Saturday, March 21, 2009

投票自由論――選挙など行っても行かなくてもいい


昔、「選挙へのエゴイズムの見解(試論)」というものを書いた。次の衆議院議員選挙がいつになるのか分からないが、選挙における有権者の行為/不行為に伴う責任について、改めてまとめた確定版を書いておきたい。


デモクラシーの精神に忠実であることを自負する人々は、有権者がその権利を行使することは議論の余地無き「善きこと」であるかのように、投票を勧める。他方、アナーキストの多くは、投票行為そのものが現行の政治体制と国家権力を承認し、生き長らえさせるものであるとして、選挙への不参加を呼び掛ける

しかしながら、選挙に行こうが行くまいが、それは自由である。ここで自由であると言うのは他者から責めを受けるいわれは無いということであり、それは現在の行動についても、その将来に生ずる帰結についても同様である。そしてこれは、民主政を支持するか否か、民主主義を支持するか否か、どのような民主主義を支持するか否か、などの問題とは独立した問題なのである。


投票は義務なのか



まず、前提知識の確認から始めよう*1。選挙権に公務性を認めるか否かについては学説の対立がある。選挙権は憲法上認められた個人的な権利であるとする権利説に対して、多数説である二元説は、選挙権に公務性を見出す。投票行為は、統治行為を担う国民代表を選出するという意味で、公の職務を執行する義務としての性格を有するとされるのである。二元説においても選挙権が権利であることは認められるが、それは統治を担う代表者を選出するという公務への参加資格であるとして、義務的性格を同時に伴うとされる*2

私見によれば、選挙権の公務性を否定する権利説が妥当である。それは、たとえ選挙権が公務的性格を帯びると考えたとしても、それが政治的決定に参与することを認められるメンバーシップ、地位身分、資格、権原として機能していることは確かである以上、そこに権力資源としての権利の性格が含まれていることは否定できないからである。この点は、たとえ強制投票制を採るとしても変わらない。なぜなら、投票そのものは強制であるとしても、投票の内容が有権者の自由に委ねられているのならば、未だそこには権利的契機が残存していると見るべきだからである。

二元説を採る場合、強制投票制も理論上は容認され得る。しかし、あくまで許容であり、要請ではない。二元説が参政権に公務性を認めるからといって、それは強制投票制を必然的に求めることを意味しない。したがって、ここで言う「公務」とは、必ずしも法的義務を指すわけではない。そうであるなら尚更、公務的性格を見出すか否かにかかわらず、参政権の中心的性格は権利であるとひとまず認めた方が、法概念論的な明快性をもたらす観点からして望ましい。

ただし、ここで重要なことは学説の優劣を決することではない。ポイントは、仮に二元説を採った場合にも、投票行為を有権者の義務または責任とする法的規定や、不投票行為への罰則規定に基づく法的強制力が存在しない以上、二元説が求める有権者の義務または責任とは道徳的責任を意味するに過ぎないと見做せるところにある。


ここでの道徳的責任とは、国家や地方自治体などの法的共同体における選挙権者は、統治行為を担う代表者の選出過程に参加することで、当該法的共同体の成員全体の利益に寄与する統治システムを機能させなければならない、などといった内容を持つだろう。統治行為の必要を認め、その恩恵を享受する限り、こうした責任を一般的に否定することは難しい。実際、現在の日本においても、少なくとも表面上は、有権者は選挙に行くべきであるとの考えが一般的であり、こうした道徳的要請が受け入れられているものと思われる。

だが、投票義務制の導入が真剣に検討されることもなく、選挙に行かないだけで差別や嫌悪の対象になる現実はほとんど認められないことから、そうした要請の程度はかなり弱いものに留まっていると見做せる。背景には、候補者の政策を吟味することから投票所に足を運ぶまで、政治参加に十分な時間を割けるだけの余暇が確保されていない事実があるだろう。あるいはまた、自分一人が投票せずとも政治はそれなりに回っていくだろうといった感覚が根付いているのかもしれない。

この感覚は決して根拠の無いものではない。選挙権に公務性を認めるとしても、やはりそれは一義的には権利であり、その行使によって多少なりとも政治的影響力を及ぼそうと考える人々は常に一定数は存在する。したがって、政治に無関心な人々がいくら増えたとしても、統治行為を担う代表者を選出するという最低限のシステム維持機能が働かなくなる事態は想定し難い。無論、低投票率で選出された代表者は統治行為者としての正統性に欠けると言うことはできるが、それでシステムが機能しなくなるわけではない。

政治がそれなりに回っていくと予期される限り、取り立てて強い政治的選好を持たない有権者が選挙に行かないのは自然である。システムの機能が維持される限り、不投票を道徳的責任の不履行として強く非難する必要性も感じられないことになる。


有権者の責任とは何か



さて、有権者の責任を問う言説においては、ここまで述べてきた道徳的責任とは異なる種類の責任が問題とされている場合がある。それは、統治行為を担う政治家を選出する権利を得ている以上、有権者は統治行為の帰結に対して責任を負っているとするものであり、特に有権者の政治的責任とでも呼ぶべき責任である*3

こうした責任を問う立場からは、選挙において誰に票を投じたかは無関係である。その論理によれば、代表者の選出過程は有権者が全体として行うものであり、有権者は選挙された代表者を正当な代表者として受け入れることについて同意している。また、代表者は(非有権者を含む)当該法的共同体の全体利益を実現するために働くことになる。したがって、選挙によって選ばれた代表者による統治行為の帰結に対しては、有権者全員が責任を負っている、とされるのである。

例えば、衆議院総選挙において大勝した自由民主党が樹立した政権によって経済失政が引き起こされ、甚大な被害がもたらされたとする。この時、総選挙で自民党に票を投じた人々が自民党政権の失政に責任を負っていることは当然である。だが、他党に票を投じた人々も、政治的無力によって結果的に自民党政権の成立を招いたことにおいて、国政の帰結についての政治的責任を免れることはできない。同様に、投票そのものを行わなかった人々も、政治的無関心によって結果的に自民党政権の成立を招いたことを以て、国政の帰結についての政治的責任を負っている。逆向きに言えば、有権者はいかなる投票行動を採るにせよ、統治の行方に責任を負っているのであるから、十分な思慮を持って行動すべきなのである、と。


しかしながら、こうした立場に賛成することはできない。まず第一に、有権者であることや投票者であることが、選挙の結果への同意や正統性の付与を意味しているとは限らない。

第二に、仮に同意が存在するとしても、一人の有権者が投じる一票の政治的影響力はそれほど大きくない。それはそれ自体として候補者の当選を直接左右することはないし、投じられなくても結果は同じである可能性は高い。

第三に、民主的政治過程においては、支持し得る政策を掲げる候補者が立候補するかどうか、その候補者が当選するかどうか、当選した政治家が公約に沿って行動するかどうか、公約に沿って行動したとしても公約を実現できるかどうか、いずれも極めて不確定である。
このような不確定なプロセスの中に、微々たる影響力しか持たない一票を投じた有権者に対して、統治行為の帰結に対して責任を負うべきであると言うことが妥当であるのか、極めて疑わしい。「権利には責任が伴うものである」との俗言を認めたとしても、不履行に対する一般的非難に値する程の責任を対応させるには、あまりに微小な権利ではないか*4

第四に、上記のような政治的責任の論理は、馬鹿げた責任のインフレに直結している。この論理を突き詰めれば、選挙権を持たずとも政治的活動の権利は有する未成年者や外国人に対してさえ、同様の責任を問い得る余地が出て来る。人一人が持つ政治的影響力は限られていることが考慮されることなく、自民党に投票した人、他党に投票した人、投票をしなかった人の全てが、それぞれに政権の失政に責任を負っているとされてしまう。この論法を認めるなら、私たちは世界中のあらゆる政権の失政に責任を負っていることになるだろう。だが、そのような責任を負っているから何だと言うのか。


生きていれば、何かをしたりしなかったりする。何かをしたりしなかったりすれば、それは必ず何らかの帰結に結び付く。その帰結に対して私たちは責任を負うが、それは生きていること・存在していることそのものが抱懐する原理的な「責任」であり、率直に言って問題にするに足りない。往々にして、そのような結びつきは極めて細く弱いものであり、一般的な非難や否定的評価には値しない。

確かに民主政治の大部分は、個々の有権者の行動に基づいて構成され、駆動している。個々人は国政に全く関与していないわけではない。だが、個人の力が政治過程に与える影響は、微小かつ不確実である。国政にせよ地方政治にせよ、政治過程は個人の力の集合に基づいて動いているに違いない。しかし、政治の帰結は、個人の力の集合以上のものである。それは、個々人の意思とはほぼ無関係に動く。それは個々人から「逆立」している。この時、個人は政治がもたらす帰結に責任を持つと考えることには無理が伴うし、仮に責任を持つと考えるとしても、それは通常考えられているより遥かに些細な規模である。


私に責任なんて無い



一般意志の決定はあなた自身の決定である、と言われても私は納得できない。それは、私の決定ではない。「この政権を選んだのは国民一人一人だ」とか、「この政策についてあなたも間接的に賛成していることになる」などと言われても、私は頷かない。それは、私個人の力を超えたところで決定された政権や政策である。自分が一票を投じた候補が与党議員になったからといって、野党議員になったからといって、落選したからといって、白票を投じたからといって、投票を棄権したからといって、有権者が責任を感じる必要など無い。

したがって、現行の統治システムへの承認・支持を意味するとして選挙への参加を拒絶する多くのアナーキストの主張も妥当とは言えない。彼らが選挙など行くべきではないと訴えるのは、一人の有権者の投票行為に過大な意味を見出しているからである。

繰り返すように、一票の影響力は極めて小さい。それゆえ、統治行為の帰結について、個々の有権者がいちいち責任を感じるべき理由は乏しい。同時に、統治システムの機能維持にとっても一票などは有って無いようなものであり、投票行為それ自体が統治システムの正統性強化に寄与することになるという警戒は過剰である。投票行為に過剰な意味を読み込む限り、同じ程度だけ不投票行為に意味を読み込むことを可能にしてしまい、ファシストの当選を阻止することができなかったのはアナーキストの投票拒否のせいである、などといった批判から逃れることが難しくなる。

投票行為が現行権力の承認・支持を意味するという見解自体が、有権者の責任という論理に囚われている。投票行為は何らかの責任を投票者に負わせるに足るほどの行為ではなく、個人がその限られた力を行使して、多少なりとも自己利益の拡大を図ろうとする行為であるに過ぎない。それゆえ、アナーキストは投票行為に過剰な意味を読み込んだり、いちいち責任を感じたりすることを止めて、安心して政府転覆を叫ぶべきである。そして、気が向いたら投票に赴けばよい。


まとめよう。投票するにせよ、しないにせよ、その意味と効果は全体から見れば小さく、それゆえに個々に責任を問えるほどのものではない。有権者に道徳的/政治的責任を認めるとしても、有権者一人における責任の程度は極めて小さく、一般的にはほとんど無視できるものである。微々たる責任を極めて重く受け止める立場も有り得るが、それは一般化可能な立場ではない。したがって、選挙に行くべきだとか、行くべきでないなどといった一般的な規範的言明に妥当性を見出すことはできない。

選挙に行くか行かないかは、有権者たる個々人が自らの道徳感覚と利益衡量に基づき、状況に応じて個別的に判断を下すべきことである。自分の利益のために役立てることができると思ったら選挙に行けばいいし、役に立たないか他の事をしたほうがいいと思うのなら行かなければいい。一票を投じたことによる責任などほとんど無視できるようなものなのだから、そこに何らの罪悪感や過度の責任感を覚える必要は無い。それがエゴイズムからの結論となる。選挙には、行っても行かなくてもよいのである。


*1:以下の議論で用いられる概念についての正確な理解の助けとして、「利害関係理論の基礎」、第2章、の参照を乞う。

*2:辻村みよ子『権利としての選挙権』(勁草書房、1989年)。

*3:以下の責任論については、「責任論ノート―責任など引き受けなくてよい」や「倫理学の根本問題」、2-3、を併せて参照されたい。

*4:有権者には、いわば責任というフィクションを機能させる前提たる「自由」が十全に与えられていない。


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