Thursday, December 27, 2012

2012年の○冊(政治思想分野)


例年,形だけでも「~年の三冊」を書いて新年を迎えているのですが,今年は例年以上に本を読んでいないので(毎年そんなことを言っているような気もしますが),砂原先生を真似て,政治思想史・政治理論分野での収穫を振り返るという仕方にしたいと思います.

もっとも,研究動向の中に位置付けたコメントをするような力量はないので,今年刊行された主な政治学文献のリストを眺めながら,目についたトピックだけさらって書きたいと思います.時系列でもありません.







自分の専門に近いところから行くと,デモクラシー論についての重要な共著テキスト/論文集が年頭に出ています.前者は思想史から理論,地方政治から国際政治まで幅広い領域での学術的議論を見渡すことのできる中上級者向けテキストです.後者は理論的関心を保ちながら様々な分野での実践の試みをとりまとめており,日本での討議/熟議デモクラシー論の蓄積と成熟を示す一冊になっています.今年は国政で討論型世論調査が行われたこともあり,今後このテーマでの研究はますます増えてくるのではないでしょうか.



こちらもテキストで,放送大学教材をもとにした学部生向け教科書とのことですが,質量ともに重厚で,大学院生も必携という感じでしょうか.私自身,事あるごとに頁をめくってはお世話になることと思います.なお,川出先生は白水社のルソー・コレクションの選もなさっています.

テキストで言うと,他にも幾つかありますので順番に.

  • 苅部直『政治学』岩波書店(ヒューマニティーズ).


  • 伊藤恭彦『政治哲学』人文書院(ブックガイドシリーズ 基本の30冊).


どちらも,名著を紹介しながら政治学・政治哲学への導入を図るというコンセプトでは共通しています.苅部先生の方は想定読者に置いている大学一年生には難しいんだろうと(レポート採点の経験上からして)思うわけですが,味わい深いエッセイです.伊藤先生はこれ以外に新書も刊行されています.



こちらもテキストの側面を持った論文集ですが,応用倫理学との交差領域にも踏み込んだ構成が特徴かと思います.執筆者は皆さん「気鋭」とか「俊英」といった形容が似合う方々のような気がします.執筆陣に名を連ねる五野井郁夫さんの『デモとは何か』や児玉聡さんの『功利主義入門』も話題になりました.政治哲学と言えば,サンデルブームの余波がまだまだ続いているのか,小林正弥/菊池理夫 (編) 『コミュニタリアニズムのフロンティア』などの研究書も出ています.

  • 川崎修/杉田敦 (編) 『現代政治理論』新版, 有斐閣(有斐閣アルマBasic).




  • 川出良枝/谷口将紀 (編) 『政治学』東京大学出版会.


上二冊はいずれも定番テキスト.アルマの政治理論は2006年に出たものの新版で,「環境と政治」の章が加わっています.政治学講義は初版刊行が1999年ということで10年以上経っての改訂.懐かしさも感じますが,数少ない単著テキストの価値は未だ無くなっていないのでしょう(今年文庫化されたダール『現代政治分析』を再読しても強く感じます).三つ目はその佐々木先生の門下の方々によるもの.とっつきやすい良テキストだと思います.

テキストと言えば東大出版会の「現代政治学叢書」が遂に完結しましたが,風行社の「政治の発見」シリーズも遅れていた6巻が出版され,全巻が揃いました.



原発の問題など,世代間倫理に関心のある人にはおすすめします.このシリーズは内容もさることながら,ハンディかつカラフルなので,本棚に並んでいても目に楽しいです(と言いつつまだ全巻揃えていないのですが…).

どうも,テキストや論文集を挙げているうちに随分長くなってきてしまいました.本来は博論ベースの単著など研究書をもっと紹介するべきなのでしょう.その種のもので目立ったところを挙げると以下でしょうか.









いずれも各分野での開拓的・先端的研究の成果だと思います.

白川さんの本で扱われているリベラル・ナショナリズムは最近のトレンドの一つで,富沢克 (編) 『「リベラル・ナショナリズム」の再検討』などの研究書も今年出ています.分配的正義の問題はもちろん,自民党の憲法改正案が話題になったりしている状況では,憲法との関係でもナショナリズム論が一層盛り上がることになるのではないかと思います.山崎先生の方は問題関心が近いこともあり,そのうちじっくりと格闘しなければならないと思っていますが,まだ果たせておりません.

翻訳も含めればまだまだ沢山ありますが,それではきりがないのでこのぐらいにします.よいお年を.

Friday, December 14, 2012

掲載告知: 「政治/理論――政治的なものについて語ること」



  • 松尾隆佑 [2012. 3]: 「政治/理論――政治的なものについて語ること」『政治をめぐって』(31): 1-25.


拙論(査読無・研究ノート)が刊行されました.掲載誌は,法政大学大学院の政治学専攻委員会が編集する院生中心の雑誌です.内容は,4月21日の「政治と理論研究会」第1回で報告したものと同一です.報告の際のスライドは公開済みです.

形式的には3月に刊行されていますが,諸般の事情により物理的な刊行が遅れておりました.大学図書館等に配架されるまでにはまだ多少の時間がかかるかと思います.リポジトリでの公開はありません.データファイルないし抜き刷りを希望の方はkihamu[at]gmail.comまでお問い合わせ下さい.

※追記(12/19): スライドシェアを貼っておきます.


※追記(3/6): ウェブ公開されました.

Thursday, December 13, 2012

選挙は何も決められない


小林良彰は,著書『政権交代――民主党政権とは何であったのか』(中央公論新社,2012年)のなかで次のように述べる(156-157頁).

 ここで日本の政治の仕組みを振り返ってみると、われわれは「選挙の際に候補者が提示した公約のなかで、有権者が自分の考えに近いものを選び、投票を決定する」ことで「自分たちのことを自分たちで決定する」代議制民主主義が機能すると想定している。こうした代議制民主主義が機能しているのであれば、政治家の行動の一端は、彼らを選んだ有権者の責に帰することになり、機能していないのであれば政治家の責を問わなくてはならない。

そこから小林は,この機能を検証するためとして,2009年衆院選を対象に次の3つの分析を行う(157頁以下).

  • (1)民意負託機能の検証(争点態度投票の有無):
    • 「有権者が候補者の提示した公約のなかで最も自分の考えに近いものを選択し、そうした公約を提示する候補者に投票しているかどうか」
  • (2)代議的機能の検証:
    • 選出された政治家が選挙公約と合致した国会活動をしているのかどうか
  • (3)事後評価機能の検証(業績評価投票の有無):
    • 「有権者が政治家や内閣の業績に基づいて投票行動を行っているかどうか」

(1)について小林は,有権者の投票行動の多くは政党支持・内閣支持や職業などによって決定されており,争点態度投票はほとんど行われていないと指摘する.次に(2)(3)について,選挙公約と国会活動の一致度が次の選挙での得票率に関連していないことから,有権者の投票行動は業績評価によるのではなく,主に候補者の所属政党や経歴によって決定されていると結論する.小林によれば,民主党が大勝した2009年衆院選での有権者の投票行動は,自民党に対する懲罰投票として理解される(166頁).業績評価は政党支持・内閣支持を通じて間接的・限定的に行われているが,政策上の業績に対する直接の評価は見出しにくいとされる.

したがって冒頭に掲げた問いに与えられる答えは,「機能していない」である.

政治家が有権者に約束した公約から離れて国会活動を行って政策を形成しているために、政治的有効性感覚が著しく低くなっており、そのため選挙に際しても、政党政治家が提示した公約を信頼することなく投票を決定し、さらに、実施される政策に対する評価とは乖離して次の政党候補者選択を行っているのが、日本の選挙の実態である。 (172頁)

こうした分析に基づいて小林が提出する処方箋について,ここで扱うことはしない.検討したいのは,投票行動の性格である.

疑問点は主に二つある.まず,候補者の帰属政党が選挙結果の重大な決定要因であるならば,具体的な公約内容や国会活動の吟味がなくとも,政党をラベルとした大まかな意味での争点態度投票(issue voting)や業績評価投票が行われていると言えるのではないか.逆に言えば,そもそも選挙ではその程度のことしかできないのではないか.

いくら個別の政策領域を争点として重視しようとしても,候補者の公約はパッケージとして示されているために,単一の争点だけで選ぶことは難しい.さらに,公約実現は候補者が所属する政党内部での調整次第だと考えられれば,わざわざ政策内容を吟味して投票先を選ぼうとするインセンティブはますます弱くなる.大臣経験者や官僚出身者など,特定の経歴が得票に有利に働くこと(165頁)があるのは,政策の実現可能性が高いと考えられるためだろう.有力政党間で政策的距離が近いと有権者の実質的な選択可能性が乏しくなるという問題(180-182頁)を別にしても,選挙は政策で投票先を選ぶものだという考えが現実に妥当する程度は,極めて限られている.

次に,業績評価投票(retrospective voting)は「将来への期待に動かされて投票行動を決定する」(prospective voting)のではなく「過去の実績という視点から自分の投票行動を決め」ることだとされるが(167頁)、しかしこれらはそれほど明確に分けられるものではない.実績が重視されるのはそれが期待の確からしさ――「きっとやってくれる」――を導くからであろうし,有権者が候補者の経歴を重視するのも,そこに実績のシグナル――「立派な人に違いない」――を見るからであろう.

選挙は有権者の「審判」と言い表されることが多いけれども,回顧的にのみ行われる投票はありえない.有権者にとって,期待形成に動機付けられない業績評価は無意味であり,たとえ過去の業績が悪くても他に期待可能な選択肢がなければ,投票行動を変えることはないだろう.2009年の衆院選で民主党が勝利したのも,単に自民党への懲罰=業績評価のためだけでなく,期待可能な選択肢として民主党が成長していたゆえでもあったはずである(遠藤晶久「業績評価と投票」, 山田真裕/飯田健 (編) 『投票行動研究のフロンティア』おうふう, 2009 年, 7章, 151頁を参照).選挙が過去の実績の判断を有権者に仰ぐものであるという考えも,限定的にしか妥当しない.

選挙にできることは大したことではない.人々の利害をできるだけ的確に政治システム内部に反映させられるような,よりよい選挙のあり方を考えていくことは重要である.だが,もともと選挙にできることは限られているという点を忘れてはならない.「民意」は選挙前や選挙過程を通じてのみ現れるわけではなく,予め確固たる姿形を持っているわけでもない.政治的な代表性や応答性(アカウンタビリティ)が選挙を通じてのみ得られると考えてしまうなら,選挙で勝利した者こそが民意の体現者であり,何をしても許されるということになってしまうだろう.しかし,選挙があるかないかにかかわらず,民意の伝達・反映は絶えず行われねばならないし,応答性も確保されねばならない.

デモクラシーにとって,選挙はごく限られた意味しか持たない.選挙がすべてだと考えるときに忘れられるのは例えば,有権者ではない人々や,何らかの理由で権利を行使できない人々のことである.彼らは選挙に参加できない.しかしそのことは,政治に参加できないことを意味しない.未成年は選挙権を持たない.だが彼らは政治的権利を認められており,自らの意見を世に発信したり,街路を埋め尽くしたりすることはできる.定住外国人には選挙権を与えるべきであろう.だがこの主張は,選挙権がないあいだは彼らの声に耳を傾けなくてもよいということを意味しない.ここでは言及しきれないすべての政治的無能力者にも,代表性と応答性が確保されるよう,模索が為されねばならない.デモクラシーは彼らに開かれており,政治は選挙の外へと無限に延びている.




Saturday, November 24, 2012

政治と理論研究会 第7回


下記の要領で研究会を開催致します.※終了しました.

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.

  • 要領
    • 日時:11月24日(土)17時開始
    • 会場:法政大学大学院棟 501教室
    • テーマ:政権交代後、震災後の政治をめぐって
    • 開催趣旨:政権交代から3年以上,震災から1年半以上が経過した時点から,日本の政治と社会の現状を振り返ります.政権交代は失敗だったのか.震災や原発は,歴史的・思想的にどういう意味を持つのか.デモは社会を変えることができるか.小熊英二『社会を変えるには』を共通テクストに,自由な議論を行いたいと思います.幅広い方のご参加をお待ちしております.
    • 共通文献:小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書、2012年)
    • 参考文献(参加の要件ではありません):
      • 山口二郎『政権交代とは何だったのか』(岩波新書、2012年)
      • 五野井郁夫『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHK出版、2012年)
      • 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)

Wednesday, November 7, 2012

自主ゼミ #2012-14




  • 文献: 鈴木一人 [2009]: 「構成主義的政策決定過程分析としての「政策論理」――日本の宇宙政策を例として」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 7章.


  • 次回予定: 今年度は終了.2013年度は,大竹弘二『正戦と内戦』+カール・シュミット『大地のノモス』を中心に検討中.

Wednesday, October 31, 2012

自主ゼミ #2012-13



  • 文献: 森正 [2009]: 「選挙制度改革の政治過程――構成主義的政治理論による再解釈」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 6章.


  • 次回予定: 同書7章.

Tuesday, October 30, 2012

掲載告知: 「理性・情念・利害――政治の賭け金について」



  • 松尾隆佑 [2012. 10]: 「理性・情念・利害――政治の賭け金について」『法政大学大学院紀要』(69): 75-95.


拙論(査読無)が掲載された紀要が刊行されました.

理性・情念・利害の関係の概念的検討から,政治における私的利害と公共的理由の結び付きについて考察を行っております.甚だ粗末ではありますが,利益政治と熟議についての私の基本的な考え方は示されているかと思います.

目次は以下の通りです.全国の大学図書館等でお手に取って頂ければ幸いです.なお,一定期間ののちにはリポジトリでも公開されることと思います.


  • 目次
    • はじめに――政治理論における理性・情念・利害
    • 1. デカルトとヒュームの情念論
    • 2. 理性を導く情念、情念を生み出す理性
    • 3. 利害の意味と認識――インタレストとは何か
    • 4. インタレストの擁護――政治における価値と理由
    • おわりに

Sunday, October 28, 2012

御礼: 寺尾 [2012]





社会思想史学会(於: 一橋大学)にて,著者の寺尾君から頂戴しました.昨年の政治思想学会でのご報告を元にしたご論文と理解しています.この領域は全く不勉強なので,勉強させて頂きます.

Saturday, October 27, 2012

『市民社会と立憲主義』合評会


中野勝郎 (編) 『市民社会と立憲主義』合評会(於:法政大学)で,評者(の一人)を務めました.

初めての役割で手探りでしたが,なんとか大惨事に至らぬまま終えることができました.


Wednesday, October 24, 2012

自主ゼミ #2012-12


  • 文献: 近藤康史 [2009]: 「構成主義的政治理論の三層モデル――イギリス労働党のEU政策を事例とした試論」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 5章.


  • 次回予定: 同書6章.

Wednesday, October 17, 2012

自主ゼミ #2012-11



  • 文献: 加藤雅俊 [2009]: 「制度変化におけるアイデアの二つの役割――再編期の福祉国家分析を手がかりに」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 4章.


  • 次回予定: 同書5章.

Wednesday, October 10, 2012

自主ゼミ #2012-10




  • 文献: 田村哲樹 [2009]: 「熟議による構成,熟議の構成――ミニ・パブリックス論を中心に」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 3章.


  • 次回予定: 同書4章.

Wednesday, October 3, 2012

自主ゼミ #2012-9



  • 文献: ヴィヴィアン・シュミット [2009]: 「アイデアおよび言説を真摯に受け止める――第四の「新制度論」としての言説的制度論」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 2章.


  • 次回予定: 同書3章.

Sunday, September 30, 2012

御礼: 河合 [2010]; 河合 [2012]



  • 河合恭平 [2010]: 「H・アレント『人間の条件』における世界疎外に至る論理展開――公共性論における葛藤の解釈に関連させて」『現代社会学理論研究』(4): 106-118.

  • 河合恭平 [2012]: 「H・アーレントの共通世界と「活動」の暴力をめぐる関係――暴力への「境界」としての公共性論」『年報社会学論集』(25): 25-36.

著者の河合さんから頂戴しました.通俗的なアレント受容から距離を取って,「公共性の困難」に正面から向き合おうとする重要な取り組みだと思います.

Saturday, September 29, 2012

政治と理論研究会 第6回例会


下記の要領で研究会を開催致します.終了しました.

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.



  • 要領
    • 日時:9月29日(土)17時開始
    • 会場:法政大学 大学院棟 501教室
    • 報告者:松尾隆佑 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告題名:「ステークホルダーの政治主体性――ステークホルダー・デモクラシーの理論化へ向けて」


Wednesday, September 26, 2012

自主ゼミ #2012-8


  • 文献: マーク・ブライス [2009]: 「構成主義理論と政治経済学について――レバレッジド・バイアウトの理由とアプローチ」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 1章.


  • 次回予定: 同書2章.

Wednesday, September 19, 2012

自主ゼミ #2012-7


  • 文献: 小野耕二 [2009]: 「「構成主義的政治理論」の意義――決定論からの離脱」, 小野耕二 (編) 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 序章.


  • 次回予定: 同書1章.

Tuesday, September 18, 2012

リーダーは個人的属性で選ぶべき?


河野勝先生がブログに「政治リーダーシップ論」と題する記事を書いており,あるべきリーダーシップ論について,四点に分けて論じています.興味深い内容なので,読みながら感じた疑問を幾つか書き留めておきたいと思います.

一点目(ろくなリーダーシップ論がない)はスキップしてまず二点目からになりますが,

リーダーを語るからには、そのリーダーの個人的属性について語るべきなのであり、たとえば理念とか政策とかを持ち出すのはおかしい。理念や政策は、そのリーダーが属している政党や団体の属性である。だから、「リーダーを選ぶ基準として理念や政策を大事にする」というのは、(独裁者を好むのであれば別だが)ボクは理解できない。

というくだりが,私には理解できません.

理念や政策が,「そのリーダーが属している政党や団体の属性である」べきだから,リーダー候補の「理念とか政策とかを持ち出すのはおかしい」と言うなら解ります.だが,現実にはリーダー個人に属している範囲の理念や政策が政党や団体のそれらに大きな影響を及ぼすことが多いのですから(e. g. 小泉純一郎と郵政民営化), 「リーダーを選ぶ基準として理念や政策を大事にする」 のは当然ではないでしょうか.

また,学術的なリーダーシップ論としては,特定の理念や政策とのかかわり抜きにリーダーを評価しうる基準を提示すべきだという論なら理解できますし私もそう思いますが,ここで河野先生が述べているのはそういう趣旨ではないでしょう.その種の話に近いのは,引用した箇所の次(三点目)に出てくる「集められる限りの情報を集めさえすれば、その中から自ずと答えが出てくるような」ものではない決定を行える能力こそリーダーに求められる,という主張の方だと思われます.

これは支持不支持は別にして理解できる立場ですし,2008年頃から言われている「決められない政治」批判とも結び付けやすいものです.政治的な決断と責任を委ねうる主体としてのリーダー像,ということになるかと思います.私は「決められない政治」批判に与したくはありませんし,例えば野田首相が原発再稼働のような決断の責任を「とる」ことができないのは明らかですが,そういった責任を「帰する」ことができる制度的仮構としての主体(象徴?)が必要なのは理解できます.

最後に述べられている四点目の主張には,私は明確に反対です.リーダーは自らのプライベートな情報も開示すべきであるという点については,その必要はないと思います(自ら進んで開示する自由は尊重します).リーダー選出にあたっては私生活についての情報も評価の対象にするべきだという主張については,そういった側面を評価対象にしたい人が勝手にすればいいと考えます.有力政党のリーダー候補になるほどの有名人なら少量でも何らかの情報はこぼれてくるでしょうし,その種の情報は知りたい人が勝手に調べればいいのです(「二流週刊誌」が既にこの需要に応えているなら,わざわざその役割を「主流のメディア」に移すべき理由は乏しいように思われます).

リーダー候補の個人的属性が重要であるとしても,個人的属性のすべてが重要であるわけがなく(概して言えば,「食事の好み」が取り上げるに値する情報とは思えません),では個人的な属性のなかで何が重要なのかは明らかとは言えません.個人的属性を考慮すべきだから私生活についての情報を報道すべきだと言うのは飛躍ですし,あらゆる属性が多少なりとも考慮に値しうるとすれば,例えば外見的特徴の扱いが問題にならざるをえません(別に扱っていけないとは断言しませんが,疑問は覚えます).

以上,私の疑問をまとめると,「リーダーを選ぶ」ことが「個人的な属性を選ぶこと」であるとしても,何が考慮すべき属性であるのかが直ちに定まるわけではなく,また,リーダー個人の属性は彼が指揮する集団の属性に影響を与えうる(場合によっては,集団の属性から影響を及ぼされうる)のだから,個人にのみ属する性質をだけ考慮すべき理由は存在しない,ということになるでしょうか.個人的な資質も当然重要ですが,独裁者を好むのでないのであれば,理念や政策も同等かそれ以上に考慮すべきです.

Saturday, August 25, 2012

政治と理論研究会 第5回例会


要領


  • 日時:8月25日(土)17:00開始

  • 会場:法政大学 新見附校舎3F会議室1(MAP

  • テーマ:政権交代は何を残したのか

  • テキスト:山口二郎『政権交代とは何だったのか』岩波新書、2012年


政権交代とは何だったのか (岩波新書)


Saturday, July 28, 2012

政治と理論研究会 第4回例会


要領



  • 日時:7月28日(土)17:00開始

  • 会場:法政大学大学院棟 603教室

  • 報告者:坂井晃介 (東京大学 博士課程)

  • 報告題名:「ニクラス・ルーマンの政治理論――システム論とゼマンティク論の関係から」


記録



  • 参加者:6名

  • 次回予定:8月25日

Friday, July 27, 2012

自主ゼミ #2012-6


  • 文献:ベネディクト・アンダーソン [2007]: 『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』梅森直之 (編訳), 光文社(光文社新書).


  • 次回予定(後期):小野耕二 (編) [2009]: 『構成主義的政治理論と比較政治』ミネルヴァ書房, 序章.

Saturday, July 14, 2012

自主ゼミ #2012-5


  • 文献:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 5-7章.

  • 次回予定:ベネディクト・アンダーソン [2007]: 『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』梅森直之 (編訳), 光文社(光文社新書).

Saturday, July 7, 2012

自主ゼミ #2012-4


  • 文献:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 3-4章.



  • 次回予定:同書,5-7章.

Saturday, June 16, 2012

政治と理論研究会 第3回例会


要領



  • 日時:6月16日(土)17:00開始

  • 会場:法政大学大学院棟 603教室

  • 報告者:源島穣 (法政大学 修士課程)

  • 報告題名:「国外要因の影響を受けてのイギリス政治の変化――第三の道の導入過程」


記録



  • 参加者:4名

  • 次回予定:7月28日

Monday, June 11, 2012

賢人政治批判のパラドクス――八代尚宏『新自由主義の復権』


八代尚宏『新自由主義の復権――日本経済はなぜ停滞しているのか』(中公新書、2011年)は、経済財政諮問会議などで活躍した著名な経済学者による政治的パンフレットである。その主たる眼目は、「官から民へ」「民間にできることは民間に」をスローガンとした小泉政権期の一連の改革を擁護し、同じ路線を継承した更なる改革を訴えることにある。

著者によれば、近年しばしば「市場原理主義」と同一視され、小泉改革を貫いたイデオロギーとされる「新自由主義(neo-liberalism)」は、必ずしも市場を万能視するものではない。著者によって現代経済学の標準的立場に等しいものとして位置づけ直されたこの考え方は、「政府の失敗」を強く問題視はするが、市場を健全に機能させるためのルールとしての規制の必要性は認めている。新自由主義は、一部集団の特殊権益など多くの非効率を生む過剰な政府介入を、人々のインセンティブを巧みに刺激するような賢い規制へと移し替えることを主張しているのである。

事実認識や議論の進め方について細部に首をひねる箇所は多いが、近年一部で「ネオリベ」と蔑称される立場を敢えて正面から引き受ける姿勢は、その支持・不支持を越えた称賛に足る。平清盛や織田信長を持ち出して「市場主義は日本の伝統」(の少なくとも一つ)と訴える論法に説得されるかはともかく、一つの「原理・原則」を「政策の基礎となる思想」に据えて、多様な政策分野を通観的に論じてみせるその仕方において、著者と対立する論者がどれだけ対抗しえているかと言えば心許ない。

ただし、戦時の統制経済から戦後の自民党型利益分配政治までを日本型社会主義と規定し、それを改革しようとする(著者の言う)新自由主義に抵抗・反対するのは直ちに社会主義(特にソ連型のそれ)に連なる「反市場」的な立場となるかのように描くのは、戯画化のそしりを免れないだろう。巷間の「ネオリベ」批判はわら人形叩きと論評されがちだが、著者はここで逆向きに同じことをしているように見える。市場への政府介入の前提となっている「賢人政治」思想を著者は批判するが、自身が提示する改革は「経済学の基本的な考え方」に基づくものであり、それは経済財政諮問会議のような限られた「決断を示す場」を通じて実現されるべきであると語る著者の姿は、いかにも「賢人」のそれである。

いわゆる新自由主義が、その主張を実現するために強権的な政治を促しがちである(論理的にはズレがある新自由主義と新保守主義の結合理由はしばしばこの点に求められる)ことは、かねてより指摘されている。しかし事の性質は、ひとり新自由主義者に限られるものではない。「イデオロギー対立の終焉」が叫ばれて久しい昨今、政策テクノクラートと化した社会科学者たちのあいだには、「~学の基本的な考え方」に基づく「正しい政策」の合意・実施可能性への希望とそれがなかなか実現しないことへのフラストレーションが、一つの気分として共有されているように思える。「正しい思想に基づく正しい政策を行うことによって社会を良くしよう」という素朴さ(これは戯画化だろうか?)は端的に政治の無理解か軽視だが、「独裁の誘惑」(森政稔)はいつでも賢人たちを訪ねる。

しかし政治は、誰かがバカだから停滞しているわけではない。震災後に「ばらばらになってしまった」(東浩紀)私たちは、それを知っているはずである。


Saturday, June 2, 2012

自主ゼミ #2012-3


  • 文献:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 2章.

  • 次回予定:同書,3-4章.

Saturday, May 26, 2012

政治と理論研究会 第2回例会


要領



  • 日時:5月26日(土)18:30開始

  • 会場:法政大学大学院棟 603教室

  • 報告者:西村理 (法政大学 博士後期課程)

  • 報告題名:「ローザ・ルクセンブルクの議会主義批判と組織論」


記録



  • 参加者:5名

  • 次回予定:6月16日

Sunday, May 20, 2012

ステークホルダー民主主義の終焉?


池田信夫さんのブログで「ステークホルダー民主主義」が叩かれていて、それに濱口桂一郎さんが反応しています。終焉も何も、まだ始まってもいない気がするわけですが、備忘として書き留めておきます。



「ステークホルダー民主主義」という言い方をする人は決して多くないわけで、池田さんの念頭に濱口さんが置かれているのは明らかでしょう。濱口さん的なステークホルダー民主主義については、当ブログでも書いたことがあります。私が理解する「ステークホルダー・デモクラシー」一般については、こちらに書きました。

池田さんは原発再稼働に絡めた話をしており、これについては私が2月に書いたエントリに当てはまる立論になっているなぁという印象です(以下、強調は本エントリによる)。


福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発や放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。


原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。


政治について「なるべく意思決定に関与するステークホルダーを減らす粘り強い改革が必要」とする池田さんの立場はそれとして面白いもので、政策の中身以前の「統治形式」(特に「決断」「リーダーシップ」を可能とするそれ)へのこだわりに基づいて政治改革に関与してきた一群の政治学者たちへの評価ともかかわりそうです(森政稔「独裁の誘惑――戦後政治学とポピュリズムのあいだ」『現代思想』2012年5月号*1)。

しかし、ここではそういった話は措いて、「ステークホルダー」概念についての偏った理解を正しておきましょう。やはり当ブログの過去エントリから、引用します。


ステークホルダー論は、決定を濃く強いステークホルダーによる自律的な合意に基づかせるとともに、その外に薄く弱く広がるステークホルダー(社会)への応答性を備えねばならない、との二重性を抱えます。なぜ今その二重性が必要になったかと言えば、利害関係の分布が多様化・複雑化して、従来の利益集団のような利害の均質性を前提できなくなったからです。ガバナンスが対応すべきリスクは不確実であり、個別のイシューについて誰が利害関係を持ち得るのかは自明ではないため、ステークホルダーの範囲は既存の境界線やメンバーシップとの必然的結び付きを持ちません。


労働組合の代表性の問題がよく採り上げられるところですが、ステークホルダーの概念化には、既存の利益代表を刷新して代表性を再構築しようとする意図が刻印されています。誰が決定すべきか自明でないから、その範囲を再定義するために境界線を一旦外へと開こうとするのですが、それは再び閉じるためです。ステークホルダーとは、開きながら閉じ、閉じながら開く概念なのです。それゆえ、ステークホルダー論を支持するのであれば、決定を担うべきステークホルダーに社会が信任を与えてあげなければなりません。社会への応答性要求は、この信任とセットでこそ論じられるべきものなのです。


池田さんはポピュリズム肯定に傾きかねない開放的なステークホルダー理解をわざわざ持ち出していますが、濱口さんが指摘しているようにそれは曲解です(より詳しくは引用元のエントリ全文を読んで下さい)。ステークホルダー概念を用いたデモクラシー解釈にとっての焦点は、ステークホルダーの範囲が広いか狭いかということよりも、適切な利害反映・代表の枠組みを再構築することにあります。

そして原発再稼働の政治決定について問題になっているのは、現行の制度的枠組みが信任に値するものであるかどうかです。いくら決定にかかわるステークホルダーを狭く解釈したとしても、そこに社会の信任が伴っていなければどうしようもないでしょう。


*1:この論文で扱われている山口二郎『政権交代とは何だったのか』(岩波新書、2012年)については、『生活経済政策』2012年5月号所収の書評(評者:杉田敦)も参照。


Saturday, May 19, 2012

自主ゼミ #2012-2


  • 文献:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 1章.

  • 次回予定:同書,2章.

Saturday, April 28, 2012

自主ゼミ #2012-1


  • 文献:野口旭 [2007]: 『グローバル経済を学ぶ』筑摩書房(ちくま新書 657).



Saturday, April 21, 2012

政治と理論研究会 第1回例会


要領



  • 日時:4月21日(土)17:00開始

  • 会場:法政大学大学院棟

  • 報告者:松尾隆佑 (法政大学 博士後期課程)

  • 報告題名:「政治/理論――政治的なものについて語ること」

  • 報告次第:
    • はじめに

    • 1. 政治理論への疑い――棟梁失脚後の政治学の中で

    • 2. 政治的なものの所在――政治の社会化と社会の政治化

    • 3. 政治の理論化――ヴィジョンとしての政治理論

    • おわりに
  • 報告要旨:

政治学はしばしば,独立したディシプリンとして固有のアプローチを持たないと評されてきた.本来であればディシプリンの存在証明を果たす原論的地位を占めるべき「政治理論」は,専門分化が進む政治学の中で,規範的な「政治哲学」と互換可能なサブ・ディシプリンとしての役割に落ち着いている(「現代」政治理論).

政治学が自己完結性を欠くことは,社会の象徴的統合・正統性具備を担う「政治(的なるもの)」が持つ「作為」としての性格に由来するものであり,政治(学)が社会に対する一種「棟梁的な」仕方は,この宿命的な性格と引き換えに認められてきた.だが,川崎修がクリアに示したように,そうした政治(学)像はミクロからマクロまでの政治を貫く単一の原理・構造が存在するとの幻想に基づくものであり,その陰にあって様々な生活の局面で生起する小さな〈政治〉が政治学の外に置き去りにされてきた事実は,先の性格規定を毀損するに十分である.

社会の中に横溢する政治(的なるもの)を社会学その他が扱うに任せてきた現代の政治学は,専門分化の昂進により,社会のサブシステムとしての政治システム(マクロな政治)に特化して自己完結性を強める方向への歩みを速めているように見える.それは大嶽秀夫が危惧したところの「トピック主義」の追認であるが,これに際して政治学に反省を迫るべき政治理論は存在が疑われている.

すなわち,「政治的なるもの」について語る一般理論など,そもそも存在しうるのか.本報告では「ビジョン構想」(松下圭一)としての政治理論観を手掛かりにしながら,棟梁的に社会の全体性を見渡す仕方ではない政治理論の可能性を問う.


記録



  • 参加者:4名

  • 次回予定:5月26日

Friday, March 9, 2012

震災という不正義と、2つのメタ・ガバナンス


まもなく私たちは、3月11日という日付を再び迎える。去年のその日は、大きな地震と津波があった。人が沢山死んだ。たくさん、たくさん、死んだ。同じ日に原子炉が壊れ、放射性物質が漏れた。私たちの生活は見えない怖れに汚染され、日常性はひしゃげた。


Saturday, February 25, 2012

原発・震災勉強会


要領



  • 日時:2月25日(土) 16:00開始

  • 場所:法政大学大学院棟 402B教室

  • 話題提供:


    • G「震災」

    • M「原発」

    • 松尾「政治」


記録



  • 参加者:4名

  • 次回予定:単発

Thursday, February 2, 2012

原発と直接投票――ステークホルダーの観点から


私は政治理論を専攻していて、とりわけ「ステークホルダー」(利害関係者)という概念をテーマにした研究を行っています。企業の意思決定に対するステークホルダーが株主だけでない従業員や消費者、地域社会、環境などを含むように、政治も、法的な権限に根拠づけられないような多様な主体を想定できるのではないか。権利はないが重大な利害関心はある――というように、ステークホルダーという観点を用いることで、デモクラシーの中に存在する様々な「境界線」を問い直すことができるのではないか。大ざっぱに言うと、そうした問題意識から研究をしています。

福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発や放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。

原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。

本来であれば、ステークホルダーの範囲が広く拡散する問題については、国レベルで一般的・長期的視座からの議論が重ねられるべきでしょう。ですが、周知の通り、現在の日本ではそれは難しい状況にあります。それが、ある特殊な意味におけるステークホルダーとしての側面を持つ政党・国会議員が多いという事情に因るのかは、ここでは問題にしません。議会が頼れないのであれば、どのような手段が有り得るのかを考えるべきです。議会政治・政党政治が原発を語ることが難しいのであれば、議論の舞台は別の形で準備するしかありません。そうした立場から展開されているのが、原発に関する直接投票を求める動きです(「東京「原発」都民投票/大阪「原発」市民投票」を参照)。

しばしば指摘されるように、選挙で候補者や政党に投票することは、パッケージとしての選択です。そこでは異なる様々な分野についての様々な政策が一緒くたに問われますから、個別の政策についての支持・不支持を表現することは事実上できません。単一のイシューを問う直接投票ならば、それが可能になります。議会政治・政党政治の中で表現されない意思を政治に反映させる上で、直接投票は極めて重要な役割を果たせるのです。もちろん、支持・不支持を決定する様々な理由の別は直接投票でも表現できませんが、そうした多様な立場の意思が反映される可能性は、直接投票を控えた社会を舞台とした議論が、どれほど豊かに為されるかにかかっています。直接投票を求める運動は、意思決定の舞台に参加できないステークホルダーたちが、自らに合わせて政治の舞台を新たに構成しようとする政治です。今や誰もがステークホルダーであるとすれば、私たちは既にこの構成的な政治への態度表明を求められていると言えるでしょう。


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