Sunday, May 31, 2009

精神障害者をどう裁くか


良書である。既に多数の著作を持つ現役の精神科医が、とりわけ法に触れた精神障害者の扱いに焦点を当てながら、社会が精神障害者にかかわる仕方について検討を加えている。

まず精神障害の定義と分類から始まり、データに拠って触法精神障害者の実態が描写された後に(第1章)、精神障害者処遇の歴史を遡ることで刑法39条を支える思想の形成過程が辿られる(第2章)。既に良く読まれている芹沢一也の著作と併せて読むことを薦めたい。



次に、日本の精神保健福祉法と医療観察法の成り立ちと運用実態について詳細な解説が加えられる(第3章、第4章)。コンパクトな整理の意義もさることながら、触法精神障害者の処遇に関心を持つ諸論者から立場を超えた批判にさらされた医療観察法への比較的高い評価が注目されるところである。

臨床に携わってきた立場から人道主義的見解の「非現実性」や精神医学への誤解を正す終盤からは、さらに刺激的な収穫が得られるだろう(第5章、第6章)。特に39条との関わりでは、異なる立場の論者によって編まれた論文集と包括的な批判論を併読することで論点の理解と思考の深まりを一層期待できるはずである(併せて参照)。


個人的には、末尾近くで引かれている弁護士の証言がなかなか衝撃的であった。孫引きとなるが、一部を抜き出しておこう(209-210頁、強調は引用者)。

 例えば放火罪の場合は、放火罪は非常に立証が難しいんですね。現行犯でやらないといけない。現場近くでにやにやして立っている。あいつはいつも立っているなと。おかしい、捕まる。で、当然のことですけども、IQはぎりぎりです。五〇いくか、六〇いくかよくわからないけれども、簡易鑑定にかかるわけですね、大体、放火というと。ちなみに簡易鑑定は大体二五万ぐらいするんですけれども。放火だと割合と簡易鑑定というのはとりやすいという傾向があります。というか、大体とりますね。それをやりますとIQの値というのはぎりぎりが出ます。

 ぎりぎりが出たときに、じゃあ裁判所はどうするか。で、さっきの世間体の話をすると、放火罪で捕まえましたと、で、捕まえた人間を刑務所に送らないとたたかれるだろうと。一つはそういう恐怖心みたいなのを裁判所は持ちます。検察官も同じです。これは責任能力を争わないというか、そこを問題にしない方向で行こうという、一種の談合的なものが生まれます。

 じゃあ弁護側はどうするか。一応争うふりをします。ふりをしていて、僕がそうやったということを言いたくはありませんけれども。一応争うということをとったとしても、しょせん材料がない。じゃあどうすればいいかという方向が正直言って見えないのです。で、刑務所に行ってしまう。弁護人のほうはどうするかといったときに、さっき言ったのは、横でにやにやしているという状況で、もしかするとこれは無罪なんじゃないかというケースがあるのです、正直言って。責任能力がないという方向での無罪で争うことはもちろんあるんですけど。話を聞いていて全然支離滅裂なんですね、被告人の言っていることというのは。


本書全体の議論にふくらみを与えているのは、豊富な実例の描写である。触法精神障害者の処遇に関心を持つ人は多くないかもしれないが、被害者感情の重視に基づいて39条への批判が高まる一方で、現在の刑務所が居場所を失った精神障害者で溢れていることも知られるようになっている。裁判員制度もスタートした今、手元に置いておきたい一冊であることは疑いがなかろう。


Friday, May 29, 2009

国会議員の世襲制限に関する憲法学的考察


まず、世襲制限が憲法で認められている職業選択の自由を侵すために不可能であるとの議論があるが、これは正しくない。

職業選択の自由とは、個人が自らの就職・転職・退職を決定し、選択した職業を遂行するにあたって、国家の規制を受けないことを意味する。しかし、これは他の憲法上の自由と同様、「原則として」規制を受けないのであって、例えば「公共の福祉」と言われるような正当な理由がある場合には、その限りではない。

現に届出・許可・資格などが必要な職業はたくさんあるし、売春のように全面的に禁止されている職業もある。当の規制が必要とされる理由と、その目的実現のための手段としての妥当性について議論が分かれることはあっても、そもそも規制が「不可能」であるということはない*1


では、特定の個人に特定選挙区からの立候補を禁ずることが許されるとすれば、どのような目的に拠ることになるだろうか。

議員世襲の帰結に着目する議論からは、(1)後援会や政治資金団体の継承による既得権益との相対的に強固な結び付きが議員活動に不適切なバイアスを生じさせる、(2)世襲候補の高い当選可能性のために有能な人材の参入が妨げられる、(3)特定の層から議員が再生産されることによって社会内に存在する多元的な価値の反映が困難になる、などの問題点が指摘されている。

加えて、権利相互の均衡に着目することで、世襲候補の乱立が再生産する障壁と非流動性が有権者の選挙権・被選挙権の実質的な行使を阻害している、と立論することも不可能ではない。

いずれにしても、これらの問題の解消を目的とすることは、職業選択の自由への制限を正当化し、憲法上の問題を回避するに十分な程度の理由は提供しているように思う。


また、憲法上の参政権の一部たる被選挙権を盾に世襲制限を退けようとする議論もある。被選挙権は主として立候補の自由を意味しているが、その中に出馬する選挙区を制限されない自由までが含まれているのかは分からない。憲法が保障する被選挙権の趣旨が特定個人の政治参加を国家が不当に制限することの予防にあるとすれば、特定選挙区からの出馬を時限的に制限する程度の規制が許され得ないとも思えない。

さらに、より理念的な観点から言うと、(一旦選出された議員が選出母体の意思を議会内に反映しようとするならともかく)これから「(部分代表ではない)国民代表」たる国会議員として選ばれようとする候補者に対して、自らの選出母体を選ぼうとする彼の意思を尊重すべき理由など存在するだろうか。それは自らが代表したい利益を選ぶことであり、日本国憲法が採っているとされる国民主権(ナシオン主権)の立場に反するのではないか*2。立候補一般の自由は保護すべきであるとしても、自らの選出母体を選べることが憲法上の保護に値する自由であるかどうか、甚だ疑問である。


以上の検討の次第から、私は世襲制限が憲法上の権利を制限するから政策として「筋が悪い」とは思わない*3。しかしながら、それは単に憲法上の障害を理由とした世襲制限批判には与しないというだけのことで、世襲制限立法に賛成しているわけではない。実際のところ、世襲を制限したからといって、政治家の質が高まったり、より多元的な価値の反映が可能になったりすることが期待できるかと言えば、疑問が大きい。政党が内規によって世襲候補を公認しないと決めることは構わないと思うが、法律として世襲候補の出馬に制限を加えるのは、あまり好ましい方法ではないと思う。少なくとも、同じ政策目的を実現するためなら、その前に行うべき手段は幾らでもあるはずだろう。

主体の合理性を仮定すれば、世襲候補が有力政党に公認されるのは彼が最も当選可能性が高いと判断されたからであり、当選可能性が高いということは有権者が彼を最も議員に相応しい候補だと判断するだろうということである。ならば、そこで本来問題とすべきは世襲候補が有利になり易い選挙制度や選出過程、世襲候補を選び出す選出母体などであって、候補者自身の属性ではない。当たり前のことではあるが、やはり世襲はあくまでも結果なのである。国会や政党に占める世襲議員の割合など、結果だけに着目し、その結果をコントロールするために、候補者の属性に直接縛りをかけようとする。世襲制限が政策として「筋が悪い」とすれば、かくのごとき安易な目的と手段ゆえにこそ、そう見做されるべきであろう*4


*1併せて参照。なお、本文リンク先で結論とされている「世襲が有利にならない選挙制度をつくる」べきだとの主張自体は至極尤もである。


*3:そもそも政策とは誰かの権利を制限するものであり、政策の筋の良し悪しはそんなことで決まるわけではない。

*4:同じことは高齢制限や多選制限についても言えるし、部分的にはジェンダーバランスをはじめとするポジティブアクションについても言える。


Sunday, May 24, 2009

リスクと不確実性について


少し前の話になるが、kaikajiさんとBaatarismさんの以下のやりとりに触発されて考えたことをまとめておく。



論点となっているのはリスク管理とコスト&ベネフィットの考慮である。話題自体は(政治)経済学的な色彩が強いけれども、リスク概念は分野によって意味合いがそれぞれ異なるので、まず用語の整理から始めよう。

社会学では、危険dangerリスクriskを区別することが多い*1。危険が人に危害を及ぼす可能性のあるもの全般、あるいはその可能性そのものを指すとすれば、社会学的概念としてのリスクは、人が行った何らかの選択や決定に伴う不確実性から生じる不安を意味している。天災など自らの選択の帰結ではない現象は、危険には含まれるが、リスクではない。社会学的リスクは、近代化の進展によって拡大した個人の自由が伴う未来予測の不確実性を背景としており、その不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されている。

他方、主に自然科学分野で為されているリスク・マネジメントについての議論では、リスクとの区別が問題になるのは危険ではなくハザードhazardである。ハザードは対象に固有の潜在的危険性・有害性を意味し、「危険源」などと訳される。これに対してリスクは、ハザードが何らかのきっかけによって現実の被害を引き起こす可能性を意味するとされる。例えば大量の火薬が保管されている倉庫はハザードだが、周辺に火の気が無ければリスクはそれ程高くない。そこに誰かが火の気を持ち込むことによって、その場のリスクは急激に高まることになる。

このような意味でのリスクは、客観的な危険度と言うべきハザードに加えて、現実の被害が引き起こされる可能性(確率)を考え合わせたもので、いわば「(客観的)危険出現可能性」とでも訳すべき概念である。それは、個人の選択に伴う社会学的リスクとは異なる。むしろ社会学的議論においてリスクと区別される場合のデンジャーに近い。しかし、それでは折角在る言葉が勿体無いので、ここでは可能性であったものが実際に出現する/した事態のことを(便宜的に)デンジャーと呼ぶことにしよう。

そうすると、危険出現可能性としてのリスクは、対象が引き起こし得るデンジャーはどのようなものであるのか(ハザード)と、対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)――どのような状況になれば引き起こされるのか(条件)を含む――の考慮によって算出されることになる。ハザードも考慮されるということは、たとえ実際に起こる可能性が低いデンジャーであっても、その被害が甚大となることが予測されるなら、対象のリスクは高いと判断され得るということである。

これに対して、経済学で用いられるリスク概念は、帰結への考慮を含まず、純粋に「危険が出現する可能性」、つまり確率を意味するために存在している。Baatarismさんが引用している竹森俊平『1997年――世界を変えた金融危機』によれば、先で言う「対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)」についての認識の部分が、経済学では広義の不確実性uncertaintyの問題として議論される。そして広義の不確実性の内で、過去に前例・類例があるなどの理由から客観的データによって可能性を判断できる(確率分布を想定できる)ケースはリスクと考えられ、過去に例が無くデータによる判断が不可能である(確率分布を想定できない)ケースは「真の不確実性(ナイトの不確実性)」であると見做される。

以上、図表で示せばもう少し解り易くなるところを面倒なのでしないが、同一単語が複数分野で異なる意味に使用されているところを強引に同一ないし近似の概念として整合性を与えようとする試みをするとすればこうなるかなということを、してみた。最も一般的と思われる危険出現可能性としてのリスク概念を「広義のリスク」とするならば、社会学的リスク(再帰的リスク)概念と経済学的リスク(確率的リスク)概念は、それぞれ別個の「狭義のリスク」である。


本題に移ろう。前掲のやり取りの中で「コスト」として想定されているものの幾つか(例えば国民の犠牲)は、発射されたロケットが引き起こし得る帰結、すなわちハザードの一種として解釈可能である。どのようなミサイルないし物体がどのような地域に着弾/落下すればどの程度の被害が予測されるかなど、ハザードは客観的な判断の対象となり得る。Baatarismさんはコストの定量化そのものが評価者のイデオロギーに左右されてしまうと指摘しているが、それは正確な言い方ではない。イデオロギーによって左右されるところが大きいのは、客観的算出が可能な「広義のリスク」ではなく、そのような客観的リスクに対する再帰的評価に基づいて構成される社会学的リスクの方である。

先に、社会学的リスクは不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されると述べた。私たちが完全な情報を得て、有り得る事態の全てについて合理的な分析を加え、客観的な確率についての認識を形成することは、現実には困難であり、ほとんど不可能だと言ってもよい。そのため、(「真の不確実性」に属するとされる状況も含めて)私たちが実際に依拠しているのは個々人が(客観的根拠も援用しながら)内的に算出する主観的確率の認識である。

個人の行為は、主観的確率とハザードの主観的評価(主観的危険度)との総合によって形成される社会学的リスク認識に基づく予期によって駆動される*2。主観的確率は客観的確率とは独立に形成され得るが、危険度の主観的評価は客観的なハザードの認識を前提にしている。被害が同じ程度であっても、評価者が何を守るべき価値と考えているかによって、事態が持つ意味は異なってくる。簡単に言えば、ミサイル攻撃によって100人の命が失われた場合に、「100人も死んでしまった」と考えるのか、「100人で済んで良かった」と考えるのかの違いである。そのような評価は、各人の価値観に依存する*3。したがって、客観的なリスク認識(ハザードと確率)について概ね一致することができても、採るべき対応について一致するとは限らない。

「危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」と言われるはこのためだが*4、それでも再帰的評価とは離れて、可能な限り客観的なハザードや確率の認識を行おうとすることができないわけではないし、それを止めるべきでもない。むしろ最終的には政治過程において決定されるしかないと理解しながら、そのような集合的リスク評価がより有益であるための客観的材料を提供するのが科学的認識の役割であるし、そこで専門家の知識翻訳と社会内の議論促進の役割を担うのがマスメディアの仕事であるはずだろう。だから私は今こそ「「勘定」に訴えかける議論がぜひとも必要」とするkaikajiさんの問題意識に強く共感するし、そのような議論を示すことは、本来経済学に限られることのない科学全体の使命であると思う。


ただ、それとは別に私がこのエントリを書こうと思ったのは、Baatarismさんが依拠する経済学上の「真の不確実性」概念にある種の胡散臭さを感じたためでもある。Baatarismさんは北朝鮮が日本をミサイルで攻撃するケースは「真の不確実性」に属すると言う。そして、そのような事態が発生する確率を見積もることは不可能なので、対抗手段として比較的コストが小さいミサイル防衛システムを採用することは妥当だと結論している。その結論の是非はここでは扱わないことにして、私が引っ掛かるのは論証の過程で示される、今現在は「危険性が非常に低いように思えたとしても、近い未来にどうなるかは誰にも分からない」との認識である。この論理は当該ケースが「真の不確実性」に属すると見做される所以でもあるのだが、何と言うか、あまりにも「身も蓋も無い」言い草ではなかろうか。

少し意地の悪い言い方になるが、このような「身も蓋も無い」言い草が許されるのであれば、「街を行き交う人々がいくら温厚そうに見えても、いつ豹変して私を襲うかもしれないから、拳銃の所持を許して欲しい」との主張を容易に正当化できそうである。このあたりは社会学の得意分野であるが、そもそも社会秩序の成り立ちそのものが「真の不確実性」に属する問題であり、今度すれ違う人が私を襲って金品を奪おうとするかもしれないという疑いは、本来全く不合理なものではないはずであるから。

それでも社会に秩序が成立し、国際社会にも一定の秩序が成り立っているのは、そこに何らかの確率認知の体系(社会学的に言い換えると予期の体系)が形成されたからではなかろうか。確かに、それは経済学的リスクのように客観的・統計的に判断可能な確率ではなく、主観的ないし間主観的な確率認識であるだろう。だから実際には、「どうなるかは誰にも分からない」。しかしそもそもAの確率が99%であるということは、Aでない確率が1%存在するということだから、究極的にはどんな状況であっても「近い未来にどうなるかは誰にも分からない」のである。
したがって、このような言い方は(Baatarismさんの意図とは無関係に)「真の不確実性」について言及するに留まらず、確率的な思考全体の有効性を否定してしまいかねない*5。客観的/主観的にかかわらず、確率とは不確実な未来に対して多少なりとも合理的な行為を選択し、望ましい未来を構築していくために用いられる手段であるから、今現在「危険性が非常に低いように思え」るのであれば、まず第一に議論されるべきなのは、その理由であるはずなのだ。現状そのように「思える」ことは何によって可能になったことであるのかを考えることは、通常思われているよりもずっと重要なことであると思う。

実はBaatarismさんの結論を支えているのは、当該ケースが「真の不確実性」であるかどうかよりも、「もし北朝鮮が本当に日本にミサイル攻撃を行ったら、日本の人口密集地に莫大な被害が出る可能性はほぼ100%」であるというハザードについての認識の方である。この認識が妥当であれば、たとえ当該ケースが「真の不確実性」とは言えず、北朝鮮によるミサイル攻撃の確率を算出することが可能で、しかもその確率が非常に低いとしても、ハザードの大きさのために(広義の)リスクはミサイル防衛システムを採用することを正当化可能である程に高い、との立論は説得的で有り得る(その説得性は受け手の再帰的評価に依存する)。つまりBaatarismさんの主張には、別に「真の不確実性」概念は必要でない。

そもそも経済学的リスクと「真の不確実性」の区別のされ方はだいぶ曖昧であり、恣意的判断の混入を許す余地が大きいように見える。それならば、広義の不確実性内部の緩やかな区別は維持するとしても、確率認識の可能・不可能で分けるよりも、認識の客観性の大小で起伏をつける方が良いと思う。あるケースが「真の不確実性」に属しているのかどうかは、本当のところ大した問題ではない。あまりこういう概念を有難がるのもどうかなと思った、という、そういう話をした。



*2『利害関係理論の基礎』、第1章第3節2、を参照。

*3:もっと言えば、これはA.センの言うcapabilityにかかわる問題である。例えば地雷によって同じく両足を失った人でも、「命が在るだけ良かった」と思う人もいれば、将来を嘱望された陸上選手であったために「死んだ方がマシだった」と思う人もいるかもしれない。

*4:ウルリヒ・ベック『危険社会』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)、90頁。

*5:それは極端に言うと社会秩序そのものへの攻撃で有り得る。


Sunday, May 17, 2009

かかわりあいの政治学7――相続はなぜ認められるのか


承前


相続はなぜ認められるのだろうか。ある人の連れ合いや子どもであることが、その人の死後に財産を無条件で譲り受ける権利を発生させるのは、なぜなのだろうか。相続については、相続税をもっと引き上げて――場合によっては100%にして――所得再分配に活用するべきだという意見がある一方、むしろ引き下げて――場合によっては廃止して――自由な経済活動を促進させるべきだという意見もあり、面白い論点が提供されているが、そもそも相続制度とは何であるのかを突き詰めて考えた議論はあまり多くない。相続財産に課税が許されるのはなぜかという疑問を呈することも可能ではあるが、そもそも課税には根拠など無いので、それは有意義な疑問とは言えない。むしろ、所有権者が死亡した後に、彼の財産が無主物や共有物にならずに、自動的に特定人物へと承継される制度の根拠を問うた方がいい。


教科書的な定義を持ち出すなら、相続とは「自然人の財産法上の地位(または権利義務)を、その者の死後に、法律および死亡者の最終意思の効果として、特定の物に承継させること」をいい、特に「法律の規定に基づいて、当事者(被相続人と相続人)の知・不知にかかわらず効力を生じる」ものを「法定相続」と呼ぶ*1。契約による贈与や譲渡、遺言による相続などの法律行為は元の権利者の法的権利に基づくが、法定相続による相続人の権利取得は、死亡者の血族ないし配偶者であることのみを理由とする。このような純粋な身分関係に基づく権利取得が、相続制度の特徴である。別の教科書には、次のような記述がある。

 相続の概念を定義することは大変難しい。多くの法学文献は、相続は私的所有権とともに発生し確立したと説く。しかし、封建時代の家禄のように、譲渡は許されずに世襲されるものがあるし、社会人類学者によれば、私有財産の存在を考える余地のない未開社会にも、一定の土地のなかで生活資料を採取する集団の成員権の世代的承継準則が存在する。譲渡の自由のないところに私的所有権を認めることはできないが、これらの非譲渡的権利ないし排他的利益が一定の準則に基づいて承継されるとき、これを相続とみることはできないであろうか。これらの準則は、英語のinheritance(財産相続)という観念からは外れる。しかしsuccession(継承)の観念には十分に合致するし、前者は後者の一型にすぎない。歴史的に、または通文化的に相続の概念を定義しようとするなら、前者にではなく、後者に即して考える必要がある。かくして、多くの人類社会で社会的に承認されてきた権利の世代的承継の準則についていえば、そこに共通するのは、この準則が各社会の親族制度に従っているという一点である。この共通項に、各社会は、その歴史や文化の特性を投影した変化を加味する。資本制社会を前提とするわれわれの近代国家の相続法には、私的所有権の影響が濃く現れている。しかしなお、その中心には、社会の親族制度に従った権利の承継の準則が確固として存在する。


[佐藤義彦ほか『民法Ⅴ――親族・相続』第3版(有斐閣(有斐閣Sシリーズ)、2005年)、119-120頁(伊藤昌司執筆)]

この見解を念頭に置きながら、相続の根拠について簡単に検討してみよう。相続の存在を説明する第一の見解は、被相続人が持つ所有権に基づく自由の帰結であるとする「意思説」である。同説は所有権の自由から遺言権を演繹し、法定相続権は死者の意思の推測に基づくと考える。しかし、遺言の発効時には遺言者は所有権の主体ではなくなっているから、所有権から遺言権を演繹することはできないはずではないか*2。この重大な疑義から、意思説は相続制度の根拠とするには足らない。法哲学者の中には、意思説の否定によって相続税の100%化――相続の否認――を正当化する主張すらある程である*3


そこで被相続人の意思に代わって相続制度の主たる根拠を構成するとされるのが、(1)遺族の生活保障、 (2)被相続人の財産形成に寄与していた相続人の潜在的持分の実現、(3)経済活動の承継による取引安全の保護、の3つである*4

この内、(1)は婚姻や血縁の関係にある近親者の生活を安定させる意味を持つが(扶養説)、これは相続制度の機能や政策目的では在り得ても、根拠とは言い難い。遺族の生活保障が必要であるとしても、その目的に被相続人の財産が用いられなければならない必然的な理由があるわけではない。あるいは、経済的に自活が可能である遺族に対しては相続を行うべき理由が乏しいことになる、との疑義も呈し得る。

また、(2)は相続人が何らかの形で被相続人の財産形成に寄与していたとの前提に基づき、その潜在的な持分を具体化して実現する意味を持つ。しかしながら、財産形成への寄与の程度によって相続が左右されると考えるのならば、配偶者や血縁者以外にも――お世話になったあの人にもこの人にも――相続の範囲が拡大されるべきであるとの主張に対抗することは困難になるだろう。個々の権利主体に対する社会の潜在的持分が考慮されてよいなら、婚姻や血縁は相続権の必然的条件ではなくなる。

(3)は、財産をめぐる争奪を防止して平和的な遺産分割を図ったり、経済活動の基礎となる財産が承継されうる範囲を定めておくことによって社会内部の取引関係を安定化させたりする意味を持つ(公益説)。社会一般の利益を根拠として提示することになるため、総体的な説明に便利ではあるが、地位身分を含めた承継制度一般を説明できるわけではない(身分・階級・氏姓はなぜ継承されるのだろうか?)。


どうも、これら解釈法学的に提示される根拠に基づくだけでは、相続の本質に迫れる気がしない。より反省的な観点から議論のフレームワークを整え直してみることが必要だろう。そこで先の引用も考え合わせながら頭をひねらせてみると、相続制度には私的所有権制度に規定されている部分と親族制度に規定されている部分の両面があるということが、おそらく言える。遺言や法定に基づくことによって一定の随意性を伴う財産相続inheritanceに対して、非随意的に行われる身分・階級・氏姓などの継承succession(世襲)は、当該社会が拠って立つ親族制度に依存して成り立っていると思われる。

この前提に立って相続制度の根拠とされる見解について考え直してみる。すると、扶養説は近親者の経済的紐帯を保護することで、家族的結合を物質的に下支えする役割を担っていることが解る。すなわち扶養説は、相続制度が果たしている社会内の親族秩序を維持・再生産する機能への間接的言及を通じて、相続の一面を明らかにしているのである。同様に公益説は、財産争奪の防止による公安秩序の維持や、取引関係の安定化による私有権制度に基づく市場経済秩序の保護などの機能に言及していると解釈できる。

以上から論を結してみるなら、相続一般にとって必然であるのは何らかの秩序の維持であり、維持される対象(目的)は必然に「これ」と決まっているわけではない、と言える。このように考えると、身分や階級の継承も統合的に理解できる。奴隷の子が自動的に奴隷とされるのは、奴隷制度を保全するためにほかならない。継承にとって、最大の目的は継承の対象となる事物(財産・身分・階級・氏姓その他)の安定であり、その事物が組み込まれている制度や秩序の安定である。したがって、相続は自然的根拠を持つわけではなく、親族秩序の維持・再生産ないし私有権秩序の安定、その他公益一般の実現を目的として政策的に構成される社会制度であり、それゆえに社会状況の変化に応じて柔軟に改変されるのが当然である。

実際、現下のように家族の個人化が進行する社会状況においては、遺族の生活保障機能は相続を介した親族秩序内部での実現が目指されるよりも、社会全体に委譲されるべき機能であろう。財産形成への貢献度に基づく相続を真剣に考慮するなら、遺産はむしろ近親者の範囲を超えて承継されるべきである。純粋な公益説的見地からは、制度が一定の安定性を持てばよいのであって、現行の相続の在り方に固執する理由は存在しない*5。かくのごとき現状は、理論的帰結において相続制度が現行の在り方に留まるべき理由を乏しくさせているように思える。それでも現行の相続制度が保持され続ける――旧来の親族秩序への固執が続く――のだとすれば、それは社会が守ろうとする秩序に対して、それだけ大きな利害関心が抱かれているということであり、私はそのように(様々な「かかわり」に基づいて)有り得る幾つもの秩序の中から特定の秩序が選ばれるメカニズムに関心がある。


*1:遠藤浩ほか編『民法(9)相続』第4版増補補訂版(有斐閣、2005年)、1、3頁(稻本洋之助執筆)。

*2:派生的に、遺言はなぜ拘束するのかという問いも、考える価値がある。遺言が効力を発するのは権利の主体が死亡した後であるが、人は死亡すれば権利を失うはずであり、所有物の帰属について決定する権利も失われるはずではないのか。この点について私は、「人は死亡すれば権利を失う」と一般的に前提することが誤りなのだと考えている。人が死によって権利主体でなくなることには、何一つ自明な根拠は無い(他方、死者に法的人格を認めることには法理論上の問題は存在しない)。現実の私たちの営みを顧みるなら、死者は生きている人々の利益のために権利を剥奪されるのだと言うべきである。そしてそれゆえに、例えば遺言のように、社会一般の利益と合致する一部の場合に限って、死後一定の期間、権利が残されることになっている。そう考えた方が、より実態に沿った説明が可能になる(詳しくは、 『利害関係理論の基礎』、注478、を参照)。

*3森村進「リバタリアンな相続税」(『一橋法学』第6巻第3号、2007年11月)、森村進「リバタリアンな相続税の提案」森村進編『リバタリアニズムの多面体』(勁草書房、2009年)。

*4:遠藤ほか前掲書、16-18頁。

*5:具体的な制度について構想することは本連載の趣旨から離れるので避けるが、その手前の議論について一言しておく。森村進のような例外を除く一般的なリバタリアンは、意思説に基づいて相続税は私的所有権の侵害であると見做す傾向がある。しかしながら、前述のように意思説は破綻している。一般に死者は権利を持たないと考えられているにもかかわらず例外的に遺言の権利が認められているのは、私有財産制度を守るためにそうした方が好都合であるからに過ぎない。それは相続の根拠ではなく、私有権秩序と結び付いた相続制度を保持するために構築された事後的論理に過ぎない。したがって、相続財産への課税を私的所有権の制限や侵害と捉えるのは、私的所有権と財産相続に先行的結合関係を認めてしまう点で錯誤である。社会は死者から権利を剥奪しているという私見に基づくと、被相続人の財産は彼が死亡した時点で宙吊りになっているはずであり、そこに遺言の自由をどこまで認めるか、法定相続制度をどう構成するか、課税・接収をどう定めるかは、政策的考慮として完全に同水準にある。すなわち相続税を課すことについて問題とすべきことは、私的所有権侵害の是非であるよりも、死者からの権利一般の剥奪の是非でなければならない。これを一旦是としたなら、あとは権利剥奪を正当化する政策目的の問題であり、既に権利侵害を云々する議論水準には無い。よって、相続税を100%にすることに規範上の障害は無い。なお検討すべき課題は、相続税率引き上げによる帰結の是非である。こちらの検討は、私の手には余る。


Sunday, May 10, 2009

かかわりあいの政治学6――時効はなぜあるのか


承前


近年、刑事上の公訴時効制度について、その存在理由を疑問視する声が高まってきている。同制度については、犯罪被害者遺族の感情への配慮や捜査技術の発達などを背景として、2004年に公訴時効期間を延長する内容の法改正が行われたばかりである。それにもかかわらず、法務省は2009年1月から「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方に関する省内勉強会」を設置し、制度の更なる改廃についての検討を始めている。5月3日には、公訴時効の廃止を求める「殺人事件被害者遺族の会(宙(そら)の会)」が初の全国大会を開催し、時効制度の廃止、進行中の時効の停止、時効成立後の遺族への国家賠償などを訴えている。

かように加速度的な状況の展開は目を見張るものがあるけれども、ここでは時事的な事柄について直接考えることはしない。そもそも時効なるものが、なぜ存在しているのかについてだけ、考えることにしよう。


法理論上、公訴時効制度を支えているのは、大きく分けて次の3つの根拠である*1。(1)時間の経過とともに犯罪の社会的影響力が失われ、犯人を処罰する必要性が消滅する(実体法説)。(2)時間の経過とともに証拠が散逸し、事件の解明が困難になる(訴訟法説)。(3)一定の期間起訴されなかったという事実状態を尊重し、その間に犯人が構築した社会生活上の諸利益を保護するべきである(新訴訟法説)。

本連載の第2回では、人格の同一性が相対的であるとの主張に少し触れた。D.パーフィットの議論を整理・敷衍している森村進が唱える「人格の同一性の程度説」によれば*2、人格の同一性は――記憶・欲求・信念・性格・意図などの――心理的状態の結び付きが弱まるにつれて小さくなるものであり、たとえ「同一人物」であっても、現在の人格と遠く離れた時点の人格とはある程度まで異なっており、その限りで別人格である。したがって、過去の行為に対する功績および責任の程度は、行為時の人格との心理的結び付きが密接な程大きく、希薄になる程小さくなると考えられる。現に、遠い過去の行為については責任が軽減されてしかるべきであるという発想――「昔の話だろ」「もう時効ということで」――は私たちの多くが共有しているし、公訴時効制度の根拠にも採り入れられているように思える。

3つの根拠の内で、時間の経過による人格の変容に伴って行為に対する責任も軽減されるとの発想と共通点を持つのは(1)である*3。(2)の理由だけでは証拠が存在すれば時効を認めなくてもよいことになるし、そこに(3)の理由を加えても、法定刑の軽重によって時効期間を区別している理由を十分には説明できない*4。それゆえ、刑事上の公訴時効の存在理由として(1)を外すことはできないだろう。つまり、時の経過とともに犯罪行為時点での犯人と現時点での犯人との同一性が失われていく、あるいは犯罪行為と犯人との「かかわり」が薄らいでいくとの認識に基づいて罪に対する罰を免ずることが、公訴時効制度の主要な要素なのである*5

パーフィット=森村的な主張に対しては、そのように考えるならば過去の行為の責任を問うことが不可能になってしまうとの批判が寄せられることがある。だが、多くの場合には過去の自己と現在の自己は部分的に心理的結び付きを維持しているし、自己にかかわる利害関心を大部分で共有している上に、社会的な観点からして著しく強い結び付きを有していると見做されている以上、人格の同一性が相対的であることを認めたからといって、責任制度が揺らぐようなことは考えられない。公訴時効の存在は、そのことの証明であるように思われる。


民事にも目を向けてみよう。4月28日に下された最高裁判決の影響を俟つまでも無く、一般に民事の時効と言えば、損害賠償請求権の行使についての除斥期間が言及されることが多い。しかしながら、民法にはこの他に取得時効と消滅時効が定められている*6。民事上の時効の存在理由も大きく分けて3つ考えられる*7。まず、(a)義務者(本来の権利者ではない者)を本来の権利者であると信じて取引した第三者を保護するなど、取引安全の保護および法律関係の安定を図るため。次に、(b)義務者といえどもいつ権利を行使されるか分からないという不安定な状態にいつまでも置かれ続けるべきではないという考えに基づき、義務者の利益を保護するため(「権利の上に眠る者は保護に値しない」)*8。最後に、(c)真の権利者を証明する困難を救済するため。

これら民法上の時効制度の存在理由は、公訴時効における(2)や(3)の理由と共通する部分が大きい。(a)には市民社会内部における私的自治を円滑にするための制度設計として民事法の特有性が認められるが、(b)は一定期間持続した事実状態の尊重という観点において、(c)は訴訟上の問題回避という観点において、それぞれ刑事上の公訴時効の存在理由(3)と(2)に対応する。ただし、一定期間継続した事実状態を理由として本来の権利者と事物との間の結び付きが薄れていくという発想においては、犯罪行為者と犯罪との間の結び付きが薄れるがゆえに公訴の提起が封じられると考える(1)とも共通性がある。

連載第4回で、対象とのより長い接触が権利的水準における優位を生み出すことについて考えた。そこでは権利的優位を生み出す「功績」が問題となったわけだが、他方ここで問題となっている責任とは、いわば「負の功績」である。犯罪者が権利を制限・剥奪され、処罰されるのは、犯罪行為に対する彼の「負の功績」(結び付き・かかわり)が、権利を失い義務を課されるに値する程度に達していると判断されるからである。すると、犯罪行為者と犯罪行為の結び付きが時の経過とともに薄れることを以て、公訴の提起を可能とする期間に制限を設ける刑事上の公訴時効は、民法上の取得時効や消滅時効において、本来の権利者が事物との結び付きが疎遠化した結果として権利を失うことと、相似的に理解できる。


別段私は刑事上の時効と民事上の時効が同じであると主張したいわけではないが、時効という文言に留まらない共通性を持っている以上、公訴時効や除斥期間ばかりを熱心に採り上げるだけではなく、取得時効・消滅時効にももう少し気が払われてもいいのではないか、とは思う。公訴時効の改廃論議では刑法上の刑の時効(有罪確定判決が言い渡された後で刑の執行を受けずに一定期間が経過した場合に刑の執行を免除する制度)との整合性が論じられることはあるが、民事上の時効との整合性はどのように考えられ得るのだろうか。事は単なる「正義の実現」に留まらない、権利の生滅にかかわる問題である。



*1:公訴時効は、犯罪行為終了時点から一定期間内に公訴が提起されないと、その後で被疑者が起訴されても有罪無罪の判断が行われず、免訴判決が言い渡される制度である(井田良『基礎から学ぶ刑事法』第3版(有斐閣、2005年)、222頁。福井厚『刑事訴訟法』第5版(有斐閣、2006年)、216-217頁。上口裕ほか『刑事訴訟法』第4版(有斐閣、2006年)、108-109頁)。

*2:森村進『権利と人格』(創文社、1989年)、第1部第5章。

*3:ただし、実体法説には二通りの解釈が可能なように思える。処罰の必要性が罪への非難に基づいていると解するなら、その論理は人格変容による責任軽減の考え方と結び付いていると言えるが、純粋に社会秩序維持の観点から「処罰の必要性」を解するなら、問題となるのは行為主体ではなく罪と罰の「社会的影響」のみであり、同説を人格の変容と結び付けて考える必然性は無かろう。そして、現今の制度改廃要求の主たる根拠を構成しているのは、前者の純然たる罪への非難(処罰感情)以上に、後者の「社会的影響」の中でもとりわけ被害者遺族等の処罰感情を考慮した「必要性」であるように思われる。そこでは司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性を思わせる。

*4:罰すべき罪の重さと保護すべき犯人の利益の衡量に基づき、それぞれの罪に応じた時効期間が定められている、と考えることはできる。

*5:ただし、実体法説を中心に据える場合、処罰の必要性が無くなるのなら無罪にすべきなのに、なぜ免訴の形式を採るのかとの疑問は残る。

*6:民法上の時効制度は、所有権や債権など一定の財産権について、占有や権利不行使などといった事実状態が一定期間継続した場合に、それが真実の権利状態と一致するか否かを問わず、この事実状態に即して新たな権利関係を形成する制度であり、事実上権利者であるような状態を継続する者に権利を取得させる取得時効と、権利不行使の状態を継続する者の権利を消滅させる消滅時効とがある(山田卓生ほか『民法Ⅰ―総則』第3版(有斐閣、2005年)、200頁。四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版(弘文堂、2005年)328頁)。

*7:山田前掲書、206-207頁。四宮ほか前掲書、328-331頁。

*8:財の効率的利用の観点から事実状態継続の利益を保護すべきとの主張も、ここに接合し得る。


Sunday, May 3, 2009

正しいのはオレだ


例えば音楽で世界を変えようとすることは、愚かなことだろうか。「愛と平和」と叫んで暴力を止めようとすることは、馬鹿げているだろうか。本気で世界を変えようとしている人は馬鹿と呼ばれても別に何も思わないだろうが、実際のところ馬鹿でもなんでもない。確かに、争いの無い世界を皆で想像すれば争いを無くすことができると考えるのは、社会科学的観点からして認められない見解である。けれども、そう考えることは間違いでも、それを実行しようとすることは社会科学と相容れないわけではない。

もちろん、音楽では世界を変えることはできない。そんなことは、いい大人なら誰でも薄々解っていることだ。でも、世の中には歌う人がいる。音楽に限らず、人に世界を変えることは不可能である。それでも、人はそれをしようとする。そして、それは決して愚かな行為ではない。

なぜか。世界を変えることはできないと解っていて、それでもなお変えようとすることが、なぜ愚かではないのか。負けると解っていて戦うのは、ただの馬鹿ではないのか。可能性が0%であると知っていながらする挑戦は、無謀と言うより狂気の沙汰だろう。それなのに、なぜ。

答えは簡単である。可能性が0%であることを証明することは、誰にもできないからだ。世界を変えることができないという「事実」は、厳密に言えば、積み重ねられてきた科学的知見に基づく一つの(最有力な)推論であって、絶対的真理であるわけではない。覆される余地は、常に残されている。世界の中心で「愛と平和」を叫べば、暴力は止むかもしれない。

だから、世界の変えられなさに絶望した後で、なおも世界を変えようとすることは、ちっともナンセンスではない。可能性が全くのゼロであることを予め知ることは誰にもできないから、未知の可能性に賭ける価値はいつも在る。可能性が0%であることに挑戦するのは狂人だが、0.01%の可能性を追究/追求する営みは真摯な努力である。誠実さは、狂気と紙一重なのである。

科学者は、科学をする。科学によれば、どうも世界を変えることはできないらしいことが解っている。私は科学者なので、そのことを言わなければならない。でも、科学者でない人が、科学者なんかの言うことをいちいち気にしてもらっては困る。芸術家は芸術を、芸人は芸を、革命家は革命をするものだ。それぞれがそれぞれのすることで世界を変えようとすることは、科学的に見ても別に間違いではない。科学者である私は、そういうことを言っておこうと思う。


私たちには、できないと解っていても、成し遂げなければいけないことが在る。負けると解っていても、勝たなければならないときが在る。無理でもやってみせるというその意志は、決して揺るがず、他では有り得ない。したがって絶対的である。絶対的な正しさなど無い。絶対的で有り得るのは、自らが正しいと信ずる揺るぎ無き意志だけである。その圧倒的な信念だけが、取り換えのきかない絶対性を持ち得る。

規範的(一般的)正当性など問題ではない。「オレが正しい」と叫んで周囲を黙らせ得るだけの圧倒的な信念だけが、絶対的な「ただしさ」を生む。その内容は重要ではない。規範の内容は相対的でしか在り得ないが、自分は絶対に正しいと信じて疑わないその意志、その瞬間・唯一無二の、その熱量だけは、絶対的なのだ。

絶対の正しさなど無いのだから、他を圧倒できた者が正しい。「オレが正しい」と誰よりも強く信じた者が、正しいのである。意志の「ただしさ」は、客観的な正当性を約束された正しさではない。そんな脆弱な「答え合わせ」ではないのだ。それは自らの全存在を賭けた「正解の創出」なのだから。


相対主義を拒否する人々は、絶対に正しい「模範解答」が在ると仮定していなければ、自分が信じようとする信念の正しさを信じ尽くすことができない程度の意志しか持ち合わせていない。それが唯一絶対の存在であるということにしておかなければ、自らが信じる神の教えの正しさを信じ切ることのできない程度の人間である。相対主義が忌み嫌われるのは、それが彼らの弱き意志を隠すためのハリボテを蹴り倒してしまうからにほかならない。

しかし、本当に自らの信念の正しさを信じるなら、この世に絶対的な正しさなるものが存在するかどうかは、カンケー無い。絶対に正しいことなど無くとも、自分が正しいと思うことは正しいのだと、そう信じるなら、それが絶対の正しさなのだ。揺るがない正しさは、その場に立てればいい。自分自身の中に、今・此処に立てろ。オレの言うことは正しい。オレのすることは正しい。絶対に、正しい。そう信じる意志こそが・それだけが、絶対である。

もちろん、人は間違うことも在る。そのときは謝ればいい。学び、修正して、やり直せばいい。そして、ちょっと間違えたけど、やっぱりオレは正しい、と言えばいい。意志の絶対性は、そんなことでは傷付かない。存在は取り換えがきかないが、中身は取り換えがきく。守るべきは存在そのものの絶対性であり、無謬性ではない。後にも先にも唯一無二である今・この瞬間の私の意志は、たとえ世界が滅ぼうとも、たとえ世界を滅ぼそうとも、絶対に「ただしい」。そして正しい・と私は信じる。


だから。だから、予め決まっている「模範解答」が存在するという想定の下に、そのゴールに向かって世界を動かしていこうとする態度を、私たちは徹底して拒否しなければならない(と私は信じる)。それが予め知られている目的地に向かって計画的な善導を行おうとする設計主義/パターナリズムであるか、人為的な介入など行わなくても自発的・創発的な秩序形成によって理想状態の実現は可能であるとするリバタリアニズムであるか、向かうべきゴールの具体的な姿は明らかでなくてもひとまずそれを措定しておくことによって現実を一定の方向に改善していくことができると考える否定神学であるかは、問題ではない。それらは全て、個の意志よりも全体の調和を重んじ、そのために神を必要としている。個の意志を抑え込むために、約束された正しさを前提し、非政治的な砦にすがりついている。

そんな態度は間違っている(と私は信じる)。だって、約束された正しさなど存在しないのだから。少なくとも個のためには、政治から逃げてはならない。自らが欲することを実現するためには、政治を闘わなければならない。意志の貫徹は、他者の意志との闘争を通じてしか成し遂げることができない。その舞台を用意するのが、民主政の役割である。だから、互いの正しさをぶつけ合う民主的討議は、工学的な社会設計にも創発的な秩序形成にも優越する。そこには、自己決定を為そうとする意志が溢れるからである。そこには予め決まった正解は無く、その度に創出されるほかないからである。

意志する者は、意志せぬ者を圧倒する。何を意志するかは自由だが、ひとたび立てられた意志は、絶対的である。それを嘲笑うにしても、へし折るにしても、必要とされる賭け金は少なくない。誰かの意志の前に立つなら、それだけの覚悟を用意せねばなるまい。




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