Thursday, January 13, 2011

デモクラシーを可能にする「オウム的なもの」――森達也『A3』から



オウム側の視点から日本社会を映した『A』『A2』の監督・著者による、『月刊PLAYBOY』連載(2005年2月号~2007年10月号)に基づく単行本化。今回の「A」は明確に「麻原」の「A」であるとして、2004年2月に一審判決が下り、2006年3月に高裁が控訴棄却、同年9月に最高裁が特別抗告を棄却して死刑が確定した麻原彰晃氏の裁判(2010年9月に再審を求める特別抗告を最高裁が棄却)と並走しながら、彼の実像に焦点を当てて書かれている。

教祖の生い立ち、家族、人となり、宗教家としての実際、法廷および拘置所での姿、教団の形成過程、教義の解釈と変遷、教祖と信者・幹部との関係、警察・検察・裁判所を含む社会の側の反応など。多方面への取材に基づき、未だに謎が多いオウム真理教と関係する諸事件について多彩な考察が展開される。

連載物ゆえの重複する記述が多く、著者の言論に親しんでいる読者にとってはお馴染みと言える論理展開(オウム事件後の日本社会は危機管理意識が云々など)の反復は、内容的にも冗長さを感じさせる。だが、麻原氏が水俣病患者であった可能性(一次的には藤原新也氏の指摘)をはじめとする興味深い情報を豊富に含んでおり、著者特有の主観的描写の巧みさもあって、500頁超の厚みを読み通すのに苦は感じさせない。広く読まれるに値するだろう。


だが、今更オウムでもあるまい、と思う人もいるかもしれない。元教祖についてのみ言えば、残すは彼を吊るすだけのところまで、私たちは来た。今、この時点での日本社会にとって、オウムとは何だろう。連載分最後の章で著者は、旧上九一色村を再訪して教団の施設群が置かれていた土地を踏んだ際の情景を、次のように描いている(481-483頁)。


 細い道を一〇〇メートルほど上ったあたりで、僕はもう一度車から降りた。十一年前、ここには大勢の警察官と機動隊とメディア関係者が集まっていた。そして敷地をもう少し中に入れば、百人以上のオウム信者が生活するサティアン群があった。

 でも今は何もない。一面の草原だ。腰ほどの高さの草の中をしばらく歩き回る。コンクリートの基礎とか、信者がうっかり忘れていった何らかの生活の残滓とか、そんな欠片を探し回る。でも何もない。足もとからは小さなバッタが跳ねるばかりだ。

(中略)

 施設の取り壊しはサリン事件の翌年に始まっていた。麻原を含めて逮捕されたほとんどの信者たちの裁判が、やっと始まったばかりの時期だ。サリンプラントも含めて最大の証拠物件のはずなのに、まるで当たり前のようにユンボやブルドーザーによって建造物はすべて取り壊され、欠片も残らずショベルカーで撤去された。人が近隣に居住しているようなエリアではない。残しておいても別に当面の問題はないはずだ。でも当時は、(僕も含めて)誰もこれを不思議には思わなかった。当然のことと思っていた。

 破産管財人が跡地の売却を急いだという理由はあったかもしれない。でも仮にそうであっても、少なくとも裁判が終わるまでは、現場の保全が優先される方が自然なはずだ。

 戦後最大で最凶の事件。当時の新聞や雑誌の見出しには、このフレーズが何度も踊っていた。仮に日本社会にとって悪夢の記憶なら、なおのことそれを抹消すべきではない。アウシュヴィッツやビルケナウのホロコースト収容所は今も残されていて、大勢の人が記憶を刻むために訪れている。クメール・ルージュが政治犯を捉えて拷問や虐殺を繰り返した施設も、当時のままに残されて博物館となっている。原爆の直撃を受けた広島県産業奨励館は原爆ドームとなって、核兵器の悲惨さを訴え続けている。でもオウムには何もない。ここには誰も来ない。来たってもう、何がどこにあったのかもわからない。

(中略)

 上九一色にはオウムはない。見事にない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている。


上九一色になければどこにもない。…と言いたいところだが、実際には未だ逃亡中の信者や被害者への賠償問題、現・アーレフと地域社会との摩擦など、様々な形でオウムはこの社会の中に残っている。しかしそれらは、その内に解決ないし根絶され、消し去られるべきものとして残っているに過ぎない。被害の記憶は忘れられないとしても、オウムの存在やその痕跡はきれいさっぱり消去することが目指されており、いつか忘れられようとしている。上九一色の草原は、その象徴にほかならない。

オウムの存在がホロコーストやクメール・ルージュ、原爆などと同様の記憶化を拒まれているのは、それによってもたらされた被害が社会によって共有されるべきものとは考えられていないからである。オウムが引き起こした凶事は、あるいはテロであり、可能性においては内乱であったかもしれないが、いずれにせよ犯罪であるに過ぎない。政治権力を掌握して行われた殺戮ではないという意味で、それは政治社会の集合的な悔悟や慰撫(を通じた統合)を媒介するモニュメントの建設を必要とさせない。オウムはあくまでもテロリスト(ですらない狂信的集団)として、すなわち断固として粉砕すべき「敵」として、政治社会の外へと放逐可能な存在なのである。


そのような「敵」を粉砕した後に残るのは、同様の秩序危機を予防するための管理体制だけでよく、オウムに対しては誰もが一方的な被害者であると考えられている以上、社会が忌まわしい事件そのものを記憶し続ける理由などは存在しない。「あれだけの人が殺されたのに、いつまで裁判をやっているのか」などという声が強まったのは、この意味で自然である。ほとんどの人々にとって、「早く吊るして終わりにしよう」こそが共通理解であり、求められているのは記憶ではなく忘却なのだ。近代的な見識は、被害者が多いほど事件の複雑さが増し、裁判は長期化することを教えてくれる。なるほど、社会秩序を維持するために罪を裁こうとする際も、対象が社会の構成員たる市民である限り、刑罰権力の行使には慎重であらねばならない。だが、対象が社会の外に位置する「敵」であれば?

むろん、オウム事件の裁判においても、基本的には近代的司法の常道に則って審理が進められてきただろう。しかしながら、「戦後最大で最凶の事件」を引き起こした集団とその首魁に対しては、「例外」的な対応を求める声が極めて強く、また現実に統治機構の側が為した対応にも、こうした要請から影響された部分が小さくなかった(その一端は本書で描かれる裁判過程に見られる)。全てが「例外」的に対処されたわけではないとしても、オウムは「例外」が許容され得る存在として把握された。そして以後、そうした「オウム的なもの」の存在は、社会の側にハッキリと了解されるようになったのである。


「例外」は権力の温床である。どこで「例外」を適用してよいかは、権力が決める。「例外」の発動は「法外」な、つまり抑制から解放された途方もない権力の行使をもたらしかねない。そして「例外」の承認は前例となり、事後に権力の拡張を許す。政治社会がその外に「敵」を持たねばならないことは、否定されるべきではない。だが、例えば「オウム的なもの」が私たちの「敵」たり得るとしても、それに対する「例外」的対処はどのような場合にどこまで認められてよいのか、あるいは「オウム的なもの」は全然私たちの「敵」と言うべきほどの存在ではなく通例に沿って対処されるべきなのかは、デモクラシーを採る政治社会において、人々の共通の関心事として討議の的になって然るべきである。

もし私たちの政治社会がデモクラシーを採らず、統治権力が私たちのものでないなら、「敵」への関心が社会一般の人々にまで共有される必要はないだろう。統合の外部へと吐き出されることで政治社会の構成を可能にする「敵」の存在は、あくまでも政治社会を構成・維持しようとする統治権力者にとっての関心事であり、ただ統治されるばかりの者には無縁の事柄であるから。デモクラシーにとって、統治権力を担う「われわれ」が誰であり、その外に誰/何を排するのかは、決して避けられない根本問題であり、「敵」は私たち自身の手で粉砕――お好みなら絞首――しなければならない。

私たちがオウムを忘れたがっており、「オウム的なもの」と向き合い続けることを拒むとするなら、それは「例外」を適用すべき「敵」、つまり政治社会の構成を条件付ける外部について考えることを避け、「われわれ」の構成を統治機構に丸投げしようとしていることにほかならない。「オウム的なもの」の忘却は、デモクラシーへの、あるいは私たち自身への等閑視を意味するのである。


参考


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