Thursday, February 10, 2011

熟議的な熟議と、そうではないもの


日々不勉強を沁み込ませている身では、専門的なことについて何かを言うということははばかられるのですが、しかしそれでも感じたり考えたりしていることを折々に吐き出しておかないと、いつまで経っても何も言えないことになるので、最近細切れに書き付けていることなどをラフにまとめておきます。お題は「熟議」です。





松浦正浩(@)さんは、社会的合意形成を導く営みとしての「交渉」と「熟議」を、それぞれ次のように特徴付けています。すなわち、交渉が「各当事者の価値観や利害関心は不変であることを前提に、それぞれの利害関心を満足させる最適解」を模索する点で「利害調整に主眼」を置くものであるのに対して、「利害関係に縛られない自由な対話」を通じて「公共的な価値観を創生していくこと」を重視するのが熟議的デモクラシー(deliberative democracy)である、と(松浦 [2010: 155-158])。その上で、熟議も重要ではあるが、社会的合意形成においては交渉による問題解決が不可欠であると強調されています。

この区別は基本的に妥当なものであると、私は思います。「熟議 deliberation」が何を意味するのかについては必ずしも一致した理解があるわけではありませんが、熟議的デモクラシー理論一般に、ある種の公共的価値への規範的志向性が概ね共有されていることは確かです。「集計的 aggregative」なデモクラシー観を批判して選好の変容可能性が言われるとき、変容は基本的に私的な選好から公共的な選好へのそれとして考えられています。つまり、そこでの熟議概念は単なる「熟慮と討議」だけを価値中立的に意味しているのではなく、公共的価値への志向性という規範的性格を伴って提起されているのです。


では、ある問題の集合的な解決のために複数の主体間で「熟慮と討議」が行われたとしても、それがあくまでも個々の主体の私的利害の追求に終始した営みであって、いかなる意味でも公共的価値への志向性が見られないならば、それは「熟議」とは呼ばれ得ないことになるでしょうか。たぶん、そうなります。「熟慮と討議」という行為だけでは、熟議ではないのです。あるいは少なくとも、それは「熟議的 deliberative」な意味での熟議ではないのでしょう。ここでは便宜的に、行為としての熟議(「熟慮と討議」)そのものと、規範的含意を伴う「熟議的な熟議」を区別して考えることにします*1

熟議的な熟議と、そうではない価値中立的な熟議の違いにもかかわらず、「熟慮と討議」は絶えず熟議的デモクラシーの理論と結び付けられています。また、熟議の遂行を通じた選好の変容も、基本的に「私的選好→公共的選好」のプロセスとして語られるのが常です。しかしながら、「交渉」について考えてみて下さい。それは、「価値観や利害関心は不変であることを前提に」している点で、集計的なデモクラシーと共通であるように見えます。ですが、真剣な交渉の場では、「熟慮と討議」が行われているでしょう。また、そうした熟議を通じた相互の学習や選好の変容も、確かに存在すると考えられます。交渉の場において「それぞれの利害関心を満足させる」ためには、人は自らの所与の「立場」=選好をより適切なものへと変更し得るからです。

もちろん、そこでは初めの私的選好が別の私的選好へと変容しただけで、価値観自体が変わったわけではありません。しかし、「熟慮と討議」が行われ、そのプロセスを通じた選好の変容可能性も前提できる以上、私的利害の調整を主眼としているというだけの理由で、交渉を集計的なデモクラシーに与するものと捉えるのは間違いです。むしろそれは、A. レイプハルトが多数決型デモクラシーと対比させたコンセンサス型デモクラシーのモデルと親近性を持つと考えるべきでしょう(レイプハルト [2005])。つまり、公共的価値への志向性を伴わないという意味で非‐熟議的な熟議たる「交渉 negotiation」とは、熟議的デモクラシー理論が主な批判対象としている集計的なデモクラシーモデル(これは多数決型デモクラシーモデルと親近性を持ちます)に対して、熟議的熟議とは別に立てられ得る、もう1つの対抗モデルであると考えられるのです。


そんなものは新しくもなんともない、と言われればそうなのですが、ポイントはそこではありません。ここでのポイントはまず、熟議的な熟議とそうでない熟議(これは討議、議論、対話…、何と呼んでもいいのですが)の区別それ自体であり、後者を「交渉」によって代表させていることです。現在の政治理論では、熟議的デモクラシー論があまりにも流行り過ぎてしまったためにか、対話による相互の学習効果や(広い意味での)選好の変容、あるいは不合意への合意などといった諸点を検討することや重視することが、熟議的な観点へと不当なほど「囲い込まれている」ような風潮が見受けられます。「囲い込み」と言ったのは、こうした諸点は交渉のように私的利害の調整に終始する営みにとっても重要であり、公共的価値への志向性を持つ熟議的な立場とだけ結び付くわけではないにもかかわらず、あたかもその結び付きだけが必然であり、「熟議は熟議的でしかありえない」――これだけ読めば当然になってしまうのですが(笑)――かのような印象を与えているように思えるからです(勘違いであればご指摘下さい)。

そうした状況から、「熟議そのもの」を解き放つ。それが一点です。そしてまた、このような非‐熟議的な熟議――そろそろ名前を付けておいた方がいいと思いますので暫定的に「道具的熟議」とでも呼んでおきますが――を熟議的な熟議と明確に区別して位置付けておくことが、熟議的デモクラシー理論にとってもプラスになるのではないかな、というのが二点目のポイントです。この理論において、「家族における「日常的な話し合い(everyday talk)」から議会における討論まで、様々な場において熟議/対話が存在し得ること、そして、その様々な場における熟議/対話の相互作用に注目する必要」を示して「熟議的システム deliberative system」概念が提起されるとき(田村 [2010: 11])*2、そして実際にその熟議的システムを社会内の至る所に埋め込んでいこうとするときには、非‐熟議的なシステムとの関係を考えていかなければならないでしょう。熟議的システムが社会の全領域を覆うわけにはいきませんし、あるいは熟議(的)システムの内部においても、その全てに「熟議的」な規範的志向性を貫徹させることはできない(望ましくない?)かもしれません。その際に、システム間の結合、ないしはシステム内部での機能分化として、熟議的な志向性は共有しないけれども、行為そのものとしては共通する道具的熟議を別に考えておくことは、役に立つのではないか。この点を、少し詳しく論じます。


熟議的デモクラシーのモデルは、既存の代議制デモクラシーとは別に市民社会の中で熟議を行うことによって政治過程に複数の回路を作り出し、既存の代表制を否定しないまでもそれを補完するような形でデモクラシーを発展させる、といった感じの「二回路」式の議論として理解されることが多く、実際これは明快な見方なのですが、私自身はあまりそうした形では考えていません。この整理は明快なあまり、ややもすると図式的過ぎる理解に陥って、「熟議的 deliberative」に込められている規範的なコミットメントというか、ダイナミズムのような部分が抜け落ちてしまうような気がするからです。熟議的システムの観点に沿って、市民社会や議会のみならず、親密圏や裁判所での熟議も取り扱っている田村(@)さんご編集の『語る』でも、いわゆる「二回路」型には留まらない議論が展開されているように思います。deliberativeであることには、ただ回路を増やす以上のことが期待されているのでしょう。

さて現今、「熟議の国会」なるフレーズが言われるようになりましたが、国会が熟議的熟議の場となることは可能でしょうか。可能であるかどうかはともかく、それが望ましい姿であることは確かでしょう。なぜなら、国会議員とは本来、特定の部分集団のためではなく国民全体のために働く、「国民代表」として地位を得ているからです。国政について言えば、公共的価値への志向に基づく熟議的熟議は、こうした国民代表によって構成される議会においてこそ、まず行われるべきです。しかし現実には、議員のほとんどは部分集団たる政党によって組織されていますし、選出母体をはじめとする様々な部分集団の利害に縛られており、真に熟議的な熟議は難しそうです。そこで行われるのはせいぜい「交渉」としての道具的熟議でしょうが、しかしこれすらも決して容易とは言えませんから、道具的にでも熟議が行われるということには価値を認めてよいように思います。

とはいえこれに満足せず、議会を熟議的熟議の場に変換していくためには、どうすればいいのでしょうか。交渉の場を別に作る、というのはどうでしょう。これは1つの素朴な案ですが、例えば現在の審議会などを大幅に改革する形で「利害関係者委員会 stakeholder board」のような機関を置く、と考えてみて下さい。これを明確に交渉機関と位置付けて、議会は(熟議的)熟議機関へと純化します。ほとんどの政策形成はステークホルダー・ボードの方に移してしまい、こちらで利害調整を行うことにします。そして、そこから挙がってきた法案を議会が審査・修正して政策決定をするのです。これは、個別の政策課題について大きな利害関係を持つ「狭いステークホルダー」が構成するステークホルダー・ボードに基本的な政策形成を預けた上で、その内部での合意に、政策全般に薄い利害を持つ「広いステークホルダー」たる国民の代表としての議会が、権威付け(正統性)を与える仕組みです。この場合の議会の熟議は、ステークホルダー・ボードを通じて形成された政策の(1)検証および修正と、(2)政策課題および政策内容についての学習と周知、そして(3)政策の正統化として機能します(この内(2)は、メディアを介して国民へと働きを及ぼすことが期待されます)。また、市民社会は選挙や諸結社を通じて議会とステークホルダー・ボードの双方に代表者を送り込むとともに、その内部でも様々な単位で熟議を行うことでしょう。

このモデルでは政党の位置付けはどうなるのかとか、地方政府のように二元代表制の場合はどうするのか*3など、色々と問題点はあるのですが、非常にザックリと、こうした制度設計を仮想してみると、熟議的熟議と道具的熟議の役割分担(の必要性)のようなものが、イメージしやすくなるのではないでしょうか。政治は利害調整と無縁では在り得ず、交渉は社会的合意のために不可欠です。ならば、熟議(的)システムの主眼が社会全体を熟議的にしていくことにあるにせよ、社会の様々な領域で熟議を可能にしていくことにあるにせよ、熟議的でない熟議の可能性を明確に認めておくことは、システムの円滑な稼働条件を見定める上で重要であると思うのです。もちろん、それは「熟議」の名で呼ばれなくてよいのですが、熟議的な志向性を共有しない、様々な目的を持つ対話があってよいし、その価値は正当に認められなければなりません。


最後にもう少しだけ、書きます。熟議的デモクラシーでは、対話にあたって「自分の考えを変える準備ができていること」(山田 [2010: 39])が重視されていて、これ自体は交渉においても「立場」を変え得るという水準では同じことが言えるわけですが、表面的な選好に留まらない価値観そのものも変わるかもしれない、という水準でも期待が抱かれる点で違いがあります。しかし、そうしたレベルでの選好/主体の変容可能性への期待や準備についての了解が、いわゆる(熟議的な)熟議と交渉とを分かつのだとすれば、両者の差異は相対的でしかない、ということが言えます。

なぜなら、そうした変容可能性についての了解は主観的なものですが、実際に起こる変容はあくまでも結果的に観察され得るものであって、事前の了解と必ずしも因果的に結び付くわけではないからです。熟議的熟議に臨んで、口では自分の考え方まで変える用意があると言っていても、実際にはそのつもりはないかもしれません。また、主観的には変える準備があって、話し合う中でこれは変えるべきだと気付いたとしても、現実にはどうしても変えられないかもしれません。あるいは逆に、単なる交渉のつもりで臨んだ対話の中で、何も変えるつもりがなかった自分の価値観が、予想外に変わってしまうこともあるかもしれません。

つまり、公共的価値観の協働的創出に向かうのか、利害調整に徹することになるのかは、予め決定されるものではなく、対話の性質はいつでも、熟議的な方向と交渉的・道具的な方向のどちらにも向かい得る、ということです。したがって、熟議と交渉は本質的に異なるのではなく、その差異は相対的です。熟議に「的」を付して形容詞表記にする意味を、このような相対性の強調に求めることも、あるいは有り得るのかもしれません。


文献一覧



  • 松浦正浩 [2010]: 『実践!交渉学――いかに合意形成を図るか』筑摩書房(ちくま新書).
実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)


  • レイプハルト, アレンド [2005]: 『民主主義対民主主義――多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究』(「ポリティカル・サイエンス・クラシックス」2巻)粕谷祐子 (訳), 勁草書房.
民主主義対民主主義―多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)


  • 田村哲樹 [2010]: 「序文」田村哲樹 (編) 『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻), 風行社.

  • 山田竜作 [2010]: 「現代社会における熟議/対話の重要性」田村哲樹 (編) 『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻), 風行社, 1章.
政治の発見 第5巻 語る (政治の発見 第 5巻)


*1:この区別は、熟議概念についての世間一般的なイメージと学術的概念としての意味内容のそれに対応している、ような気がします(錯覚かもしれません)。

*2:原文では「熟議システム」。

*3:地方政治の場合、利害調整から離れた公共的価値の探求がどれほど必要か疑問なので、議会の役割がより道具的熟議へと接近してもいいように思いますし、全体の代表者としての役割は首長の地位に付随する部分が大きくなるのかな、と漠然と考えています。市民社会の熟議が占めるべき現実政治へのプレゼンスも、国政の場合よりも大きくなるのだと思います。


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