Sunday, May 10, 2009

かかわりあいの政治学6――時効はなぜあるのか


承前


近年、刑事上の公訴時効制度について、その存在理由を疑問視する声が高まってきている。同制度については、犯罪被害者遺族の感情への配慮や捜査技術の発達などを背景として、2004年に公訴時効期間を延長する内容の法改正が行われたばかりである。それにもかかわらず、法務省は2009年1月から「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方に関する省内勉強会」を設置し、制度の更なる改廃についての検討を始めている。5月3日には、公訴時効の廃止を求める「殺人事件被害者遺族の会(宙(そら)の会)」が初の全国大会を開催し、時効制度の廃止、進行中の時効の停止、時効成立後の遺族への国家賠償などを訴えている。

かように加速度的な状況の展開は目を見張るものがあるけれども、ここでは時事的な事柄について直接考えることはしない。そもそも時効なるものが、なぜ存在しているのかについてだけ、考えることにしよう。


法理論上、公訴時効制度を支えているのは、大きく分けて次の3つの根拠である*1。(1)時間の経過とともに犯罪の社会的影響力が失われ、犯人を処罰する必要性が消滅する(実体法説)。(2)時間の経過とともに証拠が散逸し、事件の解明が困難になる(訴訟法説)。(3)一定の期間起訴されなかったという事実状態を尊重し、その間に犯人が構築した社会生活上の諸利益を保護するべきである(新訴訟法説)。

本連載の第2回では、人格の同一性が相対的であるとの主張に少し触れた。D.パーフィットの議論を整理・敷衍している森村進が唱える「人格の同一性の程度説」によれば*2、人格の同一性は――記憶・欲求・信念・性格・意図などの――心理的状態の結び付きが弱まるにつれて小さくなるものであり、たとえ「同一人物」であっても、現在の人格と遠く離れた時点の人格とはある程度まで異なっており、その限りで別人格である。したがって、過去の行為に対する功績および責任の程度は、行為時の人格との心理的結び付きが密接な程大きく、希薄になる程小さくなると考えられる。現に、遠い過去の行為については責任が軽減されてしかるべきであるという発想――「昔の話だろ」「もう時効ということで」――は私たちの多くが共有しているし、公訴時効制度の根拠にも採り入れられているように思える。

3つの根拠の内で、時間の経過による人格の変容に伴って行為に対する責任も軽減されるとの発想と共通点を持つのは(1)である*3。(2)の理由だけでは証拠が存在すれば時効を認めなくてもよいことになるし、そこに(3)の理由を加えても、法定刑の軽重によって時効期間を区別している理由を十分には説明できない*4。それゆえ、刑事上の公訴時効の存在理由として(1)を外すことはできないだろう。つまり、時の経過とともに犯罪行為時点での犯人と現時点での犯人との同一性が失われていく、あるいは犯罪行為と犯人との「かかわり」が薄らいでいくとの認識に基づいて罪に対する罰を免ずることが、公訴時効制度の主要な要素なのである*5

パーフィット=森村的な主張に対しては、そのように考えるならば過去の行為の責任を問うことが不可能になってしまうとの批判が寄せられることがある。だが、多くの場合には過去の自己と現在の自己は部分的に心理的結び付きを維持しているし、自己にかかわる利害関心を大部分で共有している上に、社会的な観点からして著しく強い結び付きを有していると見做されている以上、人格の同一性が相対的であることを認めたからといって、責任制度が揺らぐようなことは考えられない。公訴時効の存在は、そのことの証明であるように思われる。


民事にも目を向けてみよう。4月28日に下された最高裁判決の影響を俟つまでも無く、一般に民事の時効と言えば、損害賠償請求権の行使についての除斥期間が言及されることが多い。しかしながら、民法にはこの他に取得時効と消滅時効が定められている*6。民事上の時効の存在理由も大きく分けて3つ考えられる*7。まず、(a)義務者(本来の権利者ではない者)を本来の権利者であると信じて取引した第三者を保護するなど、取引安全の保護および法律関係の安定を図るため。次に、(b)義務者といえどもいつ権利を行使されるか分からないという不安定な状態にいつまでも置かれ続けるべきではないという考えに基づき、義務者の利益を保護するため(「権利の上に眠る者は保護に値しない」)*8。最後に、(c)真の権利者を証明する困難を救済するため。

これら民法上の時効制度の存在理由は、公訴時効における(2)や(3)の理由と共通する部分が大きい。(a)には市民社会内部における私的自治を円滑にするための制度設計として民事法の特有性が認められるが、(b)は一定期間持続した事実状態の尊重という観点において、(c)は訴訟上の問題回避という観点において、それぞれ刑事上の公訴時効の存在理由(3)と(2)に対応する。ただし、一定期間継続した事実状態を理由として本来の権利者と事物との間の結び付きが薄れていくという発想においては、犯罪行為者と犯罪との間の結び付きが薄れるがゆえに公訴の提起が封じられると考える(1)とも共通性がある。

連載第4回で、対象とのより長い接触が権利的水準における優位を生み出すことについて考えた。そこでは権利的優位を生み出す「功績」が問題となったわけだが、他方ここで問題となっている責任とは、いわば「負の功績」である。犯罪者が権利を制限・剥奪され、処罰されるのは、犯罪行為に対する彼の「負の功績」(結び付き・かかわり)が、権利を失い義務を課されるに値する程度に達していると判断されるからである。すると、犯罪行為者と犯罪行為の結び付きが時の経過とともに薄れることを以て、公訴の提起を可能とする期間に制限を設ける刑事上の公訴時効は、民法上の取得時効や消滅時効において、本来の権利者が事物との結び付きが疎遠化した結果として権利を失うことと、相似的に理解できる。


別段私は刑事上の時効と民事上の時効が同じであると主張したいわけではないが、時効という文言に留まらない共通性を持っている以上、公訴時効や除斥期間ばかりを熱心に採り上げるだけではなく、取得時効・消滅時効にももう少し気が払われてもいいのではないか、とは思う。公訴時効の改廃論議では刑法上の刑の時効(有罪確定判決が言い渡された後で刑の執行を受けずに一定期間が経過した場合に刑の執行を免除する制度)との整合性が論じられることはあるが、民事上の時効との整合性はどのように考えられ得るのだろうか。事は単なる「正義の実現」に留まらない、権利の生滅にかかわる問題である。



*1:公訴時効は、犯罪行為終了時点から一定期間内に公訴が提起されないと、その後で被疑者が起訴されても有罪無罪の判断が行われず、免訴判決が言い渡される制度である(井田良『基礎から学ぶ刑事法』第3版(有斐閣、2005年)、222頁。福井厚『刑事訴訟法』第5版(有斐閣、2006年)、216-217頁。上口裕ほか『刑事訴訟法』第4版(有斐閣、2006年)、108-109頁)。

*2:森村進『権利と人格』(創文社、1989年)、第1部第5章。

*3:ただし、実体法説には二通りの解釈が可能なように思える。処罰の必要性が罪への非難に基づいていると解するなら、その論理は人格変容による責任軽減の考え方と結び付いていると言えるが、純粋に社会秩序維持の観点から「処罰の必要性」を解するなら、問題となるのは行為主体ではなく罪と罰の「社会的影響」のみであり、同説を人格の変容と結び付けて考える必然性は無かろう。そして、現今の制度改廃要求の主たる根拠を構成しているのは、前者の純然たる罪への非難(処罰感情)以上に、後者の「社会的影響」の中でもとりわけ被害者遺族等の処罰感情を考慮した「必要性」であるように思われる。そこでは司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性を思わせる。

*4:罰すべき罪の重さと保護すべき犯人の利益の衡量に基づき、それぞれの罪に応じた時効期間が定められている、と考えることはできる。

*5:ただし、実体法説を中心に据える場合、処罰の必要性が無くなるのなら無罪にすべきなのに、なぜ免訴の形式を採るのかとの疑問は残る。

*6:民法上の時効制度は、所有権や債権など一定の財産権について、占有や権利不行使などといった事実状態が一定期間継続した場合に、それが真実の権利状態と一致するか否かを問わず、この事実状態に即して新たな権利関係を形成する制度であり、事実上権利者であるような状態を継続する者に権利を取得させる取得時効と、権利不行使の状態を継続する者の権利を消滅させる消滅時効とがある(山田卓生ほか『民法Ⅰ―総則』第3版(有斐閣、2005年)、200頁。四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版(弘文堂、2005年)328頁)。

*7:山田前掲書、206-207頁。四宮ほか前掲書、328-331頁。

*8:財の効率的利用の観点から事実状態継続の利益を保護すべきとの主張も、ここに接合し得る。


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