Wednesday, July 31, 2013

財産所有デモクラシー(Property-Owning Democracy)についてのメモ


ふと思い立ったので,とあるリバタリアン系ブログに掲載された財産所有デモクラシーをめぐる記事をメモしておきます.


これらの記事の発端になっているのが以下の本で,イギリスにおける財産所有デモクラシー論の水脈からロールズにおけるそれまで,包括的にまとめられています.

  • O'Neill, Martin and Williamson, Thad (eds.) [2012] Property-Owning Democracy: Rawls and Beyond, Wiley-Blackwell.


ロールズの財産所有デモクラシーについての日本語での概説は,以下が簡便です.

    • ※収録→ 渡辺幹雄 [2007] 『ロールズ正義論とその周辺――コミュニタリアニズム、共和主義、ポストモダニズム』春秋社, 4章.


より最近の研究としては,以下などがあります.

  • 大澤津 [2011] 「分配の原理と分配の制度――ロールズの財産所有制民主主義をめぐって」『政治思想研究』(11): 279-307.

気が向いたら追記するかもしれません.

Saturday, July 20, 2013

選挙には行かなくてもよい


選挙が近づくと,みんな投票に行けとうるさくなります.しかし選挙権は権利です.行使することもしないこともできるのが権利です.だから投票には行ってもいかなくてもよいのです.

こういうことは昔,「投票自由論」という記事にまとめたことがあります.そこで書いたことは繰り返しません.

ここでは駒崎弘樹さんが昨年書かれた,「選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由」という記事を採り上げます.あまりに暴論なので当時は論及を控えたのですが,政治学者のなかにもこのような暴論をもてはやす人がいるのを見るにつけ,批判しておく必要を感じました.主張は5点+まとめにわたっているので,それぞれに触れます(なお,当該記事へ寄せられたコメント等の反響はあまりチェックしていないので,重複があるかもしれません).


  • 1. 選挙に行くのを面倒がる人は子どもをどこにも連れて行かないか

根拠がないです.投票に行くことの効用と自分の子どもを遊びに連れて行くことの効用は違うでしょうから,前者をしないから後者もしないだろうという予測には何の確からしさもありません.

  • 2. 「どこに入れても同じ」とは読解力の問題か

読解力に問題がある人もいないわけではないでしょうが,こういうことを言う人の多くは,どの候補者・政党に投票しても日本の政治や自分の生活は良くならないといった趣旨を含意しているのではないでしょうか.あるいは,もっと別の可能性もあるかもしれません.ここで駒崎さんは,(仮想的な)発話者の思考を意図的に矮小化しています.政治家がよく使う手法ですが,(戯画的な類型化を伴いながら)不当に子ども扱いをして人格を貶めるこの言説は,許されるべきではありません.

  • 3. 選挙がよく分からないと仕事もできないのか

当然そんなわけないです.根拠がありません.仕事関係で人が調べ物をするのは,それを必要だと認識しているからでしょう.選挙についても同じ認識がある人は仕事同様に調べるコストをかけるでしょうが,認識が違う人はわざわざ調べません.それだけのことです.

また,仕事や他の用事(介護や育児など)で忙しいために調べるコストをかけたくても十分にかけられない人もいるでしょう.政治や選挙のことをよく分からないと発言しただけで,なぜ仕事ができない人の扱いを受けなければならないのでしょうか.

身近な地方政治のことでも詳しく知っている人の方が少ないと思いますし,それを小手先で仕入れた情報を盾に「分かったふり」をしている人のほうが余程信用に足らない可能性もありますし,そもそも「分かったふり」をするかどうかは投票と無関係です.分からないのは悪いことではないですし,分かろうとする必要も感じないなら無理に調べなければならない理由もないです.人生には他にも重要なことが沢山あるでしょう.

  • 4. 「期日前投票を知らない→インターネットを使えない→労働市場的に無価値」なのか

この点に関しては意味不明なレベルですが,期日前投票の存在は知っておいた方がいいと私も思います.でもそれは(当該記事の文脈で言えば)彼女が教えてあげればいいのではないでしょうか.それから,若い若くないに関係なく,今でもインターネットを使わずにする仕事というのはいくらでもあると思います.もちろん使えるに越したことはないのでしょうが,使えなければ「未来はない」ので別れた方がいいというのは,これは端的に(能力、職業への)差別なのではないでしょうか.

  • 5. 政治家を信頼していない人は他人をレッテルで判断する人か

駒崎さんのこの記事全体が,「選挙に行かないヤツはこういうヤツに違いない」という根拠なきレッテル貼りのオンパレードなのですが,そのことはどう考えておられるのでしょうか.政治家がひとくくりにできないように,選挙に行かない人もひとくくりにするべきではないでしょう.ナンセンスです.

それとは別に,政治が悪さ加減の選択であるとするなら,政治家一般が信頼できなくてもよりマシそうな候補者・政党を選ぶのがよりよい選択なのだと私も思います.でも,どうしてもどの選択肢も信頼できないときに棄権といった選択をする人がいても,それは責められないだろうとも思います.少なくとも,恋人を属性だけで選ぶような人間だといった不当な決めつけで人格を貶められてよいだけの理由など存在しないでしょう.

  • まとめ. 選挙に行かないことは将来への無関心を意味するか

これも根拠ないです.選挙に行かないことだけをもって,なぜ社会や恋人や子どもの将来に関心がない人間だという判定をされなければならないのか.なぜ選挙だけにそこまでの特権的意味を与えるのか.不自然です.これは全然あたりまえな考え方ではありません.これは投票行為そのものを何かの免罪符にする考え方です.逆に考えてみて欲しいのですが,会社やら労働組合やらの動員によって決められた候補・政党に投票した人は,それだけで何か未来への責任を果たしたことになるのでしょうか.投票していない人よりも社会や恋人や子どもの未来を真剣に考えている証になるのでしょうか.そんなわけないです.

選挙だけに特権的な地位を認める考え方は止めるべきです.選挙以外にも政治参加の方法は沢山あります.それはデモやロビイングだったり,政策提言や言論活動だったり,訴訟だったり,あるいは消費活動を通じたものだったりするかもしれません.住まいや地域の活動への参加も政治参加でありうるでしょう.何らかの理由で選挙に行かなかった人でも,さまざまな別の方法を通じて,選挙に行った人よりも一層積極的な政治参加をしている可能性もあります.民主政治の帰趨に対する私たち一人一人の責任も,その多元的な経路の隅々に染みわたって現れてくるものだと思います.少なくとも,選挙に行かなければまともな大人ではないといった趣旨でもって展開される言説戦略は妥当なものではなく,拒絶されるべきです.

Thursday, July 18, 2013

カフカの背中――ベンヤミンとアレントの読解から


フランツ・カフカの短篇「判決」では,老いた父が息子ゲオルクに裁きの鉄槌を下す.息子はベッドの上に立って判決文を叩きつける父を見上げながら,さまざまなことを思い出し,考えつく.しかし,全てすぐに忘れてしまう.「いつもゲオルクは何でも忘れるのだった」(K27).息子は判決に従い,自ら身を投げる.そうするほかにはなかったのであろう.「忘却は解放の可能性をこそ襲うからだ」(B52).

なぜ裁きは下されねばならなかったのか.告発するものがいるからである.「人間が犯した古い不正である原罪は、人間が、自分には不正がおこなわれた、原罪が犯されたのは自分においてなのだ、と非難してやまないところに、在る」(B12).子は親の原罪を咎める.その告発が罪なのである.もっとも,「咎めることは誤りだから罪なのだ、という結論をカフカの定義から引き出すこともできない」(B13).告発は当を得ており,かつ有罪なのである.したがって訴訟は「永久に続く」(同).裁きが下されないためには告発が,すなわち正当な訴えが取り下げられなければならないだろう.必要とされているのは忘却である.

システムが機能するためには忘却が要請される.あるいは機能性が忘却を生み出す.知りえないこの機能性の体系全体の「一切を真実として受け入れる必要はないからだ。それは必然として受け入れなければならない」(A97).「必然性のために嘘をつくこと」(同)が,神秘に包まれた自明性の秩序(運命、祝福、呪い)をつくり出し,強化し,それ以外の可能性を思わせなくなるからである.このとき,誤謬の可能性もまた忘却される.「間違えることは仕事をなくすということなのである。それゆえ、彼は間違う可能性を認めることすらできない」(A104).

忘却の儀礼に則らない者は狂人とされ,やはり罪人の烙印を押される.みなが自らの「生まれながらの権利」を忘れている――忘れることを余儀なくされている――ところでそれを要求することは,端的にスキャンダルなのである(A100-101).「すべてのひとがそれについては生まれながらの権利をもっているようなことにしか興味をもっていない」K,「生活するうえで不可欠のものを」不遜にも欲する『城』のKには,死しか待っていない(同).必然性に抵抗しえなかった『審判』のKとは異なってその死に恥辱が伴わないとしても,そうなのである.

カフカは,「自分に与えられたままの世界(その安定性は私たちが「それを平和のままにしておく」かぎりでのみ存在する)を好まなかった」(A110).カフカは必然性に抗った.必然性とは,「息子におぶさっている」父であり(B12),われわれの背中に課せられている重荷である.「カフカにあっては昔から、何かが背中にのしかかっている」(B48).カフカは日記に書きつける.「眠りこむためにはできるだけ重くするのが良いと思って、ぼくは両腕を交差させ、両手を肩の上におしつけた」.「ここでは重荷を負うことが、忘却と――眠るものの忘却と――見やすく結びつけられいる」(同).重荷と忘却,そして判決の円環.この「環のそとへ脱け落ち」る可能性が認められるのは,虫や動物,せむしのこびと,助手や従者といった,多種多様な異形の者,あるいは周辺的人物たちである(B17).

これらが何を指すのかを明証する術はなく,解放の可能性がどのように回復されうるのかも知ることができない.ヴァルター・ベンヤミンはそのカフカ論をこう結んでいる.乗り手を失った馬は,彼の乗り手よりも長生きした.「人間であるか馬であるかは、重荷が背中から取り除かれさえするならば、もはや、さして重大なことではない」(B58).


  • K: カフカ, フランツ [1914=2007] 「判決」, 丘沢静也 (編訳) 『変身/掟の前で 他2篇』光文社(光文社古典新訳文庫 カ-1-1), 7-30頁.


  • B: ベンヤミン, ヴァルター [1934=1994] 「フランツ・カフカ」, 『ボードレール 他五篇――ベンヤミンの仕事2』野村修 (編訳), 岩波書店(岩波文庫 赤463-2), 5-58頁.


  • A: アーレント, ハンナ [1944=2002] 「フランツ・カフカ 再評価――没後二十周年に」, 『アーレント政治思想集成1 組織的な罪と普遍的な責任』ジョローム・コーン (編), 齋藤純一/山田正行/矢野久美子 (訳), みすず書房, 96-111頁.


Wednesday, July 17, 2013

自主ゼミ #2013-10


前期は終了.

  • 文献:
    • カフカ, フランツ [1914=2007] 「掟の前で」, 丘沢静也 (編訳) 『変身/掟の前で 他2篇』光文社(光文社古典新訳文庫).


    • ベンヤミン, ヴァルター [1934/35=1994] 「フランツ・カフカ」, 『ボードレール 他五篇――ベンヤミンの仕事2』野村修 (編訳), 岩波書店(岩波文庫 赤463-2), 5-58頁.


    • アーレント, ハンナ [1944=2002] 「フランツ・カフカ 再評価――没後二十周年に」『アーレント政治思想集成1 組織的な罪と普遍的な責任』ジョローム・コーン (編), 齋藤純一/山田正行/矢野久美子 (訳), みすず書房.


    • 森川輝一 [2013] 「途方に暮れる――アーレントのカフカをめぐって」 『理想』(690): 16-28.



  • 後期予定: シュミット『大地のノモス』は読まない予定.

Wednesday, July 10, 2013

自主ゼミ #2013-9


  • 文献: 大竹弘二 [2009] 『正戦と内戦』以文社, 6章, 結語.


  • 次回予定: ベンヤミンとアレントのカフカ論.

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