Saturday, March 21, 2009

投票自由論――選挙など行っても行かなくてもいい


昔、「選挙へのエゴイズムの見解(試論)」というものを書いた。次の衆議院議員選挙がいつになるのか分からないが、選挙における有権者の行為/不行為に伴う責任について、改めてまとめた確定版を書いておきたい。


デモクラシーの精神に忠実であることを自負する人々は、有権者がその権利を行使することは議論の余地無き「善きこと」であるかのように、投票を勧める。他方、アナーキストの多くは、投票行為そのものが現行の政治体制と国家権力を承認し、生き長らえさせるものであるとして、選挙への不参加を呼び掛ける

しかしながら、選挙に行こうが行くまいが、それは自由である。ここで自由であると言うのは他者から責めを受けるいわれは無いということであり、それは現在の行動についても、その将来に生ずる帰結についても同様である。そしてこれは、民主政を支持するか否か、民主主義を支持するか否か、どのような民主主義を支持するか否か、などの問題とは独立した問題なのである。


投票は義務なのか



まず、前提知識の確認から始めよう*1。選挙権に公務性を認めるか否かについては学説の対立がある。選挙権は憲法上認められた個人的な権利であるとする権利説に対して、多数説である二元説は、選挙権に公務性を見出す。投票行為は、統治行為を担う国民代表を選出するという意味で、公の職務を執行する義務としての性格を有するとされるのである。二元説においても選挙権が権利であることは認められるが、それは統治を担う代表者を選出するという公務への参加資格であるとして、義務的性格を同時に伴うとされる*2

私見によれば、選挙権の公務性を否定する権利説が妥当である。それは、たとえ選挙権が公務的性格を帯びると考えたとしても、それが政治的決定に参与することを認められるメンバーシップ、地位身分、資格、権原として機能していることは確かである以上、そこに権力資源としての権利の性格が含まれていることは否定できないからである。この点は、たとえ強制投票制を採るとしても変わらない。なぜなら、投票そのものは強制であるとしても、投票の内容が有権者の自由に委ねられているのならば、未だそこには権利的契機が残存していると見るべきだからである。

二元説を採る場合、強制投票制も理論上は容認され得る。しかし、あくまで許容であり、要請ではない。二元説が参政権に公務性を認めるからといって、それは強制投票制を必然的に求めることを意味しない。したがって、ここで言う「公務」とは、必ずしも法的義務を指すわけではない。そうであるなら尚更、公務的性格を見出すか否かにかかわらず、参政権の中心的性格は権利であるとひとまず認めた方が、法概念論的な明快性をもたらす観点からして望ましい。

ただし、ここで重要なことは学説の優劣を決することではない。ポイントは、仮に二元説を採った場合にも、投票行為を有権者の義務または責任とする法的規定や、不投票行為への罰則規定に基づく法的強制力が存在しない以上、二元説が求める有権者の義務または責任とは道徳的責任を意味するに過ぎないと見做せるところにある。


ここでの道徳的責任とは、国家や地方自治体などの法的共同体における選挙権者は、統治行為を担う代表者の選出過程に参加することで、当該法的共同体の成員全体の利益に寄与する統治システムを機能させなければならない、などといった内容を持つだろう。統治行為の必要を認め、その恩恵を享受する限り、こうした責任を一般的に否定することは難しい。実際、現在の日本においても、少なくとも表面上は、有権者は選挙に行くべきであるとの考えが一般的であり、こうした道徳的要請が受け入れられているものと思われる。

だが、投票義務制の導入が真剣に検討されることもなく、選挙に行かないだけで差別や嫌悪の対象になる現実はほとんど認められないことから、そうした要請の程度はかなり弱いものに留まっていると見做せる。背景には、候補者の政策を吟味することから投票所に足を運ぶまで、政治参加に十分な時間を割けるだけの余暇が確保されていない事実があるだろう。あるいはまた、自分一人が投票せずとも政治はそれなりに回っていくだろうといった感覚が根付いているのかもしれない。

この感覚は決して根拠の無いものではない。選挙権に公務性を認めるとしても、やはりそれは一義的には権利であり、その行使によって多少なりとも政治的影響力を及ぼそうと考える人々は常に一定数は存在する。したがって、政治に無関心な人々がいくら増えたとしても、統治行為を担う代表者を選出するという最低限のシステム維持機能が働かなくなる事態は想定し難い。無論、低投票率で選出された代表者は統治行為者としての正統性に欠けると言うことはできるが、それでシステムが機能しなくなるわけではない。

政治がそれなりに回っていくと予期される限り、取り立てて強い政治的選好を持たない有権者が選挙に行かないのは自然である。システムの機能が維持される限り、不投票を道徳的責任の不履行として強く非難する必要性も感じられないことになる。


有権者の責任とは何か



さて、有権者の責任を問う言説においては、ここまで述べてきた道徳的責任とは異なる種類の責任が問題とされている場合がある。それは、統治行為を担う政治家を選出する権利を得ている以上、有権者は統治行為の帰結に対して責任を負っているとするものであり、特に有権者の政治的責任とでも呼ぶべき責任である*3

こうした責任を問う立場からは、選挙において誰に票を投じたかは無関係である。その論理によれば、代表者の選出過程は有権者が全体として行うものであり、有権者は選挙された代表者を正当な代表者として受け入れることについて同意している。また、代表者は(非有権者を含む)当該法的共同体の全体利益を実現するために働くことになる。したがって、選挙によって選ばれた代表者による統治行為の帰結に対しては、有権者全員が責任を負っている、とされるのである。

例えば、衆議院総選挙において大勝した自由民主党が樹立した政権によって経済失政が引き起こされ、甚大な被害がもたらされたとする。この時、総選挙で自民党に票を投じた人々が自民党政権の失政に責任を負っていることは当然である。だが、他党に票を投じた人々も、政治的無力によって結果的に自民党政権の成立を招いたことにおいて、国政の帰結についての政治的責任を免れることはできない。同様に、投票そのものを行わなかった人々も、政治的無関心によって結果的に自民党政権の成立を招いたことを以て、国政の帰結についての政治的責任を負っている。逆向きに言えば、有権者はいかなる投票行動を採るにせよ、統治の行方に責任を負っているのであるから、十分な思慮を持って行動すべきなのである、と。


しかしながら、こうした立場に賛成することはできない。まず第一に、有権者であることや投票者であることが、選挙の結果への同意や正統性の付与を意味しているとは限らない。

第二に、仮に同意が存在するとしても、一人の有権者が投じる一票の政治的影響力はそれほど大きくない。それはそれ自体として候補者の当選を直接左右することはないし、投じられなくても結果は同じである可能性は高い。

第三に、民主的政治過程においては、支持し得る政策を掲げる候補者が立候補するかどうか、その候補者が当選するかどうか、当選した政治家が公約に沿って行動するかどうか、公約に沿って行動したとしても公約を実現できるかどうか、いずれも極めて不確定である。
このような不確定なプロセスの中に、微々たる影響力しか持たない一票を投じた有権者に対して、統治行為の帰結に対して責任を負うべきであると言うことが妥当であるのか、極めて疑わしい。「権利には責任が伴うものである」との俗言を認めたとしても、不履行に対する一般的非難に値する程の責任を対応させるには、あまりに微小な権利ではないか*4

第四に、上記のような政治的責任の論理は、馬鹿げた責任のインフレに直結している。この論理を突き詰めれば、選挙権を持たずとも政治的活動の権利は有する未成年者や外国人に対してさえ、同様の責任を問い得る余地が出て来る。人一人が持つ政治的影響力は限られていることが考慮されることなく、自民党に投票した人、他党に投票した人、投票をしなかった人の全てが、それぞれに政権の失政に責任を負っているとされてしまう。この論法を認めるなら、私たちは世界中のあらゆる政権の失政に責任を負っていることになるだろう。だが、そのような責任を負っているから何だと言うのか。


生きていれば、何かをしたりしなかったりする。何かをしたりしなかったりすれば、それは必ず何らかの帰結に結び付く。その帰結に対して私たちは責任を負うが、それは生きていること・存在していることそのものが抱懐する原理的な「責任」であり、率直に言って問題にするに足りない。往々にして、そのような結びつきは極めて細く弱いものであり、一般的な非難や否定的評価には値しない。

確かに民主政治の大部分は、個々の有権者の行動に基づいて構成され、駆動している。個々人は国政に全く関与していないわけではない。だが、個人の力が政治過程に与える影響は、微小かつ不確実である。国政にせよ地方政治にせよ、政治過程は個人の力の集合に基づいて動いているに違いない。しかし、政治の帰結は、個人の力の集合以上のものである。それは、個々人の意思とはほぼ無関係に動く。それは個々人から「逆立」している。この時、個人は政治がもたらす帰結に責任を持つと考えることには無理が伴うし、仮に責任を持つと考えるとしても、それは通常考えられているより遥かに些細な規模である。


私に責任なんて無い



一般意志の決定はあなた自身の決定である、と言われても私は納得できない。それは、私の決定ではない。「この政権を選んだのは国民一人一人だ」とか、「この政策についてあなたも間接的に賛成していることになる」などと言われても、私は頷かない。それは、私個人の力を超えたところで決定された政権や政策である。自分が一票を投じた候補が与党議員になったからといって、野党議員になったからといって、落選したからといって、白票を投じたからといって、投票を棄権したからといって、有権者が責任を感じる必要など無い。

したがって、現行の統治システムへの承認・支持を意味するとして選挙への参加を拒絶する多くのアナーキストの主張も妥当とは言えない。彼らが選挙など行くべきではないと訴えるのは、一人の有権者の投票行為に過大な意味を見出しているからである。

繰り返すように、一票の影響力は極めて小さい。それゆえ、統治行為の帰結について、個々の有権者がいちいち責任を感じるべき理由は乏しい。同時に、統治システムの機能維持にとっても一票などは有って無いようなものであり、投票行為それ自体が統治システムの正統性強化に寄与することになるという警戒は過剰である。投票行為に過剰な意味を読み込む限り、同じ程度だけ不投票行為に意味を読み込むことを可能にしてしまい、ファシストの当選を阻止することができなかったのはアナーキストの投票拒否のせいである、などといった批判から逃れることが難しくなる。

投票行為が現行権力の承認・支持を意味するという見解自体が、有権者の責任という論理に囚われている。投票行為は何らかの責任を投票者に負わせるに足るほどの行為ではなく、個人がその限られた力を行使して、多少なりとも自己利益の拡大を図ろうとする行為であるに過ぎない。それゆえ、アナーキストは投票行為に過剰な意味を読み込んだり、いちいち責任を感じたりすることを止めて、安心して政府転覆を叫ぶべきである。そして、気が向いたら投票に赴けばよい。


まとめよう。投票するにせよ、しないにせよ、その意味と効果は全体から見れば小さく、それゆえに個々に責任を問えるほどのものではない。有権者に道徳的/政治的責任を認めるとしても、有権者一人における責任の程度は極めて小さく、一般的にはほとんど無視できるものである。微々たる責任を極めて重く受け止める立場も有り得るが、それは一般化可能な立場ではない。したがって、選挙に行くべきだとか、行くべきでないなどといった一般的な規範的言明に妥当性を見出すことはできない。

選挙に行くか行かないかは、有権者たる個々人が自らの道徳感覚と利益衡量に基づき、状況に応じて個別的に判断を下すべきことである。自分の利益のために役立てることができると思ったら選挙に行けばいいし、役に立たないか他の事をしたほうがいいと思うのなら行かなければいい。一票を投じたことによる責任などほとんど無視できるようなものなのだから、そこに何らの罪悪感や過度の責任感を覚える必要は無い。それがエゴイズムからの結論となる。選挙には、行っても行かなくてもよいのである。


*1:以下の議論で用いられる概念についての正確な理解の助けとして、「利害関係理論の基礎」、第2章、の参照を乞う。

*2:辻村みよ子『権利としての選挙権』(勁草書房、1989年)。

*3:以下の責任論については、「責任論ノート―責任など引き受けなくてよい」や「倫理学の根本問題」、2-3、を併せて参照されたい。

*4:有権者には、いわば責任というフィクションを機能させる前提たる「自由」が十全に与えられていない。


Sunday, March 15, 2009

刑法39条について


もう2年半も前のことになるようだが、過去に「刑法39条を擁護してみる」というエントリで、触法精神障害者に対する刑罰の減免を定めた刑法39条への批判論をやや詳細に検討したことがあった。そこでの私の結論は、保安処分的拘束の問題性を避けるためには、あるいは同条を削除して精神障害を情状の一種として扱った方が良いのかもしれない、というものだった。今の私は当時よりさらに削除を容認する方向に寄っている気がするけれども、別に法改正まで踏み込むことはないかもしれない。芹沢一也さんの新刊『暴走するセキュリティ』(洋泉社(新書y)、2009年)には、精神科医の井原裕による極めて理にかなった提言が紹介されている(76-77頁)。



精神障害者に人権を認めるのであれば、当然責任も課していかなければならない。人権も認め、かつ、39条によって刑事責任免責の特権をも付与されるとなれば、国民の誰一人として納得しないだろう。今後、精神障害者の人権の尊重とともに、刑法39条は、その対象を狭めていくべきである。「精神障害」と呼ばれる人々のなかで、刑事責任を負えないほどに是非弁別の認知能力が低下している人は、一部にすぎない。大部分の障害者は、「二級市民」扱いされるべきではなく、刑法39条の埒外にある。しかし、だからといって、筆者は、単に厳罰化傾向を強めよというつもりはない。不幸にして認知機能の低下が著しく、是非の弁識が不能となってしまった障害者もいる。こういうごく一部の精神障害者に対しては、正しく刑法39条を適用しなければならない。〔井原裕「精神鑑定における精神科医」九七頁、『司法精神医学』三巻一号、日本司法精神医学会、〇八年三月〕



 このように主張する精神科医の井原は、さまざまな問題の根源となっている刑法三九条の適用に、厳しい謙抑を求める。代わりに、状況の検討や心理の道筋の解明など、鑑定人の作業の力点を、責任から情状に移すべきだと訴えるのだ。つまり、精神の障害を「二級市民」化の根拠にするのではなく、情状を考慮するさいに検討される、数多の要素のひとつにしようということだ。

 日本の刑事制度の現状にあって、筆者はこの提言がもっとも現実的に思われる。



芹沢さんのブログには、井原論文のサマリーが引用されている。せっかくなので、そこからも転載させて頂こう。


刑法39条は、乱用されがちである。被疑者・被告人のなかには、病気を演じる人もいる。弁護人によっては鑑定を「法廷戦略」ととらえている。鑑定人はしばしば責任と情状の区別がつかない。裁判官は、責任能力を、力と力の対決の渦中で判断することを余儀なくされている。現状の打開のために、鑑定人に可能な提案を2点。①39条適用(参考意見)において謙抑的に、②情状検討において積極的に、である。①39条適用には「謙抑性」が必要である。39条を適用すると、被告人に残存する人格性は否定され、通常の酌量減軽の埒外に置かれる。39条は「二級市民特別枠」にすぎず、安易な適用は「被告人の利益」にならない。②情状は、従来も鑑定において論じられていたが、しばしばそれが責任能力論に混入していた。ここに精神科医側の混乱、とりわけ「心神耗弱」乱用の元凶があった。今後は、参考意見の力点を、意識的に責任から情状に移すべきであると思われる。


なお、『暴走するセキュリティ』は、『論座』連載をまとめたものに萱野稔人との対談を収録して構成されている。また同著者については、藤井誠二『重罰化は悪いことなのか――罪と罰をめぐる対話』(双風舎、2008年)に収録されている藤井との対談も参照の価値が有る。

Sunday, March 1, 2009

10代のための「民主主義とは何か」


こんにちは。いきなりで申し訳ありませんが、これから民主主義の意味について話すことにします。決して短くはありませんが、あなたが民主主義について知りたいのなら、役に立てるはずです。ただし、ここでは10代のみなさんに向けて話すことにしますから、どうしても、とてもやさしく、ゆったりとした口調になります。それを小馬鹿にされているように感じるとか、まだるっこしいなどと思う人は、同じことを「大人向け」に圧縮して書いている「民主主義とは何か」を読んでください。そちらを読んでみて、もしわからないことがあれば、こちらに戻ってきて確認することをおススメします。あるいは、ここでの話をひととおり聞いた後で、もの足りないなと思ったら、あちらもあわせて読めば、より理解が深まるかもしれません。


言葉の意味――民主主義・民主政・デモクラシー

さて、本題に入りましょう。「民主主義」とは何でしょうか。何かを考えるときには、言葉そのものを分解して意味を探ってみることが役に立つ場合が多いです。民主主義の意味が文字の通りであれば、民を主にする主義ということです。では、「民主政(民主制)」とは何でしょうか。同じく文字通りには、民を主にする政治(体制)ということです。どうでしょうか――何もわかりませんね。これでわかったと言う人は、嘘が下手です。

そんな時は、外国語に翻訳してみるという手があります。民主主義も民主政も、英語では“democracy”ですが、その語源はギリシア語で「民(デーモス)」の「力(クラティア)」という意味らしいです。それが本当なのかどうかは知りません――たぶん本当なのでしょう――が、日本語との共通点はわかりました。とりあえず「民」です。それから、「民」の「力」とか、「民」が「主」になるとか、「民」の動きや状態が問題になるということですね。


しかし、「民」とは誰のことでしょうか(あるいは何のことでしょうか)。「民」の「力」とは、「民」が「主」になるとは、あるいは「民」を「主」にするとは、一体どういうことなのでしょうか。どうも、このまま言葉を分解していっても実りが少なさそうなので、この辺りで学問の力を借りることにしましょう(具体的に本にあたってみます)。

政治学では、デモクラシー(民主主義/民主政)が成り立つために必要とされる二つの要素として、「政治的平等」と「人民主権」を挙げるのが一般的です(ロバート・A.ダール『民主主義理論の基礎』(内山秀夫訳、未来社、1970年)、77頁)。政治的平等とは、政策決定に対する影響力が平等に分け与えられるということを意味します。王政・貴族政や独裁政治が民主的でないと言われるのは、そういう体制では政策決定に関する影響力が一人または少数の人に集中しており、その他の多くの人々が政治に対する参加や発言をすることができない状態、つまり政治的不平等が存在するのが第一の理由です。

もう一つの要素である人民主権は、国家を動かしていくただ一つの意思であり、最高権力である「主権」を、「人民」が持つということです。「人民」に含まれる範囲については様々な解釈がありえますが、基本的には平等な人同士で構成された集団を意味しています。一人または少数の人間が政治を動かす体制がデモクラシーに反すると言われる第二の理由は、そこでは主権が人民ではなく一人または少数の権力者に握られているからです。

さて、ここまでで、「民」の「力」とか「民」が「主」になるなどといった言い方の意味も多少ハッキリとしてくるでしょう。「民」とは、互いに平等な政治的影響力を持つ人間の集団、つまり「人民」のことです。それが「力」を持つとか「主」になるとか言うのは、政策を決め、国家を動かしていく原動力としての主権を手にするということを意味しています。まとめて言えば、多数の平等なメンバーによって構成される集団の意思(こうしたい/こうしよう)と行為(こうする/ああする)によって国家が運営されることを、デモクラシー(民主主義/民主政)と呼んでいるということです。


理念と体制――民主主義と民主政の区別と役割

以上で初歩的なところは押さえることができたはずですから、引き続き言葉の意味に注目しながら、より深いところに進んで行きましょう。できるだけわかりやすく話すようにしますから、どうか気負わずに付き合ってください。

先ほど言ったように、民主主義も民主政も、英語では同じ「デモクラシー」です。英語では一つの言葉が日本語ではなぜ二つに分かれて存在しているのかは、それ自体として考える価値のある問題ですが、ここでは無視します。とはいえ、せっかく二つに分かれているのですから、そこに意味を認めて両者を明確に区別することは、デモクラシーについての考えを整理するのにとても役に立つと、私は思います。

民主主義は、「主義ism」ですから、一つの理念的立場、それも価値に関する理念です。つまり民主主義とは、「何が良く(善く)て、何が悪いのか」についての判断を下す基準となる、ありうる様々な立場のうちの一つです。そのような立場として他に例えば、自由主義、社会主義、無政府主義、全体主義、個人主義、などがあります。

これに対して、価値理念としての民主主義と区別して考えられる場合の民主政とは、一つの政治体制(政体)を意味します。「政体」とは、ある社会において政治的な決定を行う場合に必要な手続きと組織――その中には公式のものも非公式のものも目に見えるものも見えないものも含まれます――の総合した全体のことです。ここで「政治的な決定」と言うのは、その社会内部において人々が対立する問題(だけれども決定を行わなければならない問題)についての決定のことを指すのだと考えておいてください。つまり、政体には「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」役割が求められます(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(筑摩書房(ちくま新書)、2004年)、39頁)。

政体としては、民主政の他に、君主政や貴族政などがありえます。他の政体と比べて民主政が特殊なのは、(1)社会の成員全て――未成年や精神障害者などを除く社会のメンバー全て――に対して、政治に参加する権利を平等に認めるということと、(2)彼ら対等なメンバーの間で行われる討論と投票によって政治的決定を行おうとすることの二点です。君主政や貴族政は政治的権利が不平等に分配されていますし、決定のために討論や投票などの手続きを踏む必要はありません。決定は、君主の独断や有力な貴族の合意、あるいはそれ以外の権力者も含めた全体の力関係に基づいて行われるからです。先ほど、「民」の「力」について考えた時にお話した通りですね。


ところで、ふつう、私たち一人一人には、人間として保障されるべき様々な自由や権利が認められていると考えられています。それは憲法上の「基本権」として国家が保護を約束していますし、「基本的人権」として国際的にも保障が求められています。そうした権利の中には、自分自身にかかわるモノゴトについて、他人の不当な干渉や強制をはねつける「自己決定」の自由(権利)も含まれます。

私が何を食べ、いつ眠り、どんな本を読み、どんなTV番組を観て、どこに行き、誰と話し、どんな仕事につき、誰と遊び、誰と結婚し、何を信じ、何を楽しみに生きるか、など様々な選択(決定)について、いちいち他人が割り込んできて意見を言われたり、特定の選択を押しつけられたりした日には、たまったものではありません。だから、ありとあらゆること全部とは言わないまでも、ルールを守り、他人に大した迷惑をかけない範囲では、一人一人の好きに任せておくべきだというのが、多くの社会で共有されている合意になっています。それは、そういう自己決定の自由を認めることが、私たち自身にとって都合がよいので、そうした合意が成り立ったということです。

しかし、ルールは誰が、どのように決めるのでしょうか。人々の望みや考え方は、それぞれに違います。だから人々の間に対立が生まれるのですし、その対立を防いだり解決したりするために、ルールが必要とされるのです。でも、そのルールそのものを決めようとすると、どうやって、あるいは、どのようなルールを作るのかについて、また対立が生まれてしまうのではないでしょうか。みんなをケンカさせないためのルールを作ろうとすることでケンカが起こってしまうとすれば、ケンカを止めるためにはどうしたらいいのでしょうか。

結論から言えば、そういう広い範囲での大規模なケンカを止め、みんなが従うようなルールを作るためには、一番ケンカが強い人(たち)が暴力でみんなを従わせていくしかありません(少々雑に言えば、これが国家の成り立ちの仕組みです――教科書で習う「社会契約論」は嘘です)。子どもに対する親や生徒に対する教師がそうであるように、ケンカを止めるには、ケンカをしている当事者より力や立場が強い人が介入するのが一番手っ取り早い方法です。ただ、手っ取り早いのは確かなのですが、この方法はケンカを止める側(支配者・統治者)にとってはいちいち介入する効率の悪さがついてまわりますし、ケンカを止められる側にしてみれば、暴力や権力で上から押さえつけられたという不満が残ります。どちらにとっても、もっと良い方法があれば、それに越したことはありません。

その方法を見つけるのは、簡単です。なぜなら、この時点ではすでに、ルールを作ろうとすることで起きるケンカを止める(暴力的な)仕組みはできあがっているわけですから、あとは、より良い作り方で、より良いルールを作ればいいだけだからです。「より良いルール」の中身については様々な意見の違いがありえますが、「より良い作り方」が何であるかの答えはハッキリしています。民主政です。人々の自己決定の自由を尊重しながら社会の秩序を成り立たせるためにルール(法)が必要なのだと考えるとすれば、対等なメンバーが対等な政治的権利によって自らが望む政策の実現を追求することができる民主政が最も望ましいことは、疑う余地がありません。

もっとも、答えがハッキリしていても、それを認めたり認めさせたりすることが難しいケースは、世の中にたくさんあります。歴史を見れば、ケンカを止める側は、過度の介入を控え、人々の自由を拡大するような「より良いルール」を作ることで、ケンカを止められる側が持つ上から押さえつけられているという不満を小さくして、ルールの作り方に手をつけないままにさせようとしてきました。そういう改革は支配や統治の効率を高める一方、支配・統治される側の満足も確実に高めましたし、実際、ルールの中身に納得できればルールの作り方は重要ではないと考えた人も少なくありませんでした(憲法上の基本権はこの歴史の成果としての一面を持っています)。とはいえ、社会の多数の人はそうは考えなかったので、結局は最もケンカが強かったはずの政府が内部からの挑戦(革命)に敗れる形で体制を変えざるをえなくなっていき、より良いルールの作り方としての民主政が、多くの国で採用されるようになりました。


かくして普及することになった民主政は、ケンカを止めるルールのように、人々の意見や諸権利の対立が特に社会全体にかかわる事柄であるために、社会内部のあらゆる人々に共通する決定が必要とされる場合に、重要な役割を果たします。誰もが平等に討論と投票を通じた政策や法律の決定手続きに参加することができるなら、その手続きを通じて自分が望む決定が実現される可能性が高まります。つまり、民主政は、政治的な自己決定の平等な可能性を、社会のメンバーに確保する仕組みなのです。

しかし、民主政が行われる場合の政治の場において、最終的な決定を下すための手続きとして全員一致方式が採用されることは、あまり多くありません。それは、あらゆる場合に全員の意見を一致させることは非常に困難であり、全員の意見が一致しない場合には、多数派の意見に反対している少数のメンバーの自己決定を尊重するために、より多くの人の自己決定が実現できないことになるからです。一般に、できるだけ多くの人の自己決定を実現するために最も適した方式は、過半数の賛成があれば決定とする「単純多数決」であり、現に最も多く使われているのもこの方式です。多数決には、三分の二など過半数よりも多い賛成を必要とする「特別多数決」という方式もありますが、これは全員一致と同じように、少数のメンバーの反対によって決定を不可能にすることができるので、自己決定の最大化を目指すなら、単純多数決の方が望ましいことになります。

注意して欲しいのですが、政治体制としての民主政と、決定方式としての多数決は、それぞれ独立した別個の概念です。しかし、二つはそれぞれ別のものながら、必然的に結び付く関係にあります。政治体制としての民主政が選択される理由としては、様々な人が様々なものを挙げています。しかし、その中で最も根底的な理由は、先ほどお話ししたように、個々人に平等な自己決定の権利を認める以上、まず政治的な決定過程への参加可能性を確保しなければならないから、ということです。そして、民主政に基づいた政治の場で自己決定をできるだけ多く実現するためには、多数決を選択しなければいけません。したがって、民主政を採用するべきであると考える人は、最終的には多数決も受け入れざるをえないのです。

民主主義とは何であるかを、ここでハッキリと言いましょう。民主主義とは、これまで話してきたような民主政や多数決の採用を望ましいと考え、正しいと主張する理念のことです。民主政は、あくまで政治体制です。多数決は、あくまで決定方式です。これらはいわば建物や道具で、誰がどういうつもりで使うこともできます。それは包丁が人の腹を満たすためにも人の腹を突き刺すためにも使えるのと同じことです(これを「価値に中立である」と言います)。私たちが自己決定の平等な可能性を確保するために民主政を採用するからといって、全然違う理由で民主政を採用する集団が存在する可能性を否定することはできないのです。民主政がどういう仕組みであり、多数決がどんな機能を果たすかということは、それを選択する人の意思や主張によって利用されることはあっても、変化することはありません。

これに対して、価値にかかわる理念である民主主義は、はじめから意思や主張そのものです。これが民主主義と民主政の差異なのです。「民主主義とは何か」という今日のお話の、一番重要なところを言います。価値理念としての民主主義が意味しているのは、ある範囲の集団を平等な自己決定の権利を有するメンバーであると見なし、この自己決定の権利はその集団の内部で「できるだけ多く」実現されるべきである、と考える立場のことです。このことを、しっかりと覚えておいてください。それから、ついでに言っておきますと、できるだけ多くの人の自己決定が実現された結果、何が起きてどんな状態になるのかということは、純粋な意味での民主主義には関係ありません。民主主義と他の理念(例えば平等主義とか平和主義とか自由主義とか資本主義)とをきちんと区別して、混同をしないことも重要なことですね。


民主主義の本質――多数決との関係

このような話をすると、「民主主義を多数決と同一視するべきではない」といった種類の反発をする人がいますが、残念ながら、それは的外れな反応です。早とちりしないように、じっくりと考えて欲しいのですが、「民主主義という考え方を支持すると、どうしても多数決という方法を選ぶことになってしまう」と言うことは、「民主主義は多数決と同じだ」と言っていることにはなりません。理論的に厳密な議論をする場合には、言葉の細やかな関係性について十分に注意する必要があります。メンドーですね。

わかってもらえたでしょうか。私が言っているのは、「ある社会の中でできるだけ多くの人の自己決定が実現されるべきだ」と考える価値理念としての民主主義にとって、その目的を実現するために最も適した手段は多数決なのだから、民主主義の立場から多数決が採用され、その実行が正当化されることには論理的な必然性がある、ということ「だけ」です。民主主義を多数決と同一視しているわけでも、前者を後者に還元してしまっているわけでもありません。実際、決定方式(道具)としての多数決そのものは民主的でも何でもないわけで(多数決は貴族政の中でも使えます)、それは、民主主義の目的を達成するために使われる手段として扱われる限りで民主的だと見なされることになるだけです(これを「文脈に依存する」と言います)。

民主主義と多数決の結び付きが語られるのを聞くと、条件反射的に「民主主義を多数決と同一視するべきではない」と言いたくなる人は、多数決を行えばとにかく民主的であることになると思い込んでいる人と同じくらい、民主主義を理解していません。理念としての民主主義が目指す目標からすると、自己決定をできるだけ多く実現するための役に立つ手段が多数決以外に存在するのであれば、それを多数決と同時に使うことは別に拒否されるべき選択ではありません。また、それが多数決だけを使うよりも多くの自己決定を実現する可能性が高い手段であるということなら、民主主義からはむしろ、その手段を採用するべきだと考えられるはずです(ややこしいでしょうが、ある理念の本質を語るということは、この程度には複雑なことなのです)。


多くの人は、最後には多数決で決めることになるだろうと思いながらも、その前にじっくりと話し合うべきであるとか、多数派は少数派の意見にきちんと耳を傾けるべきであるなどと考えています。それは、そういう手続きを踏んだ方が、いきなり多数決を採るよりも、できるだけ多くの人々が満足したり納得したりできる決定を行いやすいだろう(できるだけ多くの人が自己決定を実現しやすいだろう)、と信じているからだと思われます。つまり、十分な議論をすることが自己決定を最大化するために役立つ多数決以外の手段である、と考えられているということです。

こういった考え方に賛成できない人、つまり、投票をする前にじっくりと議論をすれば最終的な決定の中身に納得しやすくなるとか、議論をすることによって人々が望む選択肢が変化する可能性は高まるなどの主張を受け入れない人は、投票に先立つ議論の役割を重く見ずに、さっさと投票を行ってもよいと考えるでしょう。だからといって、このような立場の人々が民主主義に反対していると考えるべきではありません。彼らはただ、自己決定をできるだけ多く実現するという民主主義の理念は、投票前にじっくりと議論を尽くすという段階がどうしても必要だということを意味しているわけではない、と考えているだけです。

投票前にじっくりと議論する段階をどのくらい重視するかについての意見の違いは、その段階が自己決定をできるだけ多く実現するという目的の達成のためにどのくらい役立つものなのか、という評価の違いに基づいています。だから、その対立は、あくまでも民主主義の理念を支持する立場同士の対立であり、民主主義の内部での対立なのです。

ここでの二つの異なる立場に共通しているのは、できるだけ多くの自己決定を実現するために最も基本的な手段は、多数決であるという認識です。もちろん、議論を通じて人々の考えが変わったり、妥協が成立したりして、全員一致の合意が得られれば、その結果を歓迎しない理由はありません。しかし、そういうケースはあまりにもレアなので、議論を尽くしたけれどもどうしても合意が得られない場合に、最終手段として多数決による決定を行う可能性を残しておく必要があります。なぜなら、すでにお話ししたように、全員とはいかないまでもできるだけ多くの人の自己決定を実現するためには、多数決という方法が最適な手段だからです。したがって、投票に先立つ議論を重視する立場にとっても、最終的な決定を行うためには、多数決という方法を捨て去ってしまうわけにはいきません。つまり、民主主義を支持する立場の間で意見の違いがあるとしても、民主主義が目的を達成するための最低限の条件として多数決という方法が必要であるということは、一致して認められている点なのです(アレンド・レイプハルト『民主主義対民主主義――多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』(粕谷祐子訳、勁草書房、2005年)、1-2頁)。

ですから、最低限の条件としても多数決の必要性を認めない人は、民主主義者ではありません。その人は、民主主義に反対する人です。民主主義の核心にある信念は、多数決に基づいて決定を行うことを、その決定によって犠牲になる人を含む社会の全メンバーに対して正当化できる(それが良いことであると言える)ということです。民主主義という理念を支持するつもりなら、社会の決定によって血を流したり心を傷つけられたりした人に向かって、「これが正しい」と言える覚悟を持たなければなりません。民主主義と多数決の必然的な結び付きを積極的に認めようとしない人は、そうすることによって民主主義を過度に美化し、見たくない現実から目をそむけているだけです。あなたは、そういうゴマカシに手を染めないでください。どうしても多数決を否定したいなら、「できるだけ多く」で良しとする民主主義という理念そのものに反対すればいいだけのことです(実は私がそうだったりします)。公然と民主主義に反対する勇気が無いからといって、民主主義の意味を自分勝手に変えてしまうべきではありません(理念をめぐる議論には、学者の間でもこういう不作法が少なくないので気を付けてください)。


後に残る問題――民主主義の多様性

繰り返しになりますが、多数決を正当化可能であるということは、民主主義という理念が共有している最低限の条件にすぎません。先ほど触れた議論の重要性をめぐる二つの異なる立場のように、いったん多数決の必要性を認めた後でなら、民主主義の内部には多様な考え方がありえます。例えば、市民の積極的な政治参加を可能にする制度を整えたり、徹底した議論を通じてより広範な人々の同意を取り付けたりすることで、「できるだけ多く」の内容をより豊かなものにしようとする方向性が一つです。

もう一つの方向性としては、自己決定をできるだけ多く実現するという純粋な民主主義の理念に従うだけでは望ましくない結果がもたらされる危険性があるという立場に基づき、民主主義の理念の外側から決定に一定の制約を加えるという考え方がありうるでしょう。単純多数の賛成によっては改正できない憲法によって個人の権利を保護しようとする立憲主義の立場は、自己決定の最大化という原理が適用されない範囲をあらかじめ定めておくという意味で、この方向性の実例です。他にも、多文化国家において採用されているような、特定の文化集団に国会の議席を一定数割り当てたり、拒否権を与えたりする制度などが、同様の方向性にあると言えるでしょう。


あるいは、先ほどは詳しく述べませんでしたが、そもそも民主政を構成する二大要素である政治的平等と人民主権の意味内容についての解釈自体が、多様でありえます。政治的平等については、「平等」とは何であるかが避けられない論点として浮上します。例えば、ある政策をどうしても実現して欲しいと強く願っている人の一票と、その政策についてあまり関心を持っておらず、どうでもいいと思っている人の一票を等しく扱うのは、平等でしょうか。これは、簡単には答えの出ない問題です。同様に、人民主権についても、「人民」の範囲とはどこまでか(未成年は含まれるか?精神障害者は含まれるか?在住外国人は含まれるか?)、人民が主権を握るとは具体的にどういう状態なのか(人民が直接行政を行うべきなのか?人民が選挙した代表が統治すればいいのか?選挙されなくても代表が人民のために統治すればいいのか?)、などといった点について、多様な解釈が存在するのです。

大まかに言えば、ある国家がどの程度民主的であるかは、政治的平等と人民主権という二つの要素が確保される可能性がどのくらい存在しているかによって判断されます。そのため、これらの要素が何を意味するかについての解釈が多様でありうるということは、私たちの感覚からすれば決して民主的とは思えないような体制であっても、その国家の内部ではその体制が民主的であると主張されたり信じられたりする可能性が存在するということでもあります。

私は、多数決の必要性を認めることが民主主義の最低限の条件だと言う一方で、自己決定を最大化するために多数決よりも適した方法が存在するならば、民主主義が多数決を用いないこともありうる、と言いました。そういった事態は、このありうる「もう一つの民主主義」体制の中で実現するかもしれません。自己決定とは結局、自分の望んでいる状態を実現しようとすることですから、たとえ独裁政治体制であっても、独裁者が「人民の代表」であると信じられ、彼が行う政治が人々の望むものを提供してくれれば、そこでの人民は実質的な自己決定を実現していると言えないことはないわけです。そして、それは「できるだけ多く」の自己決定の実現を目指す民主主義の理念にかなっていると主張することは、少なくとも一つの(強引な)解釈として、「もう一つの民主主義」の提案としては、ありうるわけです。

もちろん、そこでは個々人の意見表明は圧迫されるでしょう。意見の差異や立場の多様性は、無いことにされるでしょう。独裁者が提示し、提供するものが、人民の「ほんとうに望んでいるもの」なんだと、みんなが語り、納得しようとするでしょう。しかし、差異が消し去られる代わりに、多数決の犠牲になる人は出なくて済みます。意見の対立がある場面で統一的な決定を実現するために必要とされるのが民主政であり、多数決でした。そもそも意見の対立が存在しない(とされている)ところでは、多数決どころか、話し合いさえ行う必要はないのです。恐ろしいことですが、それは一種の理想の実現ではあります。そこでは民主政は必要とされません。「もう一つの民主主義」は、民主政抜きの民主主義なのです。

少し脱線してしまったかもしれません。ただ、覚えておいて欲しいのは、多数決だけが民主主義ではないと言って多数決を軽視してばかりいると、多数決さえも行われない「もう一つの民主主義」に反対できなくなる危険性があるということです。多数決を行えるのは、意見の対立=多様性が前提にあるからだということを忘れないでください。




そろそろ話を終えたいと思いますが、最後に伝えておきたいことは、今日のお話を聞いたからといって、民主主義について何もかもわかったような気になって欲しくはないということです。蛇足のように民主主義の多様性について語ったのは、今日話したことの先にある問題にも視野を広げておいて欲しいからです。私は民主主義についての核心的な部分をお話ししましたし、これはとてもとても重要なことではありますが、核心はあくまでも「芯」でしかありません。その周りに「果肉」が付いて、はじめて「実」の形になるのです。純粋な民主主義についてわかったからといって、多様な民主主義の可能性や、他の理念や制度との関係、その現実におけるあらわれを正しく知らず、適切に理解できなければ、ほとんど役には立ちません。何かを知るということは、そんなに簡単ではないのです。

概念や理論を勉強することは非常に重要ですが、概念や理論がそれ自体で現実に及ぼすことができる影響は微々たるものです。あまり期待しすぎないでください。少なくとも、民主主義について知ることで何ができるのか、あるいは、何がしたいのか。それをするためには他に何を学び、何を身に付ければいいのか。そういう問題意識や目的意識が無ければ、どうにもなりません。何も変えることはできませんし、何も得ることはできません。だから、何かを考えるときには、あなたが持っている欲望と能力を、常に意識にのぼらせるようにしてください。それが未来を生みます。私は、あなたの未来に幸があることを祈っています。それでは、またお会いしましょう。さようなら。

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