Friday, January 23, 2009

利害関係とは何か


『思想地図』2号の座談会で、東浩紀が「一人一票」原理についての疑義を提起している。例えば、今や世界中がアメリカなのにアメリカ国民しか大統領を選ぶ権利が無いのはおかしくて、世界中の人々に選挙権が分散されていてもいい。同じように、これこれこういう理由で、あなたはこの問題について0.5票とか0.3票持っています、とか言えてもいいんではないか。雑駁に言うとそういう話。
政治学的には、「一人一票」がよいものかどうかについての議論は別に目新しいものではない*1。理論的には、ある問題について極めて強い関心を持っている人と全然関心が無い人が同じ一票であるのは公平とは言えないのではないかということで、各主体の選好の強度・濃度(インテンシティー)を考慮すべきではないかとの議論がある。この点については、ディヴィッド・ミラー『政治哲学』の中にも言及があったと思う。今ある現実について言えば、国際機関などでは拠出金の大小によって票数の分配が決定されているところが少なくない。EUにおける人口に基づく票数分配などを見ても、国際政治の舞台では、むしろ国連総会のような一国一票の方が珍しいかもしれない(それは決定の実質的機能性の確保にかかわっているのだろうが)。


私たちはなぜアメリカ大統領を選べないのかという(外山恒一によるとされる)文句は極めて筋の良いもので、より引き付けて考えるなら、なぜ自民党の総裁選では選挙権を持たない非党員を含む一般大衆に向けた街頭演説が行われたのか、ということと併せて考えるとよいかもしれない。選挙権を持たない人に向かってアピールするのはナンセンスだと言う人がいたが、これはポイントに近づいているのにポイントに気付かない残念な物言いだった。自民党の総裁は首相になるのだから、その執政の影響を受ける一般国民全体が総裁の選出に利害関心を持つのは当然のことである。他者に説明責任が生じるのは、彼が当該のイシューについて利害関心を持っているからだ。なんで選べない人にアピールするんだと言うのではなく、なんで同じように影響を受ける人が選べないんだと言うべきで、それが件の大統領の話である。

座談会の参加者は一人一票の根拠に徴兵制――兵士として国を守れることが政治的発言権を得られること――を挙げていたが、理論的にはそれは何も説明しない。歴史的にも、その隔ては総力戦の時代に崩れたし、まして好むと好まざるとにかかわらず西側世界に居る限り常時テロの標的となっている現在の私たちにとって、国籍や戦闘能力の違いは何も決められない。


影響を受けることについては発言できるべきだ、決定できるべきだ、という自己決定の原理を受け容れるなら、私たちは自民党の総裁を選べるべきだし、アメリカの大統領を選べるべきである。日本の意思決定には日本国籍を持たない人でも参加できるべきだし、企業の意思決定には株主や経営者以外も参加できるべきだ。治者と被治者の同一性とは、そういう意味である*2。およそ何らかの利害関係を持っているならいつでも、対象についての決定権や発言権が与えられて然るべきだし、少なくともそれを要求する理由が認められる。

だから、利害関係に応じて政治的決定についての権利を傾斜分配するという方法はそれ自体極めて真っ当な考え方で、突飛でも邪道でも何でもない。私が3年前に学士論文で利害関係に基づく決定を主張したときも、政治的共同体の境界線を越えていく決定の可能性が念頭に置かれていた。利害関係と言っても、別に経済的利害に限定される必要はないし、既得権益に限定される必然性もない*3受益者負担原理が徹底されていくと社会的なものが減衰していくと前に書いたが、どれだけ負担しているかだけではなく、どれだけ必要かも利害関係にほかならない。利害関係概念の意味については、私の修士論文を読んでもらえるといい。

私は東が構想するような利害計算による「数学的民主主義」(鈴木謙介)が実現すると思っているわけでも――実現したら面白いとは思うが――肯定的なわけでもないけれども、政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要があるのではないかという問題提起については賛同する。というわけで、粗雑に書き散らしてみた。乱文かつ不親切でごめんなさい。


*1:民主主義がなぜ一人一票を採るのかについて最も簡潔で適確な説明を与えたのはケルゼン『デモクラシーの本質と価値』であろう。代替として、「民主主義とは何か」を挙げておく。

*2:シュミット的な「均質性」が重要なのではない。「同一性」が問題なのだ。

*3:具体的例に即した書きものとしてこのエントリが多少参考になるかもしれない。


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