Thursday, July 18, 2013

カフカの背中――ベンヤミンとアレントの読解から


フランツ・カフカの短篇「判決」では,老いた父が息子ゲオルクに裁きの鉄槌を下す.息子はベッドの上に立って判決文を叩きつける父を見上げながら,さまざまなことを思い出し,考えつく.しかし,全てすぐに忘れてしまう.「いつもゲオルクは何でも忘れるのだった」(K27).息子は判決に従い,自ら身を投げる.そうするほかにはなかったのであろう.「忘却は解放の可能性をこそ襲うからだ」(B52).

なぜ裁きは下されねばならなかったのか.告発するものがいるからである.「人間が犯した古い不正である原罪は、人間が、自分には不正がおこなわれた、原罪が犯されたのは自分においてなのだ、と非難してやまないところに、在る」(B12).子は親の原罪を咎める.その告発が罪なのである.もっとも,「咎めることは誤りだから罪なのだ、という結論をカフカの定義から引き出すこともできない」(B13).告発は当を得ており,かつ有罪なのである.したがって訴訟は「永久に続く」(同).裁きが下されないためには告発が,すなわち正当な訴えが取り下げられなければならないだろう.必要とされているのは忘却である.

システムが機能するためには忘却が要請される.あるいは機能性が忘却を生み出す.知りえないこの機能性の体系全体の「一切を真実として受け入れる必要はないからだ。それは必然として受け入れなければならない」(A97).「必然性のために嘘をつくこと」(同)が,神秘に包まれた自明性の秩序(運命、祝福、呪い)をつくり出し,強化し,それ以外の可能性を思わせなくなるからである.このとき,誤謬の可能性もまた忘却される.「間違えることは仕事をなくすということなのである。それゆえ、彼は間違う可能性を認めることすらできない」(A104).

忘却の儀礼に則らない者は狂人とされ,やはり罪人の烙印を押される.みなが自らの「生まれながらの権利」を忘れている――忘れることを余儀なくされている――ところでそれを要求することは,端的にスキャンダルなのである(A100-101).「すべてのひとがそれについては生まれながらの権利をもっているようなことにしか興味をもっていない」K,「生活するうえで不可欠のものを」不遜にも欲する『城』のKには,死しか待っていない(同).必然性に抵抗しえなかった『審判』のKとは異なってその死に恥辱が伴わないとしても,そうなのである.

カフカは,「自分に与えられたままの世界(その安定性は私たちが「それを平和のままにしておく」かぎりでのみ存在する)を好まなかった」(A110).カフカは必然性に抗った.必然性とは,「息子におぶさっている」父であり(B12),われわれの背中に課せられている重荷である.「カフカにあっては昔から、何かが背中にのしかかっている」(B48).カフカは日記に書きつける.「眠りこむためにはできるだけ重くするのが良いと思って、ぼくは両腕を交差させ、両手を肩の上におしつけた」.「ここでは重荷を負うことが、忘却と――眠るものの忘却と――見やすく結びつけられいる」(同).重荷と忘却,そして判決の円環.この「環のそとへ脱け落ち」る可能性が認められるのは,虫や動物,せむしのこびと,助手や従者といった,多種多様な異形の者,あるいは周辺的人物たちである(B17).

これらが何を指すのかを明証する術はなく,解放の可能性がどのように回復されうるのかも知ることができない.ヴァルター・ベンヤミンはそのカフカ論をこう結んでいる.乗り手を失った馬は,彼の乗り手よりも長生きした.「人間であるか馬であるかは、重荷が背中から取り除かれさえするならば、もはや、さして重大なことではない」(B58).


  • K: カフカ, フランツ [1914=2007] 「判決」, 丘沢静也 (編訳) 『変身/掟の前で 他2篇』光文社(光文社古典新訳文庫 カ-1-1), 7-30頁.


  • B: ベンヤミン, ヴァルター [1934=1994] 「フランツ・カフカ」, 『ボードレール 他五篇――ベンヤミンの仕事2』野村修 (編訳), 岩波書店(岩波文庫 赤463-2), 5-58頁.


  • A: アーレント, ハンナ [1944=2002] 「フランツ・カフカ 再評価――没後二十周年に」, 『アーレント政治思想集成1 組織的な罪と普遍的な責任』ジョローム・コーン (編), 齋藤純一/山田正行/矢野久美子 (訳), みすず書房, 96-111頁.


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