Monday, August 2, 2010

祈りとしての革命


革命とは何であるか。それは、私たちを日常的に取り囲んでいる「市民的現実」の破壊であり、外部からの侵略であると、千坂恭二は言う(千坂[2010])。是々非々の立場取りや条件付き賛否などは、革命とは相容れない。これら議論≒説得可能性なるものは、相手と共通の基盤の上に立つことを意味するが、革命はそうした「基盤」そのものと全面的に対立し、それを覆そうとする行為にほかならないからである。革命は、この世界そのものと一切の妥協なしに敵対することでなければならず、それ以外ではあり得ない。


したがって、空腹への批判や生活の改善要求などは、革命の問題ではない。それらはエコノミーの、つまり経済学の問題であり、経済学批判の問題ではないからである。飢えや貧困をどうにかしようとするヒューマニズムなどは、資本主義内部の問題でしかなく、資本主義そのものの批判ではあり得ない。無論、空腹への批判が革命と結び付いていた時代もあった*1。だが、冷戦の終焉とともに資本主義が全球化されて世界そのものと同一化し、資本主義の外部が完全に消滅した現代では、単なる進歩・改良に飽き足らない資本主義批判は、現実そのものの破壊、すなわち生活の荒廃へと結び付かずには貫徹されない。革命は、世界の外へと追放されたのである。

ヒューマニズムを拒絶し、資本主義そのものの批判へと至ろうとすれば、人類の抹殺さえも肯定し得る。私たちが資本「主義」のイデオロギー性を意識しなくなり、それを自らの生の必然的条件として疑いもなく前提するようになったこの世界では、革命など現実に生きる人々にとっての災いでしかない。したがって、革命を目論む者は私たち小市民にとって共通の「敵」、絶対的他者であり、「われわれ」が一致団結して殲滅すべきテロリストなのである。

千坂の示唆において重要なのは、市民的現実への侵入であり、非妥協的な攻撃としての革命においては、行為者の意図や思想などは全く問題にならない、ということである。革命の本質が体制との絶対的敵対性に在る以上、それは現実を否定し、国家を破壊して権力を獲得しようとする運動それ自体として完結している。革命は、個別的な要求項目を持たない。ゆえに、革命は遂行されるか阻止されるかのいずれかでしかあり得ず、部分的な肯定/否定などは許されない。そして、それが遂行される過程において、秩序破壊と権力獲得の目的に奉仕しないような行為理由などは重要でない。現実を破壊することに理由など要らないのであって、革命家が後に何を樹立しようとするのかということは、革命の本質とは無関係である。


この点において、白井聡のレーニン解読が示唆に富む。白井によれば、レーニンの革命観とは、人間の外部に存在する非人間的な客観性≒「モノ」の力が発現することによる既存秩序からの人間解放としてイメージされるものであったという(白井[2010:50])。解放が外部から生じる何かによって引き起こされねばならないのは、既存の世界から生まれてくるものでは、人間の有限性を超えた真に革命的な変化などは期待できないからである。

そして、人々の解放をもたらすこの「外部」は、誰かの手によって現実世界へと引き寄せられなければならないものであるという。すなわち「ハンマーによって現実の外皮を叩き破り」、何らかの「外部」を私たちの世界へと持ち込もうとする行為こそが、革命と呼ばれるのである(白井[2010:98])。孫引きになるが、白井が引いているレーニンの言葉を引き写しておこう(白井[2010:124]、強調はレーニン原文で白井著では傍点)。


プロレタリアと貧農の反抗力というものを、われわれはまだ見たことがない。なぜなら、この力は、権力がプロレタリアートの手にあるときにはじめて、すなわち、国家権力が被抑圧階級の手に入ったこと、この権力が地主と資本家に対する貧民の闘争を助け、地主と資本家の反抗を打破していることを、困窮と資本主義的奴隷制とに押しつぶされた幾千万の人々が体験によって知り、感じるときにはじめて、あますところなく発揮されるからである。そのときにはじめて、われわれは、資本家に対するどれほどの無尽蔵なさらなる反抗力が人民のなかに潜んでいるかを、知ることができる。


こうして「外部」は創り/造り出される。「客観的なものは現実に対する判断に供される批判的な尺度としてすでに準備された出来合いのものではなく、革命によってはじめて開示され、獲得される何物かである」(白井[2010:120]、傍点省略)*2。「革命運動の前に立ちはだかる現実としての「客観的実在」のなかに本当に展開されるべき物質(ヘーゲルにとっての「理性的なもの」は宿っており、それは叛乱を通じて世界にもたらされる秋を待っている」(白井[2010:98])*3。だからこそ、革命家の手には「ハンマー」が握られなければならない。レーニンは、断じて言う:「待つことは、革命に対する犯罪である」(白井[2010:125])。


さて、(きっと)決して革命家ではない「われわれ」が、こうした言説を前にして怯え以外に感じるべきことは何だろうか*4。それは、かつてヴェーバーが「資本主義の精神」と結び付けたところの、「プロテスタンティズムの倫理」だろう(ヴェーバー[1989])。ヴェーバーが描いたプロテスタントは、予定されている救済に自らが含まれていることの信を置くことで足ることを知らない労働に精を出したが、それは内実不明の「外部」に信を置いて何はなくとも現体制を破壊することに精を出す革命家の姿に重ね合わせることができる。

それぞれが信じたいものを誰も知ることができない遠い未来に見ることで現在の行為への動因をもたらす所作自体は、様々な場面で広く目にすることができるものであるから、ここに革命家のエートスと「資本主義の精神」との何らかの結び付きを見出そうとする皮肉には、大した価値はないだろう。むしろ私たちはそこに「祈り」を見るべきであり、この世界には実在し得ない「外部」を敢えて創り/造り出そうとする営為において、革命家すらも避けることができない「祈り」について考えるべきなのである。

「祈り」とは何か。それは超越的な何物かとのコミュニケーション企図である。「祈る」ことの固有性とは、「願う」でも「望む」でもなく、だが決して「想う」には留まらない部分に在る。「こうして欲しい」と願ったり、「こうであったら」と望んだりするわけではない意味で「祈らざるを得な」かったり、「祈ってしまう」時、おそらく私たちは、得体の知れない何かと対話しようとしているのであろう。その相手は自分自身でもないゆえに、「祈る」ことは「想う」ことでもなく、答えない何物かに向かって働きかける行為としてしか見なせない。

革命家は、未だ見ぬ得体の知れない(来るべき)可能性に対して「祈っている」。革命とは、それ自体が祈りとしての破壊である。祈ることに理由は要らない。祈るか、祈らないかの分岐が在るだけである。祈りに内容は存在しない。採り得るのは「何を祈るか」ではなく、「どう祈るか」の選択だけである。さて、どう祈ろう――革命か、否か。道が分かれている。


文献一覧



  • アレント, ハンナ[1995]『革命について』志水速雄訳、筑摩書房
革命について (ちくま学芸文庫)


  • 千坂恭二[2010]「革命は電撃的に到来する――大きな物語は消滅したのか」『悍』第4号
悍 第4号 特集:嗚呼、左翼


  • 白井聡[2010]『「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想』作品社
「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想


  • ヴェーバー, マックス[1989]『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波書店
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)


*1:アレント[1995]を参照。

*2:ゆえに、固定化を拒む「自由」に付せられる「未知の」なる形容には、「かくめいてきな」とルビが振られなければならないのである(白井[2010:249])。

*3:革命が自然発生的という意味で必然的なものでは決してなく、あくまでも選択的に為されるものでしかないことは、千坂も指摘するところである。

*4:私はシュティルナー的エゴイストとして、「革命」よりも「反逆」の道を採る。


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