Sunday, May 3, 2009

正しいのはオレだ


例えば音楽で世界を変えようとすることは、愚かなことだろうか。「愛と平和」と叫んで暴力を止めようとすることは、馬鹿げているだろうか。本気で世界を変えようとしている人は馬鹿と呼ばれても別に何も思わないだろうが、実際のところ馬鹿でもなんでもない。確かに、争いの無い世界を皆で想像すれば争いを無くすことができると考えるのは、社会科学的観点からして認められない見解である。けれども、そう考えることは間違いでも、それを実行しようとすることは社会科学と相容れないわけではない。

もちろん、音楽では世界を変えることはできない。そんなことは、いい大人なら誰でも薄々解っていることだ。でも、世の中には歌う人がいる。音楽に限らず、人に世界を変えることは不可能である。それでも、人はそれをしようとする。そして、それは決して愚かな行為ではない。

なぜか。世界を変えることはできないと解っていて、それでもなお変えようとすることが、なぜ愚かではないのか。負けると解っていて戦うのは、ただの馬鹿ではないのか。可能性が0%であると知っていながらする挑戦は、無謀と言うより狂気の沙汰だろう。それなのに、なぜ。

答えは簡単である。可能性が0%であることを証明することは、誰にもできないからだ。世界を変えることができないという「事実」は、厳密に言えば、積み重ねられてきた科学的知見に基づく一つの(最有力な)推論であって、絶対的真理であるわけではない。覆される余地は、常に残されている。世界の中心で「愛と平和」を叫べば、暴力は止むかもしれない。

だから、世界の変えられなさに絶望した後で、なおも世界を変えようとすることは、ちっともナンセンスではない。可能性が全くのゼロであることを予め知ることは誰にもできないから、未知の可能性に賭ける価値はいつも在る。可能性が0%であることに挑戦するのは狂人だが、0.01%の可能性を追究/追求する営みは真摯な努力である。誠実さは、狂気と紙一重なのである。

科学者は、科学をする。科学によれば、どうも世界を変えることはできないらしいことが解っている。私は科学者なので、そのことを言わなければならない。でも、科学者でない人が、科学者なんかの言うことをいちいち気にしてもらっては困る。芸術家は芸術を、芸人は芸を、革命家は革命をするものだ。それぞれがそれぞれのすることで世界を変えようとすることは、科学的に見ても別に間違いではない。科学者である私は、そういうことを言っておこうと思う。


私たちには、できないと解っていても、成し遂げなければいけないことが在る。負けると解っていても、勝たなければならないときが在る。無理でもやってみせるというその意志は、決して揺るがず、他では有り得ない。したがって絶対的である。絶対的な正しさなど無い。絶対的で有り得るのは、自らが正しいと信ずる揺るぎ無き意志だけである。その圧倒的な信念だけが、取り換えのきかない絶対性を持ち得る。

規範的(一般的)正当性など問題ではない。「オレが正しい」と叫んで周囲を黙らせ得るだけの圧倒的な信念だけが、絶対的な「ただしさ」を生む。その内容は重要ではない。規範の内容は相対的でしか在り得ないが、自分は絶対に正しいと信じて疑わないその意志、その瞬間・唯一無二の、その熱量だけは、絶対的なのだ。

絶対の正しさなど無いのだから、他を圧倒できた者が正しい。「オレが正しい」と誰よりも強く信じた者が、正しいのである。意志の「ただしさ」は、客観的な正当性を約束された正しさではない。そんな脆弱な「答え合わせ」ではないのだ。それは自らの全存在を賭けた「正解の創出」なのだから。


相対主義を拒否する人々は、絶対に正しい「模範解答」が在ると仮定していなければ、自分が信じようとする信念の正しさを信じ尽くすことができない程度の意志しか持ち合わせていない。それが唯一絶対の存在であるということにしておかなければ、自らが信じる神の教えの正しさを信じ切ることのできない程度の人間である。相対主義が忌み嫌われるのは、それが彼らの弱き意志を隠すためのハリボテを蹴り倒してしまうからにほかならない。

しかし、本当に自らの信念の正しさを信じるなら、この世に絶対的な正しさなるものが存在するかどうかは、カンケー無い。絶対に正しいことなど無くとも、自分が正しいと思うことは正しいのだと、そう信じるなら、それが絶対の正しさなのだ。揺るがない正しさは、その場に立てればいい。自分自身の中に、今・此処に立てろ。オレの言うことは正しい。オレのすることは正しい。絶対に、正しい。そう信じる意志こそが・それだけが、絶対である。

もちろん、人は間違うことも在る。そのときは謝ればいい。学び、修正して、やり直せばいい。そして、ちょっと間違えたけど、やっぱりオレは正しい、と言えばいい。意志の絶対性は、そんなことでは傷付かない。存在は取り換えがきかないが、中身は取り換えがきく。守るべきは存在そのものの絶対性であり、無謬性ではない。後にも先にも唯一無二である今・この瞬間の私の意志は、たとえ世界が滅ぼうとも、たとえ世界を滅ぼそうとも、絶対に「ただしい」。そして正しい・と私は信じる。


だから。だから、予め決まっている「模範解答」が存在するという想定の下に、そのゴールに向かって世界を動かしていこうとする態度を、私たちは徹底して拒否しなければならない(と私は信じる)。それが予め知られている目的地に向かって計画的な善導を行おうとする設計主義/パターナリズムであるか、人為的な介入など行わなくても自発的・創発的な秩序形成によって理想状態の実現は可能であるとするリバタリアニズムであるか、向かうべきゴールの具体的な姿は明らかでなくてもひとまずそれを措定しておくことによって現実を一定の方向に改善していくことができると考える否定神学であるかは、問題ではない。それらは全て、個の意志よりも全体の調和を重んじ、そのために神を必要としている。個の意志を抑え込むために、約束された正しさを前提し、非政治的な砦にすがりついている。

そんな態度は間違っている(と私は信じる)。だって、約束された正しさなど存在しないのだから。少なくとも個のためには、政治から逃げてはならない。自らが欲することを実現するためには、政治を闘わなければならない。意志の貫徹は、他者の意志との闘争を通じてしか成し遂げることができない。その舞台を用意するのが、民主政の役割である。だから、互いの正しさをぶつけ合う民主的討議は、工学的な社会設計にも創発的な秩序形成にも優越する。そこには、自己決定を為そうとする意志が溢れるからである。そこには予め決まった正解は無く、その度に創出されるほかないからである。

意志する者は、意志せぬ者を圧倒する。何を意志するかは自由だが、ひとたび立てられた意志は、絶対的である。それを嘲笑うにしても、へし折るにしても、必要とされる賭け金は少なくない。誰かの意志の前に立つなら、それだけの覚悟を用意せねばなるまい。




No comments:

Post a Comment

Share