Saturday, May 26, 2012

政治と理論研究会 第2回例会


要領



  • 日時:5月26日(土)18:30開始

  • 会場:法政大学大学院棟 603教室

  • 報告者:西村理 (法政大学 博士後期課程)

  • 報告題名:「ローザ・ルクセンブルクの議会主義批判と組織論」


記録



  • 参加者:5名

  • 次回予定:6月16日

Sunday, May 20, 2012

ステークホルダー民主主義の終焉?


池田信夫さんのブログで「ステークホルダー民主主義」が叩かれていて、それに濱口桂一郎さんが反応しています。終焉も何も、まだ始まってもいない気がするわけですが、備忘として書き留めておきます。



「ステークホルダー民主主義」という言い方をする人は決して多くないわけで、池田さんの念頭に濱口さんが置かれているのは明らかでしょう。濱口さん的なステークホルダー民主主義については、当ブログでも書いたことがあります。私が理解する「ステークホルダー・デモクラシー」一般については、こちらに書きました。

池田さんは原発再稼働に絡めた話をしており、これについては私が2月に書いたエントリに当てはまる立論になっているなぁという印象です(以下、強調は本エントリによる)。


福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発や放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。


原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。


政治について「なるべく意思決定に関与するステークホルダーを減らす粘り強い改革が必要」とする池田さんの立場はそれとして面白いもので、政策の中身以前の「統治形式」(特に「決断」「リーダーシップ」を可能とするそれ)へのこだわりに基づいて政治改革に関与してきた一群の政治学者たちへの評価ともかかわりそうです(森政稔「独裁の誘惑――戦後政治学とポピュリズムのあいだ」『現代思想』2012年5月号*1)。

しかし、ここではそういった話は措いて、「ステークホルダー」概念についての偏った理解を正しておきましょう。やはり当ブログの過去エントリから、引用します。


ステークホルダー論は、決定を濃く強いステークホルダーによる自律的な合意に基づかせるとともに、その外に薄く弱く広がるステークホルダー(社会)への応答性を備えねばならない、との二重性を抱えます。なぜ今その二重性が必要になったかと言えば、利害関係の分布が多様化・複雑化して、従来の利益集団のような利害の均質性を前提できなくなったからです。ガバナンスが対応すべきリスクは不確実であり、個別のイシューについて誰が利害関係を持ち得るのかは自明ではないため、ステークホルダーの範囲は既存の境界線やメンバーシップとの必然的結び付きを持ちません。


労働組合の代表性の問題がよく採り上げられるところですが、ステークホルダーの概念化には、既存の利益代表を刷新して代表性を再構築しようとする意図が刻印されています。誰が決定すべきか自明でないから、その範囲を再定義するために境界線を一旦外へと開こうとするのですが、それは再び閉じるためです。ステークホルダーとは、開きながら閉じ、閉じながら開く概念なのです。それゆえ、ステークホルダー論を支持するのであれば、決定を担うべきステークホルダーに社会が信任を与えてあげなければなりません。社会への応答性要求は、この信任とセットでこそ論じられるべきものなのです。


池田さんはポピュリズム肯定に傾きかねない開放的なステークホルダー理解をわざわざ持ち出していますが、濱口さんが指摘しているようにそれは曲解です(より詳しくは引用元のエントリ全文を読んで下さい)。ステークホルダー概念を用いたデモクラシー解釈にとっての焦点は、ステークホルダーの範囲が広いか狭いかということよりも、適切な利害反映・代表の枠組みを再構築することにあります。

そして原発再稼働の政治決定について問題になっているのは、現行の制度的枠組みが信任に値するものであるかどうかです。いくら決定にかかわるステークホルダーを狭く解釈したとしても、そこに社会の信任が伴っていなければどうしようもないでしょう。


*1:この論文で扱われている山口二郎『政権交代とは何だったのか』(岩波新書、2012年)については、『生活経済政策』2012年5月号所収の書評(評者:杉田敦)も参照。


Saturday, May 19, 2012

自主ゼミ #2012-2


  • 文献:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 1章.

  • 次回予定:同書,2章.

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