Sunday, May 17, 2009

かかわりあいの政治学7――相続はなぜ認められるのか


承前


相続はなぜ認められるのだろうか。ある人の連れ合いや子どもであることが、その人の死後に財産を無条件で譲り受ける権利を発生させるのは、なぜなのだろうか。相続については、相続税をもっと引き上げて――場合によっては100%にして――所得再分配に活用するべきだという意見がある一方、むしろ引き下げて――場合によっては廃止して――自由な経済活動を促進させるべきだという意見もあり、面白い論点が提供されているが、そもそも相続制度とは何であるのかを突き詰めて考えた議論はあまり多くない。相続財産に課税が許されるのはなぜかという疑問を呈することも可能ではあるが、そもそも課税には根拠など無いので、それは有意義な疑問とは言えない。むしろ、所有権者が死亡した後に、彼の財産が無主物や共有物にならずに、自動的に特定人物へと承継される制度の根拠を問うた方がいい。


教科書的な定義を持ち出すなら、相続とは「自然人の財産法上の地位(または権利義務)を、その者の死後に、法律および死亡者の最終意思の効果として、特定の物に承継させること」をいい、特に「法律の規定に基づいて、当事者(被相続人と相続人)の知・不知にかかわらず効力を生じる」ものを「法定相続」と呼ぶ*1。契約による贈与や譲渡、遺言による相続などの法律行為は元の権利者の法的権利に基づくが、法定相続による相続人の権利取得は、死亡者の血族ないし配偶者であることのみを理由とする。このような純粋な身分関係に基づく権利取得が、相続制度の特徴である。別の教科書には、次のような記述がある。

 相続の概念を定義することは大変難しい。多くの法学文献は、相続は私的所有権とともに発生し確立したと説く。しかし、封建時代の家禄のように、譲渡は許されずに世襲されるものがあるし、社会人類学者によれば、私有財産の存在を考える余地のない未開社会にも、一定の土地のなかで生活資料を採取する集団の成員権の世代的承継準則が存在する。譲渡の自由のないところに私的所有権を認めることはできないが、これらの非譲渡的権利ないし排他的利益が一定の準則に基づいて承継されるとき、これを相続とみることはできないであろうか。これらの準則は、英語のinheritance(財産相続)という観念からは外れる。しかしsuccession(継承)の観念には十分に合致するし、前者は後者の一型にすぎない。歴史的に、または通文化的に相続の概念を定義しようとするなら、前者にではなく、後者に即して考える必要がある。かくして、多くの人類社会で社会的に承認されてきた権利の世代的承継の準則についていえば、そこに共通するのは、この準則が各社会の親族制度に従っているという一点である。この共通項に、各社会は、その歴史や文化の特性を投影した変化を加味する。資本制社会を前提とするわれわれの近代国家の相続法には、私的所有権の影響が濃く現れている。しかしなお、その中心には、社会の親族制度に従った権利の承継の準則が確固として存在する。


[佐藤義彦ほか『民法Ⅴ――親族・相続』第3版(有斐閣(有斐閣Sシリーズ)、2005年)、119-120頁(伊藤昌司執筆)]

この見解を念頭に置きながら、相続の根拠について簡単に検討してみよう。相続の存在を説明する第一の見解は、被相続人が持つ所有権に基づく自由の帰結であるとする「意思説」である。同説は所有権の自由から遺言権を演繹し、法定相続権は死者の意思の推測に基づくと考える。しかし、遺言の発効時には遺言者は所有権の主体ではなくなっているから、所有権から遺言権を演繹することはできないはずではないか*2。この重大な疑義から、意思説は相続制度の根拠とするには足らない。法哲学者の中には、意思説の否定によって相続税の100%化――相続の否認――を正当化する主張すらある程である*3


そこで被相続人の意思に代わって相続制度の主たる根拠を構成するとされるのが、(1)遺族の生活保障、 (2)被相続人の財産形成に寄与していた相続人の潜在的持分の実現、(3)経済活動の承継による取引安全の保護、の3つである*4

この内、(1)は婚姻や血縁の関係にある近親者の生活を安定させる意味を持つが(扶養説)、これは相続制度の機能や政策目的では在り得ても、根拠とは言い難い。遺族の生活保障が必要であるとしても、その目的に被相続人の財産が用いられなければならない必然的な理由があるわけではない。あるいは、経済的に自活が可能である遺族に対しては相続を行うべき理由が乏しいことになる、との疑義も呈し得る。

また、(2)は相続人が何らかの形で被相続人の財産形成に寄与していたとの前提に基づき、その潜在的な持分を具体化して実現する意味を持つ。しかしながら、財産形成への寄与の程度によって相続が左右されると考えるのならば、配偶者や血縁者以外にも――お世話になったあの人にもこの人にも――相続の範囲が拡大されるべきであるとの主張に対抗することは困難になるだろう。個々の権利主体に対する社会の潜在的持分が考慮されてよいなら、婚姻や血縁は相続権の必然的条件ではなくなる。

(3)は、財産をめぐる争奪を防止して平和的な遺産分割を図ったり、経済活動の基礎となる財産が承継されうる範囲を定めておくことによって社会内部の取引関係を安定化させたりする意味を持つ(公益説)。社会一般の利益を根拠として提示することになるため、総体的な説明に便利ではあるが、地位身分を含めた承継制度一般を説明できるわけではない(身分・階級・氏姓はなぜ継承されるのだろうか?)。


どうも、これら解釈法学的に提示される根拠に基づくだけでは、相続の本質に迫れる気がしない。より反省的な観点から議論のフレームワークを整え直してみることが必要だろう。そこで先の引用も考え合わせながら頭をひねらせてみると、相続制度には私的所有権制度に規定されている部分と親族制度に規定されている部分の両面があるということが、おそらく言える。遺言や法定に基づくことによって一定の随意性を伴う財産相続inheritanceに対して、非随意的に行われる身分・階級・氏姓などの継承succession(世襲)は、当該社会が拠って立つ親族制度に依存して成り立っていると思われる。

この前提に立って相続制度の根拠とされる見解について考え直してみる。すると、扶養説は近親者の経済的紐帯を保護することで、家族的結合を物質的に下支えする役割を担っていることが解る。すなわち扶養説は、相続制度が果たしている社会内の親族秩序を維持・再生産する機能への間接的言及を通じて、相続の一面を明らかにしているのである。同様に公益説は、財産争奪の防止による公安秩序の維持や、取引関係の安定化による私有権制度に基づく市場経済秩序の保護などの機能に言及していると解釈できる。

以上から論を結してみるなら、相続一般にとって必然であるのは何らかの秩序の維持であり、維持される対象(目的)は必然に「これ」と決まっているわけではない、と言える。このように考えると、身分や階級の継承も統合的に理解できる。奴隷の子が自動的に奴隷とされるのは、奴隷制度を保全するためにほかならない。継承にとって、最大の目的は継承の対象となる事物(財産・身分・階級・氏姓その他)の安定であり、その事物が組み込まれている制度や秩序の安定である。したがって、相続は自然的根拠を持つわけではなく、親族秩序の維持・再生産ないし私有権秩序の安定、その他公益一般の実現を目的として政策的に構成される社会制度であり、それゆえに社会状況の変化に応じて柔軟に改変されるのが当然である。

実際、現下のように家族の個人化が進行する社会状況においては、遺族の生活保障機能は相続を介した親族秩序内部での実現が目指されるよりも、社会全体に委譲されるべき機能であろう。財産形成への貢献度に基づく相続を真剣に考慮するなら、遺産はむしろ近親者の範囲を超えて承継されるべきである。純粋な公益説的見地からは、制度が一定の安定性を持てばよいのであって、現行の相続の在り方に固執する理由は存在しない*5。かくのごとき現状は、理論的帰結において相続制度が現行の在り方に留まるべき理由を乏しくさせているように思える。それでも現行の相続制度が保持され続ける――旧来の親族秩序への固執が続く――のだとすれば、それは社会が守ろうとする秩序に対して、それだけ大きな利害関心が抱かれているということであり、私はそのように(様々な「かかわり」に基づいて)有り得る幾つもの秩序の中から特定の秩序が選ばれるメカニズムに関心がある。


*1:遠藤浩ほか編『民法(9)相続』第4版増補補訂版(有斐閣、2005年)、1、3頁(稻本洋之助執筆)。

*2:派生的に、遺言はなぜ拘束するのかという問いも、考える価値がある。遺言が効力を発するのは権利の主体が死亡した後であるが、人は死亡すれば権利を失うはずであり、所有物の帰属について決定する権利も失われるはずではないのか。この点について私は、「人は死亡すれば権利を失う」と一般的に前提することが誤りなのだと考えている。人が死によって権利主体でなくなることには、何一つ自明な根拠は無い(他方、死者に法的人格を認めることには法理論上の問題は存在しない)。現実の私たちの営みを顧みるなら、死者は生きている人々の利益のために権利を剥奪されるのだと言うべきである。そしてそれゆえに、例えば遺言のように、社会一般の利益と合致する一部の場合に限って、死後一定の期間、権利が残されることになっている。そう考えた方が、より実態に沿った説明が可能になる(詳しくは、 『利害関係理論の基礎』、注478、を参照)。

*3森村進「リバタリアンな相続税」(『一橋法学』第6巻第3号、2007年11月)、森村進「リバタリアンな相続税の提案」森村進編『リバタリアニズムの多面体』(勁草書房、2009年)。

*4:遠藤ほか前掲書、16-18頁。

*5:具体的な制度について構想することは本連載の趣旨から離れるので避けるが、その手前の議論について一言しておく。森村進のような例外を除く一般的なリバタリアンは、意思説に基づいて相続税は私的所有権の侵害であると見做す傾向がある。しかしながら、前述のように意思説は破綻している。一般に死者は権利を持たないと考えられているにもかかわらず例外的に遺言の権利が認められているのは、私有財産制度を守るためにそうした方が好都合であるからに過ぎない。それは相続の根拠ではなく、私有権秩序と結び付いた相続制度を保持するために構築された事後的論理に過ぎない。したがって、相続財産への課税を私的所有権の制限や侵害と捉えるのは、私的所有権と財産相続に先行的結合関係を認めてしまう点で錯誤である。社会は死者から権利を剥奪しているという私見に基づくと、被相続人の財産は彼が死亡した時点で宙吊りになっているはずであり、そこに遺言の自由をどこまで認めるか、法定相続制度をどう構成するか、課税・接収をどう定めるかは、政策的考慮として完全に同水準にある。すなわち相続税を課すことについて問題とすべきことは、私的所有権侵害の是非であるよりも、死者からの権利一般の剥奪の是非でなければならない。これを一旦是としたなら、あとは権利剥奪を正当化する政策目的の問題であり、既に権利侵害を云々する議論水準には無い。よって、相続税を100%にすることに規範上の障害は無い。なお検討すべき課題は、相続税率引き上げによる帰結の是非である。こちらの検討は、私の手には余る。


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