Thursday, November 18, 2010

「暴力装置」イコール問題発言の構図


仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 抗議受け謝罪、首相も陳謝

http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111801000326.html


ツイッターでは政治家が政治学/社会学における初歩の初歩も知らないのか、として批判者を問題視する反応が(私のタイムラインでは)多かったように思いますが、今回の事案で重要なのはヴェーバーやレーニンがどうということではなく、現代の日本において市民がいかに訓致化されているかということです。

市井の一般の人々がヴェーバーなど読むはずもなく、その多くが暴力なる機能語に規範的意味を過剰に読み取ってしまうのは自然であり、その反映としての側面を持つマスメディアや政治家が仙谷発言を批判的に捉えること自体は大した話ではありません。日本ほど相対的高度に民主化された国家において、軍事組織を「暴力装置」と表現することがこれ程の反発を呼び起こすのは、むしろ当然です。


国家は、特定領域において暴力を唯一合法的に独占行使します。しかし、円滑な統治のためには、暴力に基づく威嚇や強制が日常的に露わとなっては、都合が良くありません。それは国家と対抗的な暴力の存在を意識させ、統治の安定化を妨げるからです。暴力は直接よりも間接に働く方が、できるだけ人々から遠く、誰にも見えないような形で使われる方が、統治のためには望ましい在り方です。

民主化が高度に達成されているということは、統治権力に大衆が同化されている(と感じられる)度が高いということですから、統治を担保する軍事組織を暴力として表象させることに人民が反発するのは、当然に予想できることです。むしろ民主化の程度が低い国家である方が、統治権力が頼みにする軍事組織を「暴力装置」と表現することへの、一般市民の抵抗感は少ないでしょう。ですから今回の仙谷発言に対する反発は、「左翼は遠くなりにけり」という以上に、日本が(相対的)高度に民主化を達成している国家であることの証左として受け止めるべきなのです。


しかし、それが単に言祝ぐべき事態であるのかどうか、私は知りません。「国際協力や災害援助のために働いている自衛隊の皆さんを暴力装置呼ばわりするなんて」と憤る人々の姿には、その銃口が自分たちに向く可能性への想像も感じられなければ、その銃口の向きを自分たちが決めていることへの意識も見えません。「暴力」の語を隠蔽しようとする身振りの中に、それによって支配される側に回り得る実感もなければ、それを通じて誰かを現に抑圧・搾取している自覚も存在しないように思えます。現実には、ある民主的決定が為される度ごとに、いつも少数の反対者が、かしこに遠望される暴力装置の前に屈しているのですが。

無論、これこそが円滑に運営される民主的統治の(一つの?)姿なのです。市民は権力に訓致されていると同時に、権力へと訓致されています。そして、その権力は、できる限り暴力的な造形が露わとならぬよう、粉飾されねばなりません。誰しも、被害者になりたくないのと同時に、加害者として手を汚すことを嫌うからです。暴力装置を隠蔽しようとしているのは、一部の政治家やマスメディアではなく、彼らの振る舞いを規定している人民です。われら主権者の持つ武器の煌めきを言挙げすることは、はばかられなければならない無作法なのです。これが教育によって相当程度解決される性向なのか、あるいはより根が深い問題なのかについては、今のところ私は答えを持っていません。


No comments:

Post a Comment

Share