Friday, June 3, 2011

かかわりあいの政治学8――「チーム」はなぜ愛されるのか


野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガース、Jリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。

だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか?

実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなくなったりする人は、それなりに存在する。だが、熱心なファンの多くは、チームが経験する様々な変遷にもかかわらず、自分が応援するチームへの愛を容易には失わないようである。これは一体、何によるものなのだろうか。チームの変化がファンの愛を失わせるものではないとすれば、ある日に選手・スタッフ全員が一挙に入れ替わり、ユニフォームやチーム名も変更されて、まるきり別のチームのようになってしまっても、彼らはこのチームを応援し続けるのだろうか。

もちろん、そんなことは考えにくい。選手の入れ替わりがチームへの愛を失わせないのは、あくまでもそれが一部の選手ごとに漸次的な速度で行われる(そしてその間に新入選手をチームの一員と見る認識の形成が進む)からであって、同時に丸々入れ替わってしまったときに同じ愛が維持されることは稀であろう。逆に長い年月の中で徐々に変化が生じ、その歴史をファンが共有するのであれば、結果として(客観的に見れば)全く別のチームになっていたとしても、ファンはそれを同じチームと見る。ここでは、ある種の連続性(経路・文脈の繋がり)がカギとなっているように思われる。


このように考えてくると、チームの同一性問題は、人格の同一性をめぐる哲学的議論と似てくる。30年前には人を人とも思わないような殺人鬼だった人物が、今では虫も殺さない好々爺になっていた場合に、「30年前の彼」と「現在の彼」という2つの異なる時点における人格を直ちに同一人格と見るのは困難である。これら異時点間の人格は、そのままでは相互に直接の「連結性」を持つものではないからである。両人格を同一と考えさせる理由があるとすれば、「現在の彼」は確かに「30年前の彼」から徐々に徐々に変化した果てに存在するものであり、その間のある時期ある時期の「彼」たちの「継続性」を通じることで「つながっている」という1点しかない*1

あるチームが経た内実の変化にもかかわらず、それは自分が愛する「あのチーム」だと変わらず思えるのは、同様の思考から説明できるだろう。実質的には全く別の存在になっているとしても、その間の年月を介した結び付きに基づくなら、同じ「あのチーム」であるとの見なしが可能になるのである。こうした説明の仕方は、法人格が同じである(から同じチームだ)などといったフォーマルな制度から為し得る形式的な説明を支え、その内実を補填するものである。それは、法人格などの社会的実在に一貫した統合性を与えるメカニズムこそ、こうした「見なし」にほかならないからだ。

個々のチームには何か固有の「本質」が存在するのだと、論理的に信じられる人は(おそらく)いないだろう。しかし、人についてはそうではない。個々の人間は、その人が他でもなくその人でしか在り得ない所以たる固有の本質を持っている。そう信じている人は多い。あるいは少なくとも、固有名を持つ1人の人物の存在を何らかの確定記述――男/女であるとか、出身・国籍がどこで、何語を話し、エスニシティや階層は何であるのかとか、身長・体重はいくつで、どんな容貌をしており、どういう声で、どんな話し方をし、どのような表情を見せ、いかなる考え方を持っているのかなどなど、その人に関して記述し得る属性・情報の全て――に還元し尽くすことはできない、といった考え方に反対する人は少ないように思う。

けれども、固有名を確定記述に還元できない「余剰」とする立場は、実のところ何も説明していない。こうした立場は、ある確定記述の集合を一個体と見なすときに識別タグの役割を果たすべく付けられる固有名に「余剰」という別名を与えているだけで、そのような「見なし」がなぜ可能であるのかを何も説明しない。タグがなぜ機能するのかを説明しない。見なしを「規定」や「命名」などと呼んだところで、やはり言い換えでしかない。個体の存立について説明を与えようとするなら、年月を超えてチームを同じチームたらしめる継続性のような、一定の繋がり・結び付きの存在がなぜ見なしを可能にするのかを問わなければ、何の説明も可能にならないのである。

見なしはなぜ可能なのか。見なしを支えているものは何か。何らかの形で繋がっている、結び付いているということが、同じであること、1つであることの理由になるのはなぜか。あるまとまりが他と区別される1個として取り出されることは、いかにして可能なのか。こうしたことが問われければ、特定チームへの変わらぬ支持も、唯一人の伴侶への恒久の愛も、自分自身の存立の基盤も、何一つ本当には説明できない。


*1:細胞などの物質的連続性を考えてみても、同じことが言える。肉体を構成する物質は日々入れ替わり、その意味で数年前の私と現在の私は、全く異なる物質から構成されていることになるからである。


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