Wednesday, December 7, 2011

民主党の組織と政策



今夏、書籍としてはほぼ初と言っていい、民主党についての実証的研究が出版された。若手の研究者を中心とする本書では、民主党の特徴を予め(1)理念や政策の曖昧さ、(2)政権獲得の追求、(3)組織戦略の不明確性の3つに見定めた上で、その曖昧な組織と政策についての分析を行っている。

1章では、地方議会における民主党所属議員の議席割合が自民・公明・共産各党などと比較して低水準であり続けていることや、党員・サポーター数が自民党の3分の1程度に留まっていることなどから、民主党の地方組織の脆弱さが示される。これは、国会議員を中心として結成されたため、院外の社会的基盤を欠いている同党の性格を現わすものとされる。

地方組織を分析した4章と5章はそれぞれ、地方組織が未発達な地域に同党所属の国会議員が誕生することで組織化が進む事例や、主要な支持団体たる労組内部の対立(旧総評系と旧同盟系)が局面によって表面化する事例を扱い、「上からの創出」に基づく民主党における社会的基盤の弱さと不安定さを裏付けている。

同党については結党以来「寄り合い所帯」との批判が付きまとってきたが、3章が明らかにするように、党内対立を促進しやすい「開かれた」党首選を行った新進党に対して、党員投票を伴う代表選があまり行われず、代表選後の処理も融和的に為された民主党においては、紛争の封じ込めが成功してきた。また、旧党派を持たない新人議員の増加が旧党派の対立を相対化する中で、党内グループ間のイデオロギー距離は縮小し、グループ内の立場は拡散している(2章)。


編者2人による1章では、「試論」と断りながらも、民主党を「資源制約型政党」であると性格付けている。既存の政党類型を踏まえた上で提出されるこの新類型は後に続く章では登場しなくなるが、同じ大衆的基盤を欠いた政党類型の中でも、効力・人員確保の両面で組織動員の縮小に直面するためにマーケティング的手法を用いる「選挙プロフェッショナル政党」や、党員減少による党財政悪化のために国家財政からの補助を求める「カルテル政党」などとは区別されるものだとされる。

そもそも無党派層の増大は、人々が今や政党に対する恒常的結び付きを持たないことを意味しており、党活動への参加、党費の納入、アイディアや情報の提供、公職への候補者の供給、選挙における投票といった諸資源を政党が社会から調達することが困難になったということである。社会からの資源調達が難しくなる中で形成されなければならなかった民主党はさらに、自民党による一党優位体制のため、国家からの資源調達も困難であった。政権交代も問題を解決しない。経済のグローバル化が国家による市場のコントロール余地を狭め、財源や規制権限などの国家資源を党派的に利用することへの制約が強まっているからである。

このように、国家からも社会からも十分な資源調達が困難な環境下に置かれていることが、資源制約型政党たる意味であるとされる。同類型については、自民党一党優位支配下の野党やグローバル化状況下の与党が民主党に限られないことや、政党交付金を通じた国家からの資源調達が為されていることなどから、カルテル政党との違いが解りにくい。また、資源制約型政党であることが、選挙プロフェッショナル政党であることと矛盾するわけでもないだろう。

それでも、社会から動員される政治的資源が乏しいことが利益集約能力の低さに結び付いているとの指摘は重要であり、同党が自民党的な利益誘導政治への批判をアイデンティティーの源泉としてきたことや、左右に振れる政策の中でも比較的一貫している普遍主義的政策傾向(8章)などは、この点と結び付くだろう。


政権交代は自民党に対する批判票の受け皿として民主党が受け止められた結果であり(7章)、民主党の支持率上昇は、政権交代の可能性および実現とそれに伴う報道量の増加に導かれている(6章)。これは政権交代を追求してきた同党の成功であり、「政権担当能力」をアピールしてきたことの正しさを示すものである一方、民主党の政策そのものへの支持は乏しいことを意味する。
自民党に対する「懲罰」を可能にする代替的選択肢と見なされる民主党には、政権獲得を通じて自民党との政策的差異の縮小が促される*1。子ども手当や高速道路無料化などに代表されるような、自民党型の利益誘導政治――斉藤淳の言葉を借りれば「エコヒイキ」――へのアンチとして生み出された普遍主義的な政策――いわゆる「バラマキ」――が(財源制約があるとしても)さほど支持を得ていないことは、民主党の存在が旧来の政治システムを敵視する一点で糾合された一種ポピュリスティックな政党であり、具体的な個別のニーズとは切り離されていることを意味するのかもしれない。

民主党の地方組織が未だに育っていないのは、国政におけるポピュリスティックなニーズと地方政治における個別具体的なニーズが直接結び付くものではなく、相互に分断されていることを示しているとは考えられないだろうか。本書4章の指摘によれば、民主党地方組織の形成を促し支持者を動員するにあたって共通する明確なインセンティブは、非自民の結集という以外にない。だが、非自民であることが普遍主義を志向することになるとは限らない。既存の利益誘導政治に対する様々な不満は、異なる形の利益誘導(エコヒイキ)への欲求であることが多いのである。

個別の異なる利害を糾合するポピュリズムがあくまでも疑似普遍主義にしかならないことを思えば、普遍主義的な負担と分配への支持不拡大も理解可能である。共通する敵を名指すことによって個別的な利害を糾合するポピュリズムが民主党政権として一度成功したとすれば、その果実に対する失望が次なるポピュリズムを生み出したとしても、不思議ではない。




*1:二大政党制への接近が事実上の「一党制」に近づくことはかねて指摘されているところである。例えば、吉田徹『二大政党制批判論』光文社新書、2009年。

Saturday, December 3, 2011

政治学方法論+現代政治読書会 第2回


要領



  • 日時:12月3日(土) 18:30開始

  • 場所:法政大学大学院棟 302教室

  • 文献:


    • 上神貴佳/堤英敬(編) [2011]: 『民主党の組織と政策』東洋経済新報社.


記録



  • 参加者:4名

  • 次回予定:未定

Monday, November 28, 2011

哲学的想像力の滞留――東浩紀『一般意志2.0』



東浩紀『一般意志2.0--ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)を強いて言えば、公共哲学の本と言えるだろう。表題の通り、本書は、グーグルに象徴されるような高度に発達した情報技術環境に刻まれる行動履歴が人々のフロイト的な無意識(本当の望み)を統計的に可視化することを通じて、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で示したような「一般意志」の新たな形態と言えるものが現れ得るのであり、またそうした「一般意志2.0」こそが従来的な政治過程を規律する原理になり得ると主張する。著者は「政治」(過程/イメージ)の刷新を志しているが、考えられているのは、狭い意味での政治にとらわれない未来社会像そのものである。

一般意志とは主権者の意志を意味するが、個々人の私的利害のような「特殊意志」を集積して得られる「全体意志」とは区別され、人々に共通の利益を示すもので、定義上誤ることがないとされる。著者はルソーの「二次創作」により、一般意志は理性的な熟慮と討議を通じてではなく、コミュニケーションなしに導かれると読むべきであることを主張し、そこから個々人の勝手なつぶやきが政治空間を規制する「ツイッター民主主義」を正当化するのである。政治システムに直接かかわる範囲で本書の主張を短く要約するなら、あらゆる政治過程(「熟議」)を公開した上で、それを見た人のコメントがニコニコ動画やツイッターのハッシュタグのようにリアルタイムで当の政治的アクターたち(政治家や官僚)の目に触れるようにすることにより、場の空気としての「みんなの均された望み」が議論の方向性を大まかに統御することができるのではないか、ということに尽きる。


ルソーやホッブズ、ロックらについての著者独特の解釈がどこまで妥当であるのかは、重要ではないだろう。実際のところ、先の主張を導き出すためにルソーは必要ない。本書の立場をより一般的な文脈に接続するなら、情報技術を通じて未組織大衆による利益政治の規律を可能にしようとするものだと言える。したがってそれは、流動性が高まった現代社会における利害伝達経路の再編を図ろうとする「ステークホルダー・デモクラシー」の一部として解釈することもできる*1。「当事者の専横は、非当事者の欲望によって自ずと限界づけられる」(162頁)という期待は、狭く濃いステークホルダーの議論に広く薄いステークホルダーへの応答性を確保しようとするものだと言えるだろう。

そのように解釈できるということは、著者の議論が結局それなりに穏当なところに落ち着いたということであり、それ自体は十分な評価を与えられるべきであると同時に、最早その議論に刺激的な部分は見出しにくいということでもある。私は本書の基本的な主張に賛成するものである。それゆえにこそ、本書の元となった連載を一通り読み終えたときに私が感じたのは、失望であった。回が進むほど同じ内容が繰り返され、想像力の枯渇を感じさせた。そして部分的な加筆が為された本書においても事情は基本的に変わらず、「具体的な実装や制度論は、読者のみなさんの想像力に委ね」られることとなった(4頁)。

むろん改めてまとまった形で読んでみると、有益な発見がないではない。ツイッター民主主義が、無意識レベルでの選好を自動的に集計して最適な均衡を図ろうとする純粋に功利主義的な立場ではなく、無意識を政治アリーナ上で可視化することそのものを重視するという意味で、あくまでも民主主義を志向していることが明確にされた点は、著者の立場自体を理解する上では重要である。こうした議論を積極的にフォローしてこなかった人々にとって、本書は大いに刺激的であろうし、便宜に適うと思われる。


さて著者は、国家や企業の「外部者」が、いかなる決定権も持たないにもかかわらず、その国や企業内部の人々に大きな影響を与え得ることを指して、新しいタイプの政治と呼んでいる。そして、コミュニケーションを重視する政治観と対立を重視する政治観の双方を退け、政治の概念を「ある特定の共同体への所属を前提とする活動という意味から解き放つ必要がある」と語る(249頁)。だが、既存の境界線を越えた政治の可能性については(ステークホルダーという言葉がそれであるように)最近30年程の間にかなり頻繁に語られ続けてきた。それにもかかわらず政治が最終的には必ず境界線と結び付き、(排除を含む)コミュニケーションを帰結するものであることは、既に明らかと言ってよい。著者は無意識を数えると言う。では、無意識を数えられる主体はどのようにして定まるのだろうか。そこには既に対立が、政治の分断線が横たわっているのである*2

一般意志は「数学的な存在」であり、それは「人間の秩序にではなくモノの秩序に属する」と言われる(67頁)。繰り返し示される「数学」に対する著者の信頼は奇妙なほどだが、人々の行動履歴さえあれば、そこから人々の本当の望みが自動的に生成されるという意味で、本書の議論はこの信頼に大きく支えられている。しかし言うまでもないことだが、数学は人間が作り出した論理体系であって自然そのものではない。それは人工的な秩序に属する。数学が幾つもの規約と仮定から出発するように、誰のどこまでのデータを集め、どのように均衡させて可視化するかといった「一般意志2.0」のシステムを設計・運営するのは、人でしかない。実は著者自身が、一般意志は「そこに共同体がある限り」存在すると書いてしまっている(67頁)。「数学的存在としての一般意志」が「友敵の分断線を決して作らない」(78頁)のは、それが分断の後の共同体でしか立ち現れないからではないだろうか。

著者は「主権は一般意志に宿っている」とするが(50頁)、逆である。一般意志があるから主権があるのではなく、主権という具体的な(定義上、至高かつ単一不可分とされる)統治権力が存在するからこそ、その行使を左右する一般意志の所在や成り立ち、内容が問題とされるのである。従来の一般意志概念を実在しない「抽象的な理念」としか捉えていない点で、著者の感覚には決定的に貧しい部分がある(それを私は「政治学的想像力」と呼んだことがある)*3。非凡な哲学的想像力の成果である本書が50年後、100年後にどう評価されるのか、私は知らない。ここに記したのは、同時代の読者たる私自身の個人的な感想である。


参考






*1:ステークホルダー・デモクラシーについては、拙著「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」(政策空間、2010年9月29日)を参照。そこで私は、こうした立場をステークホルダー・デモクラシーの「数理的解釈」と呼んだ。

*2:リチャード・ローティの議論を持ち出すことは、何の解決にもなっていない(13章)。想像力を規制するものは共同体への帰属であり、情念の成立は理性の働きを通じて可能になる。例えば、以下を参照。

*3:一般意志が主権に基礎付けられるのではなく、むしろ主権の観念が誤って一般意志に還元されてしまうために、権力は道具主義的にしか理解されなくなる。権力がそれ自体として存在する動かしがたいものとして認識されておらず、道具主義的にしか理解されないから、政治の概念が簡単に刷新できるものと思われてしまう。この政治学的想像力の貧困が著者個人の問題なのか、現代の日本社会の問題なのかは、検討の余地があるかもしれない。


Thursday, November 3, 2011

掲載告知:「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」


論文掲載のお知らせです。

10月刊行の『法政大学 大学院紀要』第67号(91-111頁)に、「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」と題する拙論が掲載されました。

内容は、修論の権力論(第1章第3節)と「自由の終焉」の一部(こちらから読めます)を合体させたもので、その前後に辻褄合わせで少しだけ何か言っています。


随分と大きなテーマを扱っているので、タイトルに見合うような議論が展開されているのかと言えば分かりませんが、それでも何かしら人様の思考のヒントとなり得るような一断片でも含まれているのではないかなぁ、とは期待しておるところです。

全国の大学図書館にはそれなりに所蔵されているようですので、ご興味をお持ち頂いた方には是非パラパラとめくってもらえれば幸いです(ただし第1節は冗長なので、飛ばした方がいいです)。ある程度時日が経てば、リポジトリの方にも載るのかなぁとは思いますが、定かではありません。


最近は査読なしの紀要への風当たりが強いようですが、査読というシステムを回していくことの(投稿者・査読者・編集者の三方にとっての)大変さはあまり理解されているように見えません。他方で、査読誌に比べて長い分量(今回の拙論は4万字超)を書けて、かつ投稿から比較的短い期間で掲載される紀要のメリットもまた、見過ごされがちです。双方の利点を生かせる出版と評価のシステムを目指して欲しいと思いますが、まぁこれは余談でした。

内容的に新しい論文は、今後発表していけたらと思います。今後とも宜しくお願いします。


Saturday, October 29, 2011

政治学方法論+現代政治読書会 第1回


要領



  • 日時:10月29日(土) 18:30開始

  • 場所:法政大学大学院棟 302教室

  • 文献:


    • 斉藤淳 [2010]: 『自民党長期政権の政治経済学――利益誘導政治の自己矛盾』勁草書房.

    • 菅原琢 [2009]: 『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社(光文社新書).


記録



  • 参加者:3名

  • 次回予定:上神貴佳/堤英敬 (編) [2011]: 『民主党の組織と政策』東洋経済新報社.

Tuesday, August 2, 2011

「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件


政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。

議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。

難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと多数決の違いを理解していません。「過半数では物足りないけど8割ならいいんじゃないか」というのは、単純多数決か特別多数決かという違いだけであって、多数派の意見をそのまま通すという意味では変わりません。それをコンセンサスとは呼びません。

ある方針・政策(policy)や決定に7~8割の人が賛成しているところで、残りの少数が強硬に反対する場合、その対立をどのように調停し、実行可能な選択肢を見出していくかという局面に、コンセンサスへ向けた努力が現われるわけです。原発問題についてそうであるように、自らの主張・立場を容易に崩さない人々というのはふつう、当該のイシューに対する強い利害関心(とそれに伴う専門性)や何らかの権力を持っている個人・集団です。そしてそれゆえにこそ、方針・政策や決定を(彼らの協力を得るか、少なくとも妨害を行わせないことによって)円滑に遂行するために、対立を乗り越えたコンセンサスが目指されることになるのです。

以上を踏まえて、ある方針・政策または決定について、コンセンサスが得られたと見なすために満たすことが必要な3つの基準を、試みに示してみます。


基準1.公示性



  • 当該のイシューについての情報がアクセスしやすい状態で公開されており、基本的な諸事項が広い範囲で周知・理解されている。


基準2.包摂性・包括性



  • 主要なステークホルダー(利害関係者)が決定過程への実質的なアクセスを得ることができる。

  • 主要なステークホルダーの包摂の上で、イシューについての主要な論点の全てが検討される。


基準3.コミットメントを伴う合意



  • 参加者がイシューについて取り交わす合意(agreement)には、合意された方針・政策ないし決定を自らの立場としてその実現を将来にわたって支持・推進するという、責任あるコミットメント(commitment)が伴わなければならない。

    • 合意は、参加者ごとに異なる理由に基づくものであって構わない。

    • 合意に伴うコミットメントは永続的である必要はないが、継続的であることが求められる。コミットメントからの離脱は、合意の前提となっていた何らかの条件の変化など、変容を説明する理由の提示を必要とする。


それぞれに潜む問題



1つ目の基準については、あまり問題となるようなところは多くないように思えます。どこまで行けば情報が周知されたことになるのか、というのは1つあり得ますが、これだけメディアが発達している中でそれほど重大な問題となり得るとは思えません。問題は情報が専門性を多く含む場合や情報の解釈をめぐって争いが生じる場合ですが、これらは論点についての認識と理解という意味で、既に2つ目の基準と多分に重なってきます。

2つ目は最も重要でかつ難しい問題です。この基準そのものが極めて政治的なものになり得ます。「誰がステークホルダーであるのか?」という判断は、イシューが何であるのか、つまり「何のステークホルダーか?」という課題設定(イシューの定義)と無関係ではあり得ません。例えば原発問題にしても、それが電力や経済の問題なのか、生命や世代間倫理の問題なのか、といった問題の意味付けの仕方によって、考え方は違っています。

この問題のステークホルダーは誰々である、と選定していくこと自体において、イシューは定義されていくことになります。それは政治です。決定過程に未来世代の人々を含められないことに象徴的であるように、包摂性を完全に実現することはできません。論点の包括性(これはイシューの定義の時点で既にある程度限定されています)についても同じことが言えます。したがって、コンセンサスは常に不完全で暫定的なものです。これは欠陥のように思えますが、絶えず異議申し立てに開かれるという意味で、有益でもあります。コンセンサスが万能で無謬のものと見なされると、それが排除・侵害しているものが意識されなくなり、政策変更も困難になるからです。

不完全で暫定的なコンセンサスを、それでも実効力あるものにしようとするのが、3つ目の基準です。コンセンサスに与した者は、少なくともある限定的な範囲で、その実現に協調して尽力すべし、ということになります。ここに至ると、責任に訴えるという意味で、倫理の問題が入り込んできます。

3つ全ての基準に関係するのは、それぞれをどのような形で行うのかという手続きの問題です。しかし、それはまた別のところで考えましょう。


Friday, June 3, 2011

かかわりあいの政治学8――「チーム」はなぜ愛されるのか


野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガース、Jリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。

だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか?

実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなくなったりする人は、それなりに存在する。だが、熱心なファンの多くは、チームが経験する様々な変遷にもかかわらず、自分が応援するチームへの愛を容易には失わないようである。これは一体、何によるものなのだろうか。チームの変化がファンの愛を失わせるものではないとすれば、ある日に選手・スタッフ全員が一挙に入れ替わり、ユニフォームやチーム名も変更されて、まるきり別のチームのようになってしまっても、彼らはこのチームを応援し続けるのだろうか。

もちろん、そんなことは考えにくい。選手の入れ替わりがチームへの愛を失わせないのは、あくまでもそれが一部の選手ごとに漸次的な速度で行われる(そしてその間に新入選手をチームの一員と見る認識の形成が進む)からであって、同時に丸々入れ替わってしまったときに同じ愛が維持されることは稀であろう。逆に長い年月の中で徐々に変化が生じ、その歴史をファンが共有するのであれば、結果として(客観的に見れば)全く別のチームになっていたとしても、ファンはそれを同じチームと見る。ここでは、ある種の連続性(経路・文脈の繋がり)がカギとなっているように思われる。


このように考えてくると、チームの同一性問題は、人格の同一性をめぐる哲学的議論と似てくる。30年前には人を人とも思わないような殺人鬼だった人物が、今では虫も殺さない好々爺になっていた場合に、「30年前の彼」と「現在の彼」という2つの異なる時点における人格を直ちに同一人格と見るのは困難である。これら異時点間の人格は、そのままでは相互に直接の「連結性」を持つものではないからである。両人格を同一と考えさせる理由があるとすれば、「現在の彼」は確かに「30年前の彼」から徐々に徐々に変化した果てに存在するものであり、その間のある時期ある時期の「彼」たちの「継続性」を通じることで「つながっている」という1点しかない*1

あるチームが経た内実の変化にもかかわらず、それは自分が愛する「あのチーム」だと変わらず思えるのは、同様の思考から説明できるだろう。実質的には全く別の存在になっているとしても、その間の年月を介した結び付きに基づくなら、同じ「あのチーム」であるとの見なしが可能になるのである。こうした説明の仕方は、法人格が同じである(から同じチームだ)などといったフォーマルな制度から為し得る形式的な説明を支え、その内実を補填するものである。それは、法人格などの社会的実在に一貫した統合性を与えるメカニズムこそ、こうした「見なし」にほかならないからだ。

個々のチームには何か固有の「本質」が存在するのだと、論理的に信じられる人は(おそらく)いないだろう。しかし、人についてはそうではない。個々の人間は、その人が他でもなくその人でしか在り得ない所以たる固有の本質を持っている。そう信じている人は多い。あるいは少なくとも、固有名を持つ1人の人物の存在を何らかの確定記述――男/女であるとか、出身・国籍がどこで、何語を話し、エスニシティや階層は何であるのかとか、身長・体重はいくつで、どんな容貌をしており、どういう声で、どんな話し方をし、どのような表情を見せ、いかなる考え方を持っているのかなどなど、その人に関して記述し得る属性・情報の全て――に還元し尽くすことはできない、といった考え方に反対する人は少ないように思う。

けれども、固有名を確定記述に還元できない「余剰」とする立場は、実のところ何も説明していない。こうした立場は、ある確定記述の集合を一個体と見なすときに識別タグの役割を果たすべく付けられる固有名に「余剰」という別名を与えているだけで、そのような「見なし」がなぜ可能であるのかを何も説明しない。タグがなぜ機能するのかを説明しない。見なしを「規定」や「命名」などと呼んだところで、やはり言い換えでしかない。個体の存立について説明を与えようとするなら、年月を超えてチームを同じチームたらしめる継続性のような、一定の繋がり・結び付きの存在がなぜ見なしを可能にするのかを問わなければ、何の説明も可能にならないのである。

見なしはなぜ可能なのか。見なしを支えているものは何か。何らかの形で繋がっている、結び付いているということが、同じであること、1つであることの理由になるのはなぜか。あるまとまりが他と区別される1個として取り出されることは、いかにして可能なのか。こうしたことが問われければ、特定チームへの変わらぬ支持も、唯一人の伴侶への恒久の愛も、自分自身の存立の基盤も、何一つ本当には説明できない。


*1:細胞などの物質的連続性を考えてみても、同じことが言える。肉体を構成する物質は日々入れ替わり、その意味で数年前の私と現在の私は、全く異なる物質から構成されていることになるからである。


Sunday, May 29, 2011

馬渕浩二「シュティルナー『唯一者とその所有』」について



最近出た熊野純彦(編)『近代哲学の名著』に、馬渕浩二氏がシュティルナー『唯一者とその所有』の解説を書いています。馬渕氏は哲学・倫理学がご専門で、マルクスやその周辺を中心に研究されておられる方のようです。

シュティルナーについて書かれたものには誤解が多いので*1、どんな様子かなと期待半分不安半分で見てみましたが、巧くまとまっていると思いました(えらそうですいません)。参考文献にカール・レーヴィットと住吉雅美氏のものが挙がっていて、まぁそちらの筋で行けばそんなに変なことにはならないだろうとは思うのですけど、実際まともでした(そういう意味では住吉氏の功績はやはり大きいと言うべきなのでしょう)。哲学的な側面についての入門的なものとしては、これで十分なのかなという気はします。ただ、一昨年の末に出た滝口氏の著作も文献リストに加えておいた方が良かったとは思いますが。


ヘーゲルからニーチェへ〈第1〉―十九世紀の思想における革命的決裂 マルクスとキェルケゴール (1952年) (岩波現代叢書)

特にシュティルナーの言う「力」と「所有」の問題をきちんと整理して書かれているのは、良かったと思います。シュティルナーにおける所有の問題は、これまで意外とあまり論じられていないと思いますので(住吉さんので、あったかなぁ?)。私の『情況』論文でも、所有については書いていないですし。

ただ、分量の問題もあってということなのでしょうが、書かれていないこともあります。自己性、享受、連合などがそうですね。自己性は言葉自体は出てきますが、説明されておらず、結局のところ自己性とは何を意味するのかをこれでは理解できないと思います。その辺のところは私がわりとこだわっているところなので、参考までに拙論を読んで頂ければ(こちらから読めます)。

細かい問題としては『唯一者とその所有』の刊行年が1845年になっていますが、これは間違いで、最初に出たのは1844年です。しかし、これは編集・校正上の問題でしょう(よくあるミスらしいです)。
あと、リードのところでアレントの一節が引かれていて、熊野氏執筆の序章部分でも「永井均氏の議論につながる…」などといったことが書かれているのですが、これはどうなのかなぁ。まぁ住吉さん以降の読み方がそちらに引っ張られるのは理解できますし、まして哲学畑では無理のないことだと思いますが。永井氏については『ヴィトゲンシュタイン入門』の中で哲学遍歴を語っているところで「読んだけど違かった」哲学者の1人としてシュティルナーを挙げていたと思いますし*2、実際彼の独我論/独在論や倫理的なエゴイズムとシュティルナーの思想は別のものでしょう。アレントについては私の理解が拙いものではっきり言えませんが、アレントのWhoとシュティルナーの「誰」を一緒にできるのかどうかはちょっと疑問が残りますね(馬渕さんが全く一緒だと言っているわけではないし、私も全く別だと言うつもりはないですが)。


そんなところでしょうか。あとは以下などもご笑覧頂ければと思います。文献目録も、そろそろ更新しなければなりませんね。




*1:比較的最近の例は、以下。http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080705/p1

*2:確認していないので、もし違う本だったらごめんなさい。


Thursday, April 21, 2011

差別はなぜ許されないか――区別との区別


「風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。



人は差別をするものです。そして多くの人は、自分が差別をしていることを認めたがりません。非難を避けるためには、「これは差別ではなく区別である」などと主張されることがあります。不当な別ではない、と言いたいわけです。

辞書的な意味を言えば、複数の対象をそれぞれ違うものとして分けることが、「区別」と呼ばれます。そして、それら異なるものの間で取り扱いに差を付けること、特に一方をとりわけ不利に扱うような類の差を付けることが、「差別」と呼ばれるようです。

この意味の違いは、曖昧極まりないものです。違うものとして区別をすれば、それは当然に扱いの差を生むでしょう。すると、区別と差別は切り離せないものになってしまいます。しかし、5歳児を相手にする時と成人を相手にする時、どちらも同じ話題や話し方で対しなければ差別になる、と考える人はいないでしょう。区別と差別の違いは確かに存在するように思えます。おそらくポイントは、区別が導く「差」の内容です。

それから他方で、差別であれば全て許されないものなのかどうかも、省みるべき問題です。愛は差別ではないのでしょうか。愛する人に優しく接し、それ以外の他人よりも有利な取り扱いを為そうとすることは、多くの人が許容する自然な行為ではないでしょうか。もちろん、状況によってはそれが許されない(好ましく思われない)こともありますが、明らかな差別でも、それがむしろ微笑ましいものとして受け取られる場合(例えば親バカ)は存在するのです。

同じことをもう少し明確にするため、人と動物の差別的取り扱いを考えてもよいでしょう。人に認められている権利を他の動物に認めないことは、明らかな差別です。しかしその差別は、(道徳的に許されるかどうかは別にして)社会的に許容されています。「していい」差別なのです。少なくとも、許容されない「不当な」差別ではない。すなわち、こちらの問題のポイントは、差別には不当なものとそうでないものがある、ということのようです。


2つのポイントについて、考えを深めるため、法哲学者のR. ドゥオーキンの議論を導入してみたいと思います。ドゥオーキンは、「平等の処遇(equal treatment)」と、「平等な者として処遇されること(treatment as an equal)」とを、分けて考えます*1。そして、市民の基本的な権利は後者にあり、前者は派生的な権利であると言うのです。

派生的とされる「平等の処遇」とは、「ある種の機会や資産や負担を平等に分配される権利」を意味します。それに対して、より基本的とされる「平等な者として処遇されること」は、「他のすべての人々に対すると同様の尊重と配慮をもって処遇される権利」のことです。5歳児と成人は同じ人間として「同様の尊重と配慮」を傾けられますが、個別に配分される「機会」や「負担」、つまり権利と義務は同じではありません。そして、認められる権利や課せられる義務の個別内容が異なるからといって、それが子どもと成人の基本的に対等な関係を否定するものでないことは、多くの人が認める通りです。


この議論を介すると、区別と差別の違いをどこに見るべきかは、より明確になるのではないでしょうか。子どもと成人を区別して、個別の権利・義務の内容(取り扱い)に差を設けることが、「平等な者として処遇されること」に反しないように、差別に陥らない区別はあり得ると考えるべきでしょう。根本的な差を設けず、対象それぞれの諸特質に合わせた形で(A. センに倣って言うなら、capabilityを最大限にするように意図して)処遇に差を設けることは、差別とは分けて考えてよいのではないか。

そして同じ議論によって、差別の意味も明らかにすることができます。すなわち、複数の対象を「平等な者として処遇」しないこと、それぞれに「同様の尊重と配慮」を与えないことが、差別なのです。動物は市民と「平等の処遇」を与えられないだけでなく、「平等な者」とも認められません。

差別が不当であるか否かは、差別される対象間の共通性がどの程度大きく・重要であるかについての感覚ないし合意と、差別が行われる状況にどの程度の公的性格が伴うかの、2つの基準によって概ね左右されるでしょう。前者については、虫よりも哺乳類の権利を云々する人が多いことから、明らかです。後者は、全く個人的な財産から拠出して分配する場合と企業や政府が支出するケースとで、どちらにより偏りが許されるかの比較を通じて、容易に推測されます。


以上のように考えると、(不当な)差別がなぜ許されないのかは明らかです。社会が許さないと決めているからです。たとえ建前であろうと、現代社会は全ての人々を「平等な者として処遇」することを決めています(国民か外国人かによる差は、「平等の処遇」の水準の差に過ぎません)。差別は「平等な者として処遇される」権利を侵害するものであり、社会に対する挑戦です。人が差別を差別と認めないのは、社会に対する挑戦意図を隠匿するためなのです。

社会が個人や様々な下位集団から成り立つものである以上、差別を差別と認めない/名指さない暗黙の反抗によって、「平等な者として処遇される」権利についての合意は内部から食い破られ、スカスカの空洞になってしまいます。それは、自らの盾ともなり得る権利を使えなくしてしまうことでもあります。

それでも、人は差別を止めないでしょう。ですから、根本的に必要なのは、ただ社会の意志だけです。差別が「よい」か「よくない」かは重要ではありません。前提として、ある「平等な者」の範囲が存在するなら、社会は端的に差別を「許さない」。必要なのはこの意志だけです。範囲への疑義の形を採らない、この意志への反抗(それが意識的であるか否かは問題ではありません)は全て、反社会的な挑戦を意味しており、そしてその挑戦の成否は、社会の意志がどこまで貫徹されるかにかかっています。



*1:『権利論』増補版、木下毅ほか(訳)、木鐸社、2003年、304-305頁。


Wednesday, April 13, 2011

誰が都知事を選ぶべきか


進学について激励を頂いた方々、改めてありがとうございました。さて、ごく個人的なことをいつまでも最新記事に掲げておくのはどうも気恥ずかしいので、最近考えたことを簡単に。


以前「私たちはなぜアメリカ大統領を選べないのか」といった論点について述べたことがあります。アメリカ大統領は世界大の影響力を持っているのだから、その選挙権はアメリカ国民に限られるべきではないという考え方ですが、多くの人にとって流石にこれは随分突飛な話に聞こえることでしょう。いくら何でも住んでもいない国のトップを選ぶ権利なんて…と(では住んでいる国ならどうか――となると、これは定住外国人の参政権についての話になりますが)。

さてでは、先般選挙が行われたばかりの都知事について、同じ考え方を(よりマイルドに)適用した場合にはどうでしょう。言うまでもなく、東京都には(わざわざ別に「首都圏」という言葉があるほど)近隣他県から多数の人々が通勤・通学していますが、これらの人々に選挙権が認められないのは不当ではないでしょうか? 彼らはその生産・消費の活動を通じて都の経済・財政に貢献しているはずですし、同時にその生活は、事業所・学校を管轄する都の決定に大きな影響を受けています。1日の大部分を都内で過ごし、寝るためだけに都外に帰る、といった人も少なくないはずです。それなのに、なぜ寝床がある街の選挙権だけが認められ、通勤・通学する先の街の選挙権は得られないのでしょうか。都民でなくとも、都内に通う人々には都知事を選ぶ権利が認められて然るべきではないでしょうか?


日本の統計」2011年版によれば、東京都の平成21(2009)年推計人口は約1286万人(ただし都の2011年3月推計によれば約1315万人)。その内19歳以下人口が約211万人なので、成年人口は約1075万人です。昼間人口のデータは平成17(2005)年分が最新なのでそれを見てみると、約1497万人であり、同年の東京都人口は約1257万人なので、差し引き約240万人の非都民が都内で就業・就学している計算になります。もっとも、これは都内に居住して他県に通勤・通学する人口との相殺後の数値なので、他県から都内に通勤・通学する15歳以上の人口自体は、より多い約302万人です(15歳未満を含めれば、さらに多いことになるでしょう)。

昼夜間比率は平成12(2000)年も大差ない(どちらも約1.2倍)ので、最新の国勢調査でもそれ程大きな変化は見られないのではないかと思います(都のサイトも参照)。他県から通勤・通学する人口の年齢構成は定かではありませんが、少なく見積もっても200~250万人の成人が都外から通っているということではないでしょうか。大雑把な計算を続けますが、2009年時点での都の成年人口が約1075万人なので、最低でも昼間成年人口の6分の1は非都民が占めることになるのではないかと思います。帰結の議論はここでの本旨ではありませんが、他県から通勤・通学する人の年齢構成等は夜間人口とはまた異なるでしょうから、この層が選挙権を得れば、選挙結果への小さくない影響が予想されます。


数字の扱いは苦手なので、もっと良いデータがあれば教えて下さい。より正確な計算も、どなたかして頂ければと思います。とりあえず私の第一の関心は原理上の問題でして、帰結として大きな変化になるかどうかは副次的に考えてみたまでです。この種の議論がこれまでに全くないはずもないのですが、私は知らないので、詳しい方には教えて頂けるとありがたいです。

重要なことは、選挙権(ないし政治的影響力)の付与の根拠が何であるか、ということです。事実上、都の「被治者」で(も)あるならば、都民でなくとも選挙権が認められることには理由があります。都知事を選べる代わりに、神奈川県知事は選べなくなる、といった二者択一の話にしてはいけません。加重投票権の考え方を採るべきです(票の分割も案だと思いますが)。神奈川に住んで都内に通うなら、どちらの選挙権も認められる。それが許されるなら、都内に住んで都内の職場・学校に通う人には1.5~2票などが認められることもあり得るでしょう。また、この考え方を(デーメニ投票法的な視点を交えて)応用すると、都内に通っていない人でも、都内に通う未成年の子どもを持つ親は、その子どもの分だけ都内の選挙への投票権を加重される、といった形も考えられるかもしれません。


まぁ、これでもやはり突飛だよと思われる方はいるかもしれませんが、ひとまずアイデアとして考えてみるだけでも価値はあるかなと思います。


Saturday, April 2, 2011

来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面



過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。


Wednesday, March 30, 2011

政治的なものと公共的なもの――権力と期待


政治的であることと非政治的であること



われわれの出発点を何処に置こう。「個人的なことは政治的である!」――よろしい。では、個人的なことの全てが政治的であるか? あるいは然り、あるいは否。「全てがそう、とは言わないまでも、全てが政治的にはなりうる」――結構。区別は本質的ではない。とはいえ、非政治的であるという意味で純粋個人的なものごともまた、「ありうる」わけだ。

ところで、非政治的なものごとは、政治学の対象たりうるか? たりえない――ならば、政治学は純粋個人的(私秘的?)なものごとに無関心である。そう言ってよい。政治学が個人的なものごとに関心を払うのは、そこに何らかの形で政治性――ある対象を非政治的と断ずる振る舞いも含めたそれ――が宿っていると認める限りである。

ところで個人的であること、――これは私的なことと言い換えて差し支えなかろうか? 両者の重なりは明らかでない・が、ここでは同じと見なそう。私的なものごとは、その全てが政治的というわけではないにせよ、すべからく政治的たりうる。例えば労働、例えば消費、例えば交際、例えば家庭、例えば生殖、例えば死、――あまねく生命・生活の全てが*1

したがって、政治学は親密圏を問題にしうる。しかしそれはふつう、私的であることには留まらない何らかの意味がその問題に伴っている限りにおいて、扱われる。私的なeveryday talkが政治的なものとして現れるのは*2、例えばジェンダー正義という価値規準が、個人的な人間関係の中に結び付けられているからであろう。純粋に私的な領域においては、個人間の同意に基づく限り、非対称的な人間関係も不当なものとはされないはずである――自由主義。それが問題とされるのは、ジェンダーや人種・エスニシティ、階級・階層などといった集団的に妥当する何らかの共通性(差異)が観点として曳き込まれ、そこに単なる個別の人間関係には留まらない意味が見出されるからである。

この曳き込みは、外在的な価値観の導入による私的自由への不当な介入を意味するのでは、必ずしもない。個人の自由意志の尊重それ自体が「人間」としての共通性に基づいて認められるものである以上、私的な自由はその範囲を自己完結的に決定できる性質を、本来的に持たないのである。その範囲は、政治的な対抗関係の産物でしかない(繰り返し:私的なものごとは、すべからく政治的たりうる)。


私的であることと公共的であること



さて、政治的であるということは、公共的であるということか?――あるいは然り、あるいは否。私的であることと公共的であることの、区別は本質的でない(非歴史的には妥当しない*3)・のみならず排他的でもない。私的なものごとがある時に公共的なものごとに変わるだけでなく、私的であるままに、それと同時に公共的意味を持つ、というようなことはありうる(首相の靖国参拝などは、その例にならないだろうか)。

これは公私二分論の解体ではなく、相対化である。ある対象を私的と断ずることは、それが非公共的であることを直ちに意味するわけではない。公私の別を定める、そのこともまた政治的振る舞いである。ある対象を純粋に私的と見なし、公共的意味を認めないこと、そこにも同様の政治性が宿る。私的なものごとはみな、政治的たりうる。私的なものごとがすべからく公共的たりうるかは、分からない(おそらく答えは否定的である)。ただし、公共的たりえないものごとでも、政治的ではありうる*4


公共的であることと政治的であること



かくして政治は、公私の全領域に可能的領野を拡げる。政治的であることは、公共的であることと合致しない。「しかし、その区別は本質的か?」――然り。政治的であることと公共的であることは、本質的に異なる。前者は権力に、後者は期待の層に属する。そして後者は、前者によって大きく規定される関係にある。

公共的(public)であることが政治的であることに規定されるとは、どういうことか。「もしそうなら、統治権力が対応すべき範囲が「公共」である、などと定義することなども可能なわけか?」――然り。「それは倒錯か、でなければ官治主義を前提とした「古い公共」の考え方ではないのか? 本来は公共的な範囲が先に考えられ、そこに権力が対応するはずではないか」――そうではない。政府が対応すべき範囲が予め決まっているのではない。権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来るのだ。現に在る権力を根拠付け、その統治ないし支配に同意を取り付けるために、すべきとされる仕事が事後的にこしらえられる。

反論がある。例えば、街に火が回る。その火を消すことは、誰にとっても重要なことであり、明らかに公共的であると思えるだろう。もしこの街に制度化された統治権力が存在していなかったとしても、消火のような公共的事業に協力して従事する過程を経て権力が凝集され、結果として統治機構が整備されるようなことは想定できるのではないか。ならば、やはり政治に先立つ公共性が存在するということではないのか。

そうではない。公共的であるということは、「みんな」に関わっている(common)ということである。公共的な仕事とは、「みんな」のニーズを満たすべく対応することを指す。確かに街に火が回るとき、誰しもこれは「みんな」に関わることだと思うだろう。だが、そこで観念される「みんな」とは誰だ? どこまでを指す? 奴隷や被差別民は入るのか。家畜は入るかもしれないが、野良犬はどうだろう。高い壁で仕切られた向こうの貧民街で大火が起きたなら、富裕民は(たとえ壁向こうの全てが焼き尽くされようとも)自分の問題とは見ないかもしれない。公共性を規定する「みんな」の観念は、どこまでをその範囲に含めるかという、至って政治的な意識/無意識に左右されているのである。公共的であることは、かくのごとく、政治的であることに規定される。

無論、公共性には開かれている(open)という性質も含意されることがあるのは知っている*5。だが、私たちが「みんな」を観念する際に無意識的にであれ何らか特定の範囲のみが想定される以上、公共性は常に一定程度、閉じた共同性としての性格も帯びる。あらゆる方向に開かれているという意味での純粋公共性(無限の公共性)は、不可能である。公共性が政治に先立つことはない。むしろ、こう考えるべきなのである。開かれてあることは、自然に達成されることではなく作為の産物である。したがって、公共性とはあくまでも現実に対する批判を含んだ、規範的理念なのである、と*6

「政治が公共性に先立つことはいいとしよう。だが「権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来る」とは言い過ぎではないか?」――それは検討に値する。確かに火事の例では、その政治性はともかくとして、「みんな」=「公共」の認知が権力の凝集に先立っているように思える。ならば、公共的な仕事の存在は、権力とは独立に観念できるのではないか。

ここで問題となるのは、迫り来る炎というイベントに遭遇することで、それに共通して(common)関わる「みんな」が観念された際に、そのことが即「公共public」の所在を捉えるに至っているかどうかである――解りにくかろう。前言を翻すようであるが、考えてみるべきなのだ。「みんな」に関わっていることの全てを、私たちは公共的な問題として扱うか? 恋愛や性愛は「みんな」に共通して関わる事柄であるが、危険や暴力を回避可能な限りで、その活動は純粋に私的な自由に任せられる。デートやらキスやらセックスやらの仕方が決まっているわけではない。睡眠や排泄も同様であろう。つまり、commonであることが、直ちにpublicであることを意味するわけではない。私的自由の範囲を決定するべく曳き込まれる共通性(差異)は、選択的に決定されるのである。

火を消そうとする人々は、まずそれが自らの利害であるからするわけであり、初めは個別の私的利害が遍在しているに過ぎない。その共通性の認識は、確かにcommonとしての「みんな」の存在を観念させるだろう。そして、予め組織化が為されていないところで組織立った消火活動が行われるとすれば、それは、そうすることが互いにとって共通の利益になると感得した人々によって自発的に為されたのである。この共通利益の感得には、声の大きな人が号令をかけ、逃げようとした人々を半ば無理矢理に従わせながら消火活動を行う場合も含まれる。たとえ脅迫によるものでも、逃げようとした人の側で、殴られたり後で罵られたりするよりも従った方がマシである(利益になる)という判断が働いたのならば、それは権力作用を媒介にした共通利益の感得なのである。この共通利益の自発的な感得メカニズムをconventionと呼ぶなら、それは権力を凝集・組織するメカニズムである。

ここから生起した権力機構は消火という特定の目的のために事実上成立したものであり、その駆動原理は特定の私的利害に基づいている。つまり、私的利益の集積とは一応区別される、全体としての公益(「みんな」のニーズ充足)に基づくものではない。publicとしての公共の把握が現われるのは、凝集した権力が目的達成後に残存して組織・機構が常態化するときに、それが奉仕すべき目的と範囲を規範的に枠付けるための想定として持ち出される時点においてである。公共的なものは、事実上の権力に対する「期待」として権力に割り当てられる形で出現するのであり、権力の凝集に先立って権力から独立した形で観念されることはない。

定義を修正しよう。公共的であるpublicということは、「みんな」に関わっている(common)・がゆえに、「みんな」で考えるべき、ということである。公共的な決定とは、何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならないとされる決定を意味する。それゆえ、公共の定義が「政府が対応すべき範囲」とされることがあるのは、理にかなっている。公共的な仕事には個々の自発的な活動によって行えるものもあるが、その多くは公共的な決定を経て組織された形態によって行われる。権力の制度化が進んだ領域では、公共的な決定の多くは統治機構を通じて行なわれることになるが、社会内の多様な個人・集団が政治的手続きを経ない形で事実上の影響力を保持している場合には、公共的な決定機会は統治機構外にも遍在していることになる。

つまり、政府以外に権力を保持する主体が存在しているなら、そうした主体にも「みんな」のニーズへの対応が求められるのは自然である。そうして公共的な仕事を担うべきとされた非政府的主体の意思決定は、政治的正統化手続きを要する範囲に含められることになる*7。したがって、公共的であることが政治的であることに規定されるという見方は、公=官の対応関係を疑わない「古い公共」の名残りなどではなく、むしろ事実上の権力が存在するところに公共領域を見出すことを通じて、公共性の担い手を多様化する「新しい公共」に結び付くと言えよう。


政治的なものの可能性――現代における



おさらいをしよう。公共的であるということは、政治的正統化を必要とするということだ。なぜ政治的正統化を必要とするのか、ではない。政治的正統化を必要とするものが公共なのである。公共的決定が「何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならない」とされるとき、いかなる「政治的手続き」が採られるのか、同意がいかにして調達される(と見なされる)のかは、ここでは問題ではない。公共的であることが幾重にも政治的であることに規定されていることが問題なのだ。

すなわち、公共的なものごとには政治的な手続きを経て正統性を付与せねばならないが、そもそも何が公共的であるのか(何を政治的手続きに付すべきか)の判断は、それ自体政治的に決定されるしかない。それゆえ、何を公共的と見なすべきであり、その判断がいかにして下されているかという次元と、公共的と見なされるものごとが(統治機構の内外を問わず)現にいかにして決定されているのかという次元において、公共的なものをめぐる議論は政治的なものの考察へと還元されることになるだろう*8

もちろん、公共的な仕事(権力に期待される・権力が為すべき仕事)の全てが、政治的手続きを経なければすることができない、ということではない。市場を通じて人々のニーズに応える企業は、サービスの対価を求める点で政府とは異なるが、その事業に内在ないし外在する形で、直接の対価を求めずにサービスを提供することを通じて公共的仕事を為すことができる(私的であると同時に公共的な行為)。しかしそれは、あくまでも企業の自発的な行為によることであり、そしてそうであることが、「古い公共」が前提とする公私二分論や、公=官の対応関係の帰結であった。

だが、グローバルな相互依存や情報化、科学技術の専門分化などを背景に、政府に限らない企業や団体が広範かつ大規模な影響力を社会に対して有していると前提するなら、そしてそのような力を持つ主体には当然に公共的な役割が期待され、その意思決定は政治的正統化手続きに付されるとの論理を適用するなら、その帰結として、もはやいかなる企業・団体も(あるいは家族、個人も?)、その決定過程を外部に開くべしとの要請をはねつけることはできないのである。

言うまでもなく、このことは「新しい公共」万歳、などと単純に諸手を挙げて喜べる事態ではない。このようにして政治的なものの遍在とその公共的意味を追認することが、社会内の(事実上の)公共的決定契機を既存のフォーマルな政治過程に乗せていくことを意味するのであれば、それは国家権力の介入可能範囲――それは政府の財政規模とは無関係である――を拡大することに繋がる*9。他方で、公=官の対応関係を否定して事実的な権力を公共性の担い手にさせていくことが、非政府的主体が個別日常的に行なっている業務と公共的ニーズへの対応を区別する基準を失わせる*10。全てが政治的でありうることに留まらず、今や全てが公共的であることになってしまうのではないか。私たちは、社会内の全てのものごとについて、いちいち「みんな」で集まって話し合うことをしなければならないのだろうか。

そこで最近一部で見聞きするようになった、「ジャスコの公共性」とでも呼べるものについて考えてみたい。要すれば、都市郊外や地方のショッピング・モールが地域のインフラとして老若男女誰にでも欠かせない存在となっている、ということを指摘する議論であり、その象徴としてジャスコが挙げられているのだと思う。従来、こうしたショッピング・モールのような大型店舗は商店街など地域の経済を破壊したり、画一的な造りのために地域文化を失わせたりするものとして、批判的に採り上げられることが多かったところを、そう単純に割り切れるものではない(画一的なように見えて実際には地域ごとに土着化(?)しているのではないか、など)として価値転換を迫っているのが議論の核心だと考えられる(詳しくは知らない)。

大型店舗の郊外への出店が地域経済・社会に悪影響を与えると一概に言えるかについては慎重な判断が必要だが、一般に言って近代的な「システム」(ここでは行政および市場のように規格化された形でサービスを提供する制度やメカニズムと受け取って欲しい)が生活に深く浸透するにしたがって、前近代的な地縁的・血縁的結合は崩れていくと考えられる。行政にせよ市場にせよ、そこには独自の論理(合理性)があり、その外部にある人間関係や情動は基本的に(そのままの形では)顧慮されない。しかし、実は近代的なシステムの円滑な駆動を、その外部にある前/非近代的な条件が支えている場合があり(この点は「社会関係資本」などの枠組みで指摘されている)、システム化による前近代性の破壊はシステム自体の基盤を掘り崩すような逆機能を生むことがある。

近年の司法制度の運用を採り上げながらこの点を指摘しているのが、和田仁孝である*11。和田によれば、本来近代法のシステムは「事件を素材として,法的問題を構成し,これに法的処理を施すという,ある意味で自己言及的なシステム」であり、被害の回復や真相の究明、正義の実現などを期待する人々の感覚からして「部分的な応答性しか有していない」。そのような部分的応答性しか持たない司法制度がまがりなりにも受容されてきたのは、「家族,地域共同体を初め,他のとりわけ共同性を残した社会的諸制度」が、法システムが満たせない様々なニーズを「吸収」することで、人々の期待が「あるいは手当てされ,あるいは抑圧されることで,ともかくも処理されていた」からである。それゆえ、「近代法の優越によって,共同的社会関係が払拭され,法的権利・義務・責任によってのみ規律される法主体的関係性がそれに置き換わっていく」にしたがって、「法はその機能的偏頗性,虚構性を覆い隠してくれた協働者を失うことになり,自身の限界を露呈していくことになる」。和田によれば、現在の裁判過程に感情が横溢しているのは、こうした基盤喪失によって法システムが本来応答を予定していなかったニーズが直接司法に向けられた結果なのである*12

和田の指摘を、法システムに限らない近代的システム全般の問題として受け取ることは、不自然ではないはずである。政治・行政や市場もまた、法と同様の「自己言及的なシステム」としての性格を持っている*13。「ジャスコの公共性」もこの文脈で捉え返すことはできないか。つまり、システム化による前近代的共同性の破壊が、システムへの従来予定されていなかった期待を生起させている、という意味で。

ショッピング・モールなどの大型店舗に限らず、コンビニなども同様であるが、そもそもこれらは市場原理によって地元の事情とは無関係に出店・撤退を自在に為し得るはずである。だが、そのような純粋な市場原理を貫けるのはシステム外の共同性(ないしは代替的な他のシステムの機能?)を人々が頼れる限りにおいてであろう。システム化の進行によって基盤が壊れ、一旦ジャスコやセブンイレブンが人々にとって枢要なインフラとなれば、これら企業の公共的役割が肥大化していくことは避けられない。

こうした公共性は、市場システム内部の目的合理性からすれば不純物でしかないが、システムが孤立して存在することはできない以上、対応策は(1)システム外の共同性を再建する(ないし他のシステムの機能を拡大する?)か、(2)目的自体を広げるしかない。(1)が可能ならば試みればいいが、近代化に逆行しない形でそれを為すには工夫がいるだろう。どう工夫すべきかは、私には分からない。そこで(2)であるが、これはすなわち、企業の公共性の担い手としての性格を正面から認めるということであり、前述の公共性の全面化の問題と結び付いている。

企業の目的を広げることはありうるとしても、目的を無限にすることはできない。資源は限られているからである。したがって目的は単純に拡大されるのではなく、ステークホルダーを加えた「政治的手続き」の中で再定義されるべきなのである。事実的な権力体の目的をステークホルダーによって再定義していくことは、公共性の全面化を避け、公共の範囲を適宜区切っていくために必要なことであり、どこまでの範囲でどこまでの役割を果たすべきなのかを限定することで事業の予測可能性を確保できるという意味で、企業などの非政府的主体にとっても有益である。

和田は「法専門的な法廷を維持しようとする法律家」と個別的に解釈された法廷像を現出させようとする被害者家族との間で、「「場」の構築をめぐって様々な抵抗と抑圧の試み」が行われていることを描いているが、これは、裁判の目的をめぐる対抗的・敵対的な形での再定義であると解せる。政治や経済のシステムにおいて、非政府的主体の事業目的を再定義する「政治的手続き」はどのようなものでありうるか明らかでないが、それは法システムについて和田が描くような対抗的形態でもありうるであろうし、何らかの制度化を目指すのであれば、より協調的な形態も考えねばならないだろう。

ステークホルダーを非政府的主体も含めたガバナンスの担い手であると考えるなら、公共publicのステークホルダーによる再定義は、いわばガバナンスの自己限定であり、現代における政治的なものの可能性を現実の中に秩序化していく作業である。



*1:そのような具体的なイシューの中に現れるミクロな政治を集めても、単一のマクロな権力構造を描けるわけではないということを重視する文脈から、存在するのは小さな政治だけだと言われることがある(川崎修「〈政治〉と「政治」」『「政治的なるもの」の行方』岩波書店、2010年、1章を参照)。だが、確かに「棟梁的な」、つまり社会全体を統括するような営みとしての(大きな)政治が存在しないとしても、個別のイシューに共通して見出されるミクロな「政治」性が存在するのであれば、なお「政治的なるもの」について語る一般理論の存在意義はあるように思う。

*2:田村哲樹「親密圏における熟議/対話の可能性」田村哲樹(編)『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻)、風行社、2010年、2章。

*3:杉田敦は、経済(「家政」)や宗教(「教会政治」)が私的=非政治的な領域とされたのは、近代以降の歴史的規定であったことを指摘している。杉田敦「政治と境界線」『境界線の政治学』岩波書店、2005年、1章。

*4:例えば恋人や夫婦間で主導権を握るべく争われるゲームは、対立と解決の過程を含む点で、政治的性格を有しているであろう。市場取引もまた、資本を権力資源とした問題解決メカニズムとして捉えれば、政治と見なせる。

*5:齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年。

*6:おそらくはこのことが、公共的なものと政治的なものを人々に混同させる要因であり、また、長く「棟梁的な」営みとしての政治(学)を支えてきたアイデンティティの源泉であった。森政稔が、統治性の両義性(権力性)を十分に意識しながらも、なお欠かすことはできないと説く、政治が社会に対して持つ「リフレクシヴな関係」も、この点と無関係ではないはずである(森政稔「〈政治的なもの〉と〈社会的なもの〉」『社会思想史研究』34号、2010年、8-22頁)。「社会の自己反省装置としての政治学」(宇野重規「いま、戦後政治学を読み直す」『UP』461号、2011年、2-7頁)の在り方については、他日を期したい。

*7:公共料金、公共放送、などといった呼称を想起しよう。

*8:なお政治から自立した公共性概念がありうると思うのならば、事実的な権力が、なぜ公共的であろうとするのか、すなわち人々の同意を取り付けることによる正統化の要請に従うのか、ということを考えてみればよい。それはそうすることが権力にとって都合がよいから、つまり正統化を経ずに統治・支配を続けることによる反発・転覆のコストおよびリスクに耐えられるほど強くないから、であろう。それは政治的対抗関係の所産である。

*9:政治の「社会化」と、その結果としての政治権力の再編成については、以下を参照。川崎修「「政治的なるもの」の変容」前掲書、2章。川崎修「「現代思想」と政治学」前掲書、3章。



*12:和田の指摘とは別に、政治の「社会化」=「社会の政治化」の時代における司法制度の決定的重要性はそれとして論じられる必要があるが、私にはその準備がない。

*13:法システムにおける「アトミック」で理性的な法主体は、市場システムにおいては経済主体、いわゆる「合理的経済人」に対応するだろう。


Thursday, February 10, 2011

熟議的な熟議と、そうではないもの


日々不勉強を沁み込ませている身では、専門的なことについて何かを言うということははばかられるのですが、しかしそれでも感じたり考えたりしていることを折々に吐き出しておかないと、いつまで経っても何も言えないことになるので、最近細切れに書き付けていることなどをラフにまとめておきます。お題は「熟議」です。


Thursday, January 13, 2011

デモクラシーを可能にする「オウム的なもの」――森達也『A3』から



オウム側の視点から日本社会を映した『A』『A2』の監督・著者による、『月刊PLAYBOY』連載(2005年2月号~2007年10月号)に基づく単行本化。今回の「A」は明確に「麻原」の「A」であるとして、2004年2月に一審判決が下り、2006年3月に高裁が控訴棄却、同年9月に最高裁が特別抗告を棄却して死刑が確定した麻原彰晃氏の裁判(2010年9月に再審を求める特別抗告を最高裁が棄却)と並走しながら、彼の実像に焦点を当てて書かれている。

教祖の生い立ち、家族、人となり、宗教家としての実際、法廷および拘置所での姿、教団の形成過程、教義の解釈と変遷、教祖と信者・幹部との関係、警察・検察・裁判所を含む社会の側の反応など。多方面への取材に基づき、未だに謎が多いオウム真理教と関係する諸事件について多彩な考察が展開される。

連載物ゆえの重複する記述が多く、著者の言論に親しんでいる読者にとってはお馴染みと言える論理展開(オウム事件後の日本社会は危機管理意識が云々など)の反復は、内容的にも冗長さを感じさせる。だが、麻原氏が水俣病患者であった可能性(一次的には藤原新也氏の指摘)をはじめとする興味深い情報を豊富に含んでおり、著者特有の主観的描写の巧みさもあって、500頁超の厚みを読み通すのに苦は感じさせない。広く読まれるに値するだろう。


だが、今更オウムでもあるまい、と思う人もいるかもしれない。元教祖についてのみ言えば、残すは彼を吊るすだけのところまで、私たちは来た。今、この時点での日本社会にとって、オウムとは何だろう。連載分最後の章で著者は、旧上九一色村を再訪して教団の施設群が置かれていた土地を踏んだ際の情景を、次のように描いている(481-483頁)。


 細い道を一〇〇メートルほど上ったあたりで、僕はもう一度車から降りた。十一年前、ここには大勢の警察官と機動隊とメディア関係者が集まっていた。そして敷地をもう少し中に入れば、百人以上のオウム信者が生活するサティアン群があった。

 でも今は何もない。一面の草原だ。腰ほどの高さの草の中をしばらく歩き回る。コンクリートの基礎とか、信者がうっかり忘れていった何らかの生活の残滓とか、そんな欠片を探し回る。でも何もない。足もとからは小さなバッタが跳ねるばかりだ。

(中略)

 施設の取り壊しはサリン事件の翌年に始まっていた。麻原を含めて逮捕されたほとんどの信者たちの裁判が、やっと始まったばかりの時期だ。サリンプラントも含めて最大の証拠物件のはずなのに、まるで当たり前のようにユンボやブルドーザーによって建造物はすべて取り壊され、欠片も残らずショベルカーで撤去された。人が近隣に居住しているようなエリアではない。残しておいても別に当面の問題はないはずだ。でも当時は、(僕も含めて)誰もこれを不思議には思わなかった。当然のことと思っていた。

 破産管財人が跡地の売却を急いだという理由はあったかもしれない。でも仮にそうであっても、少なくとも裁判が終わるまでは、現場の保全が優先される方が自然なはずだ。

 戦後最大で最凶の事件。当時の新聞や雑誌の見出しには、このフレーズが何度も踊っていた。仮に日本社会にとって悪夢の記憶なら、なおのことそれを抹消すべきではない。アウシュヴィッツやビルケナウのホロコースト収容所は今も残されていて、大勢の人が記憶を刻むために訪れている。クメール・ルージュが政治犯を捉えて拷問や虐殺を繰り返した施設も、当時のままに残されて博物館となっている。原爆の直撃を受けた広島県産業奨励館は原爆ドームとなって、核兵器の悲惨さを訴え続けている。でもオウムには何もない。ここには誰も来ない。来たってもう、何がどこにあったのかもわからない。

(中略)

 上九一色にはオウムはない。見事にない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている。


上九一色になければどこにもない。…と言いたいところだが、実際には未だ逃亡中の信者や被害者への賠償問題、現・アーレフと地域社会との摩擦など、様々な形でオウムはこの社会の中に残っている。しかしそれらは、その内に解決ないし根絶され、消し去られるべきものとして残っているに過ぎない。被害の記憶は忘れられないとしても、オウムの存在やその痕跡はきれいさっぱり消去することが目指されており、いつか忘れられようとしている。上九一色の草原は、その象徴にほかならない。

オウムの存在がホロコーストやクメール・ルージュ、原爆などと同様の記憶化を拒まれているのは、それによってもたらされた被害が社会によって共有されるべきものとは考えられていないからである。オウムが引き起こした凶事は、あるいはテロであり、可能性においては内乱であったかもしれないが、いずれにせよ犯罪であるに過ぎない。政治権力を掌握して行われた殺戮ではないという意味で、それは政治社会の集合的な悔悟や慰撫(を通じた統合)を媒介するモニュメントの建設を必要とさせない。オウムはあくまでもテロリスト(ですらない狂信的集団)として、すなわち断固として粉砕すべき「敵」として、政治社会の外へと放逐可能な存在なのである。


そのような「敵」を粉砕した後に残るのは、同様の秩序危機を予防するための管理体制だけでよく、オウムに対しては誰もが一方的な被害者であると考えられている以上、社会が忌まわしい事件そのものを記憶し続ける理由などは存在しない。「あれだけの人が殺されたのに、いつまで裁判をやっているのか」などという声が強まったのは、この意味で自然である。ほとんどの人々にとって、「早く吊るして終わりにしよう」こそが共通理解であり、求められているのは記憶ではなく忘却なのだ。近代的な見識は、被害者が多いほど事件の複雑さが増し、裁判は長期化することを教えてくれる。なるほど、社会秩序を維持するために罪を裁こうとする際も、対象が社会の構成員たる市民である限り、刑罰権力の行使には慎重であらねばならない。だが、対象が社会の外に位置する「敵」であれば?

むろん、オウム事件の裁判においても、基本的には近代的司法の常道に則って審理が進められてきただろう。しかしながら、「戦後最大で最凶の事件」を引き起こした集団とその首魁に対しては、「例外」的な対応を求める声が極めて強く、また現実に統治機構の側が為した対応にも、こうした要請から影響された部分が小さくなかった(その一端は本書で描かれる裁判過程に見られる)。全てが「例外」的に対処されたわけではないとしても、オウムは「例外」が許容され得る存在として把握された。そして以後、そうした「オウム的なもの」の存在は、社会の側にハッキリと了解されるようになったのである。


「例外」は権力の温床である。どこで「例外」を適用してよいかは、権力が決める。「例外」の発動は「法外」な、つまり抑制から解放された途方もない権力の行使をもたらしかねない。そして「例外」の承認は前例となり、事後に権力の拡張を許す。政治社会がその外に「敵」を持たねばならないことは、否定されるべきではない。だが、例えば「オウム的なもの」が私たちの「敵」たり得るとしても、それに対する「例外」的対処はどのような場合にどこまで認められてよいのか、あるいは「オウム的なもの」は全然私たちの「敵」と言うべきほどの存在ではなく通例に沿って対処されるべきなのかは、デモクラシーを採る政治社会において、人々の共通の関心事として討議の的になって然るべきである。

もし私たちの政治社会がデモクラシーを採らず、統治権力が私たちのものでないなら、「敵」への関心が社会一般の人々にまで共有される必要はないだろう。統合の外部へと吐き出されることで政治社会の構成を可能にする「敵」の存在は、あくまでも政治社会を構成・維持しようとする統治権力者にとっての関心事であり、ただ統治されるばかりの者には無縁の事柄であるから。デモクラシーにとって、統治権力を担う「われわれ」が誰であり、その外に誰/何を排するのかは、決して避けられない根本問題であり、「敵」は私たち自身の手で粉砕――お好みなら絞首――しなければならない。

私たちがオウムを忘れたがっており、「オウム的なもの」と向き合い続けることを拒むとするなら、それは「例外」を適用すべき「敵」、つまり政治社会の構成を条件付ける外部について考えることを避け、「われわれ」の構成を統治機構に丸投げしようとしていることにほかならない。「オウム的なもの」の忘却は、デモクラシーへの、あるいは私たち自身への等閑視を意味するのである。


参考


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