危険ではなくハザードhazardである。ハザードは対象に固有の潜在的危険性・有害性を意味し、「危険源」などと訳される。これに対してリスクは、ハザードが何らかのきっかけによって現実の被害を引き起こす可能性を意味するとされる。例えば大量の火薬が保管されている倉庫はハザードだが、周辺に火の気が無ければリスクはそれ程高くない。そこに誰かが火の気を持ち込むことによって、その場のリスクは急激に高まることになる。

このような意味でのリスクは、客観的な危険度と言うべきハザードに加えて、現実の被害が引き起こされる可能性(確率)を考え合わせたもので、いわば「(客観的)危険出現可能性」とでも訳すべき概念である。それは、個人の選択に伴う社会学的リスクとは異なる。むしろ社会学的議論においてリスクと区別される場合のデンジャーに近い。しかし、それでは折角在る言葉が勿体無いので、ここでは可能性であったものが実際に出現する/した事態のことを(便宜的に)デンジャーと呼ぶことにしよう。

そうすると、危険出現可能性としてのリスクは、対象が引き起こし得るデンジャーはどのようなものであるのか(ハザード)と、対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)――どのような状況になれば引き起こされるのか(条件)を含む――の考慮によって算出されることになる。ハザードも考慮されるということは、たとえ実際に起こる可能性が低いデンジャーであっても、その被害が甚大となることが予測されるなら、対象のリスクは高いと判断され得るということである。

これに対して、経済学で用いられるリスク概念は、帰結への考慮を含まず、純粋に「危険が出現する可能性」、つまり確率を意味するために存在している。Baatarismさんが引用している竹森俊平『1997年――世界を変えた金融危機』によれば、先で言う「対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)」についての認識の部分が、経済学では広義の不確実性uncertaintyの問題として議論される。そして広義の不確実性の内で、過去に前例・類例があるなどの理由から客観的データによって可能性を判断できる(確率分布を想定できる)ケースはリスクと考えられ、過去に例が無くデータによる判断が不可能である(確率分布を想定できない)ケースは「真の不確実性(ナイトの不確実性)」であると見做される。

以上、図表で示せばもう少し解り易くなるところを面倒なのでしないが、同一単語が複数分野で異なる意味に使用されているところを強引に同一ないし近似の概念として整合性を与えようとする試みをするとすればこうなるかなということを、してみた。最も一般的と思われる危険出現可能性としてのリスク概念を「広義のリスク」とするならば、社会学的リスク(再帰的リスク)概念と経済学的リスク(確率的リスク)概念は、それぞれ別個の「狭義のリスク」である。


本題に移ろう。前掲のやり取りの中で「コスト」として想定されているものの幾つか(例えば国民の犠牲)は、発射されたロケットが引き起こし得る帰結、すなわちハザードの一種として解釈可能である。どのようなミサイルないし物体がどのような地域に着弾/落下すればどの程度の被害が予測されるかなど、ハザードは客観的な判断の対象となり得る。Baatarismさんはコストの定量化そのものが評価者のイデオロギーに左右されてしまうと指摘しているが、それは正確な言い方ではない。イデオロギーによって左右されるところが大きいのは、客観的算出が可能な「広義のリスク」ではなく、そのような客観的リスクに対する再帰的評価に基づいて構成される社会学的リスクの方である。

先に、社会学的リスクは不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されると述べた。私たちが完全な情報を得て、有り得る事態の全てについて合理的な分析を加え、客観的な確率についての認識を形成することは、現実には困難であり、ほとんど不可能だと言ってもよい。そのため、(「真の不確実性」に属するとされる状況も含めて)私たちが実際に依拠しているのは個々人が(客観的根拠も援用しながら)内的に算出する主観的確率の認識である。

個人の行為は、主観的確率とハザードの主観的評価(主観的危険度)との総合によって形成される社会学的リスク認識に基づく予期によって駆動される*2。主観的確率は客観的確率とは独立に形成され得るが、危険度の主観的評価は客観的なハザードの認識を前提にしている。被害が同じ程度であっても、評価者が何を守るべき価値と考えているかによって、事態が持つ意味は異なってくる。簡単に言えば、ミサイル攻撃によって100人の命が失われた場合に、「100人も死んでしまった」と考えるのか、「100人で済んで良かった」と考えるのかの違いである。そのような評価は、各人の価値観に依存する*3。したがって、客観的なリスク認識(ハザードと確率)について概ね一致することができても、採るべき対応について一致するとは限らない。

「危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」と言われるはこのためだが*4、それでも再帰的評価とは離れて、可能な限り客観的なハザードや確率の認識を行おうとすることができないわけではないし、それを止めるべきでもない。むしろ最終的には政治過程において決定されるしかないと理解しながら、そのような集合的リスク評価がより有益であるための客観的材料を提供するのが科学的認識の役割であるし、そこで専門家の知識翻訳と社会内の議論促進の役割を担うのがマスメディアの仕事であるはずだろう。だから私は今こそ「「勘定」に訴えかける議論がぜひとも必要」とするkaikajiさんの問題意識に強く共感するし、そのような議論を示すことは、本来経済学に限られることのない科学全体の使命であると思う。


ただ、それとは別に私がこのエントリを書こうと思ったのは、Baatarismさんが依拠する経済学上の「真の不確実性」概念にある種の胡散臭さを感じたためでもある。Baatarismさんは北朝鮮が日本をミサイルで攻撃するケースは「真の不確実性」に属すると言う。そして、そのような事態が発生する確率を見積もることは不可能なので、対抗手段として比較的コストが小さいミサイル防衛システムを採用することは妥当だと結論している。その結論の是非はここでは扱わないことにして、私が引っ掛かるのは論証の過程で示される、今現在は「危険性が非常に低いように思えたとしても、近い未来にどうなるかは誰にも分からない」との認識である。この論理は当該ケースが「真の不確実性」に属すると見做される所以でもあるのだが、何と言うか、あまりにも「身も蓋も無い」言い草ではなかろうか。

少し意地の悪い言い方になるが、このような「身も蓋も無い」言い草が許されるのであれば、「街を行き交う人々がいくら温厚そうに見えても、いつ豹変して私を襲うかもしれないから、拳銃の所持を許して欲しい」との主張を容易に正当化できそうである。このあたりは社会学の得意分野であるが、そもそも社会秩序の成り立ちそのものが「真の不確実性」に属する問題であり、今度すれ違う人が私を襲って金品を奪おうとするかもしれないという疑いは、本来全く不合理なものではないはずであるから。

それでも社会に秩序が成立し、国際社会にも一定の秩序が成り立っているのは、そこに何らかの確率認知の体系(社会学的に言い換えると予期の体系)が形成されたからではなかろうか。確かに、それは経済学的リスクのように客観的・統計的に判断可能な確率ではなく、主観的ないし間主観的な確率認識であるだろう。だから実際には、「どうなるかは誰にも分からない」。しかしそもそもAの確率が99%であるということは、Aでない確率が1%存在するということだから、究極的にはどんな状況であっても「近い未来にどうなるかは誰にも分からない」のである。
したがって、このような言い方は(Baatarismさんの意図とは無関係に)「真の不確実性」について言及するに留まらず、確率的な思考全体の有効性を否定してしまいかねない*5。客観的/主観的にかかわらず、確率とは不確実な未来に対して多少なりとも合理的な行為を選択し、望ましい未来を構築していくために用いられる手段であるから、今現在「危険性が非常に低いように思え」るのであれば、まず第一に議論されるべきなのは、その理由であるはずなのだ。現状そのように「思える」ことは何によって可能になったことであるのかを考えることは、通常思われているよりもずっと重要なことであると思う。

実はBaatarismさんの結論を支えているのは、当該ケースが「真の不確実性」であるかどうかよりも、「もし北朝鮮が本当に日本にミサイル攻撃を行ったら、日本の人口密集地に莫大な被害が出る可能性はほぼ100%」であるというハザードについての認識の方である。この認識が妥当であれば、たとえ当該ケースが「真の不確実性」とは言えず、北朝鮮によるミサイル攻撃の確率を算出することが可能で、しかもその確率が非常に低いとしても、ハザードの大きさのために(広義の)リスクはミサイル防衛システムを採用することを正当化可能である程に高い、との立論は説得的で有り得る(その説得性は受け手の再帰的評価に依存する)。つまりBaatarismさんの主張には、別に「真の不確実性」概念は必要でない。

そもそも経済学的リスクと「真の不確実性」の区別のされ方はだいぶ曖昧であり、恣意的判断の混入を許す余地が大きいように見える。それならば、広義の不確実性内部の緩やかな区別は維持するとしても、確率認識の可能・不可能で分けるよりも、認識の客観性の大小で起伏をつける方が良いと思う。あるケースが「真の不確実性」に属しているのかどうかは、本当のところ大した問題ではない。あまりこういう概念を有難がるのもどうかなと思った、という、そういう話をした。



*2『利害関係理論の基礎』、第1章第3節2、を参照。

*3:もっと言えば、これはA.センの言うcapabilityにかかわる問題である。例えば地雷によって同じく両足を失った人でも、「命が在るだけ良かった」と思う人もいれば、将来を嘱望された陸上選手であったために「死んだ方がマシだった」と思う人もいるかもしれない。

*4:ウルリヒ・ベック『危険社会』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)、90頁。

*5:それは極端に言うと社会秩序そのものへの攻撃で有り得る。


Sunday, May 17, 2009

かかわりあいの政治学7――相続はなぜ認められるのか


承前


相続はなぜ認められるのだろうか。ある人の連れ合いや子どもであることが、その人の死後に財産を無条件で譲り受ける権利を発生させるのは、なぜなのだろうか。相続については、相続税をもっと引き上げて――場合によっては100%にして――所得再分配に活用するべきだという意見がある一方、むしろ引き下げて――場合によっては廃止して――自由な経済活動を促進させるべきだという意見もあり、面白い論点が提供されているが、そもそも相続制度とは何であるのかを突き詰めて考えた議論はあまり多くない。相続財産に課税が許されるのはなぜかという疑問を呈することも可能ではあるが、そもそも課税には根拠など無いので、それは有意義な疑問とは言えない。むしろ、所有権者が死亡した後に、彼の財産が無主物や共有物にならずに、自動的に特定人物へと承継される制度の根拠を問うた方がいい。


教科書的な定義を持ち出すなら、相続とは「自然人の財産法上の地位(または権利義務)を、その者の死後に、法律および死亡者の最終意思の効果として、特定の物に承継させること」をいい、特に「法律の規定に基づいて、当事者(被相続人と相続人)の知・不知にかかわらず効力を生じる」ものを「法定相続」と呼ぶ*1。契約による贈与や譲渡、遺言による相続などの法律行為は元の権利者の法的権利に基づくが、法定相続による相続人の権利取得は、死亡者の血族ないし配偶者であることのみを理由とする。このような純粋な身分関係に基づく権利取得が、相続制度の特徴である。別の教科書には、次のような記述がある。

 相続の概念を定義することは大変難しい。多くの法学文献は、相続は私的所有権とともに発生し確立したと説く。しかし、封建時代の家禄のように、譲渡は許されずに世襲されるものがあるし、社会人類学者によれば、私有財産の存在を考える余地のない未開社会にも、一定の土地のなかで生活資料を採取する集団の成員権の世代的承継準則が存在する。譲渡の自由のないところに私的所有権を認めることはできないが、これらの非譲渡的権利ないし排他的利益が一定の準則に基づいて承継されるとき、これを相続とみることはできないであろうか。これらの準則は、英語のinheritance(財産相続)という観念からは外れる。しかしsuccession(継承)の観念には十分に合致するし、前者は後者の一型にすぎない。歴史的に、または通文化的に相続の概念を定義しようとするなら、前者にではなく、後者に即して考える必要がある。かくして、多くの人類社会で社会的に承認されてきた権利の世代的承継の準則についていえば、そこに共通するのは、この準則が各社会の親族制度に従っているという一点である。この共通項に、各社会は、その歴史や文化の特性を投影した変化を加味する。資本制社会を前提とするわれわれの近代国家の相続法には、私的所有権の影響が濃く現れている。しかしなお、その中心には、社会の親族制度に従った権利の承継の準則が確固として存在する。


[佐藤義彦ほか『民法Ⅴ――親族・相続』第3版(有斐閣(有斐閣Sシリーズ)、2005年)、119-120頁(伊藤昌司執筆)]

この見解を念頭に置きながら、相続の根拠について簡単に検討してみよう。相続の存在を説明する第一の見解は、被相続人が持つ所有権に基づく自由の帰結であるとする「意思説」である。同説は所有権の自由から遺言権を演繹し、法定相続権は死者の意思の推測に基づくと考える。しかし、遺言の発効時には遺言者は所有権の主体ではなくなっているから、所有権から遺言権を演繹することはできないはずではないか*2。この重大な疑義から、意思説は相続制度の根拠とするには足らない。法哲学者の中には、意思説の否定によって相続税の100%化――相続の否認――を正当化する主張すらある程である*3


そこで被相続人の意思に代わって相続制度の主たる根拠を構成するとされるのが、(1)遺族の生活保障、 (2)被相続人の財産形成に寄与していた相続人の潜在的持分の実現、(3)経済活動の承継による取引安全の保護、の3つである*4

この内、(1)は婚姻や血縁の関係にある近親者の生活を安定させる意味を持つが(扶養説)、これは相続制度の機能や政策目的では在り得ても、根拠とは言い難い。遺族の生活保障が必要であるとしても、その目的に被相続人の財産が用いられなければならない必然的な理由があるわけではない。あるいは、経済的に自活が可能である遺族に対しては相続を行うべき理由が乏しいことになる、との疑義も呈し得る。

また、(2)は相続人が何らかの形で被相続人の財産形成に寄与していたとの前提に基づき、その潜在的な持分を具体化して実現する意味を持つ。しかしながら、財産形成への寄与の程度によって相続が左右されると考えるのならば、配偶者や血縁者以外にも――お世話になったあの人にもこの人にも――相続の範囲が拡大されるべきであるとの主張に対抗することは困難になるだろう。個々の権利主体に対する社会の潜在的持分が考慮されてよいなら、婚姻や血縁は相続権の必然的条件ではなくなる。

(3)は、財産をめぐる争奪を防止して平和的な遺産分割を図ったり、経済活動の基礎となる財産が承継されうる範囲を定めておくことによって社会内部の取引関係を安定化させたりする意味を持つ(公益説)。社会一般の利益を根拠として提示することになるため、総体的な説明に便利ではあるが、地位身分を含めた承継制度一般を説明できるわけではない(身分・階級・氏姓はなぜ継承されるのだろうか?)。


どうも、これら解釈法学的に提示される根拠に基づくだけでは、相続の本質に迫れる気がしない。より反省的な観点から議論のフレームワークを整え直してみることが必要だろう。そこで先の引用も考え合わせながら頭をひねらせてみると、相続制度には私的所有権制度に規定されている部分と親族制度に規定されている部分の両面があるということが、おそらく言える。遺言や法定に基づくことによって一定の随意性を伴う財産相続inheritanceに対して、非随意的に行われる身分・階級・氏姓などの継承succession(世襲)は、当該社会が拠って立つ親族制度に依存して成り立っていると思われる。

この前提に立って相続制度の根拠とされる見解について考え直してみる。すると、扶養説は近親者の経済的紐帯を保護することで、家族的結合を物質的に下支えする役割を担っていることが解る。すなわち扶養説は、相続制度が果たしている社会内の親族秩序を維持・再生産する機能への間接的言及を通じて、相続の一面を明らかにしているのである。同様に公益説は、財産争奪の防止による公安秩序の維持や、取引関係の安定化による私有権制度に基づく市場経済秩序の保護などの機能に言及していると解釈できる。

以上から論を結してみるなら、相続一般にとって必然であるのは何らかの秩序の維持であり、維持される対象(目的)は必然に「これ」と決まっているわけではない、と言える。このように考えると、身分や階級の継承も統合的に理解できる。奴隷の子が自動的に奴隷とされるのは、奴隷制度を保全するためにほかならない。継承にとって、最大の目的は継承の対象となる事物(財産・身分・階級・氏姓その他)の安定であり、その事物が組み込まれている制度や秩序の安定である。したがって、相続は自然的根拠を持つわけではなく、親族秩序の維持・再生産ないし私有権秩序の安定、その他公益一般の実現を目的として政策的に構成される社会制度であり、それゆえに社会状況の変化に応じて柔軟に改変されるのが当然である。

実際、現下のように家族の個人化が進行する社会状況においては、遺族の生活保障機能は相続を介した親族秩序内部での実現が目指されるよりも、社会全体に委譲されるべき機能であろう。財産形成への貢献度に基づく相続を真剣に考慮するなら、遺産はむしろ近親者の範囲を超えて承継されるべきである。純粋な公益説的見地からは、制度が一定の安定性を持てばよいのであって、現行の相続の在り方に固執する理由は存在しない*5。かくのごとき現状は、理論的帰結において相続制度が現行の在り方に留まるべき理由を乏しくさせているように思える。それでも現行の相続制度が保持され続ける――旧来の親族秩序への固執が続く――のだとすれば、それは社会が守ろうとする秩序に対して、それだけ大きな利害関心が抱かれているということであり、私はそのように(様々な「かかわり」に基づいて)有り得る幾つもの秩序の中から特定の秩序が選ばれるメカニズムに関心がある。


*1:遠藤浩ほか編『民法(9)相続』第4版増補補訂版(有斐閣、2005年)、1、3頁(稻本洋之助執筆)。

*2:派生的に、遺言はなぜ拘束するのかという問いも、考える価値がある。遺言が効力を発するのは権利の主体が死亡した後であるが、人は死亡すれば権利を失うはずであり、所有物の帰属について決定する権利も失われるはずではないのか。この点について私は、「人は死亡すれば権利を失う」と一般的に前提することが誤りなのだと考えている。人が死によって権利主体でなくなることには、何一つ自明な根拠は無い(他方、死者に法的人格を認めることには法理論上の問題は存在しない)。現実の私たちの営みを顧みるなら、死者は生きている人々の利益のために権利を剥奪されるのだと言うべきである。そしてそれゆえに、例えば遺言のように、社会一般の利益と合致する一部の場合に限って、死後一定の期間、権利が残されることになっている。そう考えた方が、より実態に沿った説明が可能になる(詳しくは、 『利害関係理論の基礎』、注478、を参照)。

*3森村進「リバタリアンな相続税」(『一橋法学』第6巻第3号、2007年11月)、森村進「リバタリアンな相続税の提案」森村進編『リバタリアニズムの多面体』(勁草書房、2009年)。

*4:遠藤ほか前掲書、16-18頁。

*5:具体的な制度について構想することは本連載の趣旨から離れるので避けるが、その手前の議論について一言しておく。森村進のような例外を除く一般的なリバタリアンは、意思説に基づいて相続税は私的所有権の侵害であると見做す傾向がある。しかしながら、前述のように意思説は破綻している。一般に死者は権利を持たないと考えられているにもかかわらず例外的に遺言の権利が認められているのは、私有財産制度を守るためにそうした方が好都合であるからに過ぎない。それは相続の根拠ではなく、私有権秩序と結び付いた相続制度を保持するために構築された事後的論理に過ぎない。したがって、相続財産への課税を私的所有権の制限や侵害と捉えるのは、私的所有権と財産相続に先行的結合関係を認めてしまう点で錯誤である。社会は死者から権利を剥奪しているという私見に基づくと、被相続人の財産は彼が死亡した時点で宙吊りになっているはずであり、そこに遺言の自由をどこまで認めるか、法定相続制度をどう構成するか、課税・接収をどう定めるかは、政策的考慮として完全に同水準にある。すなわち相続税を課すことについて問題とすべきことは、私的所有権侵害の是非であるよりも、死者からの権利一般の剥奪の是非でなければならない。これを一旦是としたなら、あとは権利剥奪を正当化する政策目的の問題であり、既に権利侵害を云々する議論水準には無い。よって、相続税を100%にすることに規範上の障害は無い。なお検討すべき課題は、相続税率引き上げによる帰結の是非である。こちらの検討は、私の手には余る。


Sunday, May 10, 2009

かかわりあいの政治学6――時効はなぜあるのか


承前


近年、刑事上の公訴時効制度について、その存在理由を疑問視する声が高まってきている。同制度については、犯罪被害者遺族の感情への配慮や捜査技術の発達などを背景として、2004年に公訴時効期間を延長する内容の法改正が行われたばかりである。それにもかかわらず、法務省は2009年1月から「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方に関する省内勉強会」を設置し、制度の更なる改廃についての検討を始めている。5月3日には、公訴時効の廃止を求める「殺人事件被害者遺族の会(宙(そら)の会)」が初の全国大会を開催し、時効制度の廃止、進行中の時効の停止、時効成立後の遺族への国家賠償などを訴えている。

かように加速度的な状況の展開は目を見張るものがあるけれども、ここでは時事的な事柄について直接考えることはしない。そもそも時効なるものが、なぜ存在しているのかについてだけ、考えることにしよう。


法理論上、公訴時効制度を支えているのは、大きく分けて次の3つの根拠である*1。(1)時間の経過とともに犯罪の社会的影響力が失われ、犯人を処罰する必要性が消滅する(実体法説)。(2)時間の経過とともに証拠が散逸し、事件の解明が困難になる(訴訟法説)。(3)一定の期間起訴されなかったという事実状態を尊重し、その間に犯人が構築した社会生活上の諸利益を保護するべきである(新訴訟法説)。

本連載の第2回では、人格の同一性が相対的であるとの主張に少し触れた。D.パーフィットの議論を整理・敷衍している森村進が唱える「人格の同一性の程度説」によれば*2、人格の同一性は――記憶・欲求・信念・性格・意図などの――心理的状態の結び付きが弱まるにつれて小さくなるものであり、たとえ「同一人物」であっても、現在の人格と遠く離れた時点の人格とはある程度まで異なっており、その限りで別人格である。したがって、過去の行為に対する功績および責任の程度は、行為時の人格との心理的結び付きが密接な程大きく、希薄になる程小さくなると考えられる。現に、遠い過去の行為については責任が軽減されてしかるべきであるという発想――「昔の話だろ」「もう時効ということで」――は私たちの多くが共有しているし、公訴時効制度の根拠にも採り入れられているように思える。

3つの根拠の内で、時間の経過による人格の変容に伴って行為に対する責任も軽減されるとの発想と共通点を持つのは(1)である*3。(2)の理由だけでは証拠が存在すれば時効を認めなくてもよいことになるし、そこに(3)の理由を加えても、法定刑の軽重によって時効期間を区別している理由を十分には説明できない*4。それゆえ、刑事上の公訴時効の存在理由として(1)を外すことはできないだろう。つまり、時の経過とともに犯罪行為時点での犯人と現時点での犯人との同一性が失われていく、あるいは犯罪行為と犯人との「かかわり」が薄らいでいくとの認識に基づいて罪に対する罰を免ずることが、公訴時効制度の主要な要素なのである*5

パーフィット=森村的な主張に対しては、そのように考えるならば過去の行為の責任を問うことが不可能になってしまうとの批判が寄せられることがある。だが、多くの場合には過去の自己と現在の自己は部分的に心理的結び付きを維持しているし、自己にかかわる利害関心を大部分で共有している上に、社会的な観点からして著しく強い結び付きを有していると見做されている以上、人格の同一性が相対的であることを認めたからといって、責任制度が揺らぐようなことは考えられない。公訴時効の存在は、そのことの証明であるように思われる。


民事にも目を向けてみよう。4月28日に下された最高裁判決の影響を俟つまでも無く、一般に民事の時効と言えば、損害賠償請求権の行使についての除斥期間が言及されることが多い。しかしながら、民法にはこの他に取得時効と消滅時効が定められている*6。民事上の時効の存在理由も大きく分けて3つ考えられる*7。まず、(a)義務者(本来の権利者ではない者)を本来の権利者であると信じて取引した第三者を保護するなど、取引安全の保護および法律関係の安定を図るため。次に、(b)義務者といえどもいつ権利を行使されるか分からないという不安定な状態にいつまでも置かれ続けるべきではないという考えに基づき、義務者の利益を保護するため(「権利の上に眠る者は保護に値しない」)*8。最後に、(c)真の権利者を証明する困難を救済するため。

これら民法上の時効制度の存在理由は、公訴時効における(2)や(3)の理由と共通する部分が大きい。(a)には市民社会内部における私的自治を円滑にするための制度設計として民事法の特有性が認められるが、(b)は一定期間持続した事実状態の尊重という観点において、(c)は訴訟上の問題回避という観点において、それぞれ刑事上の公訴時効の存在理由(3)と(2)に対応する。ただし、一定期間継続した事実状態を理由として本来の権利者と事物との間の結び付きが薄れていくという発想においては、犯罪行為者と犯罪との間の結び付きが薄れるがゆえに公訴の提起が封じられると考える(1)とも共通性がある。

連載第4回で、対象とのより長い接触が権利的水準における優位を生み出すことについて考えた。そこでは権利的優位を生み出す「功績」が問題となったわけだが、他方ここで問題となっている責任とは、いわば「負の功績」である。犯罪者が権利を制限・剥奪され、処罰されるのは、犯罪行為に対する彼の「負の功績」(結び付き・かかわり)が、権利を失い義務を課されるに値する程度に達していると判断されるからである。すると、犯罪行為者と犯罪行為の結び付きが時の経過とともに薄れることを以て、公訴の提起を可能とする期間に制限を設ける刑事上の公訴時効は、民法上の取得時効や消滅時効において、本来の権利者が事物との結び付きが疎遠化した結果として権利を失うことと、相似的に理解できる。


別段私は刑事上の時効と民事上の時効が同じであると主張したいわけではないが、時効という文言に留まらない共通性を持っている以上、公訴時効や除斥期間ばかりを熱心に採り上げるだけではなく、取得時効・消滅時効にももう少し気が払われてもいいのではないか、とは思う。公訴時効の改廃論議では刑法上の刑の時効(有罪確定判決が言い渡された後で刑の執行を受けずに一定期間が経過した場合に刑の執行を免除する制度)との整合性が論じられることはあるが、民事上の時効との整合性はどのように考えられ得るのだろうか。事は単なる「正義の実現」に留まらない、権利の生滅にかかわる問題である。



*1:公訴時効は、犯罪行為終了時点から一定期間内に公訴が提起されないと、その後で被疑者が起訴されても有罪無罪の判断が行われず、免訴判決が言い渡される制度である(井田良『基礎から学ぶ刑事法』第3版(有斐閣、2005年)、222頁。福井厚『刑事訴訟法』第5版(有斐閣、2006年)、216-217頁。上口裕ほか『刑事訴訟法』第4版(有斐閣、2006年)、108-109頁)。

*2:森村進『権利と人格』(創文社、1989年)、第1部第5章。

*3:ただし、実体法説には二通りの解釈が可能なように思える。処罰の必要性が罪への非難に基づいていると解するなら、その論理は人格変容による責任軽減の考え方と結び付いていると言えるが、純粋に社会秩序維持の観点から「処罰の必要性」を解するなら、問題となるのは行為主体ではなく罪と罰の「社会的影響」のみであり、同説を人格の変容と結び付けて考える必然性は無かろう。そして、現今の制度改廃要求の主たる根拠を構成しているのは、前者の純然たる罪への非難(処罰感情)以上に、後者の「社会的影響」の中でもとりわけ被害者遺族等の処罰感情を考慮した「必要性」であるように思われる。そこでは司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性を思わせる。

*4:罰すべき罪の重さと保護すべき犯人の利益の衡量に基づき、それぞれの罪に応じた時効期間が定められている、と考えることはできる。

*5:ただし、実体法説を中心に据える場合、処罰の必要性が無くなるのなら無罪にすべきなのに、なぜ免訴の形式を採るのかとの疑問は残る。

*6:民法上の時効制度は、所有権や債権など一定の財産権について、占有や権利不行使などといった事実状態が一定期間継続した場合に、それが真実の権利状態と一致するか否かを問わず、この事実状態に即して新たな権利関係を形成する制度であり、事実上権利者であるような状態を継続する者に権利を取得させる取得時効と、権利不行使の状態を継続する者の権利を消滅させる消滅時効とがある(山田卓生ほか『民法Ⅰ―総則』第3版(有斐閣、2005年)、200頁。四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版(弘文堂、2005年)328頁)。

*7:山田前掲書、206-207頁。四宮ほか前掲書、328-331頁。

*8:財の効率的利用の観点から事実状態継続の利益を保護すべきとの主張も、ここに接合し得る。


Sunday, May 3, 2009

正しいのはオレだ


例えば音楽で世界を変えようとすることは、愚かなことだろうか。「愛と平和」と叫んで暴力を止めようとすることは、馬鹿げているだろうか。本気で世界を変えようとしている人は馬鹿と呼ばれても別に何も思わないだろうが、実際のところ馬鹿でもなんでもない。確かに、争いの無い世界を皆で想像すれば争いを無くすことができると考えるのは、社会科学的観点からして認められない見解である。けれども、そう考えることは間違いでも、それを実行しようとすることは社会科学と相容れないわけではない。

もちろん、音楽では世界を変えることはできない。そんなことは、いい大人なら誰でも薄々解っていることだ。でも、世の中には歌う人がいる。音楽に限らず、人に世界を変えることは不可能である。それでも、人はそれをしようとする。そして、それは決して愚かな行為ではない。

なぜか。世界を変えることはできないと解っていて、それでもなお変えようとすることが、なぜ愚かではないのか。負けると解っていて戦うのは、ただの馬鹿ではないのか。可能性が0%であると知っていながらする挑戦は、無謀と言うより狂気の沙汰だろう。それなのに、なぜ。

答えは簡単である。可能性が0%であることを証明することは、誰にもできないからだ。世界を変えることができないという「事実」は、厳密に言えば、積み重ねられてきた科学的知見に基づく一つの(最有力な)推論であって、絶対的真理であるわけではない。覆される余地は、常に残されている。世界の中心で「愛と平和」を叫べば、暴力は止むかもしれない。

だから、世界の変えられなさに絶望した後で、なおも世界を変えようとすることは、ちっともナンセンスではない。可能性が全くのゼロであることを予め知ることは誰にもできないから、未知の可能性に賭ける価値はいつも在る。可能性が0%であることに挑戦するのは狂人だが、0.01%の可能性を追究/追求する営みは真摯な努力である。誠実さは、狂気と紙一重なのである。

科学者は、科学をする。科学によれば、どうも世界を変えることはできないらしいことが解っている。私は科学者なので、そのことを言わなければならない。でも、科学者でない人が、科学者なんかの言うことをいちいち気にしてもらっては困る。芸術家は芸術を、芸人は芸を、革命家は革命をするものだ。それぞれがそれぞれのすることで世界を変えようとすることは、科学的に見ても別に間違いではない。科学者である私は、そういうことを言っておこうと思う。


私たちには、できないと解っていても、成し遂げなければいけないことが在る。負けると解っていても、勝たなければならないときが在る。無理でもやってみせるというその意志は、決して揺るがず、他では有り得ない。したがって絶対的である。絶対的な正しさなど無い。絶対的で有り得るのは、自らが正しいと信ずる揺るぎ無き意志だけである。その圧倒的な信念だけが、取り換えのきかない絶対性を持ち得る。

規範的(一般的)正当性など問題ではない。「オレが正しい」と叫んで周囲を黙らせ得るだけの圧倒的な信念だけが、絶対的な「ただしさ」を生む。その内容は重要ではない。規範の内容は相対的でしか在り得ないが、自分は絶対に正しいと信じて疑わないその意志、その瞬間・唯一無二の、その熱量だけは、絶対的なのだ。

絶対の正しさなど無いのだから、他を圧倒できた者が正しい。「オレが正しい」と誰よりも強く信じた者が、正しいのである。意志の「ただしさ」は、客観的な正当性を約束された正しさではない。そんな脆弱な「答え合わせ」ではないのだ。それは自らの全存在を賭けた「正解の創出」なのだから。


相対主義を拒否する人々は、絶対に正しい「模範解答」が在ると仮定していなければ、自分が信じようとする信念の正しさを信じ尽くすことができない程度の意志しか持ち合わせていない。それが唯一絶対の存在であるということにしておかなければ、自らが信じる神の教えの正しさを信じ切ることのできない程度の人間である。相対主義が忌み嫌われるのは、それが彼らの弱き意志を隠すためのハリボテを蹴り倒してしまうからにほかならない。

しかし、本当に自らの信念の正しさを信じるなら、この世に絶対的な正しさなるものが存在するかどうかは、カンケー無い。絶対に正しいことなど無くとも、自分が正しいと思うことは正しいのだと、そう信じるなら、それが絶対の正しさなのだ。揺るがない正しさは、その場に立てればいい。自分自身の中に、今・此処に立てろ。オレの言うことは正しい。オレのすることは正しい。絶対に、正しい。そう信じる意志こそが・それだけが、絶対である。

もちろん、人は間違うことも在る。そのときは謝ればいい。学び、修正して、やり直せばいい。そして、ちょっと間違えたけど、やっぱりオレは正しい、と言えばいい。意志の絶対性は、そんなことでは傷付かない。存在は取り換えがきかないが、中身は取り換えがきく。守るべきは存在そのものの絶対性であり、無謬性ではない。後にも先にも唯一無二である今・この瞬間の私の意志は、たとえ世界が滅ぼうとも、たとえ世界を滅ぼそうとも、絶対に「ただしい」。そして正しい・と私は信じる。


だから。だから、予め決まっている「模範解答」が存在するという想定の下に、そのゴールに向かって世界を動かしていこうとする態度を、私たちは徹底して拒否しなければならない(と私は信じる)。それが予め知られている目的地に向かって計画的な善導を行おうとする設計主義/パターナリズムであるか、人為的な介入など行わなくても自発的・創発的な秩序形成によって理想状態の実現は可能であるとするリバタリアニズムであるか、向かうべきゴールの具体的な姿は明らかでなくてもひとまずそれを措定しておくことによって現実を一定の方向に改善していくことができると考える否定神学であるかは、問題ではない。それらは全て、個の意志よりも全体の調和を重んじ、そのために神を必要としている。個の意志を抑え込むために、約束された正しさを前提し、非政治的な砦にすがりついている。

そんな態度は間違っている(と私は信じる)。だって、約束された正しさなど存在しないのだから。少なくとも個のためには、政治から逃げてはならない。自らが欲することを実現するためには、政治を闘わなければならない。意志の貫徹は、他者の意志との闘争を通じてしか成し遂げることができない。その舞台を用意するのが、民主政の役割である。だから、互いの正しさをぶつけ合う民主的討議は、工学的な社会設計にも創発的な秩序形成にも優越する。そこには、自己決定を為そうとする意志が溢れるからである。そこには予め決まった正解は無く、その度に創出されるほかないからである。

意志する者は、意志せぬ者を圧倒する。何を意志するかは自由だが、ひとたび立てられた意志は、絶対的である。それを嘲笑うにしても、へし折るにしても、必要とされる賭け金は少なくない。誰かの意志の前に立つなら、それだけの覚悟を用意せねばなるまい。




Saturday, April 25, 2009

かかわりあいの政治学5――臓器は誰のものなのか


承前

日本において、脳死者からの臓器提供は少なく、1997年10月から2009年3月まで81件(2)である。脳死提供者数は年間最大でも13名という状況である一方で、待機者は2009年3月31日現在、約12,400名(3)おり、国内での脳死者からの提供だけでは待機患者への移植の実施は非常に困難である。そのために海外に渡航し移植を試みる患者もいる。移植学会会員がいる医療機関へのアンケート調査では、2006年までに少なくとも522名が、米国、ドイツ、オーストラリア、中国、フィリピン、英国などで移植を受けている(4)ことが分かった。また、現行の臓器移植法では15歳未満の脳死者からの臓器摘出を認めていないため、小児受領希望者は国内での実施を望めない状況である。

このような中、2008年5月には、国際移植学会が「臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言」(5)を発表し、移植ツーリズムを回避するために、各国は自国民の移植ニーズに足る臓器のドナーを確保すべきであると述べた。さらに、WHOは指針改正により、移植臓器に世界共通の通し番号をつけ、臓器売買を避けようとしている。指針は2009年5月の世界大会での承認を目指している。

このような、臓器の自給自足を求められている状況において、特に、日本国内での提供が認められていない小児受領希望者(の家族)は、海外渡航移植ができなくなるという危機感を抱いていると思われる。


臓器移植法改正の最新動向」@東京財団 政策研究



 昨年5月に移植医らで作る国際移植学会が自国外での移植の自粛を各国に求めた「イスタンブール宣言」を発表し、世界保健機関(WHO)も来月18日からの総会で、自粛を各国に促す新指針を採択する方針だ。現行法で臓器提供が可能な年齢を15歳以上としている日本は特に、小児患者の臓器を海外に依存してきたため、新指針が厳格に運用されると移植が不可能な状況になる恐れがある。

 そもそも小児患者への移植が国内で事実上閉ざされている問題は、1997年の臓器移植法成立直後から指摘されてきた。同法の付則にも「施行後3年をめどに」見直すとの記述があり、患者団体などは年齢制限を撤廃するよう求め続けてきた。

 現在国会に提出されている改正3法案のうち2案は年齢制限を緩和するものだが、いずれも国会提出は2006年3月で、すでに3年以上たなざらしになっていた格好だ。自民党の大島国会対策委員長も率直に、「国会の不作為が問われている」としており、自民党執行部が負い目を感じているのも事実だ。

[中略]

 三つある改正案はそれぞれ、どう違うのか。

 A案

 特徴は〈1〉脳死は一律に人の死〈2〉臓器提供者の年齢制限の撤廃〈3〉家族の同意があれば臓器提供できる――とした点だ。最も提供者が増えると見込まれ、15歳未満の移植も可能になる。

 患者らでつくる日本移植者協議会の大久保通方(みちかた)理事長は「この案が成立すれば脳死臓器提供は1年目で30例、3年目で100例まで増える」と試算する。21日の衆院厚生労働委員会小委員会で参考人として発言した旧国立小児医療研究センターの雨宮浩・元センター長は、「体が大きい子は成人の心臓を移植できるが、小さい子は海外に渡らざるを得ない」として、同案を軸とした改正を求めた。

 「これ以上、息子のような悲劇を繰り返してほしくない」。重い心臓病を患う1歳の長男に臓器移植を受けさせようと、米国へ渡ったものの、移植直前に亡くした横浜市の中沢啓一郎さん(37)は14日の患者団体集会でこう述べ、同案に沿った改正を訴えた。

 B案

 臓器を提供できる年齢を「12歳以上」とした。小児脳死移植についての理解が深まっていないとして、段階的に普及させる考えだった。しかし、「12歳以上では増える提供臓器はごくわずか」とする意見が多く、現在は同案支持を広める活動は退潮している。

 C案

 脳死定義を「脳全体のすべての機能が不可逆的に喪失した状態」とし、判定基準に「脳血流と脳代謝の停止」も追加する。現行法より厳しい内容で、臓器提供数は現状より減るのは確実だ。

 同案を提案した阿部知子衆院議員(社民)は、同案によって患者の治療法がさらに限定される点を問われると明言を避け、「乳児の拡張型心筋症の場合、ペースメーカーを使った治療で良好な結果も出ている」などと述べるにとどまった。

 A案の反対者は虐待されて脳死になった子供の臓器が提供されると懸念する。21日の小委員会でも、大阪医科大の田中英高准教授(小児科学)が「小児の虐待を見分けられると言っている小児科医は約1割しかいない」「小児の脳死判定基準では、脳機能が戻らないと断言はできない」などと述べた。

 これに対し、大阪大の福島教偉(のりひで)准教授(外科学)は「虐待を見分けることは臓器移植に限らず必要。脳死と診断された人の心臓が1年以上動いたとしても、意識が回復することはあり得ない」と反論している。


「臓器移植、なぜ改正機運…見直し案 3年以上たなざらし」YOMIURI ONLINE 2009年4月22日



 臓器移植法の今国会改正を目指す自民、民主両党の関係議員が作成している新たな改正案の概要が24日、明らかになった。

 臓器提供が可能な年齢の制限を撤廃する一方、脳死の定義は現行法のまま、移植の場合に限って「人の死」とする内容だ。すでに提出されている3案のうち移植範囲の拡大を目指す2案を反映した内容で、大型連休明けに公明党を加えた3党の有志で国会に提出したい考えだ。

[中略]

 新案では、臓器提供の条件も現在と同様、本人の生前の文書による意思表示と家族の同意を求める。ただ、新たに臓器提供が可能となる15歳未満の子どもについては、本人の生前の文書による意思表示は必要としないが、家族の同意だけでは虐待などの事態を見抜けない恐れがあると判断し、病院に倫理委員会などの設置を義務づけて審査させる仕組みを盛り込む方向だ。


「臓器移植の年齢制限撤廃、脳死定義は現状維持…法改正第4案」YOMIURI ONLINE 2009年4月25日


近時の臓器移植法改正論議では、海外に臓器を買いに行く「移植ツーリズム」は問題であるとの認識が疑われることのない前提とされているが、移植ツーリズムや、ひいては臓器「購入」そのものがどういう理由で問題なのかは、実はそれほど明らかとは言えない。医療行為一般が全面的ならずとも市場経済の内部に位置付けられる以上、一旦移植医療を認めたならば、形式はどうあれ臓器にも値段が付くのは当然の結果である。どこの国でもニーズに対してドナーが足りないとすれば、より高い金を支払える人間に臓器が流れやすくなる。一般に、経済行為について保護主義は良くないと言われるが、臓器資源の利用は国内で完結させるべきであるとの主張が説得力を持つのはなぜだろうか。同じだけ命が助かるのだとすれば、その人の国籍などどうでもよいことではないのか。自国内の移植医療によって延命されるのは自国民に限られるべきだ、との「臓器資源ナショナリズム」を尊重する理由など在るのだろうか。

ここで、救われる命が先進国の豊かな人ばかりになるのが問題なのだ、との反論が来るだろう。しかし、それが問題であるとしても、それは移植医療に限られる問題ではない。医療行為一般の市場性(対価性)の問題である(もっと言えば、貧富の差は一国内でも存在するので、その反論では「自由国際移植主義」を批判して臓器資源ナショナリズムを擁護する理由には弱い)。それについては、国を問わず貧困層の人々が適切な医療へのアクセスを保障されるよう、より総合的な観点から対策を検討する必要がある。それはそれとして、当座の話題である移植医療が特殊なのは、その市場性ではなく、ドナーの存在だろう。臓器移植や移植ツーリズムが行われることによって、ドナー側の生命・健康・尊厳が毀損される可能性が問題なのであって、それは臓器のやり取りに金銭が結び付くことが善くないことであるかどうかとは切り離せる話である。ドナーの自発的意思に基づいて安全に処置され、妥当な報酬が支払われることを保障する仕組みが整備されるなら、臓器売買を解禁する選択肢だって別に有り得ないわけではないはずなのだ(私自身は、臓器はおろか血の一滴たりとも提供する意思を持っていないけれど)。

もちろん、現実の移植ツーリズムに何の問題も無いと主張したいわけではない。それは人身売買と無関係ではないだろう。また、提供意思の「自発性」の内容・水準にも十分な注意を払う必要がある。このイシューについて私が多くを知っているわけではない。また、確定的な意見を持っているわけでもない。しかしながら、少なくとも日本の報道ベースでは、移植ツーリズムが具体的にどのようなプロセスによってどのような問題を引き起こしているのかが、ほとんど語られていないように見える。そのような論証が放り出されたまま、機械的な身振りで移植ツーリズムを退け、臓器資源ナショナリズムの無批判的な受容に基づいた法改正に突き進むことは、好ましくない。その反省的思考を欠いた場当たり的態度は、後に大きな禍根を残すことになると思われ、私はそれを憂う。


さて、以上の話は(今が時機なのでしたが)本当にしたかったわけではない。私が問題にしたいのは、臓器を云々する権限、あるいはその意思についてである。実際のところ、なぜ自分や他人の臓器を売買してはいけないのかは、よく分からない。これは別に自己(の身体に対する)所有権を認めるか否かには左右されない問題である。察するに、臓器を売買することによって引き起こされる(と思われている)事態が忌避されているのであって、臓器を売買することそのものが悪いわけではないだろう(多分)。何かを売ることができるのは、その人が当該の対象について、処分を決定する権限を持っているからだと、私たちは考えている。それは、いわゆる所有権の機能の一つである。別に売るだけの話ではなく、対象をどうするかについての決定権がどこにあるか、誰に握られているかが、重要なのである。そういう話を、私はしたい。

他人に臓器を提供するかどうかも、誰かが決めることである。誰かの意思によって決まることである。それを決める権限は普通、死ぬ本人の意思に握られるべきだと考えられている。なぜだろうか。本人だから――彼がその身体の所有権を持っているから――だ、と言うのは答えになっていない。なぜ「本人」は決めることができるのか。それは、決定される対象の成り行きに最も深刻な利害関心を持つだろう主体が彼だからだ、と。せめてここまで言わなければなるまい。とりあえず、これが少しは反省的思考を利かせた、ある程度は納得できる答えだ。

死ぬ本人は自分の身体の処分について深刻な利害関心を持つから、それを決められるべきだ、と。そういうことなら、臓器提供の際に家族の同意が一つの問題になることも、理解できる。死ぬ本人は死後の自分の身体についての全てを決定できるべきなのかと問えば、私たちは皆、そんなことは無いと答える。それは彼の身体の成り行きに大きな利害関心を持っているのは、彼に限られるわけではないからだ。そのような本人以外の代表的な主体が、家族なのである。だから家族は一定の発言権を持つと当然に考えられている。本人の決定権は、絶対的・排他的ではない。彼の身体に対して小さくない利害関心を持つ主体であるなら、決定に携わる「権限」が認められる余地は存在するのである。

ただ、そうは言っても、利害関心があれば、それが誰であっても、どのような利害関心であっても、その意思が配慮されるべきだと考えられているのかと言えば、そういうわけでもない。例えば日常的に子どもを虐待していたことが分かっている親の意思は、子どもの死に際して考慮するべきかを問えば、否定的な答えを為す人が多数だろう。つまり、「決めることができる」べきだとの判断の基礎になる利害関心の内容や程度は、何か別の基準に拠る判断によって左右されるということである。その基準が何であり、その判断がどのようなメカニズムによって為されるのかは――この連載の最終目的の一環を成す(と思われる)――探究に値する課題なのであるが、ここでは手に余る。それについては気長にやるとして、今は角度を変えて、もう少し話を進めてみよう。


脳死時の臓器提供について、意思確認カードなどの書面による事前意思の明示が必要だと考える立場は、決定権の重心を「過去の本人」に置いていると言える。決定が必要とされる時点で最も深刻な利害関心を保有している主体は明らかに「現在の(死に瀕している)本人」であると思われるが、その時点で彼には意思表示が概ね不可能である。権利は保有されるだけでも存在し得る――法哲学的には異説が在る――が、(作用ではなく)行使するには、そうする意思が必要とされる。そこで、「現在の本人」(あるいは「未来の(死後の?)本人」)と最も利害関心を共有している度合が大きいと考えられる「過去の本人」の意思を次善的に重視する。それが事前意思を尊重する立場の理路であろうと思う。

ところで、ある主体に決定権の重心が置かれるとは、どういうことなのだろうか。それは、その主体が持つ決定を左右する力が増すということである。つまり、権力を握るということだ。事前意思が明示されていなければ臓器提供ができない場合、権力の多くは「過去の本人」に握られている。「過去の本人」の意思――それは文書が不在の場合は推定でしかない――が「現在の本人」の意思と同じであるという保障は無いが、それでも(意思を表示できず権力が失われている)「現在の本人」に一定の権力を確保するためには、過去の自己に握られた権力を介するしかないと思われる。

これに対して、臓器提供を行うには家族の同意だけでよいとするのは、家族(+脳死判定および家族への意思確認を行う医師)の権力を飛躍的に強化し、過去・現在・未来を通じた本人の権力を決定的に弱める施策である。事前に家族と合意を形成しておくのは書面での意思表示よりも多くのコストが必要とされるし、事前の合意が覆されるリスクも生じる。このように、最も深刻な利害関心を有すると思われる本人から決定を左右する権力の過半を奪う法制度が正当化されるとすれば、その理由は何だろうか。

現下では、それは移植ニーズに対して臓器が足りていないという社会一般(とりわけ患者および患者家族)の利害であるようだ。しかし、顕在的な患者に対して、潜在的なドナー(候補)は圧倒的に多数であるはずなのに、前者の利害によって後者の重大な権力削減が比較的容易に実現し得るという事態は、いささか奇異に映らないことも無い。あくまでも潜在的に留まるドナー側の関心と政治力が弱いのに対して、患者側が顕在的かつ切迫した利害に基づく強固な組織・運動に支えられた強い政治力を発揮している結果によるものだろう。移植ツーリズムへの批判も、患者側および移植関係者の利害を通す道徳的テコの一つとして使われていると思われる。政治力も、道徳的訴求力も、権力の一つである。


潜在的な利害をどこまで政治過程の中に持ち込むことができるか、持ち込むべきかは難しい。それはそれとして考えることにするとしても、利害関心や権力(と他の何か)を中心とする幾つかの類の「かかわり」に着目すると、道徳的判断から政治過程までを貫通した形で「決定」を巡るあれこれを何らか整理して考えることができるということは、ひとまず示せたのではないかと思う。ちょっと長くなったが、今回はそういったところで満足しておこう。




Wednesday, April 8, 2009

いじめの構造


なぜいじめが起こり、エスカレートするのかについてのメカニズムを理論的に解き明かした良書。著者独自の概念が頻出することもあり、一般読者向けとしては歯応えのある方だが、内容はとても刺激的。

個人や集団の心理や行動が物理的・制度的な環境によって多分に構築されることを豊富な事例とともに解説しながら、「生態学的設計主義」の善用によっていじめを防圧することが可能であると説く。

狭義のいじめ研究を踏み越えて、教育制度全体の再設計や集団一般の全体主義的暴走のメカニズム解明にまで進んでおり、その射程は広い。提案されている個別の施策については吟味の余地があるとしても、著者の個人史にも踏み込んだ前著(『〈いじめ学〉の時代』)以上の密度を備えており、教育関係者には是非読んでもらいたい一冊となっている。

Saturday, April 4, 2009

世界を変えることはできますか?――社会科学的説教ないし説教的社会科学入門


10代の少年少女にふと、「世界を変えることはできますか?」と尋ねられたとして、私ならどう答えるか――。


できるかできないを訊くな。今の君には、そんなことを考える必要は無い。

本当に世界を変えたいなら、まず何をどう変えたいのかを考えることだ。何でそう思うのかをハッキリさせろ。

その次に、どうやったら変えられるのかを考えろ。そして、それを知るために勉強しなさい。」



もちろん、「できない」と答えてもいい。しかし、それは必ずしも正確な答えではないし、その答えで納得して引き下がるような相手なら、最初から答える価値も無い。誰かに「できない」と教わったら変えようともしない人間は、別に本気で変えたいとも思っていないということだ。そんな奴、真剣に相手にするだけ時間の無駄である。

世界を変えることはできない。変えることができるのは、自分だけだ*1。私たちにできるのは、自分の変化や行動を通じて世界に働きかけ、何らかの影響を及ぼそうとすることだけである。世界を変えようとすることはできるが、それで世界が変わるわけではない。ただし、私たちの行動が意図しないままに間接的な形で世界を変えることはある。その意味で、私たちは世界を思うように変えることはできないが、思いもよらない結果として変えることはできる。「できない」と言うだけでは十分に正確ではないと言ったのは、それが理由である。

このような考え方は、社会科学的な観点に拠っている。社会科学的な見方に基づけば、私たち一人一人が世界を(思うように)変えることはできない。世界(社会)の在り方は、個々人の意思や行動を超えたところで成り行くものだからである。


 さて、マルクスの説明は、だいたいこういうことだと言ってよいでしょう。社会の構造が自然発生的な分業の上に、つまり自然の成り行きのなかでひとりでにできあがってくる職業配置を土台としてうちたてられているとしますと、われわれ人間諸個人には、社会全体としてどういう人々がどういう割合でどういう職業に配置されているのか、そんなことはいっこう分からない。われわれに分かるのは、ほんの自分たちの周辺のことだけですね。社会的な職業配置の全体はさしあたってわれわれには無縁なことです。

 [中略]

 それでは、このような自然発生的分業の上に立っている資本主義社会では、どういうことになるか。われわれが見渡せるのは自分たちの周辺のほんの狭い範囲のことだけにすぎません。そして、社会をなして生産しつつある人間諸個人の活動の総体が、全体として、どういうふうに動き、どうなっていくのかということは、あるいはマルクス風に言いますと、どこから来てどこへ行くのかということは、われわれにはまったく分からないし、また分かったとしても、さしあたってどうすることもできないわけです。

 このようにして、経済現象は、元来、社会をなして生産しつつある諸個人の活動の総体にほかならず、そのなかにはいかなる神秘的なものも混入してはいないわけであるのに、その全体の動きは、そもそもその動きを作り出している人間諸個人自身にとって、自然現象と同じように、どこから来てどこへ行くのか、見通しがまったくつかないものとなっている。もう少し別の言い方をしてみますと、人間諸個人の活動とその活動によって作り出されたものが、、人間諸個人の活動とそれによって作り出されたものであるのにもかかわらず、当の主体である人間諸個人にとって、よそよそしい無関係なものとなり、まるで自然と同じように、われわれ人間諸個人の意志からは独立した客観的過程と化している、というわけです。


[大塚久雄『社会科学における人間』(岩波書店(岩波新書)、1977年)、82-83頁、イタリック部分は原文傍点(以下同じ)]


 群衆がなにかのきっかけで、なだれをうって動きはじめることがあるでしょう。このごろは交通整理が上手になりましたから、あまり見られませんが、昔はよくあったものです。そうそう戦争直後にも皇居前広場でありました。あそこで群衆がなだれをうって動き出し、そのために、押されたり転んで下敷きになったりして、大怪我する人々が出てきた。それで力の強い数人の男がスクラムを組んでそういう人々を助けようと頑張ったけれども、どうにもならなかった、という話も伝わっておりました。実は私も子供のとき、野球の試合を見物に行きまして、群衆の混乱の中に巻き込まれ、ひどい目にあったことがあります。昔の子供ですから、着物を着て下駄をはいていたんですが、足がもう宙に浮いてしまって、気がついた時には下駄も帽子もどこかへ行ってしまい、着物も目茶苦茶になっていて、あとでよくも生きていたなとお思いました。そういうことがあるでしょう。その群衆のありさまを想像してみてください。

 群衆がワーッと動き出すと、もうこれは手がつけられない。あのエネルギーはたいへんなものですね。では、あのエネルギーはどこから来ているかというと、すべて群衆を構成する人間諸個人自身のエネルギーだということは明白でしょう。それ以外の力というのはいっさい入っていないわけです。もちろん、倍化されているというか、ふだん出ないような力を出しているかもしれませんし、また、それが逆に混乱をいっそう大きくしてるかもしれませんが、とにかく群衆を構成する人間諸個人自身の力の総和だということは明らかです。

 ところが、私自身も経験がありますが、その混乱のなかに巻き込まれて、生きた心地もしていないような個人個人は、そんな混乱がいつまでも続いた方がよいなどと、誰も考えていないわけです。できることなら、早く静まってほしいし、でなければ、なんとかしてその外へ出たい。けれども、なんともしようがない。みんながただある方向に動くから、怪我をしないためには、それについて動くよりほかに道がない。ところが、みんながそれについて動こうとするから、その力がまた群衆全体の力に加わる。そして、すべてがそれを構成する個々人の意図とはまったく無関係に動いていく、というわけです。

 このばあい、考えてみますと、群衆全体が自分自身の力で動いている、というよりは、動かされている。群衆の一人一人はそんな動きをすることがいやでしようがない。そんな気はぜんぜんない。しかも、自分たちの力の総和が自分たち自身に対してまったくよそよそしい、疎遠なものになってしまっていて、逆に自分達をあらぬ方向に押し動かしていく。これがいわゆる「疎外」現象なんですが、とにかくそのなかでは、人間はもはや人間らしく主体であることをやめて、物とまったく同じに客体となってしまっているわけです。群衆を構成する一人一人が、崇高な理想をもつ人であろうと、狡猾な利己主義者であろうと、また、どんなに親切な人であろうと、逆にどんなに意地の悪い奴であろうと、そうしたことは全部混乱のなかで消えてしまって、ただ人々は物のようになって動いている。いや、動かされている。


[同書、84-86頁]


世界と言っても、社会と言っても、究極的には一人一人の人間によって構成されているのだから、少しずつでも一人一人の意識が変われば、それによってわずかずつでも一人一人の行動が変われば、いつかは世界/社会を変えることができる。こういった考えは、社会科学的見解と決定的に対立している。


が、スミスのホッブズ批判には、その奥にいま一つ重要な着想があります。それは、人間理解から直接に社会体の構造は解明できないということです。

 こういうことです。社会現象は、人間が引きおこす現象ですから、人間の行動を別にしては、社会体の運動なり、構造は捉えられない。このことも事実です。が、無数の人間の行動は、織り成されて、各人が意図したものとはまったく別な結果を生む。大塚(久雄)さんのうまい例を使わしていただくと、雑とうから逃れようとする一人一人の意志的行為が、結果として巨大な一人歩きをする集合力を作りあげて人間を殺すことがある。だから、人間の目的設定や行為をぬきにして社会現象を語ることはできぬとしても、目的設定そのものから直接に社会現象を説明することはできません。逃げようとしたから巨大な集合力ができたんだが、殺そうと思って行動したわけではありませんからね。

 スミスは、人体の説明にあたっては、胃袋が人体保存のために意識して消化活動を行うなどという考えを持ち出す者はいないのに、社会体を説明しようとなると、たちまちこの種のばかげた説明をする。つまり目的原因と作用原因を混同してきた点に、すべての従来の道徳哲学の間違いがあった、といっています。


[内田義彦『社会認識の歩み』(岩波書店(岩波新書)、1971年)、167-168頁]


しかし、それでも人は変えようとして行動するし、その行動が様々に組み合わさった帰結として、世界は(思いもよらない方向に)変わっていく。社会科学は、その行動と変化のメカニズムを解明しようとする営みである。社会科学が単なる個人の集積や総合としての意味を超えた存在としての社会(世界)を扱うからといって、そこにおける個々の主体の振る舞いを軽視するわけではない。それはこの学問体系の成り立ちからしても明らかである。


 社会科学は経験科学である。それで社会科学が一つの科学として成り立つためには二つの条件が必要である。第一には人間が物事を考え、自分自身の行動や生活の基準を立てるのに、なによりも人間自身のたしかな経験によろうとする態度である。これは観察と実験によって物事の法則を明らかにしようとする態度であって、まず自然科学がこうして生まれてきたのである。社会科学もこの点においては自然科学とまったく同じである。つまり人間が人間以上の力、たとえば自然の威力であるとか、人の運命であるとか、そういったものの支配に忍従し、甘んじているのではいけない。そうではなくて、自然の環境を自分の生活に役立たせたり、自分で自分の運命を切り開いたりしようとする意欲をもつようになってはじめて、自然科学とか社会科学とかいったような経験科学というものが生まれてくるのである。これは一言でいうと、人間が自分自身の立場を自覚するようになったことである。人間が人間以上の力にたいしてその主体性を確立したことである。そしてこれがちょうど資本主義体制の成立の時期になってはじめて可能となったのである。

 社会科学が科学として成立するための第二の条件としては、社会そのものの側における大きな変化ということがあげられる。社会に大した動きがなく、人々の関係も長い間固定していて、したがって習慣や風俗や人々の考え方の上にたいした変化がないような時代においては、社会の秩序というものは人々にとりはじめから与えられたものである。人々はただそれに順応することしか考えないであろう。ところがこの秩序が破れて社会が動的となり、人々の社会関係の上に大きな変動が生ずるような時代になると、社会生活にたいする人々の関心が急激に高まってくる。古い秩序や制度の枠の中でもはや処理することができないような出来事がつぎつぎに起るようになると、人々はその対策を講ずるために自分自身の手でその原因を研究し、進んで自分自身の運命を切り開きたいと思うようになる。政治とはなにか、経済とはなにか、法とはなにか、国家とはなにか、社会とはなにか。こうした問題が様々な形をとり、いろいろな事件と結びついて論議されるようになる。[中略]

 もう一度要約すると、社会科学が科学としての成立をみるためには、第一には人間自身の側における変化(人間の主体性の自覚)と、第二には社会そのもの側における変化(社会生活の動態化)とがまず起らなければならない。この二つの変化はたんに変化というにとどまらないで、一つの変革であり、革命である。社会科学が成立するためにはその主体である人間の側と、その客体である社会の側との双方に革命的な変化が起らなければならなかった。そしてこれらの二つの変化は相互に結びついて行われ、相互に促進しながら進んでいった。


[高島善哉『社会科学入門――新しい国民の見方考え方――』改版(岩波書店(岩波新書)、1964年)、71-73頁]


では、社会科学的認識とは、結局どういうことなのか。それは部分と全体、ミクロとマクロ、可能性と所与性とが、互いに結び付きつつ相克する現実の中に生きる人間の姿をそのままに把握するということである。


人間はたんに盲目的な必然の法則によって縛りつけられているだけでなく、この必然の法則を認識して自分な世界を作り出すことができる。この自由な世界とは、物質に対する精神の世界、あるいは自然に対する文化の世界だというので、社会科学のことを精神科学とよんだり、あるいはまた文化科学とよんだりする人もあるのである。自然には意志というものがない。社会にはそれがある。社会の意志というのは、これを構成している人間集団の意志であり、人間集団の意志というのは、さらにこれを構成している個々の人間の意志である。つまり社会に意志があるというのはこれを構成している個々の人間に意志があるということにほかならない。ところが物質を構成している分子に意志があると考えることはもちろんできないし、肉体を構成している細胞に意志があると考えることもできない。比喩的に説明すると、社会という肉体においてはこれを構成している個々の細胞に意志があって、それぞれの考えで自由に動いている、つまり行動しているのである。

 これはたしかに非常にたいせつな点である。けれどもさらに考えてみると、人間がそれぞれの考えをもち、自由に行動するものだといっても、人間は常に一人で生きていくことはできない。常に集団のなかで生活しなければならない。国家機構や社会組織をはなれて自然のままの生活をすることはできない。もしそんな生活があったとすれば、それは人間の生活ではなくて動物の生活である。人は生まれ落ちたとたんに家族の一員となるし、その家族はある国家、ある社会組織のなかの一員であって、政治的、法的、経済的、倫理的に一定の枠の中にはめこまれている。人間は生まれ落ちたとたんからそういう枠のなかで教育され成長するわけである。今日のように発達した複雑な社会のなかでは、手ばなしの自由というようなものは白昼の夢でしかありえないのである。


[高島前掲書、135-136頁]

市民は自由である。しかしそれは人間として自由なのである。けれども彼が市民として現実に社会のなかで生活しようとしたとき、彼は政治的、経済的、法的、心理的、倫理的にいろいろの束縛を受け、自分一個の力ではどうにもならない大きなものの力を感じないわけにはいかない。これが市民社会の現実なのである。

 ところがこの市民社会はどうしてできたか。それはやはり人間自身によって作られたものではなかったか。封建体制の胎内で育まれながら、それを乗り越えて進もうとする新しいタイプの人間、すなわち近代的な市民の手によって作られたものではなかったか。

 このように考えてくると、私たちには社会における人間の自由と必然の関係がけっして一方的に一面的にのみ理解されえないものであることがわかるだろう。人は社会によって作られながら逆に社会を作っていくものだといわれる。人は自らに背負わされた社会的必然の法則を認識しながら、逆にこれを利用し善用することによって、必然の法則を自由の法則に高めるものだともいわれる。[中略]市民革命は人間の偉大な歴史的行為である。人間の自由意志の沸騰した場面である。けれどもこの市民革命そのものがまた、絶対主義の矛盾から生まれ出た歴史的社会的必然だったのである。


[同書、137-138頁]


社会科学は、意志と規定の間におけるこの循環を見なければならない。そして、このような循環、あるいは二面性の中に、社会科学の役割も見出されることになる。


 マキャヴェリが書くのは、直接には、君主たるものが政治をするための忠告ですが、同時に、普通の人間への忠告でもある。人間がそのなかに生きている環境の、リアルな把握による環境の操作ということです。それをマキャヴェリは、ヴィルトゥとフォルトゥナという伝来の考え方を加工しながら説明します。

 フォルトゥナ、運命というのは、人間の外にあって、あるいは彼を助け、あるいは彼に襲いかかってくる、そういうものです。人間はつねに運命に包み込まれていて、その外に出ることは絶対にできません。ヴィルトゥというのは、徳、ヴァーチューと訳すとなんかこう温厚な人柄を指すように聞こえてまずいんですが、そうではなくて、幸運をすばやく受け取る、あるいは襲いかかってくる運命を投げ飛ばし投げ飛ばし操作する、そういう主体の働きであります。


[内田前掲書、51頁]


 歴史というのは人間の意志を越えてどうしようもなく動くというのも歴史の見方で、そういう歴史観が重みをもっていまだに生きているのも、それなりの理由がある。歴史の一面としてそれは確かに事実なんだが、別の観点からすれば――つまり自由な主体として、自分の運命を何とか開拓せんならんという観点に立てば――、歴史から別のことを読み取ることもできる。つまり、一つの歴史的事実というのは、半分は運命、半分は人間がそれを操作した結果だと見る見方のほうが、より正しいんじゃないか。伝来の運命観をくつがえす事例は歴史上いっぱいある。こういうわけです。

 この半分という言い方は少々変で、文字どおり受け取りますと、ここからここまでは運命、ここからここまではヴィルトゥの所産というふうに聞こえます。しかし彼の言うことは、運命は完全に一人歩きをしているんではなく操作すれば変えられる、そこに人間の自由があるということです。運命は読みかえられる。もっとも、運命は読みかえられるといっても、読みかえられた運命はやはり残るわけですから、そういう意味では、実際の歴史、あるいは人生というのは、すべてが運命のしわざでもあるし、すべてが運命を操作した結果でもある。

[中略]

 運命というのは、こういうふうに人間に絶えず襲いかかってくる存在であって、それなしには、人の、あるいはある国の歴史は考えられないんだが、その運命はまた逆手にとられる存在でもある。逆にいえば、運命を逆手にとるのが自由な人間、直接には、君主たるべきものの徳たるヴィルトゥである。こういうわけです。そのためには、運命について先手をうつ形で正確に知る必要がある。知らなければ操作できない。


[同書、53-55頁]


社会科学は世界を変えることが不可能であると教えるけれども、「世界を変えたい/変えよう」と思うことには、社会科学から見て重要な意味がある。それは一方で自己や世界に働きかけることで何らかの「社会現象」の構成要素の一つとなっていく姿、すなわち社会科学が解明しようとする対象(客体)の一面を見せていると同時に、世界を変えるためにはどうすればいいかを知ろうと世界の成り立ちや変化のメカニズムについての思考に近づくことによって、自身が社会科学の眼差しを獲得し得る萌芽的主体としての側面を現すことだからである。


 社会科学的認識の目がわれわれのなかで育ってくる最初の結節点は、われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです。決断、賭けということがあって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識するということが、自分の問題になってきます。[中略]

 賭けるということと同時に客観的認識が出てくるというと、不思議に思われる方もあるかと思います。日常語の語感では、賭けというのと、客観的認識というのがずれているからであります。賭けといいますと、およそ合理的なものがないというふうに考えられますし、客観的認識、あるいはとくに合理的計算などといいますと、非合理なものがおよそ含まれないというふうに考えられています。しかし賭けるということは本来知っているからこそ賭けられるんであって、でたらめに賭けるのは賭けではありません。

 電車に乗っていますと、競馬新聞を一生懸命に読んでる人をよく見かけますが、競馬でも、あの馬はどろ沼に強いんだとか、騎手がどうだとかを知って、はじめて賭けができます。たくさんの競馬新聞を抱え込んで比較研究をする、というのは少々オーバーかもしれませんけれども、違った競馬新聞はそれぞれ違った予想を立てている。そういう違った予想が立てられるのは、それ(予見)に必要だと思われるデータと、そのデータの組み合わせ、あるいはウェイティングの違いというものが、そこにあるからでしょう。そこで予想が違う。それぞれ違う予想をのせた新聞を照らし合わせながら、そこに含まれている諸事実を、なんとか自分なりにつかみ整理して賭ける。それでなければ賭けといったって、要するに偶然に身をまかせるに過ぎない。知って知って知り抜いたうえ、やっぱり最後に賭ける。それが賭けであります。事物の認識が深まれば深まるほど賭けらしい賭けができる。逆にいうと、深い賭けが出てきて、はじめて、主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識が自分のこととして出てきます。


[内田前掲書、44-45頁]


だから、真剣に世界を変えたいと思っている相手にこそ、「じゃあ勉強しろ」と言わなければならない。社会科学の岸へと架橋してあげなければならない。もちろん、社会科学なんて学んだところで、世界を変えることはできない。しかし、それは少なくとも自分を変えることにはなる。世界を眺め、世界に働きかける主体としての自己を変革する助けにはなる*2。世界を変えるために勉強するなんて、今すぐ直接に行動を起こすことから逃げるための言い訳でしかない、と思う人もいるかもしれない。それはそうかもしれないが、「勉強なんかしている場合じゃない、とにかく行動だ」と言うのも、煩わしい学びの作業から逃れて楽をしたい自分を肯定するための言い訳に過ぎないということでは、何も変わらない。それなら、学びを通じた自己変革を経験できる分だけ、勉強する方がマシだろう。

もちろん、何度でも言うが、世界を変えることはできない。賭けをするためには客観的な認識が必要とされる。そのためには学問が役に立つ。世界を変えようとするなら、学ばないより学ぶべきである。しかし、世界(社会)の中では、誰もがそれをしている。誰もがそれぞれの客観的認識の下に、賭けをしている。そうした個々人の行動が織り合わされた結果として、世界は思いもよらない方向に変化していく。その構造は、決して変わらない。だから、世界を変えようとする若者が社会科学に導かれたとしても、彼はいつか必ず挫折や絶望を経験することになるだろう。

だが、それでいい。重要なのはその先である。思うようには変えられないと解った上で、どうするか。何ができるか。そこで絶望に沈んで終わりになるのなら、彼の意志はその程度だったと言うほかない。どの道、何もしなくても世界は何かしら変わっていく。そのままの姿が持続することは有り得ないし、持続させるためには何かが変わらなければならない。だから、世界を変えようとすることは悪いことではない。変えようとして行動したこと(あるいはしなかったこと)が、結果として世界を良くするかもしれないし、悪くするかもしれない。それは誰にも分からない。どこかで跳ぶしかない。賭けはどこまで行っても賭けである。他人と予想を擦り合わせることはできるし、科学にとってそれは決定的に重要だが、一緒に賭けることはできない。賭けはあくまで、個々別々の主体によって行われるしかない。そこで賭け金になるのが、何を・どのように・なぜ変えたいのか、という原初的・根底的意志なのである。


 主体の自覚があって、ものごとのリアルな認識が出てくるということは、われわれのなかで社会科学的認識が育ってくる場合に、あらゆる時点においてもっとも基礎的なことと私は思いますが、ただそれだけに抽象的で、それだけではまだ社会科学的認識とはいえない。事物をありのままに見るということは、実はなかなか複雑な手数がいるので、抽象し組立てる、こういう操作で、事物の関連というものを体系的に見る。ここではじめて、少なくとも社会科学的認識ということができます。

 そこまで認識が深まってゆくためには、主体の側の自覚もやはり深まってゆかなければなりません。つまり従来の制度をそのまま受け取っておいて、そのうえで単なるハウ・トゥとしてのヴィルトゥを考えるんじゃなくて、制度そのものを考える。なぜそういう制度が必要なのかをあらためて考える、そういう主体になってゆかなければならない。つまり制度のなかで「主体的に」考えるのではなくて、制度そのものをつくり直す主体に、社会の成員のそれぞれがなってゆかなければならん。われわれ人間が制度を創るんだということになって、はじめて、社会についての体系的な学問が出てくる。


[内田前掲書、72頁]


しかし、社会科学の体系が出来ても、体系そのものがわれわれの眼に代わってものを見てくれるわけでは決してない。やはり体系を使ってわれわれの眼で見なければならない。体系をどう使うか、体系を使ってどう見るか。それは一人一人の賭けです。[中略]一人一人が社会の創造、あるいは社会科学的認識の創造に参加するというのでなければ、社会科学は形骸化します。一人一人が賭けをする存在でなければならんという社会科学的認識の第一歩は、つねに生きているわけです。


[同書、115頁]


つまり、社会科学的認識の真価はいつも、世界をどう変えたらいいか、どうやって変えたらいいかという「決断」と結び付いているのであって、それゆえ社会科学を活用する主体の振る舞いの中には、世界を変えたい/変えようとする意志が常に生き続ける。少年少女ができるかできないかを考えるべきではないと言うのは、そういうことである。可能性などは重要ではないのだ。世界の成り行きを最終的に決定するのは、変革の可能性についての算術ではなく、その算術を超えたところで露出する変革の意志の交錯なのだから。だから跳べ、と。だから賭けろ、と。そのために学べ、と。それだけを伝えればよい。






*1:実は、これも難しい。

*2:実際、大学に入った18歳から大学院の修士課程を卒業した24歳までの間に、世界に対する私の見方は随分変わった。


Saturday, March 21, 2009

投票自由論――選挙など行っても行かなくてもいい


昔、「選挙へのエゴイズムの見解(試論)」というものを書いた。次の衆議院議員選挙がいつになるのか分からないが、選挙における有権者の行為/不行為に伴う責任について、改めてまとめた確定版を書いておきたい。


デモクラシーの精神に忠実であることを自負する人々は、有権者がその権利を行使することは議論の余地無き「善きこと」であるかのように、投票を勧める。他方、アナーキストの多くは、投票行為そのものが現行の政治体制と国家権力を承認し、生き長らえさせるものであるとして、選挙への不参加を呼び掛ける

しかしながら、選挙に行こうが行くまいが、それは自由である。ここで自由であると言うのは他者から責めを受けるいわれは無いということであり、それは現在の行動についても、その将来に生ずる帰結についても同様である。そしてこれは、民主政を支持するか否か、民主主義を支持するか否か、どのような民主主義を支持するか否か、などの問題とは独立した問題なのである。


投票は義務なのか



まず、前提知識の確認から始めよう*1。選挙権に公務性を認めるか否かについては学説の対立がある。選挙権は憲法上認められた個人的な権利であるとする権利説に対して、多数説である二元説は、選挙権に公務性を見出す。投票行為は、統治行為を担う国民代表を選出するという意味で、公の職務を執行する義務としての性格を有するとされるのである。二元説においても選挙権が権利であることは認められるが、それは統治を担う代表者を選出するという公務への参加資格であるとして、義務的性格を同時に伴うとされる*2

私見によれば、選挙権の公務性を否定する権利説が妥当である。それは、たとえ選挙権が公務的性格を帯びると考えたとしても、それが政治的決定に参与することを認められるメンバーシップ、地位身分、資格、権原として機能していることは確かである以上、そこに権力資源としての権利の性格が含まれていることは否定できないからである。この点は、たとえ強制投票制を採るとしても変わらない。なぜなら、投票そのものは強制であるとしても、投票の内容が有権者の自由に委ねられているのならば、未だそこには権利的契機が残存していると見るべきだからである。

二元説を採る場合、強制投票制も理論上は容認され得る。しかし、あくまで許容であり、要請ではない。二元説が参政権に公務性を認めるからといって、それは強制投票制を必然的に求めることを意味しない。したがって、ここで言う「公務」とは、必ずしも法的義務を指すわけではない。そうであるなら尚更、公務的性格を見出すか否かにかかわらず、参政権の中心的性格は権利であるとひとまず認めた方が、法概念論的な明快性をもたらす観点からして望ましい。

ただし、ここで重要なことは学説の優劣を決することではない。ポイントは、仮に二元説を採った場合にも、投票行為を有権者の義務または責任とする法的規定や、不投票行為への罰則規定に基づく法的強制力が存在しない以上、二元説が求める有権者の義務または責任とは道徳的責任を意味するに過ぎないと見做せるところにある。


ここでの道徳的責任とは、国家や地方自治体などの法的共同体における選挙権者は、統治行為を担う代表者の選出過程に参加することで、当該法的共同体の成員全体の利益に寄与する統治システムを機能させなければならない、などといった内容を持つだろう。統治行為の必要を認め、その恩恵を享受する限り、こうした責任を一般的に否定することは難しい。実際、現在の日本においても、少なくとも表面上は、有権者は選挙に行くべきであるとの考えが一般的であり、こうした道徳的要請が受け入れられているものと思われる。

だが、投票義務制の導入が真剣に検討されることもなく、選挙に行かないだけで差別や嫌悪の対象になる現実はほとんど認められないことから、そうした要請の程度はかなり弱いものに留まっていると見做せる。背景には、候補者の政策を吟味することから投票所に足を運ぶまで、政治参加に十分な時間を割けるだけの余暇が確保されていない事実があるだろう。あるいはまた、自分一人が投票せずとも政治はそれなりに回っていくだろうといった感覚が根付いているのかもしれない。

この感覚は決して根拠の無いものではない。選挙権に公務性を認めるとしても、やはりそれは一義的には権利であり、その行使によって多少なりとも政治的影響力を及ぼそうと考える人々は常に一定数は存在する。したがって、政治に無関心な人々がいくら増えたとしても、統治行為を担う代表者を選出するという最低限のシステム維持機能が働かなくなる事態は想定し難い。無論、低投票率で選出された代表者は統治行為者としての正統性に欠けると言うことはできるが、それでシステムが機能しなくなるわけではない。

政治がそれなりに回っていくと予期される限り、取り立てて強い政治的選好を持たない有権者が選挙に行かないのは自然である。システムの機能が維持される限り、不投票を道徳的責任の不履行として強く非難する必要性も感じられないことになる。


有権者の責任とは何か



さて、有権者の責任を問う言説においては、ここまで述べてきた道徳的責任とは異なる種類の責任が問題とされている場合がある。それは、統治行為を担う政治家を選出する権利を得ている以上、有権者は統治行為の帰結に対して責任を負っているとするものであり、特に有権者の政治的責任とでも呼ぶべき責任である*3

こうした責任を問う立場からは、選挙において誰に票を投じたかは無関係である。その論理によれば、代表者の選出過程は有権者が全体として行うものであり、有権者は選挙された代表者を正当な代表者として受け入れることについて同意している。また、代表者は(非有権者を含む)当該法的共同体の全体利益を実現するために働くことになる。したがって、選挙によって選ばれた代表者による統治行為の帰結に対しては、有権者全員が責任を負っている、とされるのである。

例えば、衆議院総選挙において大勝した自由民主党が樹立した政権によって経済失政が引き起こされ、甚大な被害がもたらされたとする。この時、総選挙で自民党に票を投じた人々が自民党政権の失政に責任を負っていることは当然である。だが、他党に票を投じた人々も、政治的無力によって結果的に自民党政権の成立を招いたことにおいて、国政の帰結についての政治的責任を免れることはできない。同様に、投票そのものを行わなかった人々も、政治的無関心によって結果的に自民党政権の成立を招いたことを以て、国政の帰結についての政治的責任を負っている。逆向きに言えば、有権者はいかなる投票行動を採るにせよ、統治の行方に責任を負っているのであるから、十分な思慮を持って行動すべきなのである、と。


しかしながら、こうした立場に賛成することはできない。まず第一に、有権者であることや投票者であることが、選挙の結果への同意や正統性の付与を意味しているとは限らない。

第二に、仮に同意が存在するとしても、一人の有権者が投じる一票の政治的影響力はそれほど大きくない。それはそれ自体として候補者の当選を直接左右することはないし、投じられなくても結果は同じである可能性は高い。

第三に、民主的政治過程においては、支持し得る政策を掲げる候補者が立候補するかどうか、その候補者が当選するかどうか、当選した政治家が公約に沿って行動するかどうか、公約に沿って行動したとしても公約を実現できるかどうか、いずれも極めて不確定である。
このような不確定なプロセスの中に、微々たる影響力しか持たない一票を投じた有権者に対して、統治行為の帰結に対して責任を負うべきであると言うことが妥当であるのか、極めて疑わしい。「権利には責任が伴うものである」との俗言を認めたとしても、不履行に対する一般的非難に値する程の責任を対応させるには、あまりに微小な権利ではないか*4

第四に、上記のような政治的責任の論理は、馬鹿げた責任のインフレに直結している。この論理を突き詰めれば、選挙権を持たずとも政治的活動の権利は有する未成年者や外国人に対してさえ、同様の責任を問い得る余地が出て来る。人一人が持つ政治的影響力は限られていることが考慮されることなく、自民党に投票した人、他党に投票した人、投票をしなかった人の全てが、それぞれに政権の失政に責任を負っているとされてしまう。この論法を認めるなら、私たちは世界中のあらゆる政権の失政に責任を負っていることになるだろう。だが、そのような責任を負っているから何だと言うのか。


生きていれば、何かをしたりしなかったりする。何かをしたりしなかったりすれば、それは必ず何らかの帰結に結び付く。その帰結に対して私たちは責任を負うが、それは生きていること・存在していることそのものが抱懐する原理的な「責任」であり、率直に言って問題にするに足りない。往々にして、そのような結びつきは極めて細く弱いものであり、一般的な非難や否定的評価には値しない。

確かに民主政治の大部分は、個々の有権者の行動に基づいて構成され、駆動している。個々人は国政に全く関与していないわけではない。だが、個人の力が政治過程に与える影響は、微小かつ不確実である。国政にせよ地方政治にせよ、政治過程は個人の力の集合に基づいて動いているに違いない。しかし、政治の帰結は、個人の力の集合以上のものである。それは、個々人の意思とはほぼ無関係に動く。それは個々人から「逆立」している。この時、個人は政治がもたらす帰結に責任を持つと考えることには無理が伴うし、仮に責任を持つと考えるとしても、それは通常考えられているより遥かに些細な規模である。


私に責任なんて無い



一般意志の決定はあなた自身の決定である、と言われても私は納得できない。それは、私の決定ではない。「この政権を選んだのは国民一人一人だ」とか、「この政策についてあなたも間接的に賛成していることになる」などと言われても、私は頷かない。それは、私個人の力を超えたところで決定された政権や政策である。自分が一票を投じた候補が与党議員になったからといって、野党議員になったからといって、落選したからといって、白票を投じたからといって、投票を棄権したからといって、有権者が責任を感じる必要など無い。

したがって、現行の統治システムへの承認・支持を意味するとして選挙への参加を拒絶する多くのアナーキストの主張も妥当とは言えない。彼らが選挙など行くべきではないと訴えるのは、一人の有権者の投票行為に過大な意味を見出しているからである。

繰り返すように、一票の影響力は極めて小さい。それゆえ、統治行為の帰結について、個々の有権者がいちいち責任を感じるべき理由は乏しい。同時に、統治システムの機能維持にとっても一票などは有って無いようなものであり、投票行為それ自体が統治システムの正統性強化に寄与することになるという警戒は過剰である。投票行為に過剰な意味を読み込む限り、同じ程度だけ不投票行為に意味を読み込むことを可能にしてしまい、ファシストの当選を阻止することができなかったのはアナーキストの投票拒否のせいである、などといった批判から逃れることが難しくなる。

投票行為が現行権力の承認・支持を意味するという見解自体が、有権者の責任という論理に囚われている。投票行為は何らかの責任を投票者に負わせるに足るほどの行為ではなく、個人がその限られた力を行使して、多少なりとも自己利益の拡大を図ろうとする行為であるに過ぎない。それゆえ、アナーキストは投票行為に過剰な意味を読み込んだり、いちいち責任を感じたりすることを止めて、安心して政府転覆を叫ぶべきである。そして、気が向いたら投票に赴けばよい。


まとめよう。投票するにせよ、しないにせよ、その意味と効果は全体から見れば小さく、それゆえに個々に責任を問えるほどのものではない。有権者に道徳的/政治的責任を認めるとしても、有権者一人における責任の程度は極めて小さく、一般的にはほとんど無視できるものである。微々たる責任を極めて重く受け止める立場も有り得るが、それは一般化可能な立場ではない。したがって、選挙に行くべきだとか、行くべきでないなどといった一般的な規範的言明に妥当性を見出すことはできない。

選挙に行くか行かないかは、有権者たる個々人が自らの道徳感覚と利益衡量に基づき、状況に応じて個別的に判断を下すべきことである。自分の利益のために役立てることができると思ったら選挙に行けばいいし、役に立たないか他の事をしたほうがいいと思うのなら行かなければいい。一票を投じたことによる責任などほとんど無視できるようなものなのだから、そこに何らの罪悪感や過度の責任感を覚える必要は無い。それがエゴイズムからの結論となる。選挙には、行っても行かなくてもよいのである。


*1:以下の議論で用いられる概念についての正確な理解の助けとして、「利害関係理論の基礎」、第2章、の参照を乞う。

*2:辻村みよ子『権利としての選挙権』(勁草書房、1989年)。

*3:以下の責任論については、「責任論ノート―責任など引き受けなくてよい」や「倫理学の根本問題」、2-3、を併せて参照されたい。

*4:有権者には、いわば責任というフィクションを機能させる前提たる「自由」が十全に与えられていない。


Share