Saturday, April 25, 2009

かかわりあいの政治学5――臓器は誰のものなのか


承前

日本において、脳死者からの臓器提供は少なく、1997年10月から2009年3月まで81件(2)である。脳死提供者数は年間最大でも13名という状況である一方で、待機者は2009年3月31日現在、約12,400名(3)おり、国内での脳死者からの提供だけでは待機患者への移植の実施は非常に困難である。そのために海外に渡航し移植を試みる患者もいる。移植学会会員がいる医療機関へのアンケート調査では、2006年までに少なくとも522名が、米国、ドイツ、オーストラリア、中国、フィリピン、英国などで移植を受けている(4)ことが分かった。また、現行の臓器移植法では15歳未満の脳死者からの臓器摘出を認めていないため、小児受領希望者は国内での実施を望めない状況である。

このような中、2008年5月には、国際移植学会が「臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言」(5)を発表し、移植ツーリズムを回避するために、各国は自国民の移植ニーズに足る臓器のドナーを確保すべきであると述べた。さらに、WHOは指針改正により、移植臓器に世界共通の通し番号をつけ、臓器売買を避けようとしている。指針は2009年5月の世界大会での承認を目指している。

このような、臓器の自給自足を求められている状況において、特に、日本国内での提供が認められていない小児受領希望者(の家族)は、海外渡航移植ができなくなるという危機感を抱いていると思われる。


臓器移植法改正の最新動向」@東京財団 政策研究



 昨年5月に移植医らで作る国際移植学会が自国外での移植の自粛を各国に求めた「イスタンブール宣言」を発表し、世界保健機関(WHO)も来月18日からの総会で、自粛を各国に促す新指針を採択する方針だ。現行法で臓器提供が可能な年齢を15歳以上としている日本は特に、小児患者の臓器を海外に依存してきたため、新指針が厳格に運用されると移植が不可能な状況になる恐れがある。

 そもそも小児患者への移植が国内で事実上閉ざされている問題は、1997年の臓器移植法成立直後から指摘されてきた。同法の付則にも「施行後3年をめどに」見直すとの記述があり、患者団体などは年齢制限を撤廃するよう求め続けてきた。

 現在国会に提出されている改正3法案のうち2案は年齢制限を緩和するものだが、いずれも国会提出は2006年3月で、すでに3年以上たなざらしになっていた格好だ。自民党の大島国会対策委員長も率直に、「国会の不作為が問われている」としており、自民党執行部が負い目を感じているのも事実だ。

[中略]

 三つある改正案はそれぞれ、どう違うのか。

 A案

 特徴は〈1〉脳死は一律に人の死〈2〉臓器提供者の年齢制限の撤廃〈3〉家族の同意があれば臓器提供できる――とした点だ。最も提供者が増えると見込まれ、15歳未満の移植も可能になる。

 患者らでつくる日本移植者協議会の大久保通方(みちかた)理事長は「この案が成立すれば脳死臓器提供は1年目で30例、3年目で100例まで増える」と試算する。21日の衆院厚生労働委員会小委員会で参考人として発言した旧国立小児医療研究センターの雨宮浩・元センター長は、「体が大きい子は成人の心臓を移植できるが、小さい子は海外に渡らざるを得ない」として、同案を軸とした改正を求めた。

 「これ以上、息子のような悲劇を繰り返してほしくない」。重い心臓病を患う1歳の長男に臓器移植を受けさせようと、米国へ渡ったものの、移植直前に亡くした横浜市の中沢啓一郎さん(37)は14日の患者団体集会でこう述べ、同案に沿った改正を訴えた。

 B案

 臓器を提供できる年齢を「12歳以上」とした。小児脳死移植についての理解が深まっていないとして、段階的に普及させる考えだった。しかし、「12歳以上では増える提供臓器はごくわずか」とする意見が多く、現在は同案支持を広める活動は退潮している。

 C案

 脳死定義を「脳全体のすべての機能が不可逆的に喪失した状態」とし、判定基準に「脳血流と脳代謝の停止」も追加する。現行法より厳しい内容で、臓器提供数は現状より減るのは確実だ。

 同案を提案した阿部知子衆院議員(社民)は、同案によって患者の治療法がさらに限定される点を問われると明言を避け、「乳児の拡張型心筋症の場合、ペースメーカーを使った治療で良好な結果も出ている」などと述べるにとどまった。

 A案の反対者は虐待されて脳死になった子供の臓器が提供されると懸念する。21日の小委員会でも、大阪医科大の田中英高准教授(小児科学)が「小児の虐待を見分けられると言っている小児科医は約1割しかいない」「小児の脳死判定基準では、脳機能が戻らないと断言はできない」などと述べた。

 これに対し、大阪大の福島教偉(のりひで)准教授(外科学)は「虐待を見分けることは臓器移植に限らず必要。脳死と診断された人の心臓が1年以上動いたとしても、意識が回復することはあり得ない」と反論している。


「臓器移植、なぜ改正機運…見直し案 3年以上たなざらし」YOMIURI ONLINE 2009年4月22日



 臓器移植法の今国会改正を目指す自民、民主両党の関係議員が作成している新たな改正案の概要が24日、明らかになった。

 臓器提供が可能な年齢の制限を撤廃する一方、脳死の定義は現行法のまま、移植の場合に限って「人の死」とする内容だ。すでに提出されている3案のうち移植範囲の拡大を目指す2案を反映した内容で、大型連休明けに公明党を加えた3党の有志で国会に提出したい考えだ。

[中略]

 新案では、臓器提供の条件も現在と同様、本人の生前の文書による意思表示と家族の同意を求める。ただ、新たに臓器提供が可能となる15歳未満の子どもについては、本人の生前の文書による意思表示は必要としないが、家族の同意だけでは虐待などの事態を見抜けない恐れがあると判断し、病院に倫理委員会などの設置を義務づけて審査させる仕組みを盛り込む方向だ。


「臓器移植の年齢制限撤廃、脳死定義は現状維持…法改正第4案」YOMIURI ONLINE 2009年4月25日


近時の臓器移植法改正論議では、海外に臓器を買いに行く「移植ツーリズム」は問題であるとの認識が疑われることのない前提とされているが、移植ツーリズムや、ひいては臓器「購入」そのものがどういう理由で問題なのかは、実はそれほど明らかとは言えない。医療行為一般が全面的ならずとも市場経済の内部に位置付けられる以上、一旦移植医療を認めたならば、形式はどうあれ臓器にも値段が付くのは当然の結果である。どこの国でもニーズに対してドナーが足りないとすれば、より高い金を支払える人間に臓器が流れやすくなる。一般に、経済行為について保護主義は良くないと言われるが、臓器資源の利用は国内で完結させるべきであるとの主張が説得力を持つのはなぜだろうか。同じだけ命が助かるのだとすれば、その人の国籍などどうでもよいことではないのか。自国内の移植医療によって延命されるのは自国民に限られるべきだ、との「臓器資源ナショナリズム」を尊重する理由など在るのだろうか。

ここで、救われる命が先進国の豊かな人ばかりになるのが問題なのだ、との反論が来るだろう。しかし、それが問題であるとしても、それは移植医療に限られる問題ではない。医療行為一般の市場性(対価性)の問題である(もっと言えば、貧富の差は一国内でも存在するので、その反論では「自由国際移植主義」を批判して臓器資源ナショナリズムを擁護する理由には弱い)。それについては、国を問わず貧困層の人々が適切な医療へのアクセスを保障されるよう、より総合的な観点から対策を検討する必要がある。それはそれとして、当座の話題である移植医療が特殊なのは、その市場性ではなく、ドナーの存在だろう。臓器移植や移植ツーリズムが行われることによって、ドナー側の生命・健康・尊厳が毀損される可能性が問題なのであって、それは臓器のやり取りに金銭が結び付くことが善くないことであるかどうかとは切り離せる話である。ドナーの自発的意思に基づいて安全に処置され、妥当な報酬が支払われることを保障する仕組みが整備されるなら、臓器売買を解禁する選択肢だって別に有り得ないわけではないはずなのだ(私自身は、臓器はおろか血の一滴たりとも提供する意思を持っていないけれど)。

もちろん、現実の移植ツーリズムに何の問題も無いと主張したいわけではない。それは人身売買と無関係ではないだろう。また、提供意思の「自発性」の内容・水準にも十分な注意を払う必要がある。このイシューについて私が多くを知っているわけではない。また、確定的な意見を持っているわけでもない。しかしながら、少なくとも日本の報道ベースでは、移植ツーリズムが具体的にどのようなプロセスによってどのような問題を引き起こしているのかが、ほとんど語られていないように見える。そのような論証が放り出されたまま、機械的な身振りで移植ツーリズムを退け、臓器資源ナショナリズムの無批判的な受容に基づいた法改正に突き進むことは、好ましくない。その反省的思考を欠いた場当たり的態度は、後に大きな禍根を残すことになると思われ、私はそれを憂う。


さて、以上の話は(今が時機なのでしたが)本当にしたかったわけではない。私が問題にしたいのは、臓器を云々する権限、あるいはその意思についてである。実際のところ、なぜ自分や他人の臓器を売買してはいけないのかは、よく分からない。これは別に自己(の身体に対する)所有権を認めるか否かには左右されない問題である。察するに、臓器を売買することによって引き起こされる(と思われている)事態が忌避されているのであって、臓器を売買することそのものが悪いわけではないだろう(多分)。何かを売ることができるのは、その人が当該の対象について、処分を決定する権限を持っているからだと、私たちは考えている。それは、いわゆる所有権の機能の一つである。別に売るだけの話ではなく、対象をどうするかについての決定権がどこにあるか、誰に握られているかが、重要なのである。そういう話を、私はしたい。

他人に臓器を提供するかどうかも、誰かが決めることである。誰かの意思によって決まることである。それを決める権限は普通、死ぬ本人の意思に握られるべきだと考えられている。なぜだろうか。本人だから――彼がその身体の所有権を持っているから――だ、と言うのは答えになっていない。なぜ「本人」は決めることができるのか。それは、決定される対象の成り行きに最も深刻な利害関心を持つだろう主体が彼だからだ、と。せめてここまで言わなければなるまい。とりあえず、これが少しは反省的思考を利かせた、ある程度は納得できる答えだ。

死ぬ本人は自分の身体の処分について深刻な利害関心を持つから、それを決められるべきだ、と。そういうことなら、臓器提供の際に家族の同意が一つの問題になることも、理解できる。死ぬ本人は死後の自分の身体についての全てを決定できるべきなのかと問えば、私たちは皆、そんなことは無いと答える。それは彼の身体の成り行きに大きな利害関心を持っているのは、彼に限られるわけではないからだ。そのような本人以外の代表的な主体が、家族なのである。だから家族は一定の発言権を持つと当然に考えられている。本人の決定権は、絶対的・排他的ではない。彼の身体に対して小さくない利害関心を持つ主体であるなら、決定に携わる「権限」が認められる余地は存在するのである。

ただ、そうは言っても、利害関心があれば、それが誰であっても、どのような利害関心であっても、その意思が配慮されるべきだと考えられているのかと言えば、そういうわけでもない。例えば日常的に子どもを虐待していたことが分かっている親の意思は、子どもの死に際して考慮するべきかを問えば、否定的な答えを為す人が多数だろう。つまり、「決めることができる」べきだとの判断の基礎になる利害関心の内容や程度は、何か別の基準に拠る判断によって左右されるということである。その基準が何であり、その判断がどのようなメカニズムによって為されるのかは――この連載の最終目的の一環を成す(と思われる)――探究に値する課題なのであるが、ここでは手に余る。それについては気長にやるとして、今は角度を変えて、もう少し話を進めてみよう。


脳死時の臓器提供について、意思確認カードなどの書面による事前意思の明示が必要だと考える立場は、決定権の重心を「過去の本人」に置いていると言える。決定が必要とされる時点で最も深刻な利害関心を保有している主体は明らかに「現在の(死に瀕している)本人」であると思われるが、その時点で彼には意思表示が概ね不可能である。権利は保有されるだけでも存在し得る――法哲学的には異説が在る――が、(作用ではなく)行使するには、そうする意思が必要とされる。そこで、「現在の本人」(あるいは「未来の(死後の?)本人」)と最も利害関心を共有している度合が大きいと考えられる「過去の本人」の意思を次善的に重視する。それが事前意思を尊重する立場の理路であろうと思う。

ところで、ある主体に決定権の重心が置かれるとは、どういうことなのだろうか。それは、その主体が持つ決定を左右する力が増すということである。つまり、権力を握るということだ。事前意思が明示されていなければ臓器提供ができない場合、権力の多くは「過去の本人」に握られている。「過去の本人」の意思――それは文書が不在の場合は推定でしかない――が「現在の本人」の意思と同じであるという保障は無いが、それでも(意思を表示できず権力が失われている)「現在の本人」に一定の権力を確保するためには、過去の自己に握られた権力を介するしかないと思われる。

これに対して、臓器提供を行うには家族の同意だけでよいとするのは、家族(+脳死判定および家族への意思確認を行う医師)の権力を飛躍的に強化し、過去・現在・未来を通じた本人の権力を決定的に弱める施策である。事前に家族と合意を形成しておくのは書面での意思表示よりも多くのコストが必要とされるし、事前の合意が覆されるリスクも生じる。このように、最も深刻な利害関心を有すると思われる本人から決定を左右する権力の過半を奪う法制度が正当化されるとすれば、その理由は何だろうか。

現下では、それは移植ニーズに対して臓器が足りていないという社会一般(とりわけ患者および患者家族)の利害であるようだ。しかし、顕在的な患者に対して、潜在的なドナー(候補)は圧倒的に多数であるはずなのに、前者の利害によって後者の重大な権力削減が比較的容易に実現し得るという事態は、いささか奇異に映らないことも無い。あくまでも潜在的に留まるドナー側の関心と政治力が弱いのに対して、患者側が顕在的かつ切迫した利害に基づく強固な組織・運動に支えられた強い政治力を発揮している結果によるものだろう。移植ツーリズムへの批判も、患者側および移植関係者の利害を通す道徳的テコの一つとして使われていると思われる。政治力も、道徳的訴求力も、権力の一つである。


潜在的な利害をどこまで政治過程の中に持ち込むことができるか、持ち込むべきかは難しい。それはそれとして考えることにするとしても、利害関心や権力(と他の何か)を中心とする幾つかの類の「かかわり」に着目すると、道徳的判断から政治過程までを貫通した形で「決定」を巡るあれこれを何らか整理して考えることができるということは、ひとまず示せたのではないかと思う。ちょっと長くなったが、今回はそういったところで満足しておこう。




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