Friday, April 30, 2010

ポストモダンにおけるデモクラシーの価値――宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』



〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)


吉田徹『二大政党制批判論』や宮本太郎『生活保障』、菅原琢『世論の曲解』など、昨年後半は政治学者の手になる良質の新書が相次いで出版された*1。これを一つの流れとして、併せて読まれるべきなのが本書である。

政治思想史を専門とする宇野重規によって著された本書は、個人の尊重が人々の唯一共通の価値基準となり、「他人と同程度には特別な存在」としての〈私〉の平等が求められる現代を、平等(化)の思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想を手がかりに読み解く。さらに現代フランスの政治哲学の議論なども交えながら、デモクラシーの現代的意味を問うものになっている。

なお著者は、2007年に一般向けのトクヴィル入門書として水準の高い『トクヴィル 平等と不平等の理論家』を著している*2


〈私〉の漂流とデモクラシーの新たな意味



宇野はまず、苅谷剛彦・宮本太郎・佐藤俊樹・城繁幸などの議論を引きながら、現代日本の個人が社会内の中間集団から切り離されている姿を描き出す(第1章)。職域型に「仕切られた生活保障」によって支えられていた戦後日本の「小さな福祉国家」が80年代以降の行財政改革によって解体されてきたことで、過去にヨコの連帯を可能にしてきた「閉じた共同体的空間」は崩壊しつつある。さらに、家族的拘束の薄まりが世代を超えた不平等是正への期待を失わせる一方、長期的な所得再分配機能を含んでいた日本型雇用慣行が破壊されていくことで、若者は世代間格差を強く意識するようになる。このようにタテの結び付きが弱まると、人々はより短期的な境遇を重視するようになり、「いま・この瞬間」の不平等へと意識を鋭敏化させていく。平等への渇望は強まりながらも、それを可能にする連帯はますます困難になっているのだ。

現代の個人が置かれている状況は、近代的原理の帰結としての新たな局面であると言える(第2章)。そもそも福祉国家に代表されるような近代に成立した諸制度は、個人を中間集団から解放し、自立して生きていくことを可能にした一方で、個人が置かれている境遇のほとんど全てを自らの選択と行動の帰結たる「個人の問題」として理解可能にする皮肉な効果も生んだ(「個人化」)。自立≒孤立した個人は、自己を管理することを求められる。個人を社会内に位置=意味付け、拘束すると同時に保護してくれた「閉じた共同体的空間」は既に無い。私たちは、自分自身が「どんな個人」であるのかを自ら解釈・提示し、絶えず自らの行動に自分で意味付けし、自らがさらされるリスクに責任を負わねばならない。少なくとも、そのような強迫に追われる。

かくして現代の〈私〉たちは、中間集団から切り離されて浮遊するだけでなく、自己の意味と針路を求めて漂流する。それは現実政治にも濃い影を落としている(第3章)。古代ギリシアのポリスには私的領域(オイコス)と公的領域(エクレシア)の間を繋ぐ領域として広場(アゴラ)が在ったが、現代にはそれが無い。人々がそこから離れていく中間集団としては、政党も例外ではない。〈私〉と〈公〉を結ぶ伝統的回路が弱まり、大文字の政治が機能を果たせずに信頼を失う中で、〈私〉を直接〈公〉へと短絡させようとする感情のポリティクスが横溢するようになる。

このような現状においては、公共的利益が何であるかを集合的に画定していくプロセスであるとともに、他者との対話の中で〈私〉とは何であるかかを問い直すことのできるプロセスでもあるデモクラシーが、ますます重要になっている。そこでは、平等が実現されるべき〈私たち〉の中身も問い直され得る。したがって、「答えがない」現代であるからこそ、「手続き」としてのデモクラシーの意味は大きくなるばかりなのである(第4章、むすび)。


政治的回路の再整備へ



「政治の意味の回復」のために「政治的回路の再整備」が必要であるとの著者の認識(119頁)には、強く同意する。しかし、その具体的方策は、本書ではほとんど語られていない。デモクラシーの新たな可能性を2008年末の「年越し派遣村」の中に見ようとするのは、率直に言ってあまり説得的でも魅力的でもないだろう。私自身デモクラシーの中にポストモダンの明るい未来を構想する者として、著者が「どのようなデモクラシー」に希望を見ているのかが明確に読み取れなかった点は、少々残念に感じた。

個人的感懐だが、現在は理念のみならず制度にまで貫通するような「理論」が求められているのではないだろうか。それは勿論、かつての「大きな物語」という意味ではなく、人々の一つの選択肢「でしかない」ものの提示として、である。

本書の中でも語られているように(126頁)、少なくとも大嶽秀夫が『日本政治の対立軸』を著した頃から*3、人々の選択肢を構成し得るような一貫した政治的理念を明確にした政治が求められてはきた。現に、政治家が新党を作る際には、誰しも理念の重要性を語る。しかし理念は制度や政策と結び付かなければ、現実に影響を及ぼさない。「大きな政府か小さな政府か」などといった点に限定されることなく、例えば選挙制度や司法制度まで含んで「どのようなデモクラシー」がなぜ選ばれるべきなのかを一体的に説明するような、有り得る複数の社会構成原理の提案が求められていると思うのである。


とはいえ、モダニティの変容とそれに伴う主体のアイデンティティや生の問題を現実政治やデモクラシーと連続的に論じた一般向けの書籍としての本書の価値は、決して小さくない。宇野自身はアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックにならって「後期近代」や「再帰的近代」といった言葉を使い、これを「脱近代」とは異なるものとして区別しているが、私はその区別に大きな意味を感じないので、ここでは本書を「ポストモダンにおけるデモクラシーの価値を問い直したもの」として敢えて要約する*4。宮台真司や東浩紀の魅力的な言説に跳び付きがちな若い読者はその飛躍に一定の足場を確保する意味で、他方「ポストモダン」の語だけで警戒姿勢になりがちな慎慮ある読者は流行の社会評論を視野中の適正な位置に収めて捉え直すための媒介項を得る意味で、是非一読されることを薦める。


関連文献



本書で論じられたようなデモクラシーの現代的位置を歴史的に把握するために、森政稔『変貌する民主主義』を強く薦めたい*5。また、現代社会の活路をデモクラシーに見出す立場について詳しく知るなら、一般向けの水準は乗り越えることになるが、田村哲樹『熟議の理由』が必読書だろう*6

政治学者がモダニティの変容についての議論に基づきながらデモクラシーの現代的在り方を問い直した一般向けの書籍としては、同じく岩波新書から2004年に出版された篠原一『市民の政治学』が先行している*7。田村著の主題である熟議/討議デモクラシーについての導入書としても役立つはずである。

また、現代社会における個人の位置について考えるには、直観的に理解しやすいところで岡本裕一朗『モノ・サピエンス』*8、いささか込み入った議論を厭わないなら鈴木謙介『ウェブ社会の思想』が参考になるかと思う*9。前者は消費(者)社会、後者はメディア環境に焦点を当てながら、現在および近未来において個々の主体が置かれる環境について考察を加えている。



二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)


宮本太郎『生活保障――排除しない社会へ』岩波書店(岩波新書)、2009年

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)


菅原琢『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社(光文社新書)、2009年

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)




トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)


トクヴィルについては、「トクヴィル『アメリカのデモクラシー』」「アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』抜粋」なども参照。



日本政治の対立軸―93年以降の政界再編の中で (中公新書)



*4:「ポスト・モダン」である以上、それは近代の果てに生じてきた諸現象を指して観念されているのだと考える方が自然であり、運動としてのポストモダニズムの印象を引きずって、この語を使用する者が近代とは「まったく別の」何かを描いていると即断するべきでは、今やない(と言うよりも、英語の“modern”が「現代」も意味しているがゆえに“post-modern”なる奇妙な語の使用がためらわれるというのが実態に近いのかもしれない)。私自身は、一定の社会学的根拠に基づいていることが明示されるのであれば、ポストモダンという認識/用語は問題視するに足りないと考えている。そうした社会学的認識の構築をアマチュアながら試行したものとして「現代日本社会研究のための覚え書き」を参照。


変貌する民主主義 (ちくま新書)




熟議の理由―民主主義の政治理論




市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)




モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)



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