Sunday, February 28, 2010

「情報戦時代」の本当の意味――ポスト・ヘゲモニーの時代


「情報戦」などという言葉はチープに響くが、その奥に読み込むことのできる意味は重い。今日は、そういう話をしてみたいと思う。




加藤(2001)は、前世紀にA.グラムシが社会主義の新たな展開を模索して書き留めた「機動戦から陣地戦へ」のテーゼを引き取り、21世紀における政治のアリーナの変貌を「陣地戦から情報戦へ」の移行として描いて見せた。

グラムシの「陣地戦」論は、社会主義勢力の権力奪取へのプロセスを軍事的手段に例えて構想されたものである*1。19世紀は武器を手にした暴力革命が現実味を持った時代であり、局地的な決戦や個別の市街戦(機動戦)での勝敗が革命の帰趨を決した。統治者は何よりも軍事的抑圧を是とし、抵抗は前衛によって指導された武装蜂起の形を採った。しかし、産業化が進み、確固たる市民社会が形成されてくる20世紀においては、そのような一点突破を目指す戦略は通用しなくなってくる。そこで要請されるのが「陣地戦」への転換である。

グラムシによれば、国家とは「政治社会+市民社会」にほかならない。ここで言う「市民社会」には、教会、学校、組合、家族その他の社会集団が含まれている。20世紀的な統治は、こうした市民社会内部で被支配階級の同意をとりつける「ヘゲモニー」に基づいて行われる。ヘゲモニーとは、「知的道徳的指導の機能」、またはそれによって形成される「知的道徳的統一性」であり*2、市民社会の統合を可能にする支配的イデオロギーの役割を果たす。現代からすれば、M.フーコーの「規律・訓練」から想起してもらった方が理解されやすいだろう。20世紀には、いわゆる「フォーディズム」に象徴されるような経済成長と利益分配による「豊かな社会」の実現が、統治の正統性を堅固にし、市民社会におけるヘゲモニーを確立した。このような体制は、一時の暴力発露によって容易に転覆されるようなものではない。ここに、国家に関するグラムシの有名な規定たる「強制の鎧をつけたヘゲモニー」が説得力を持つようになってくる。

陣地戦とは産業社会・大衆社会におけるヘゲモニーの争奪戦であり、戦略上重要な砦を落としては自勢力の陣地を広げていくような戦いである。そこでものを言うのは軍事力ではなく経済力・組織力であり、市街での銃撃戦ではなく、選挙と議会、そして個々の職場や学校が主戦場になる。抵抗は武装蜂起よりもストライキの形で行われ、社会集団内部でのヘゲモニー獲得と行使を通じた国家機能の転換(「構造改革」)が目指されることになる。こうして武力による一点突破から継続的な勢力争いへと政治的アリーナないし権力奪取の手段が転換され、グラムシの「機動戦から陣地戦へ」のテーゼは現実化した。ここで取り扱う「情報戦」論が描くのは、その先である。


加藤(2001)によれば、おおよそ1980年代から、従来の利益政治を補完する形で、いわゆるテレポリティクスや劇場型政治など、イメージ・シンボル・感情に訴えかける政治手法が西側諸国で目立つようになった。それと並行して、政府・政治家には情報公開と説明責任が求められる傾向が強まり、大衆世論の動向を絶えずうかがうような政治が常態化していく。加藤はここに、組織勢力間の継続的・固定的対立から、言説と文化に根差した浮動的な争闘へと政治のアリーナが移行したことを発見する(「陣地戦から情報戦へ」)。今や政治を左右するのはイメージとシンボルによって敏感に変動する大衆世論であり、しかもそれは情報技術によってグローバルに結び付いているため、統治者がヘゲモニー、すなわち支配の正統性を継続的に獲得することは、ますます困難になっている。

ここでは補助線として、「ポピュリズム」をめぐる議論を想起してもらうことが有益だろう。鵜飼(2006)および鵜飼(2007)で指摘されたように、ポピュリズムは喪失されつつある社会の全体性を疑似的に回復させる機能として現出する*3。すなわち、「豊かな社会」の昂進によって島宇宙化されたポストモダンの社会では、従来の様なヘゲモニー争奪戦の前提となる一体的な「市民社会」が存在しない。「知的道徳的統一性」としてのヘゲモニーは、既に解体されてしまっているのである。したがって統治が同意をとりつけるべき一体的な「市民」などはもはや存在しないのだが、そこで何らかの形で「敵」が名指されることを通じて凝集される「民意」という名の疑似的なヘゲモニーが、メディアを介して政治を動かすことになる。すなわち、イメージとシンボルが政治のアリーナの中心に押し出される。情報戦の始まりである。

社会内の高度な流動性は、もはや人々を特定の「陣地」に縛り付けてはおかない。陣地戦の時代には個々の職場で闘争を行って一つの砦を落とすことが全体の勝敗に結び付いていた(少なくともそう信じられていた)かもしれないが、今や相互に独立性が高い砦≒島の一つ一つを得ることは、全体に与える影響をほとんど持たない。それよりも、圧倒的な破壊力を持つ「民意」という奔流にいかに上手く乗ることができるかという浮動的な機会の方が決定的なのである。そして、既にヘゲモニーは解体され、ポピュリズムによって凝集される疑似的なヘゲモニー≒「民意」は集合的な感情がどう露出するかによって絶えずその姿を変えるため、この争いは決着を見ることが無い。すなわち、「機動戦は敵の物理的殲滅で終わ」り、「陣地戦は国土の実効的支配を収めれば足り」たが、情報戦は「民意の争奪」をめぐる「終わりなき戦争」である*4


情報戦でものを言うのは、言説力であり、メディアを通じた情報操作・イメージ形成である。では、抵抗はどのような形を採るのか。加藤(2001)によれば、それは「経済・社会・学問・芸術を横断する政治の、国境を越えた民主化」である。すなわち、道徳的価値ないし「カルチャー」としての平和や民主主義による市民社会側からの政治社会の統制・規律こそが、統治に対してグローバルな正統性を問う新たな抵抗戦略なのであるとされる。

しかし、これは要するに「良いポピュリズム」によって政治を動かそうとする論であろう。いかに「民意」という奔流にうまく乗ろうかという機会主義に期待するとすればあまりにオプティミスティックであるし、いかに「民意」を上手く操縦してやろうかという技術論を頼みにするとすればナイーブに過ぎる。そうではなく「民意」をより良い方向に漸進させるべく努力していくということであるなら、それは従来のヘゲモニー闘争からマインドが切り替わっていないと言わざるを得ない。情報戦時代の「民意」とは、一定の「陣地」に少しずつ誘導できるような特定の姿形を有した存在ではないから、戦局は一瞬で変わる。「われわれ」の手に奪取すべきヘゲモニーは、もう無いのである。


では、どうしたらいい?――「良いポピュリズム」による政治社会の価値的・文化的統制への期待論は、かつてのヘゲモニー同様に、ポピュリズムが生み出す疑似的ヘゲモニーを奪取することで統治への影響力を担保しようとした。しかし、そこでの抵抗論を成り立たせている前提としてのポピュリズムは、ポストモダン初期において過去の記憶と結合しつつ現れている過渡的な現象としての側面を持っているように思う。今後、拡散した島宇宙に対応した統治技術が成熟すれば、その前提は崩れ去ってしまうかもしれない。東浩紀的な「データベース民主主義」が実現すれば、人々が顔を突き合わせて価値や利益の問題を直接争うこともなく、社会内に拡散している多元的な政治的契機が機械的なアルゴリズムの作動によって非政治的に自動調整されるようになるのかもしれない*5

そこでの統治は被治者を端的なデータとして取り扱うものであり、人々はデータとして把握された自らの欲求充足が満足に行われることによって、すなわち統治者の精密なデータ把握と適確な処理能力への評価に基づいて統治に支持を与えていくことになるだろう。解体されたヘゲモニーはやはり疑似的に回復されるが、それはもはや「知的道徳的統一性」としてのそれではなく、社会全体を機械的に縫い付けておくインフラとしての統一性、すなわち「工学的ヘゲモニー」である。このヘゲモニーは獲得が争われ得るものではない。インフラとして自動的に機能されるように設計され、誰もがその等しい影響下に置かれることになるからである。「良いポピュリズム」論は有り得ても、「良いアーキテクチャ」論はナンセンスである。「民意」と違ってアーキテクチャは設計可能であり、誰の立場からしても、それを技術的に改善していくことが当然に求められるからだ。

かつて「豊かな社会」の実現によって統治が正統性を獲得していったように、この新たな統治術も「自由な社会」の実現を通じて正統なものと見做されていくだろう。陣地戦では市民社会内部でのヘゲモニーの獲得が争われたが、情報戦時代には工学的ヘゲモニーが島宇宙社会を制圧する。今後予想されるポストモダンの成熟に伴って現れてくるであろう情報戦において争われる「情報」はインフォメーションやインテリジェンスである以上にデータであり、その戦の本質は浮動的なイメージ闘争である以上にデータの管理と処理をめぐる無数の局地戦である。情報戦の意味と意義は、インターネットの興隆や「小泉劇場」などに切り縮めて解されるべきではない。


だから、どうしたらいい?――この問いにまだ答えていない。今の段階で十分に答えられるとも思えない。しかし最大の要点は、もはやヘゲモニーを争っても意味が無いということだ。そして、そうではあるがしかし、統治の正統性を争うことの意味も無くなったわけではない、ということである。個人的には、非政治的なままにされている政治的契機は政治化し、脱政治化されていく統治は再政治化することが必要だと感じている。社会内に流出・拡散したサブ政治ともども非政治的な自動調整によって解決を図る立場に反対した上で、浮動的な「民意」に拘泥することも避け、あくまでも個別具体的なフィールドやイシュー毎に最適な決定を利害関係者が政治的に模索する*6。統一的なヘゲモニーや「ガバメント」よりも、多様かつ自発的な「ガバナンス」を実現できるような枠組みを考える。そういうことが全てだろう。


  • 参考文献

    • 阿部(1991):阿部斉『概説 現代政治の理論』東京大学出版会、1991年
    • 鵜飼(2006):「ポピュリズムの両義性」(『思想』第990号、2006年10月)
    • 加藤(2007):加藤哲郎『情報戦の時代――インターネットと劇場政治』花伝社(加藤(2003a,b,c)を収録)


*1:グラムシの理論については、加藤(1993)、加藤(1997)の他、阿部(1991)も参照。

*2:阿部(1991)、205頁。

*3:「ポピュリズムと対抗政治」(2007年11月1日)、「一橋大学機関リポジトリHERMES-IR」(2007年11月26日)、「現代国家とポピュリズム」(2008年1月22日)、「現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」(2008年10月27日)、などを参照。

*4:加藤(2003b)、加藤(2003c)。


*6:「現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望」(2008年10月30日)、なども参照。


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