Monday, May 10, 2010

公訴時効廃止に何を見るべきか


先月末、重大な罪の公訴時効を廃止・延長する内容を含む改正刑事訴訟法および改正刑法が成立した。これに伴って全国犯罪被害者の会(あすの会)が発表したコメントによれば、今次の改正は「犯罪被害者の多年にわたる悲願」である。

だが、『法律時報』5月号で白取祐司氏が指摘するように*1、改正案の提出に先立つ法務省法制審議会刑事法(公訴時効関係)部会等での議論においては、公訴時効の存在意義にまで遡った根本的な討議が闘わされた形跡は薄い*2。今次の改正を後押ししたのは、そうした原理的なレベルでの刑罰観の修正であるよりも、むしろ犯罪被害者(遺族)たちの「声」に共鳴・共振する「世論の声」であり、政府側もその事実が法案成立の推進力であると公然と位置付けていた*3

多くの人々が公訴時効廃止・延長を支持した/していることには、もちろん本人の自発的感情も無視できないとはいえ、メディアを通じて表象される犯罪被害者(遺族)の感情に影響されたところが大きいと思われる。これは感情による選好形成という意味で、まさに「情念」に基づく政治過程の実例である。そして、ここで重要なのは、政治を動かす世論を形成する情念が、自分自身から発する以上に他者の情念に「共感」することで増幅された情念であるということだ。このように観察される社会的現象が持つ理論的意味は小さくないように思う。


さて、時効制度については当ブログでも何回か採り上げていて、2009年5月には時効廃止論議が進む中で「時効はなぜあるのか」を問い直したエントリを書いている。そこでは刑事・民事両面にわたって時効制度の根拠と機能を整理しているのだが、通時的な連続性の中で個人の人格同一性が相対化されていくとする比較的広く共有されていると思われる感覚と時効制度の存在を結び付けて考え、それにもかかわらず時効を排そうとする動きが出てきたことの由縁を簡単に考察してもいた。

この点はその後「社会の個人化と個人の断片化」と題するエントリで、多少敷衍してみてもいる。その部分を引いておこう。


でも、そういう個人の断片化みたいな話は理解しやすいんだけど、私が混乱するのは、その一方で時効制度への否定的見解が強まっているのをどう考えたらいいんだ、ということ。時効制度の有意義性を否定するということは、個人の通時的流動性を軽んじて統合性を重んじ、人格的同一性を絶対的に捉える立場に連なることを意味する。それは個人の断片化傾向と矛盾するではないか。この問題は結構前から気になっているのだが、あまりきれいな答え方はできそうにない。

時効制度への否定的見解が力を得ている背景については、既に一応「司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性」を提示してみたことがある。

二つの傾向を整合的に理解するための一つの選択肢としては、ポストモダン的な流動性上昇というものは、あらゆる単位に対して、より小さな単位への離合・分解を迫るものだ、と考えることはできるだろう。それが(企業や家族を含む)社会に対しては個人化を、個人に対しては個別のキャラ/ペルソナ、あるいは刹那的な「意識」へとバラけていくことを促しているのだ、と(さらに原子化した個人は「本質化」に向かいやすいことでもあるし)。だから、内的には断片化(刹那化)しつつある個人が、対他的・対外的には統合的人格観を押し出すようになるのは、決して矛盾ではないのだ、と。


おそらくは、社会の個人化を背景にして個々の主体に結び付けられる属性が本質化される――個人の特性がある集団への帰属によってではなくその個人生来の「宿命」と見做される――ために、他方で主体は刹那性を増して一層細密に分節化された形で捉えられているにもかかわらず、いやむしろ、そのような刹那化が主体の通時的連続(存在)性を弱めたためにこそ、本質化された罪が過去の刹那と現在の刹那をショートして、今・此処の私たちの前に再想像される*4。そのように考えた方がよい。そこでは、法制の根拠となっていたはずの社会学的現実、積み重ねられた時間とその間の生活という現実が、もはや罪を終わりにするだけの説得力を持たなくなったのである。



参考




*1:白取祐司「公訴時効制度「見直し」法案への疑問」(『法律時報』2010年5月号(通巻1021号)、2010年4月27日)。


*3:法制審議会第162回会議 配布資料5「公訴時効制度に関する世論調査について」。

*4:このように考えると、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』の議論とも接点を持つだろう。


Monday, May 3, 2010

憲法の機能をめぐる認識のズレ


憲法記念日であるので憲法をお題に何か書くことにしますが、さして詳論したいと思うことも無いので、あまり指摘されていないと思うことだけを、なるたけ簡潔に話します。


左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の本義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。現に、樋口陽一氏や長谷部恭男氏などの権威ある憲法学者による、一般によく読まれている憲法入門書などでは、そういった自由主義≒立憲主義的な憲法理解が説かれています。

しかしながら、そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって、憲法の意味や理解がこの立場に限定されるわけでは、本来ありません。大学の講義で定番の教科書として長年親しまれている芦部信喜『憲法』(第4版、高橋和之補訂、岩波書店、2007年)の冒頭では、憲法の意味が大きく2つに分けられています。大略は次の通りです。



  • (1)形式的意味の憲法…「憲法」という名で呼ばれる成文の法典(憲法典)。「日本国憲法」がこれにあたる。英国のような不文憲法の国には無い。

  • (2)実質的意味の憲法…成文・不文にかかわらず、ある特定の内容によって国家の基礎を定める法。


(2)の実質的意味の憲法に含まれる法文は、憲法典だけには限られません。例えば皇室典範や国会法、教育基本法などのように、果たしている役割によって「国家の基礎」を規定していると解釈されるものは(2)の意味で「憲法」と見做し得るのです。

さらに、実質的意味の憲法は2種類の下位分類を持つとされます。それらを含めると、全体のカテゴリ分けは以下のようになります*1。(1)を含めて全部で3つの意味が登場するので、それぞれに通し記号a~cを振っておきました。



  • (1)形式的意味の憲法――(a)

  • (2)実質的意味の憲法


    • 固有の意味の憲法…時代・地域にかかわりなく普遍的に存在するような、政治権力の組織や行使の仕方を規律することによって、国家の統治の基本を定めた法。――(b)

    • 近代的意味の憲法…専制的な権力を制限して広く国民の権利を保障しようとする自由主義≒立憲主義の思想に基づき、政治権力の組織化そのものよりも権力の制限と人権の保障を重視する。――(c)


既におわかりでしょうが、先に挙げた立場において語られている「憲法」とは、②の意味を指しています。この意味の憲法が成立するのは一般的に「マグナ・カルタ」からであるとされており、憲法学が形成されていくのもそれ以降です。①には例えば、「十七条の憲法」などが含まれます。憲法学の対象が主として②であり、憲法学の議論で「十七条の憲法」が普通扱われないのは、憲法学の成り立ちそのものを支えたのが②の意味の憲法とともに発展してきた自由主義≒立憲主義の考え方だからです。


言うまでもありませんが、樋口氏や長谷部氏などがこの分類を知らないわけではありません。しかし、彼らの著書を読んでとにかく「憲法=国家権力を制約するもの」と覚えた人の中には、「憲法」という語の多義性を意識しない人も多そうです。もちろん、日本国憲法のみならず大日本帝国憲法も②に含まれますが、それはこれらの法典が基本的に②としての機能を果たしているからそう解されているだけであって、別に①と解そうとすることが不可能なわけではありません。つまり、今の憲法は社会的な「事実」として②ですが、それを①の方へと変えていくべきだという「主張」そのものは有り得るわけです。

こうした主張をしていると思われる論者は少なくありません。「憲法」なる語をこのような意味で使うとか、こういう理解で使うべき、などと明示的に述べている人はあまりいませんが、例えば近代主義への反発を軸に議論を構成している西部邁氏などは、明らかに「憲法」という語を非近代的な意味で使っていると思います(私は西部氏の良い読者ではありませんが、数年前に大学院の授業で『ナショナリズムの仁・義』(PHP研究所、2000年)を読んだときにこのことを思いました)。


自由主義≒立憲主義的な意味に限定して「憲法」を考えている人々は、なかなかこの点に思いが至らないようです。憲法に「国民の義務」をもっと盛り込もう、などといった動きとの(「論争」ではなく)「すれ違い」は、ここから生じている部分が大きいと思います。左派的な立場の人々は、「憲法とはそもそも国家を縛るためのものだから」、そういった主張はそもそも憲法とは何かを理解していない、と考えてしまいがちです。けれども、そこで異なる立場を採る側は憲法の意味を理解していないのではなく、実はそもそも別の意味で「憲法」なる語を使用しているのだとしたらどうでしょう。

そもそも憲法学の対象が(c)であるからといって、一つの法典(a)としての日本国憲法の条文についての論争が(c)の意味の憲法理解に縛られる必然性はありません。逆に言えば、(c)の意味の「憲法」を問題にしたいのであれば、必ずしも(a)の意味の「憲法」に拘泥する理由は無いわけです。憲法典以外の法規・方針やそれらについての解釈、及びその他の政治慣行を含む全体としての“constitution”を重視すべきではないか、といった議論は杉田敦先生が提示しているところです(『政治への想像力』(岩波書店、2009年)などの他に、長谷部氏との対談『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)も政治学者による憲法への独特なアプローチが刺激的です)。


相手は憲法の意味も理解していないと考えてしまうと、一方が「馬鹿」だから問題外という話になって生産的な議論には発展しようがありません。それゆえ、憲法についての有意義な論争を望むのであれば、どちらかが「事実」を理解していない「馬鹿」なのではなくて、日本国憲法が果たすべき主たる機能についての異なる「主張」が対立していると考えるべきでしょう。そろそろ、憲法論争が「ネクスト・ステージ」に進むことを期待したいものです。



*1:なお、カテゴリ分け自体はテキストに沿っていますが、各カテゴリの説明については私の理解が含まれていますので、必ずしもテキスト本文と一致しないところがあります。


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