Wednesday, January 28, 2009

左派ナショナリストへの疑問


塩川伸明『民族とネイション』を読了。広範囲に目配りの利いた良書だとは思いますが、全体的に広く浅くという印象で、ほとんど刺激は受けませんでした。著者が専門とする地域での掘り下げがさしてあるわけでもないので、一番有用なのは巻末のブックガイドかなという気がします。要するに教科書的なのですが、導入書としては敷居が微妙だし、民族問題やナショナリズムについて最初に読むべき数冊の中に入れるには押し出しが弱い。いや、内容にケチをつけているわけではないのですが。

ネーションやナショナリズムについては「現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」で考えをまとめたということもあり、自分として書くことは特別無いのですが、以下に引く濱口先生の議論について少し。


さて、特集の方ですが、高橋=萱野対談が、ナショナリズムを否定するのなら、国内で格差なんて言っても意味がないというテーマを取り上げていて、なかなか面白い。私からすると、


>格差を問題にするということがすでにナショナリズムの枠組みに乗っかっているということをまずは自覚しなくてはならない。


>格差を「問題」として浮かび上がらせることができるところに、ナショナリズムの肯定的な働きがあるわけです。


という萱野氏の指摘に対して、


>そうした国民のみを問題にするというナショナリズムによって、ヨーロッパでは移民排斥や外国人嫌悪につながっていく回路ができてしまっているわけですよね。あれと同じことを日本は繰り返すのでしょうか。


というような反応はあまりに表層的で、いや同胞皆同じというナショナルな平等主義があるからこそ格差を何とかしなくちゃと思うわけで、チープレーバーな移民をいやがらない精神は国民の間の格差を何とも思わない精神と表裏一体なわけで、そこまで言い切るのなら別ですが(というか、そういう考え方は十分あってしかるべきだと思いますが)、そこまでリバタリアンに徹する気持ちもなくただナショナリズムを批判していればそれでいいというのは、


>ナショナリズムをとにかく批判しなくてはいけないとか、とにかくナショナリズムを避けなければいけないと考える研究者や論客の根底にあるのって、潔癖主義なんですよね。いろいろな危険を持ったナショナリズムからいかに身を引き離すかを競うことで、自分の立場の無謬性を目指しているわけです。でも、それって結局は政治を道徳に還元しているだけなんじゃないでしょうか。


という萱野氏の指摘通りだと思われます。


[中略]


それが「希望は戦争」という直截な方向に向かわないようにするためにこそ、萱野氏がいうように、


>ナショナリズムが排外的な性格を強めていく危険性を押さえるためにも、ナショナリズムを活用しなくてはならない


>外国人労働者との過酷な競争にさらされた人たちが排外的なナショナリズムを激化させていくのを防ぐためにも、もうちょっと穏やかなナショナリズムを使って国内の労働市場を保護していくという方法です。いきなり労働市場をオープンにしないで、ある程度国境を通じて労働市場の国際的な流動化をコントロールしましょう


という政策が必要なわけです。アンチナショナリストを自認する高橋氏は「それによって閉ざされた国になっていくというのは、私の意識ではやっぱり抵抗があるんですね」というのですが、問題はまさに萱野氏が言うように


>社会が開かれることによって、逆に意識が閉じられてしまう


ということでしょう。リベサヨがソシウヨを産むというメカニズムが回り始めるわけです。


どこまでそれに自覚的であり得るか。


『POSSE』第2号@EU労働法政策雑記帳


右翼左翼と社会的なもの、国家、ナショナリズムなどについての濱口先生の一連の議論にはとても興味深いものがあり、常日頃から注目して読ませて頂いているわけですが、幾つか疑問もあります。せっかくですので、今回はそうした疑問をまとめてぶつけてみたいと思います。なお、本来はコメント欄で済ませられるようなことなのですが、既に幾分か日が過ぎてしまったこともあり、こちらでエントリを立ててお聞きする形にさせて頂きました。濱口先生におかれましては、ご理解の程を賜りたいと思います。

疑問は3点に分かれます。いずれもごく基本的な論点ですが、それゆえに重要であると思います。


(1)ナショナリズムが重要だと言う際、その主体となる国民(ネーション)とは誰なのか。国家が保護・配慮すべき範囲はどこからで、境界によって閉ざすべき範囲はどこまでなのか。
:周知の通り、憲法学においては、能動的主体の集合体としての「人民」と抽象的統一体としての「国民」が概念的に区別されます。思想的・理論的な議論をするならば、「国民主権」と言う場合の主権者も、ナショナリズムの担い手となる主体も、後者の「国民」であると考えるのが一般的です。しかし、この意味での抽象的「国民」は必ずしも国籍保持者に限定されるわけではなく、在住外国人なども含まれ得ることが知られています*1。国籍取得の要件も一様では有り得ませんが、国籍を持っている者だけが国民であると考えるべき必然性も無いとすれば、ナショナリズムを語る論者は常に、自らが想定する国民の範囲をある程度まで明らかにした上で議論を立てるべきでしょう。抽象的にナショナリズムを批判する振る舞いが愚かしいのと同様に、抽象的にナショナリズムを持ち上げてもどうしようもない――濱口先生がそれをしているとは思っていませんが――のであって、ナショナリズムの議論は常に特定の集団や具体的な文脈に結び付けて考えられるべきです*2。例えば在日コリアンなど二重の帰属を持つ人々は、濱口先生が構想するナショナリズムの内側に居るのでしょうか、それとも外側に居るのでしょうか。


(2)現代および将来において、ナショナリズムは(肯定的・否定的を問わず)それほど大きな機能を果たすことができるのか。ナショナリズムの主体となるべき国民の統合を保持ないし回復することはできるのか。できるとすれば、いかにしてか。

:この点は、ポストモダンへの突入による「ネーションの解体」と「ナショナリズムの不可能性」を提起した身として聞いておくべきだろう、といった程度のことで、無視されても構いません。ただ、(3)とも絡むことですが、現代におけるナショナリズムの動員がポピュリズム以外の形で為し得るのか、大きな懐疑を持つところではあります。


(3)ナショナリズムの危険性を自覚しつつも、穏当なナショナリズムを「活用」する必要があると言うが、そのような理想的な統御は、いかにして可能なのか。また、特定のナショナリズムが穏当(ないし「健全」)か否かは、誰がどのような基準によって判定するのか。

:通り一遍の批判と言われれば否定しませんが、やはりこの点を指摘しないわけにはいきません。「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」を分けられるとお考えになっているようには見えませんが、それでもナショナリズムの暴走を防ぎ、その肯定的な作用だけを抽出することが不可能ではないと認識されておられるなら、その認識について詳しくお聞きしたい。穏当な姿をしたナショナリズムの動員についての戦略と、力を得たナショナリズムを穏当なままに統御する手段を、どう考えておられるのか。穏当だと思われていたものがいつの間にかグロテスクな事態を引き起こすに至っている――「こんなはずではなかった」――といった例は、歴史の中に幾らでも見つけることができるはずですので。


以上、濱口先生に向ける形で書きましたが、これらの疑問は萱野稔人の所論にも共通して抱いているものです。高橋哲哉の主張に比して萱野の認識が説得的であることについて異論はありませんが、それでも萱野の主張に賛同することができるかと言えば、私にはそれは無理です*3。それは私が政治=線引き問題が不可避であることを認めつつもナショナリズムには全く期待していないためですが、他方では萱野の主張に不明朗な点があることも無関係ではなかろうと思います。そういったわけで、萱野の主張に肯定的に言及しておられ、ご自身でもナショナリズムの必要性を説いておられる濱口先生に一層詳しい説明を頂ければ、私の理解も深まって考えも変わるかもしれないと思い、疑問を書き連ねてみました。濱口先生以外の方からでも、ご教示を歓迎致します。


*1:観念的には、無限に広がり得ます。「法外なものごとについて」など参照。

*2:国民の範囲の問題からは離れますが、例えば濱口先生や萱野は、国際的な所得格差、経済格差についてはどう考えるのか。国内の格差問題が大変な時にODAでもないだろうという主張に賛同するのか、反対するのか。ODAなど他国への援助が必要だと考えるなら、その判断には、戦略的観点からの必要性と人道的観点からの必要性のどちらが重きをなしているのか。そういう議論こそが聞きたいと思います。

*3:東浩紀と同様、私は「方法としてのナショナリズム」(中島岳志)に反対なのです。

Friday, January 23, 2009

利害関係とは何か


『思想地図』2号の座談会で、東浩紀が「一人一票」原理についての疑義を提起している。例えば、今や世界中がアメリカなのにアメリカ国民しか大統領を選ぶ権利が無いのはおかしくて、世界中の人々に選挙権が分散されていてもいい。同じように、これこれこういう理由で、あなたはこの問題について0.5票とか0.3票持っています、とか言えてもいいんではないか。雑駁に言うとそういう話。
政治学的には、「一人一票」がよいものかどうかについての議論は別に目新しいものではない*1。理論的には、ある問題について極めて強い関心を持っている人と全然関心が無い人が同じ一票であるのは公平とは言えないのではないかということで、各主体の選好の強度・濃度(インテンシティー)を考慮すべきではないかとの議論がある。この点については、ディヴィッド・ミラー『政治哲学』の中にも言及があったと思う。今ある現実について言えば、国際機関などでは拠出金の大小によって票数の分配が決定されているところが少なくない。EUにおける人口に基づく票数分配などを見ても、国際政治の舞台では、むしろ国連総会のような一国一票の方が珍しいかもしれない(それは決定の実質的機能性の確保にかかわっているのだろうが)。


私たちはなぜアメリカ大統領を選べないのかという(外山恒一によるとされる)文句は極めて筋の良いもので、より引き付けて考えるなら、なぜ自民党の総裁選では選挙権を持たない非党員を含む一般大衆に向けた街頭演説が行われたのか、ということと併せて考えるとよいかもしれない。選挙権を持たない人に向かってアピールするのはナンセンスだと言う人がいたが、これはポイントに近づいているのにポイントに気付かない残念な物言いだった。自民党の総裁は首相になるのだから、その執政の影響を受ける一般国民全体が総裁の選出に利害関心を持つのは当然のことである。他者に説明責任が生じるのは、彼が当該のイシューについて利害関心を持っているからだ。なんで選べない人にアピールするんだと言うのではなく、なんで同じように影響を受ける人が選べないんだと言うべきで、それが件の大統領の話である。

座談会の参加者は一人一票の根拠に徴兵制――兵士として国を守れることが政治的発言権を得られること――を挙げていたが、理論的にはそれは何も説明しない。歴史的にも、その隔ては総力戦の時代に崩れたし、まして好むと好まざるとにかかわらず西側世界に居る限り常時テロの標的となっている現在の私たちにとって、国籍や戦闘能力の違いは何も決められない。


影響を受けることについては発言できるべきだ、決定できるべきだ、という自己決定の原理を受け容れるなら、私たちは自民党の総裁を選べるべきだし、アメリカの大統領を選べるべきである。日本の意思決定には日本国籍を持たない人でも参加できるべきだし、企業の意思決定には株主や経営者以外も参加できるべきだ。治者と被治者の同一性とは、そういう意味である*2。およそ何らかの利害関係を持っているならいつでも、対象についての決定権や発言権が与えられて然るべきだし、少なくともそれを要求する理由が認められる。

だから、利害関係に応じて政治的決定についての権利を傾斜分配するという方法はそれ自体極めて真っ当な考え方で、突飛でも邪道でも何でもない。私が3年前に学士論文で利害関係に基づく決定を主張したときも、政治的共同体の境界線を越えていく決定の可能性が念頭に置かれていた。利害関係と言っても、別に経済的利害に限定される必要はないし、既得権益に限定される必然性もない*3受益者負担原理が徹底されていくと社会的なものが減衰していくと前に書いたが、どれだけ負担しているかだけではなく、どれだけ必要かも利害関係にほかならない。利害関係概念の意味については、私の修士論文を読んでもらえるといい。

私は東が構想するような利害計算による「数学的民主主義」(鈴木謙介)が実現すると思っているわけでも――実現したら面白いとは思うが――肯定的なわけでもないけれども、政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要があるのではないかという問題提起については賛同する。というわけで、粗雑に書き散らしてみた。乱文かつ不親切でごめんなさい。


*1:民主主義がなぜ一人一票を採るのかについて最も簡潔で適確な説明を与えたのはケルゼン『デモクラシーの本質と価値』であろう。代替として、「民主主義とは何か」を挙げておく。

*2:シュミット的な「均質性」が重要なのではない。「同一性」が問題なのだ。

*3:具体的例に即した書きものとしてこのエントリが多少参考になるかもしれない。


Sunday, January 4, 2009

正しい戦争など無い


いかなる暴力も正しくない。戦争は暴力の津波である。だから、この世に正しい戦争など存在しない

正しい戦争の存在を認めないと、暴力の範囲を最低限に抑制すべく規律正しく穏当に遂行された戦争と、無際限の冷酷かつ残虐な行為を伴った戦争とを区別することができなくなる、と言われることがある。「そもそも戦争そのものがよくない」と言うことで、現実にある戦争を道徳的な方向へと引き上げることを不可能にしてしまう、とされるのである。

しかし、この論理はまるっきり間違えている*1。私たちが「そもそも人を殺すことはよくないことだ」と言ったからといって、瀕死の重傷を負って既に助かる見込みのない人から数時間の苦痛を取り去るために命を奪うことと、自分が楽しむために他人の精神や肉体を弄んだ挙句に死へ導いたり、その死体に意図的に損傷を加えたりすることとを区別できなくなると考える人はいない。

殺人を道徳的に正当化することはできないとしても、より「マシ」な殺し方を考えることはできるし、より「マシ」な動機を見定めることはできる。そして、複数の殺し方や動機の中に「マシ」かどうかの比較基準を持ち込むことは、「マシ」な方の殺人を正当化する――「正しい」と主張する――ことを意味しない。ある行為が悪であることを一般的に言明したからといって、当該行為の個別具体例を区別して評価することができなくなるわけではない。

したがって、正しい戦争の存在を認めずとも、現実にある戦争の中に道徳的な優劣を見出すことはできる。とはいえ、繰り返すように、それがまだしも「マシ」な戦争だからといって、正しい戦争になるわけではない。いかなる局面においても、暴力を正当化することは欺瞞である。正しい暴力など存在しない。正しい殺人など存在しない。正しい戦争など存在しない。

暴力は正当化できないが、私たちは暴力抜きには生きられない。だから、こう言うしかない。正しい戦争は存在しない。存在するのは、遂行すべき戦争だけである。より正確に言うなら、発話主体自身が遂行を求める戦争、遂行して欲しいと考える戦争だけが存在する。私はいかなる意味でも平和主義者ではない。だから遂行すべき戦争の存在を否定しない――できない。しかし、ある行為を遂行すべきであると主張することと、その行為が正しいと主張することは違う。正しくなくても行うべきことは在る。

だが、何度でも繰り返すが、単に自らが欲するに過ぎない行為について道徳的正当性の偽装を施すことは決して為すべきではない。それがいかに決定的な重要性を伴った「遂行すべき戦争」であったとしても、それが暴力にほかならない以上、「正しい戦争」の名を騙ることは、絶対に許されないのである*2


*1:以下に示すようにこの論理が錯誤であるとしても、こうした論理の周辺に複雑かつ微妙な問題が横たわっていることは否定できない。対象の全否定が帰結的に全肯定をもたらすという罠――反・改良主義者がかかる罠――は多くの人によって指摘されてきたが、私がここで示すのは一旦全否定した後でも全肯定を避けることはできる――改良に携わることはできる――という事実であると思う。しかし、こうした事実の提示によって私たちが別種の罠へと近づく結果になりかねないことにも、注意を喚起しておく必要がある。現実を否定的に評価しつつも、その現実から離れずに改良を試みることは素晴らしく真摯な営為であるが、その際に改良を導く準拠点に現実から遠く離れた実現不可能な理想を設置することは、断じて避けなければならない。現実の外にある理想への準拠は、その理想を解釈する立場の人間を特権化し、経験的・恣意的な独断に客観的・絶対的な響きを持たせてしまうからである。したがって、クソッタレな現実にかじりついた改良の営為は、まずどこにも無いユートピア――暴力の無い世界――を断念した後で始められなければならない。それが、それだけが、現実の泥沼にも理想の魔力にも絡め取られずに「自立」する方法である。

*2:なお、正戦論を考える導入として以下を参照。

絶対平和主義の立場からの議論としては、以下に所収のダグラス・ラミスの論文を参照。

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