Thursday, April 21, 2011

差別はなぜ許されないか――区別との区別


「風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。



人は差別をするものです。そして多くの人は、自分が差別をしていることを認めたがりません。非難を避けるためには、「これは差別ではなく区別である」などと主張されることがあります。不当な別ではない、と言いたいわけです。

辞書的な意味を言えば、複数の対象をそれぞれ違うものとして分けることが、「区別」と呼ばれます。そして、それら異なるものの間で取り扱いに差を付けること、特に一方をとりわけ不利に扱うような類の差を付けることが、「差別」と呼ばれるようです。

この意味の違いは、曖昧極まりないものです。違うものとして区別をすれば、それは当然に扱いの差を生むでしょう。すると、区別と差別は切り離せないものになってしまいます。しかし、5歳児を相手にする時と成人を相手にする時、どちらも同じ話題や話し方で対しなければ差別になる、と考える人はいないでしょう。区別と差別の違いは確かに存在するように思えます。おそらくポイントは、区別が導く「差」の内容です。

それから他方で、差別であれば全て許されないものなのかどうかも、省みるべき問題です。愛は差別ではないのでしょうか。愛する人に優しく接し、それ以外の他人よりも有利な取り扱いを為そうとすることは、多くの人が許容する自然な行為ではないでしょうか。もちろん、状況によってはそれが許されない(好ましく思われない)こともありますが、明らかな差別でも、それがむしろ微笑ましいものとして受け取られる場合(例えば親バカ)は存在するのです。

同じことをもう少し明確にするため、人と動物の差別的取り扱いを考えてもよいでしょう。人に認められている権利を他の動物に認めないことは、明らかな差別です。しかしその差別は、(道徳的に許されるかどうかは別にして)社会的に許容されています。「していい」差別なのです。少なくとも、許容されない「不当な」差別ではない。すなわち、こちらの問題のポイントは、差別には不当なものとそうでないものがある、ということのようです。


2つのポイントについて、考えを深めるため、法哲学者のR. ドゥオーキンの議論を導入してみたいと思います。ドゥオーキンは、「平等の処遇(equal treatment)」と、「平等な者として処遇されること(treatment as an equal)」とを、分けて考えます*1。そして、市民の基本的な権利は後者にあり、前者は派生的な権利であると言うのです。

派生的とされる「平等の処遇」とは、「ある種の機会や資産や負担を平等に分配される権利」を意味します。それに対して、より基本的とされる「平等な者として処遇されること」は、「他のすべての人々に対すると同様の尊重と配慮をもって処遇される権利」のことです。5歳児と成人は同じ人間として「同様の尊重と配慮」を傾けられますが、個別に配分される「機会」や「負担」、つまり権利と義務は同じではありません。そして、認められる権利や課せられる義務の個別内容が異なるからといって、それが子どもと成人の基本的に対等な関係を否定するものでないことは、多くの人が認める通りです。


この議論を介すると、区別と差別の違いをどこに見るべきかは、より明確になるのではないでしょうか。子どもと成人を区別して、個別の権利・義務の内容(取り扱い)に差を設けることが、「平等な者として処遇されること」に反しないように、差別に陥らない区別はあり得ると考えるべきでしょう。根本的な差を設けず、対象それぞれの諸特質に合わせた形で(A. センに倣って言うなら、capabilityを最大限にするように意図して)処遇に差を設けることは、差別とは分けて考えてよいのではないか。

そして同じ議論によって、差別の意味も明らかにすることができます。すなわち、複数の対象を「平等な者として処遇」しないこと、それぞれに「同様の尊重と配慮」を与えないことが、差別なのです。動物は市民と「平等の処遇」を与えられないだけでなく、「平等な者」とも認められません。

差別が不当であるか否かは、差別される対象間の共通性がどの程度大きく・重要であるかについての感覚ないし合意と、差別が行われる状況にどの程度の公的性格が伴うかの、2つの基準によって概ね左右されるでしょう。前者については、虫よりも哺乳類の権利を云々する人が多いことから、明らかです。後者は、全く個人的な財産から拠出して分配する場合と企業や政府が支出するケースとで、どちらにより偏りが許されるかの比較を通じて、容易に推測されます。


以上のように考えると、(不当な)差別がなぜ許されないのかは明らかです。社会が許さないと決めているからです。たとえ建前であろうと、現代社会は全ての人々を「平等な者として処遇」することを決めています(国民か外国人かによる差は、「平等の処遇」の水準の差に過ぎません)。差別は「平等な者として処遇される」権利を侵害するものであり、社会に対する挑戦です。人が差別を差別と認めないのは、社会に対する挑戦意図を隠匿するためなのです。

社会が個人や様々な下位集団から成り立つものである以上、差別を差別と認めない/名指さない暗黙の反抗によって、「平等な者として処遇される」権利についての合意は内部から食い破られ、スカスカの空洞になってしまいます。それは、自らの盾ともなり得る権利を使えなくしてしまうことでもあります。

それでも、人は差別を止めないでしょう。ですから、根本的に必要なのは、ただ社会の意志だけです。差別が「よい」か「よくない」かは重要ではありません。前提として、ある「平等な者」の範囲が存在するなら、社会は端的に差別を「許さない」。必要なのはこの意志だけです。範囲への疑義の形を採らない、この意志への反抗(それが意識的であるか否かは問題ではありません)は全て、反社会的な挑戦を意味しており、そしてその挑戦の成否は、社会の意志がどこまで貫徹されるかにかかっています。



*1:『権利論』増補版、木下毅ほか(訳)、木鐸社、2003年、304-305頁。


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