Monday, October 18, 2010

熟議批判の嘘と本当


池田信夫氏のブログは普段読まないのですが、さる人に記事を紹介されたので以下を読みました。せっかくなので、簡単にコメントをしておきます。


  • 熟議という「便利な嘘」 - 池田信夫blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51491223.html


話題になっているdeliberative democracyですが、その流行は別に90年代の欧州に限ったことではなく、米国その他でも未だに議論は盛んです(例えば、重要な理論家の1人であるJohn Dryzekは、オーストラリア国立大学に勤めています)。ハーバーマスの理論が現在の議論の重要な源泉の1つを提供していることは確かですが、今では彼に限らず様々な論者が議論に参入しているので、deliberative democracyをハーバーマスに代表させて一括りに批判するのは的外れです。熟議論は理性への信頼が克ち過ぎているのではないかという批判は初期からあるもので、現在では情念・感情のような非合理的ないし非言語的な要素をどう扱うかに大きな関心が集まっています。


この新しい民主政論がかつての参加民主主義論とどこまで異なっているのかは1つの論点として重要ですが、「熟議」は何も直接民主政とばかり結び付くわけではありません。直接民主政への志向性が比較的強いと言えるのは、いわゆる「ラディカル・デモクラシー」の方でしょう(ここでは説明しません)。所与の選好を数え合わせて決定を下すような、民主政の「集計モデル」への批判がdeliberative democracyの核になっていることは確かですが、例えば選挙(や住民投票)の直前に祝日を設けることで市民間での議論を喚起・促進しようとする「熟議の日」などのように、熟議には投票を下支えするような機能も想定されています。


熟議が代表制を否定しないことは(菅首相が言うように)議会が熟議の場になり得ると想定されていることからも明らかであり、つまりそれは既存の民主政を一層洗練させるために提唱されているのであって、政治システムを何か別のものに「全とっかえ」しようとする理論ではありません(その辺りが「ラディカル」な人が不満を感じるところかもしれません)。この点から自然に帰結されるように、熟議を重視することが直ちに、いつでも何でも合意できるとの考えや、「話せばわかる」的オプティミズムを意味するわけではないのです(もっとも、こうした信念に基づいて熟議を訴える立場があり得ることは否定しません)。民主政が決定を導き出す装置であることと、熟議の活用・追求は矛盾しません。


そもそも首相が熟議論などを持ち出したのは、投票の結果としての「ねじれ国会」を立法機関として機能させるためですから、「選挙‐議決」の集計モデルに則った既存の政治システムを補完する形で熟議を活用しようとする考え自体は、文脈として何ら不自然なところはありません。少なくとも今の現実政治の局面では議会での熟議が問題になっているわけですから、全ての人々が政治参加をすることの不可能性などを論ずることによって熟議論そのものを否定しようとすることの方が、余程お角違いでしょう。文脈を間違えることは恥ずかしいので、ここでは民主政のそもそも論には立ち入らないことにします(そうした点にご関心の向きは、当ブログを検索して頂ければ幾つか記事があります)。


予算のことなどはよく分かりませんので、文科省の試みについても具体的な論評は避けますが、「熟議カケアイ」のみならず、「リアル熟議」など市民主導の試みも色々と行われているようで、それ自体は良い方向への動きなのではないでしょうか。理論と実践は違いますから、こうした取り組みや首相の想定している国会像などがどこまでdeliberative democracyの理論と一致しているかどうかは分かりません。新奇な言葉を掲げても、大した内実が伴っていないのであれば、それとして批判する必要があるでしょう。学問上の理論や概念が一般社会や現実政治の中で都合の良いようにつまみ食いされたり、時に消費され使い捨てられて行くのは、自然なことです。「熟議」が一般に普及してそれなりに定着したならば、その現実の姿を批判的に捉え直すことで理論は更に学ぶでしょうし、やがて廃れて打ち棄てられるようになれば、その屍に理論はやはり学ぶでしょう。それでいいのだと思います。「現場」はそれぞれですから。


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