Tuesday, October 27, 2009

「一般意思2.0」の勘所、あるいは「データベース民主主義」の理論的位置


私の論文などに興味がある人はごく少数でしょうから、ブログマターに戻って先日の話を続けましょう。

デモクラシーについての私の理論的立場は既にお話したので、今回は東的デモクラシー論が持つ可能的意味にグッと焦点を絞りたいと思います。東さんは「朝生」終了後から、ご自身のツイッターで自らが構想する新たなデモクラシー像について断続的に説明していらっしゃいます。その中で、「データベース民主主義」こそ自分が意図するところだと語っておられる。ほとんど鈴木謙介さんの言う「数学的民主主義」の言い換えですが*1、私の考えでは、これは同時に「データベース全体主義」とも言い換えられます。

早とちりしないで下さい。全体主義だから悪いと言いたいのではありません。現代社会では「良い全体主義」が可能になっているのではないか(それに抵抗すべきか否か)、といった議論は、社会思想分野におけるトレンドになりつつあります*2。全体主義でも構わないとするのも、今やそれほど無茶な立論ではないのです。東さんが自分で民主主義を名乗るか全体主義を名乗るかは、重要ではありません。紛れも無く民主主義でありながら同時に全体主義でもあるという体制は、解釈次第では可能です。


民主主義とは何を意味するかを基礎から捉え直すためには、まずこちらの講義を読んで下さい。以下、そこで述べられていることへの理解を前提として議論を進めます。注目して頂きたいのは、末尾近くにある、「実質的自己決定」の実現による「もう一つの民主主義」について述べている箇所です*3。対応する詳細な理路は論文で展開して見せましたので、引用します。


 注意すべきなのは、民主政と多数決が必然的に結び付くとはいえ、両者は形式上相互に独立であるという理論的事実である。デモクラシーにとっての尖鋭な問題は、この隙間に潜む。集合的問題に対する統一的決定を形成する役割を担う民主政は、人民の内部に意見の相違が見られる場合には多数決を断行することに必然的理由を提供できるが、意見の相違が「見られない」場合や、特殊意思そのものが表明されない場合には、敢えて差異を露わにすべく議論を促す内在的理由を持たない。

 一般意思が人民にとって「私の意思」であると言うのならば、人民主権において重要なのは、一般意思を形成する手続きや主権者意思の執行を担う主体であるよりも、現実に一般意思が「私の意思」と一致しているか否かのはずである。言い換えるならば、「意思形成にどれだけ参加できるか」という形式上の問題よりも、「私の意思がどれだけ正しく代表されているか」とか「一般意思は私の利益とどれだけ合致しているのか」などの実感の問題の方が、人民主権の本質を体現しているのではないか――少なくともそう解釈することは不可能ではない。たとえ制度上の政治参加が困難であり、自己決定への意思を表に出すことはできなくとも、一般意思が自分の意思と一致しており、統治が自らの選好を体現するように行われている限り、自己決定の達成感や自己実現の感覚――積極的自由――を享受することはできる。

 いわば「実質的自己決定」――自己決定を為すまでもなき自己決定の実現――とでも言うべきトンネルを通じて「国家による自由」を生み出すこの理路は、規範的是非はともかく、有り得る一つのデモクラシー解釈である。それは現に、理論的領域ではC.シュミットが展開した立場と部分的に重なりを持つし、歴史的には多くの君主制国家や独裁国家、社会主義国家などで体現されてきた思想と共通する。拍手喝采政治や前衛政治を執る国家が民主的であることを標榜するとしても、それを僭称や偽装と即断することはできない。そこにはデモクラシー観の相違が横たわっていると考えるべきなのであり、少なくとも当該国家の体制内部では、その体制が民主的であると真に信じられる余地は十分に存在するのである。


(「自由の終焉――「配慮」による内破と「自己性」への転回――」、14-15頁。注は略)



どうでしょうか。民主主義かつ全体主義であることは可能だ、と申し上げた意味が、おおよそ見当付いたのではないでしょうか。

自己決定とは自分が望む内容の決定を為すことなので、決定過程への参加にかかわらず、決定内容が自分の望みに合致していれば、実質的に自己決定が実現したものと見做すことができます。政体としての「民主政」と区別される価値理念としての「民主主義」は、できるだけ多くの自己決定の実現を追求価値と考えますが、手段は問うていません。それゆえ、「みんな」の望みがかなうなら、討論はおろか投票さえ、それを行う必然性は失われるのです。

もうお気付きでしょう。「データベース民主主義」が提起しているのは、これまで「拍手・喝采」を介して行われてきたことが、今ではグーグルその他のテクノロジーを介してもっと精緻な仕方でできますよ、ということなのです。

繰り返しますが、だからけしからんという言い方は、私はしません。それどころか、理論的観点からすれば、ここには大した変化はありません。

先日の議論を思い出して下さい。抽象的な集合体でしかない「国民」は、(「自治」や「代理」ではなく)「代表」されるしかないと言いました。これを「国民代表」と呼びますが、その範囲には裁判官などの官僚も含まれます。彼らも部分ではない国民全体の利益に尽くす義務があるからです。この具体例から理解できるように、実のところ、国民代表の地位は選挙とは無関係です*4。これは知っておくべき理論的事実だと思います。要するに王様だろうが独裁者だろうが、理論的には「国民」を代表しているはずなのです。逆に言えば、日本が世界に誇っている代議民主政と独裁制の違いなど、理屈上はさほど大きなものとは言えないということになります。

同様に、国民代表の中身が政治家から機械的なシステムに代わっても、理論的な意味が変わるわけではありません。民主主義が民主主義であるために最も重要なのは、「代表」する者が人々の自己決定を実現してくれるか、「われわれ」の利益が現に達成されるかということであり、実現・達成の範囲が拡大するほど、民主主義的には好評価が与えられることになります。したがって、何らかのデータベースやプログラムによって構成されたシステム――私はこれらを前掲の論文で<それIt>と呼びました――の自動的な働きが「われわれ」の実質的自己決定を「できるだけ多く」可能にしてくれるのであれば、それはデータベースを「代表」とする民主主義が機能しているのだと見做してよいでしょう*5


さて、前回は東的デモクラシー論が「代表」に敵対的であると解した上で、「代表」の不可避性を説いてみたわけです。しかしながら、今回お話ししてきたように、捉え方次第では、東さんの構想はむしろ「代表」の中身を刷新するものなのだ、と解することもできます。「朝生」での発言に限定されない前後の文脈からすれば、こちらの方がより適切でしょう*6。と言うのも、彼はいつでも討論など積極的な政治参加には一顧だにしておらず、「自治」や「代理」が重視されていると判断する材料は乏しいからです。言及されるのは常に、機械的に作動する何らかのプログラムのみです。東さんの考えでは、「自治」ないし「代理」が不可能な政治的無能力者の利害も、システムが自動的に計算に入れ、調整してくれるはずだと期待されることになるのでしょう。

とどのつまり、構想の途にある「データベース民主主義」、ひいては「一般意思2.0」の要点は、代表/代理の原理がどうとか、直接/間接の民主政が云々といった議論とは、かなり隔たったところに在るのだと理解すべきです。それは、はじめからそうなのです。ネットによる直接民主政の可能性を検討したり、衆愚への傾きを指摘したりすることは、それ自体としては重要かもしれませんが、こと当該の文脈においては、完全にピントを外したものです。議論の勘所は、テクノロジーの発達によって可能になるかもしれない、新たな形での「民主政抜きの民主主義≒全体主義」――そこでは私たちはほとんど何もしなくても望むものを手に入れられます――を許容できるかどうか(それを否定すべき理由は存在するのか)、そちらの方に在ります。

この辺り、詳しくは前掲の私の論文を読んで下さい(昨日紹介したものです)。「データベース民主主義≒全体主義」の実現可能性については、私には判断することができません。理論的な評価・賛否については、これまでの記事に書いてきました。ご本人に語る場があるのにもかかわらず、第三者がこのような「解説」を施すことは本来控えるべきかもしれませんが、東さんのデモクラシー論に対して政治学的な観点から言及している人は少ないように思えるので、私が用意できる限りの政治学的ツールを使って議論を立てさせて頂きました。多少なりとも参考にして頂ければ幸いですが、あとはご本人のまとまった著述を楽しみに待つことにしましょう。


*1
*2:以下などを参照して下さい。


*3:そこで使われている「人民」の語は、前回話した「国民」と互換的な意味で使われていると理解して下さい。

*4:杉原泰雄『国民主権の研究』(岩波書店、1971年)、308-311頁。

*5:<それ>を「代表」と見做すことが実際に可能か、そうした「国民代表」を前提にした国民統合が可能かどうかは別の問題としてありますが、ここでは問いません。東さん自身は、人々が<それ>を「代表」と見做したり、あるいは意識したりする必要さえ無いと考えておられると思います。

*6:どちらにしても政治学的な民主主義モデルへの再解釈・再構成を経た理解になるわけですが。


Saturday, October 24, 2009

ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解


私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5~10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。

過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日本社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で多面的な観点から現代社会を分析した結果、東さんのポストモダン論が概ね支持し得るものであるとの確かな感触を得ています。

他方で賛成し難いのは、彼がいわゆる「選好集計モデル」、つまり各々のメンバーが予め持っている意見や立場を単に集計すれば最適な意思決定が得られるとの想定に依拠していると思われる部分です。今回はSNSに言及していますから、ただ電子的投票を行うだけでなくウェブ上で直接討論するということも含めて「直接民主政」を考えているのかもしれませんが*1、彼の一連の議論において政治過程の中心イメージは常に「投票」であり、「討論」への言及が為されることはまずありません。しかしながら、既に別の記事で論じたように、「自分の欲求を実現するためには、所与の選好のまま投票するよりも、意見の違う人と話し合ってから判断した方が良い場合もあ」りますから、「私たちの自己決定(自分が望む結果をもたらすような決定)を可能にするためにこそデモクラシーがあるとすれば、直接投票が常に最も民主的な方法であるとは限らない」のです。


東的デモクラシー論に賛成できる点と賛成できない点をそれぞれ敷衍させる形で、さらに話を進めていきたいと思います。「覚え書き」で詳細に検討したように、ポストモダンとは、社会が高度に流動化し、「島宇宙」化し、共通前提を失ってより小さな単位へと切り離されていく(個人化)状況を表しています。政治家や官僚が忖度する「民意」なるものは、元々各種調査の対象としてしか存在しない何か漠然とした集合体でしかないわけで、本来は内部に差異や対立を抱えて一つにまとめようもないものを無理矢理にまとめあげているに過ぎません。したがって、解釈の客体としてしか在り得ない「民意」は常にフニャフニャと捉えどころのないものとしてしか現れず、その「代表」とはただでさえ融通無碍なものです。ゆえに、社会の一体性が失われていくポストモダン下では、全体を統合的に「代表」することが一層困難・無理な行為となり、本来は全く立場を異にする人々を糾合して疑似的な連帯を創出する「ポピュリズム」が不可避的に帰結されるようになります*2

これは、従来の「代表」統治、すなわち一元的政治過程における政府統治=「ガバメント」の限界を示す認識にほかなりません。社会は多様化・細分化しているのに選択の余地がほとんど無い二大政党制では対応できるわけがないとの不満はここから来ていますし、政治的有効性感覚の低下と無党派層の増加の最大の要因も、同じところに発しています。だから東さんが政治的意思決定の仕組みを根幹から考え直すべきだと主張することは物凄く理にかなっているし、90年代以降の政治学的認識とも大略一致するわけです。特に政治理論の分野で言えば、従来型の「利益集団自由主義」に対抗して出て来た「討議/熟議デモクラシー」が現在トレンドになっています。ただし、これは先に述べた「選好集計モデル」を批判して、投票よりも市民・政府・専門家を含めた討論過程を重視する考え方なので、東的デモクラシー論とは方向性が異なることに注意が必要です。


私自身はと言えば、討議/熟議デモクラシーの議論に大きな関心を寄せつつも、それとは微妙に力点が異なるStakeholder Democracy(利害関係者民主政)を新たなデモクラシー像として提唱しています。この考え方は、個々の主体が有する私的な利害関心を重視して、多様な利害関心が政治過程に伝達・反映されるための回路を再整備しようとすると同時に、従来の政治過程から社会内へと決定権を積極的に委譲して「利害関係者stakeholder」間での合意形成による決定および執行を支援・推進する点に特徴があります。ポストモダンでは従来の政治過程の外に巨大な影響力を有する企業や個人が存在し、政治課題の専門性も高まっているため、「ガバメント」の修繕・改良としての作業と並行して、「政治の遍在」を視野に入れた一般統治=「ガバナンス」を制度的に構築していかなければならないとの問題意識が前提されているのです*3

「ガバナンス」と言った時、それが単なる「市民参加」であっては意味がありません。何か漠然と一枚岩的な形で観念された「市民」は、結局抽象的な「国民」の別の名でしかなく、代表統治を補完するための付属物にしかならないからです。現在盛んに論じられている討議/熟議デモクラシーを私が片手落ちだと思うのは、政治的意思決定の在り方を刷新する様々なアプローチを提起してはいるものの、従来の政治過程(ガバメント)の外で何ができるかということ(ガバナンス)への関心が相対的に低く、社会内の「サブ政治」を含めた決定過程一般に適用可能な理論的成果が豊かとは言えないことです。この理論の「公共性」志向もその一因でしょうが、そのようにして大文字の政治から独立しきれない理論は、ややもすれば昔ながらの「参加民主主義」に話し合うことの大切さを付け加えただけで、やがて後景に退いていくかもしれません。


ガバメントの改善と同時にガバナンスの確立が必要であるということは、「代表」と並立して「自治」、ないしは少なくとも「代理」の政治が存在しなければならない、ということです。しかし、もはや「代表」が困難だと言うなら、「自治」ないし「代理」だけで行ってはダメなのでしょうか。東さんはインターネットのようなコミュニケーションツールの発達次第で直接民主政が可能な規模は拡大していくのであって、直接民主政の実現を阻んでいるのは物理的な障害と、それに規定された人々の想像力不足だけだと言います。これは、理論的に言うなら究極的には「代表」は廃止できるし、廃止すべきである、との捉え方であると解するのが自然でしょう。ですが、政治学的観点から言わせてもらえば、「代表」の存在理由はそれほど簡単に割り切れる話ではありません。

ポイントの理解には、憲法学における「国民nation」と「人民peuple」の区別が役立ちます。これは私が極めて重要だと考えているために何度も繰り返し書いていることでありまして、コンパクトに説明した記事平易に語った記事の両方を参考にしてもらいたいと思います。肝心なのは、具体的な直接行動が可能であるために「代理」原理との結び付きが強い政治的意思決定有能力者としての「人民」には、精神障害者や年少の子どもが含まれないことです*4。非「人民」にも利害は存在しますが、彼らはそれに基づいて「自治」を行うことはできませんし、そのまま「代理」してもらうことも望めません。もちろん一部の「人民」が身近な非「人民」の利害に「共感」してそれを自らの利害に同化させて行動することは有り得ますが、理論的に言えば、政治的意思決定無能力者の利害をそれとして忖度できるのは「代表」政治だけなのです*5

「人民主権」の怖いところは、部分の利害を体現する政治主体が全体を動かしてもよいと公式に認め、政治的無能力者の意思――あるいは政治的敗者の意思――は考慮するに足らないとする果断さにありますが、グーグルやツイッターによる「数学的民主主義」の実現に期待を寄せる論者も同じ果断さを持てるのでしょうか。

私は、無理だと思います。「人民主権」による「代理」統治には、時間軸もありません。現時点で直接に行動できる政治主体の利害が全てなのです。一般の人々がそのような政治を望むとは思えません。過去世代や未来世代を含んだ超歴史的な「国民」概念による代表統治とは、決定的な違いがあるのですが、「代表」と「代理」の別と言っただけでは、普通はここまで考えられてはいません。直接民主政への障害は規模だけだと主張する東さんも、多分この問題を真剣に考えたことは無いのではないでしょうか。「自治」はおろか、「代理」してもらうことさえできない主体が存在し、私たちがそれを切り捨てることができない以上*6、抽象的な「国民」が「代表」される契機を全廃することは不可能なのです。私は、ここに代表政治の不滅性を宣言することができます。


かくして、曖昧な「民意」なるものへの拘泥からも、私たちは完全に自由となることは望めません。しかし、注意を喚起しておきたいことがあります。性質上、「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下しているのです。つまり、本当で言えば、「国民」の統合感が衰えてきているので、「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなのです。ところが表面的には、通俗的な意味での「ポピュリズム」が云々されるように、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになっています。「民意」が過剰に仰がれていることよりもむしろ、実質的な有効性が失われつつあるにもかかわらず、未だに――あるいは今になって――代表統治的観念が枢要な認識枠組みとして重視されていることこそ、真の問題なのです。

したがって、為されるべきことはシンプルです。ガバメントではなく、ガバナンスに対応する新たな概念を生み出し、代表原理と自治ないし代理原理とを両立させるような総合的な認識枠組みを構築すること。そうした作業が必要とされているのです。「民意」とは別の新たな概念としては例えば「利害関係者意思」のような言葉が有り得るのかもしれませんし、Stakeholder Democracyこそ新たな認識枠組みの役割を果たすものでなければならないと、個人的には思っています。


最後に。代表政治は不滅だと、私は言いました。それは「国民」が、ナショナリズムが不滅だと言うことです*7。しかし、ポストモダン化が進行する中で、ナショナリズムの形も変わっていくとは思いますし、変わっていくべきだとも思います。私は、政治的無能力者にも利害は在るんだとも言いました。インターネットを介した直接民主政では彼らの利害に配慮することは難しいですが、彼らが独自の利害を有していることを明確に認定し、同時に彼らは有能力者と対等な社会のメンバーであると示す簡単な方法があります。ベーシックインカムです*8。同じ「国民」として社会というゲームを共有する者には、同じ「賭け金stake」が配られるべきです。たとえ自分自身では賭けられないとしても、彼の前にチップを置いておくことには意味があるのです。


*1:しかし「パブリック・コメントを洗練させる」としか言っていないことからすると、討論までは視野に入れていないのかもしれません。

*2:例えば「官僚」のように、「アイツがみんな悪いんだ」とスケープゴートをつくってしまえば、目指すところが全然違う人同士でも話が成り立つわけです。

*3:なお、この「ガバメント」と「ガバナンス」の用法は私独自のもので、政治学一般で通用するものではありません。ただし、両概念の対比は近年しばしば行われています。

*4:投票権を持たなくても他の政治的活動は可能なので、未成年全般が政治的無能力者であるわけではありません。

*5:もっとも、その場合の無能力者たちは抽象的な「国民」に含まれる一要素として観念されるに過ぎないわけですが、それでも考慮されるのとされないのとでは大きな違いです。

*6:過去世代や子どもの利害を切り捨てることは、自らの存立の基盤を切り崩すことになります。

*7:おや、これは私が「覚え書き」で書いた主張とは矛盾する見解かもしれない。自分で書いていて気付きました。ただ、大きくは強調点の違いだと思いますので、敢えて調整せずに公にしてみます。

*8:ベーシックインカムには東さんも多大な期待を寄せているようですから、その点では未来国家像において近いところがあると思います(全部が全部ではありませんが)。東さんの言葉で言えば「ポストモダンの二層構造」における下の部分、つまりセキュリティの層においてのみ機能するのがこれからの国家で、それを体現するのがベーシックインカムである、と。


Saturday, October 17, 2009

当事者と利害関係者の違い


当事者と利害関係者」@Soul for Sale PhaseⅡ、より。


ステイクホルダーという概念が社会問題の中で有効に機能するのは、これまで発言を認められてこなかった人々を「当事者」として当該の出来事の中に巻き込んでいくときだ。それは会社経営に権利を持つ、株主と経営者以外の人々は誰かとか、環境問題に対する、「直接の影響」を被る範囲はどこまでかとか、そういう場面で噴出する。だからステイクホルダーとしての当事者は、必然的にその境界を揺るがし、曖昧にしていく傾向にある。

それに対して社会問題を扱う研究者にとっての「当事者」とは、これまで「蚊帳の外」だった人々に、物言う権利があることを示し、彼らの声に耳を傾ける必要性を訴えるという点で、人を「アイデンティファイ」する振る舞いに関わっている。つまり「誰が当事者か」という問題を確定することから、社会問題の性格付けを変えるというものなのだ。そしてこの言葉は、何らかの「アイデンティティ」を必要としている人々を巡る社会問題の中で使われがちであることを含め、どちらかというと「境界を確定する」ために用いられることが多いようだ。

もしかしたらそれで大した問題はないのかもしれないけど、例えばまちづくりに関する「当事者」とは、「そこに住所を持つ人」なのか「そこを訪れるすべての人」なのか、なんてことを考え出すと、「当事者を巡るポリティクス」は、とたんに問題の本質へと切り込んでくるものになる。また、時間の話も重要だ。いまある状態にいる人だけが当事者なのか、それともかつてそういう経験をした人はみな「当事者」たる資格を有するのか。その辺りのことって、誰か考えているんだろうか。

本当なら、何か別の言葉を発明した方がいいのかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスと社会問題の関係は複雑だし、ましてや研究の世界でそれを扱うとなると、すごくデリケートな問題が多々発生するのだし。きっと「私たち・が・当事者だ」というのと「私たち・も・利害関係者だ」という物言いとの間にこそ、マジモンの権力が横たわっているのではないか。


「その辺りのこと」は、私が考えています。正確に言えば、考えた結果を既に論文の中で書きました(『利害関係理論の基礎』、第1章第5節2「利害関係者と当事者」)。当事者概念と利害関係者/stakeholder概念のそれぞれについて考察されたものは幾つもありますが、二つの概念を比較して異同と理論的関係性について詳細に検討を加えた例は稀有なはずです。


stakeholder概念が「境界」を曖昧にしていくのに対して、当事者概念は「境界」を画定しようとするとの指摘は的確だと思います。ただ、stakeholderという言葉を使う人も何らかの利害関心・問題関心からそうしている以上、曖昧にするだけして、そのままでいいとは思わないでしょう。その人たちも、普通はどこかで画定へと向かうはずなのです。他方で、当事者概念によって「アイデンティファイ」を行おうとする人たちだって、今まで「蚊帳の外」だったことへの異議申し立てとしてそうするわけですから、既存の「境界」を揺すぶるというプロセスを必ず経ることになります。

つまり、異なる文脈で使われがちであるように思われる二つの概念ですが、それぞれが社会問題の中で占めている位置と言うか、果たしている機能は大して変わらないのです。ほとんど同じだと言ってもいい。文脈が違うように思えるのは、使う人の強調点の違いが反映されているためだと考えるべきでしょう。


stakeholderの範囲を問題にして、利害関係って何だろうかと真剣に考え始めると、それはどこまでも際限無く広がってしまい得るものだということに気付きます。利害関係の中身は理論上何でも有り得ますから、ある問題に対して、誰もがstakeholderで有り得るのです。当事者概念がstakeholder概念と違うのは、そこで既存の「境界」を問題にする時に、「境界」の中に入って「物言う権利」を認められるべき主体が、人物単位・属性単位で予めハッキリと想定されていることです。誤解を恐れずに言えば、stakeholder概念は手続き、当事者概念は結果に相対的な力点を置いていると捉えるのが解り易いのかもしれません。

敢えて意地の悪い言い方をすれば、当事者なるものは、誰の声を重んじて誰の声を無視するのかという排除の意志を、より露骨な仕方で伴わせている概念なのです。無論、急いで付け加えなければなりませんが、「境界」の画定という排除を必然的に伴う点では、利害関係概念も政治性と無縁ではありません。ただ、そうした政治的な価値意識や権力の作用が、一連のプロセスにおけるどの時点で介入し、働くのか。その点に違いが見出せるのだということです。


 それゆえ、当事者概念を定義するに当たっては、本人体験性を条件とする狭義の当事者と、本人以外の関係者を含めた広義の当事者を区別した野崎の議論に準じるのが、最も適切であると思われる。すなわち、狭義の当事者the person in questionとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人」を意味し、広義の当事者the person concernedとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人、およびその関係者」を意味する。

 だが、ここで直ちに気づくことは、広義の当事者の定義が「関係者」の定義に依存しており、それゆえに不完全であるということである。本人以外の関係者を当事者に含める限り、「関係者とは誰か」という問いに答えなければ、「当事者とは誰か」という問いに答えたことにはならない。そうであれば、当事者性についての研究は、最終的に利害関係についての研究によって補完されなければならないだろう。

 また、より根本的な問題も存在する。それは、「本人体験」とはどのような体験でも有り得るために、当事者とは誰でも有り得ることである。不登校という事象についての「本人体験」として一般に想定されるのは不登校そのものの経験であるが、不登校の子供を持つ親にとっては、自分の子供が不登校であるということは紛れもない「本人体験」であるし、不登校の生徒を担当する教師にとっては、担当する生徒が不登校であるということは同様に「本人体験」である。それぞれの体験と、体験から表出される感情はそれぞれに個別的・唯一的であり、その意味での「重み」に優务があるわけではない。

 また、不登校者、親、教師、その他の関係者は、不登校という事象における自らの体験に基づくニーズをそれぞれに有していると推測できる。したがって、当事者たる要件を本人体験ないし体験に基づくニーズに求めるのであれば、論理的には、不登校という事象における当事者は、不登校者、親、教師、その他の関係者の誰でも有り得る。

 こうした事実は、「当事者とは本人体験者である」といった定義が、それだけでは当事者の範囲をほとんど限定しないということを意味する。それにもかかわらず、不登校の中心的な当事者が不登校者であると一般に見做されているように、特定の事象について特定の体験が当事者性の指標とされやすいのはなぜであろうか。誰もが当事者で有り得るのに特定の当事者のみが当事者として現れるのはなぜであろうか。

 それは、私たちが当事者を指示するに当たって、複数の「本人体験」および体験に基づいたニーズ=<利害>の間に予め優先順位を想定し、重要であると考える体験およびニーズを有する当事者だけをその事象における当事者として見做すという選択を行っているからである。不登校者の親や担当教師よりも不登校者自身が中心的な当事者として扱われ、しばしば不登校者のみが当事者として扱われるのは、不登校者自身の体験およびニーズの方がより重大であると考えられているからであり、不登校についての専門家が不登校の当事者として扱われないのは、専門家にとっての個別の不登校に直面するという体験およびそこから生じるニーズがあまり重大でないと考えられているからである。

 つまりここでは、多様な「本人体験」に基づく多様な当事者集団の中から、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべきであると考えられた当事者を狭義の当事者(本人)と見做し、二次的に配慮すべきであると考えられた当事者を広義の当事者(関係者)と見做す、という選択が行われていることになる。このように考えるならば、当事者概念の意味内容、あるいは当事者性の要件には、規範的予断が含まれていると言わねばならず、それは記述理論の観点からして欠陥が見出されたということである。

 他方、当事者たる要件としての本人体験と体験から生じるニーズを<利害関係>と見做すことは可能であるから、当事者概念および当事者性についての議論は、利害関係理論の枠内で説明可能である。特定の問題状況において、「当事者は誰々である」という有意味な限定を為すことは、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべき利害関係者を選択し、彼に当事者という呼称を付するということにほかならない。したがって、当事者概念は、利害関係理論の内部に位置付け直されるべきである。

 もっとも私は、こうした事実を指摘することによって、当事者概念を用いることが無意味であると言いたいわけではない。ただ<利害関係>概念と当事者概念の異同と、それぞれの適性を明らかにしたいだけである。本人体験を要件とする当事者概念は、「体験」が可能な特定の行為、状態、事件、事案などを前提として用いられるため、事物そのものなどに対しても用いることのできる<利害関係>概念よりも汎用性が低い。それゆえ、政治的対立状況や問題状況を包括的に記述するためには、<利害関係>概念の方が適している。

 また、野崎が指摘しているように、個別性・排他性の強調と結び付きやすい当事者概念の使用は、結果として「当事者ではない人たちを寄せつけないような強度」を持って排他的・権威的に機能してしまいがちであり、「当事者の言っていることが「当事者であるだけで」正当性を帯びてしまう」傾向を生みやすい点にも注意が必要である。利害関係者という概念は、当事者という強い言葉が意味する範囲から洩れてしまいがちな周辺的関係者を含めた多様な人々を同一平面上で捉えることによって、当事者とされる人々の地位を敢えて相対化するような視座を提示することができる。それは、問題状況を反省的に捉え直す上で大きな寄与を為すことができるだろう。

 ただし、本人体験という中心部を明確に照らし出し、押し出す力強さと、抽象を拒み、固有性を提示することができる点で、当事者概念には大きな強みがある。<利害関係>概念は広範な当事者・関係者を同じ地平で捉えるために、そうした政治的突破力を弱める方向に働いてしまいやすいようにも思える。それゆえ、<利害関係>概念と当事者概念は、領域と場面によって使い分けられればよいのであって、相互排他的であると見做す必要はない。


(前掲論文、81-83頁。注を略。文中の「野崎の議論」は、野崎泰伸「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』第14号、2004年)を指す。)

Share