Friday, May 31, 2013

政治と理論研究会 第10回


下記の要領で研究会を開催します.※終了しました

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.

なお,本研究会は法政大学大学院政治学専攻委員会と共催です.


  • 要領
    • 日時:7月3日(水)17:00~19:00
    • 会場:法政大学大学院棟 603教室
    • 報告者:源島穣 (筑波大学 博士後期課程)
    • 報告題名:「『第三の道』の敷衍可能性」(仮)
    • 討論者:佐藤圭一 (一橋大学 博士課程)
    • 報告概要(予定):

       イギリス労働党はなぜ「第三の道」路線を採択したのか.その要因はグローバル化の影響を抜きに語ることができない.グローバル化に対応しようとする政治アクターはしかし,各国において歴史的に形成された福祉国家の諸制度によっても規定される.本報告では,こうした複合的文脈に位置するヨーロッパ各国の左派政党を比較する観点から,1990年代以降のイギリス政治に接近する.理論的にはポスト・マルクス主義による社会民主主義批判や,多元的民主主義論などを踏まえ,具体的には分権改革などの事例に目を配りながら,現代における「第三の道」路線のポテンシャルを測定する.

※追記(6/7): 使用教室を掲載しました.

Wednesday, May 29, 2013

自主ゼミ #2013-5



予定を変更して,1-2章の確認.

次回は6月5日14時半から,804教室にて.

  • 文献: 大竹弘二 [2009] 『正戦と内戦』以文社, 1-2章.


  • 次回予定: 同書,3章.

Tuesday, May 28, 2013

掲載・公開告知: 「英語圏におけるシュティルナー研究の現在――ソール・ニューマン編『マックス・シュティルナー』から」





所属する専攻が発行する雑誌に執筆した書評が公開されました.リンク先の専攻HPから読むことができます.対象とした本は,Saul Newman ed. Max Stirner (Palgrave Macmillan, 2011) です.



書評としては長めで,約1万字ほどあります.というのも,実は本の内容を直接扱っているのは半分(か三分の一?)くらいだからです.

前に書いた「エゴイズムの思想的定位」では主に日本語文献を扱ったので,一度英語文献を整理しておこうということで,本書成立に至る研究文脈を私なりに描いてみました(次は独仏やれということになりますが,いつになるやら…).

ご笑覧頂ければ幸いです.

Wednesday, May 22, 2013

自主ゼミ #2013-4



次回は5月29日14時半から,804教室にて.

  • 文献: 大竹弘二 [2009] 『正戦と内戦』以文社, 2章.


  • 次回予定: 同書,3章.

Monday, May 20, 2013

御礼: 清原 [2012]





著者の清原さんから頂戴しておりました.ありがとうございます.

「生活と運動の一体化」を扱ったご論文で,政治学の観点からも興味深く読めるものと思います.

清原さんにはいつもお世話になっておりますので,少しずつでも負債を返していけるよう頑張ります.

Wednesday, May 15, 2013

自主ゼミ #2013-3



次回は5月22日14時半から,804教室にて.

  • 文献: 大竹弘二 [2009] 『正戦と内戦』以文社, 1章.


  • 次回予定: 同書,2章.

Monday, May 13, 2013

掲載・公開告知: 「日本社会の分岐点――政権交代後、震災後の政治をめぐって」



  • 源島穣/西村理/松尾隆佑 [2013. 3] 「日本社会の分岐点――政権交代後、震災後の政治をめぐって」『政治をめぐって』(32): 53-98.


司会を務めた座談会が,院生による専攻誌『政治をめぐって』(法政大学大学院政治学研究科政治学専攻委員会)に掲載されました.専攻委員会のHPから読むことができます.なお,今号は私が編集責任者を務めております.

座談会の内容は政権交代後から2012年11月末までの日本社会の状況を振り返るもので,その時点での「記録」の一種として見て頂ければと思います.その後半年の状況を補完する意味もあり,5月18日に検討会を開催することになりましたので,奮ってご参加下さい.

なお,同号には拙書評も掲載されており,こちらも近日中に公開される予定です.その際には改めて告知致します.


  • 抜粋
 松尾 最近出版された民主党の研究書では、民主党を「資源制約型政党」と捉えています(上神/堤 2011)。自民党一党優位体制下で野党であり続けた以上、政府と結びつくことで利用可能な資源へのアクセスが困難なのは当たり前ですが、無党派層が増えていく状況では、社会から資源を調達することも難しくなってしまったと。つまり人々が政党と恒常的結びつきを持たなくなるわけですから、党費や投票、選挙応援といった形の協力を得にくくなる。さらに、政権を奪ったあとも、利益誘導政治への批判や財政制約などに直面して、国家資源を党派的に利用することはもはやしにくくなっていたと。
 斉藤淳さんの言葉で言えば、「エコヒイキ」(=利益誘導)はもうできないけれども、バラマキは叩かれる(斉藤 2010)。目玉政策だった子ども手当もあまり支持を集めず、譲歩を余儀なくされました。特に財政制約ということが強く意識されるなかで、経済成長でパイを増やすということにはあまり期待できないし、小さくなっていくパイをどう分けるか、また、負担や不利益をどう引き受けてもらうかということが課題になっていかざるをえない。「不利益分配」ということを真剣に考えなければならない(高瀬 2006)、社会全体が資源制約型の社会になってきてしまっているような状況があります。統治の主題そのものがNIMBY(Not in my back yard)問題の解決に近づいてきているとも言えるかもしれません。源島さんが言われたような、財政制約のような客観的状況は政権交代をしても変えられるものではないという認識は、一見当たり前のようですが決定的に重要です。
 湯浅さんは、現在の日本政治に対して当事者意識を持たずに非難を浴びせる人々の姿を、「アイロニカルな政治主義」という言葉で表現しています(湯浅 2012a)。つまり、自分自身が政治の当事者であるという自覚がないまま、政治がだらしないのは政治家や官僚、マスコミが悪いからだと一方的に帰責して、「言いっ放し」で終わってしまいがちになる。「決められない政治」へのフラストレーションを、強いリーダーが快刀乱麻に解決してくれることを望んでしまう。そこでは複雑でシビアな調整と妥協を伴う政治そのものの難しさは認識されず、誰かがバカだったり怠けていたり、逆にずる賢かったりするから、今の政治はダメなんだということになります。そういう人たちは一見政治に対する関心が強いようなんだけれども、実は政治嫌いのシニシズムと親和性が強いのだと、湯浅さんは言います。自分自身を政治のアウトサイダー、要するに「お客さん」だと捉えているわけです。これは未組織・無党派の都市民の層が厚くなっていることの帰結でもあるわけですが、あくまでも政治システムの消費者にとどまろうとするから、その言説は不満と批判がベースで、政権を支えてよりマシにしていこうとするモードになりません。こういう環境のなかで議会政治なり、政権運営なりをしていくというのは、かなりの困難があると思います。
[…]
 松尾 デモと党という話をしてきましたが、これは民主党政権を囲んだ社会の姿とそのまま連続しています。言うまでもなく、「ふつうの人」は、何の特性もない無色透明・不偏中立の人々ではありません。それぞれに特性があり、自分なりに政治的志向性や意見・立場を持つか持とうとしている、一個一個の人間です。新しいデモの「新しさ」を強調するために、未組織であるとか無党派であるなどといった中心的参加者の属性を指して「ふつうの」と形容することは、それ自体がサイレントマジョリティ(「99%」)を背に負おうとする、極めて政治的な物言いです。それにもかかわらず、こうした言説は「ふつうの人」こそが政治的に不偏中立で、正常で、健全であるかのような印象を身にまとうことで、それ以外の人々は偏っていて、異常で、不健全であるかのようなイメージ操作を、隠れたメッセージとして含んでいます。自らの党派性を引き受けずに、「ふつう」であることを恃みにして「特殊」な敵を攻撃しようとする、政治的言説です。
 すなわち、ここでもアイロニカルな政治主義やシニシズム、つまり政治を自らのものとして引き受けることの拒絶という問題が横たわっています。デモは社会を変えられるかという議論は今も盛んですが、デモを社会変革の力にしていくためには、仮にアドホックなものとして位置づけるにせよ、人々に何らかの形で自らの党派性を引き受けさせる必要があるのではないでしょうか。
 新しいデモの非暴力性を強調する五野井さんのようなストーリーでは、日本のデモは60年安保の当初は市民中心の非暴力的な性質を持っていて、図で言えば〈遊び〉の象限にあったんだけれども、樺美智子の死を転機に新聞各社が転向すると運動に暴力的というラベリングが行われて〈災害〉の象限へ転落し、全共闘による暴力イメージの定着を経て〈労働〉象限の退屈なデモへと落ち着いたことになります。その歴史認識からすれば、今のデモは〈労働〉から〈遊び〉なり〈儀式〉なりの象限へ再びデモの価値を上昇させる転機になったという意味づけができる。しかし、これは小熊英二さんの議論についても言えることかもしれませんが(小熊 2012)、日本の社会運動を60年安保や全共闘運動だけで語るとしたら、随分狭いところで議論をしているという印象が拭えません。
 もちろん彼らは反戦平和運動や沖縄の問題、水俣病などについても言及していますし、そこまで単純ではありませんが、全体としては過去が暗い時代として描かれている印象を受ける。そこからは、たとえば女性運動や障碍者運動などがどれほどの達成を果たしてきたのかは見えてきません。これまでの運動がダメで今の運動はいいという安易なストーリーに堕さないためには、過去の社会運動がどのくらい社会を変えてきたのかということを、冷静に見積もる必要があります。言い方を換えると、今の私たちの「ふつうの」暮らしが、いかに過去の党派的な運動の数々によって築かれてきたかという歴史を学ばなければならない。
[…] 
 松尾 党派性、あるいは当事者性と言い換えてもいいのかもしれませんが、そういう性質が「苦役」、つまり強いられた運動にはより明確に現われているのでしょうね。運動の拡がりは出にくいかもしれませんが、その切迫さが何らかの回路で社会一般の状況と結びつけば、人を惹きつける可能性もあります。
 そもそも、運動が必ず拡がりを持たなければならないものかと言えば疑問です。あらゆる運動に社会一般へのアピールを通じた成功を追求させることは、あらゆる地域に創意工夫による経済的自立を求める態度と似ています。社会を変えるためには自分が変わらなければならない、まず自分から動かなければならない、といった自己啓発的主張も同じところに発します(小熊 2012)。しかし、私たちがどこに生活しているかによって関心を違えるような主体であるとすれば、無数の「当事者」が変わらないままで政治的発言権を持ちうるような回路を考えるべきではないでしょうか。
 左派的立場を採る人は、多様な差異を持つ人々が差異を保ったまま「大同団結」して「支配層」に対抗するような成功イメージを描きがちです。私はそうした戦略を「良いポピュリズム」論と呼んでいますが、同じポピュリズムである以上、一時成功したとしても、安定性・持続性は期待できません。戦術レベルでポピュリズムを利用することまでを否定しようとは思いませんが、少なくとも私は、浮動する政治状況を許したままで「上手くやろう」とする技術論よりも、割拠するいくつもの党派のそれぞれに社会への利害伝達回路が確保されるような制度論を考えたい。
[…] 
 松尾 切迫さということで言うと、「ふつう」であることを恃みにする言説とは逆に、当事者性に基づかない運動や政治参加を批判する立場も見られますね。たとえば福島原発周辺の地域社会を研究してきた開沼博さんは、震災後に盛り上がっている脱原発運動を原発立地自治体などの「現場」を知らない人々が自分勝手に騒いでいるだけだと切り捨てていますし(開沼 2012a; 開沼 2012b)、東さんもツイッターなどで、官邸前デモは切実な当事者性を持たない人々がシングル・イシューで集まっていると否定的に評価しています。これらの言説は一種のポピュリズム批判であるわけですが、裏を返せば「よく知らないことには口を出すな」と言っているようにも読める。しかし、それはこれまで「原子力ムラ」を温存してきた専門家にお任せの態度と似通ったものではないでしょうか。
 当事者性を狭く解しすぎることが問題を生む要因の1つなのだと思います。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、原発立地自治体に限らないあちらこちらに「現場」を生むわけですから、当事者がどこにいるのかということは予断できません。中国や韓国の原発が爆発したとき、日本海沿岸の住民が自分には関係のないことだと考えるでしょうか。加えて、そもそも放射能の危険性を知らなければ、たとえ原発のすぐそばに住んでいても自分が当事者だとは思わないかもしれません。それは極端な例ですが、人は自らの当事者性を十分に知っているとは限りませんし、まして他人の当事者性を決めつけることはできません。人が何に切実な利害関心を持っているかということを他人が決めつけるのは、それこそ勝手な口出しではないでしょうか。


*追記: 発言部分の抜粋を掲載しました(5/15).

Thursday, May 9, 2013

御礼: 田村 [2013]


  • 田村哲樹 [2013] 「熟議による「和解」の可能性」, 松尾/臼井 (編) [2013: 4章].
  • 松尾秀哉/臼井陽一郎 (編) [2013. 4] 『紛争と和解の政治学』ナカニシヤ出版.


田村哲樹先生より,一章を執筆されている共著書をご恵送たまわりました.ありがとうございます.

田村先生にはご著作から学ぶことはもちろんのこと,ブログやツイッター上でやりとりをさせて頂いてご教示を得ることがこれまで多々あったのですが,実は未だ直接ご挨拶をさせて頂いたことがありません(ご挨拶できそうなタイミングがなかったわけではないのですが…).それにもかかわらずこのようなお気遣いを頂き,感謝の言葉もありません.

本書は,「紛争と和解というテーマを手引に、政治学的な思考をトレーニングする機会を読者に提供しようとして編んだ入門書」とのことです(「あとがき」より).15章構成の盛り沢山の内容で,私の知る限りあまり類書もないのではないかという気がしますので,非常に有用かと思います.

田村先生ご執筆の章は,社会の「分断」が熟議を通じて「和解」に至る可能性を扱っており,一読する限りでは,私が「理性・情念・利害」で乱暴に片付けた問題をより深めるヒントが埋まっているような気が致します.紹介されている文献も含め、勉強させて頂きます.

Wednesday, May 8, 2013

政治と理論研究会 第9回



下記の要領で研究会を開催致します
※終了しました.

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.

なお,本研究会は法政大学大学院政治学専攻委員会と共催です.

  • 要領
    • 日時:5月8日(水)17時開始
    • 会場:法政大学 大学院棟 201教室
    • 報告者:松尾隆佑 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告題名:「マルチレベル・ガバナンスの民主化と公私再定義――ステークホルダー対話を通じたデモクラシーの越境可能性」
    • 討論者:小林昭菜 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告要旨:

      •  民主的正統性は常に不全である。第一に、政治的決定に正統性を与えるべき集団(デモス)の範囲自体は民主的に決められたものではありえないという原初的欠損が、第二に、決定が将来にわたって影響を及ぼしうる無際限な範囲(ステークホルダー)のすべてを決定過程に参与させることは望みようがないという遂行上の困難が、デモクラシーの可能性を本来的に枠付けている。そして、現代におけるグローバルな相互依存の深まりは、この可能性の幅をますます狭まつつあるように思える。
         核兵器の脅威や金融危機、原子力発電所事故、地球温暖化、感染症など、国境や世代を超越して広範な波及性を持つ多くの問題を、私たちは知っている。国民主権やシティズンシップといった概念に象徴されるように、民主的決定は必ず何らかの境界線を前提とするデモスに依拠して行われるが、このデモスの構成が当該決定のステークホルダーと乖離すればするほど、民主的正統性は欠損の度を増す。決定の影響が本来予定されている境界線を越えて波及する場合、その民主的正統性はどのように確保されうるか。こうした古典的問いの重要性は失われるどころか、加速度的に高まっている。
         とりわけ1990年代半ば以降のグローバル・ガバナンス論は、主権国家が単独では対処困難な地球的課題の解決のため、地域統合の促進や国際機構の発展に期待を寄せてきた(この点はデイヴィッド・ヘルドの「コスモポリタン・デモクラシー」論も例外ではない)。確かに地域機構・国際機構の成長はグローバルな公共的利益に少なくない貢献を為してきたが、近年のEU加盟諸国における反EU感情の発露に象徴されるように、トランスナショナルなガバナンスが実現すればするほど、民主的正統性の欠如が顕在化することになる(民主主義の赤字)。かつてロバート・ダールが指摘したように、越境的な問題への実効的・効率的な対処が可能な単位・主体と、その民主的正統性との間には、ジレンマが存在する。
         他方、多国籍企業や国際NGOなど、公式の政治過程における正統化手続きを経ずに事実上の権力を行使する非政府主体の民主的統制も、喫緊の課題となっている。このような非政府主体の台頭は、社会のガバナビリティ(統治可能性)を低下させるもの――主権への挑戦――であると同時に、政府と協働して公共的課題の解決を担いうる主体の登場という意味で、ガバナビリティ(統治能力)の補完可能性を拓くものでもある。もっとも官民協働によるガバナンスに対しては、公私の区分を失わせかねないとの批判も寄せられ、理論的回答が俟たれている。
         本報告では、ダールが提起したジレンマを解く手がかりを、「ステークホルダー共同体」に基づく多元主義たる「グローバル・ステークホルダー・デモクラシー」を提唱するテリー・ マクドナルドの議論に求め、批判的検討を施す。また、国連グローバル・コンパクト運動を例に、国家機能の拡大によらずにステークホルダー間の合意形成に基づこうとする討議的アプローチが、民間主体の事業過程そのものを政治化・民主化するとともに、公私の再定義をもたらす可能性を探究する。これらの作業により、デモクラシーを枠付けている境界線を――消し去るのではなく――越える方途を示すことが、本報告の目的である。
※追記(4/26):教室と報告要旨を記載しました.

※追記2(5/8):当日の報告スライドを掲載しました.

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