Monday, December 29, 2014

2014年の政治思想


年の瀬ですので,一昨年昨年と同様,政治思想書の収穫を振り返ります.今年も内容に踏み込んだ紹介をする余裕がありませんので,備忘として研究の動向をメモしたものだとご了解ください.

なお偶然来訪された初学者の方などのために一言しますが,どういう研究が刊行されているかをきちんと知るには,学会誌の書評欄などにあたるのが確実です.刊行されてから学会誌に書評・紹介が載るまでにはタイムラグがあるものの,政治思想分野の主要な研究は,日本政治学会『年報政治学』(「学界展望」では論文も紹介),日本政治思想学会『政治思想研究』,社会思想史学会『社会思想史研究』の書評欄を眺めれば知ることができます.また,法学に関係する研究であれば『法律時報』毎年12月号の学界回顧で採り上げられることがありますし,人文・思想書は月曜社のブログで詳しく紹介されています.東京財団の政治外交検証プロジェクトは,政治外交史・国際関係を中心にしながらも,政治学・社会科学の幅広い新刊図書リストを作成・公開しています.

さて,以下便宜的に10点を挙げながら,関連する書籍に触れていきます.



今年最大のトピックは,この分野で初となる講座が発刊・完結したことでしょう(詳細目次はこちらから).昨年のこの企画記事で,テキスト類の充実化を指して「この分野の基礎がさらに厚みを増す」と書きましたが,本講座に凝縮されている研究蓄積を乗り越えていくのも大変そうです(完結記念シンポジウムでは,何年後かに同じ講座を新しく出すことへの希望も聞かれました).

基礎の厚みということで言えば,主だった思想家の概説+主著の抜粋から成る,杉田敦/川崎修 (編) 『西洋政治思想資料集』法政大学出版局が出版されたことも大きいでしょう.ほかに,上記講座とほぼ同じ時期を扱った単著通史として,坂本達哉『社会思想の歴史――マキアヴェリからロールズまで』名古屋大学出版会を見逃せません.古典の邦訳として,ホッブズ『ビヒモス』山田園子 (訳), 岩波書店(岩波文庫)が初めて出版されたこともニュースでした.レオ・シュトラウス『政治哲学とは何であるのか? とその他の諸研究』飯島昇蔵ほか (訳), 早稲田大学出版部もここで挙げておきます.



上記講座にも寄稿している著者による博論の書籍化です.18世紀フランスを扱っていますが,統治が直面する諸問題という観点において,現代にひきつけて読むことができるかと思います.

啓蒙つながりで言えば田中秀夫先生が昨年に引き続きご活躍で,田中秀夫『スコットランド啓蒙とは何か――近代社会の原理』ミネルヴァ書房に加え,大部の編著,田中秀夫 (編) 『野蛮と啓蒙――経済思想史からの接近』京都大学学術出版会を出されています.

欧米思想史ではほかに,柴田平三郎『トマス・アクィナスの政治思想』岩波書店,宇羽野明子『政治的寛容』有斐閣,原田健二朗『ケンブリッジ・プラトン主義――神学と政治の連関』創文社,桑田学『経済的思考の転回――世紀転換期の科学と統治をめぐる知の系譜』以文社などが目立った研究書でしょうか.論文集では,行安茂 (編) 『イギリス理想主義の展開と河合栄治郎――日本イギリス理想主義学会設立10周年記念論集』世界思想社が目を引きます.



日本政治思想で一冊挙げるとすれば本書でしょう.やはり博論の書籍化ですが,著者は大学院の先輩でもあることから,合評会を開催させて頂きました.本書でもやはり統治が大きなテーマになっており,山陽の思想を通じて政治への反省を迫られるという意味で,現代との接続が可能です.

ほかに,論争の歴史に注目した河野有理 (編) 『近代日本政治思想史――荻生徂徠から網野善彦まで』ナカニシヤ出版が話題を集めました.矢内原事件が当事者にどう見えていたかを検証した将基面貴巳 『言論抑圧――矢内原事件の構図』中央公論新社(中公新書)は,読み物としても面白く,しかし独特の感慨を残します.他の研究書として(政治史と言うべきでしょうが),佐藤健太郎『「平等」理念と政治――大正・昭和戦前期の税制改正と地域主義』吉田書店があります.



政治理論分野での最大のトピックは(上記講座を抜きにすれば)本書刊行でしょう.経済学や社会学,思想史,あるいは経験的な政治分析など,隣接分野からの多角的な視点によって政治理論のあり方について検討が加えられています.日本政治学会での関連セッションも盛況でした.私の専攻分野でもありますので,可能ならそのうち感想を書きたいと思います.

既発表の論文が中心ではありますが,森政稔『〈政治的なもの〉の遍歴と帰結――新自由主義以後の「政治理論」のために』青土社が出版されたのも大きなニュースでした(こちらも検討したいと思いつつ果たせずにいますので,そのうちに).趣の違うところでは,吉田徹『感情の政治学』講談社(講談社選書メチエ)を挙げられます.感情への注目は色々な分野で今まさに開拓されているさなかのテーマですので,今後の議論の先駆けになる一冊かなと思います.

ほかに,翻訳で著名なものが幾つか出ています.キャロル・ペイトマン『秩序を乱す女たち? ――政治理論とフェミニズム』山田竜作 (訳), 法政大学出版局,マイケル・ウォルツァー『解釈としての社会批判』大川正彦/川本隆史 (訳), 筑摩書房(ちくま学芸文庫),アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』岡野八代/池田直子 (訳), 岩波書店,スティーヴン・マシード『リベラルな徳――公共哲学としてのリベラリズムへ』小川仁志 (訳), 風行社,ロナルド・ドゥオーキン『神なき宗教――「自由」と「平等」をいかに守るか』森村進 (訳), 筑摩書房,ユルゲン・ハーバーマスほか『公共圏に挑戦する宗教――ポスト世俗時代における共棲のために』箱田徹/金城美幸 (訳), 岩波書店,エルネスト・ラクラウ 『現代革命の新たな考察』山本圭 (訳), 法政大学出版局など.



国際政治思想の著作では,まず本書と古賀敬太『コスモポリタニズムの挑戦――その思想史的考察』風行社を挙げておきます.いずれも,久々に登場した「政治理論のパラダイム転換」シリーズの新刊です.ほかには論文集として,高橋良輔/大庭弘継 (編) 『国際政治のモラル・アポリア――戦争/平和と揺らぐ倫理』ナカニシヤ出版と宇佐美誠 (編) 『グローバルな正義』勁草書房が出ています.



ここからは個別分野からは離れて.本書は,「政治理論のパラダイム転換」と同じく風行社が立ち上げた新シリーズ,「選書〈風のビブリオ〉」の一冊として刊行されています.同シリーズでは,早川誠『代表制という思想』風行社が先に出ていますが,いずれも劣らず良書です.特に本書は,アリストテレスやアクィナスからスミス,ヘーゲル,マルクス,ひいてはロールズやハーバーマスまで,労働と福祉を軸にした思想史をコンパクトに辿ることができるという意味で,類書を見出しにくいかと思います.



昨年触れた宇野重規『民主主義のつくり方』はプラグマティズムを重視した点に特色がありましたが(宇野先生は上記講座にもプラグマティズムの章を執筆しています),その影響もあってか,プラグマティズム関連本の出版ラッシュが続いています.原典では上記古典集成のほかに,ジョン・デューイ 『公衆とその諸問題――現代政治の基礎』阿部齊 (訳), 筑摩書房(ちくま学芸文庫).その他,コーネル・ウェスト『哲学を回避するアメリカ知識人――プラグマティズムの系譜』未来社,ジョン・P. マーフィ/リチャード・ローティ『プラグマティズム入門――パースからデイヴィドソンまで』高頭直樹 (訳), 勁草書房など.



今年を振り返る上で,映画『ハンナ・アーレント』公開に伴って継続していたアレントブームを外すことはできないでしょう.本書のほかにも,入門書として仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』作品社,川崎修『ハンナ・アレント』講談社(講談社学術文庫)が,研究書としてパトリシア・オーウェンズ『戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想』中本義彦/矢野久美子 (訳), 岩波書店が出ています.

アレントとは違いますが,フランクフルト学派とハーバーマスをここに挙げておきましょう.細見和之『フランクフルト学派――ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』中央公論新社(中公新書),木前利秋『理性の行方 ハーバーマスと批判理論』未來社,ユルゲン・ハーバーマス 『自然主義と宗教の間――哲学論集』庄司信/日暮雅夫/池田成一/福山隆夫 (訳), 法政大学出版局.



「一般意志2.0」との関係を云々しなくても近年ルソーへの注目は高くあり続けていると思いますが,本書はルソー研究の最前線をうかがうために必読でしょう.永見文雄/三浦信孝/川出良枝 (編) 『ルソーと近代――ルソーの回帰・ルソーへの回帰』風行社は,ルソー生誕300周年記念シンポに基づく論文集.



最後に,今年に始まった話ではありませんが「保守」ということが関心を集めていますので,ハイエクの研究書を挙げておきます.ハイエクについては上記講座にも山中優先生が寄稿しており,さらに本書著者と山中先生がどちらも執筆している,桂木隆夫 (編) 『ハイエクを読む』ナカニシヤ出版も出版されています.関連で,ジェレミー・シアマー/ピアズ・ノーリス・ターナー (編) 『カール・ポパー 社会と政治――「開かれた社会」以後』神野慧一郎/中才敏郎/戸田剛文 (監訳), ミネルヴァ書房を挙げておきます.

保守主義については,佐藤一進『保守のアポリアを超えて――共和主義の精神とその変奏』NTT出版が出ています.入門書として,仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』新潮社.


それでは,よいお年を.

Sunday, October 12, 2014

御礼: 大井 [2014]


日本政治学会(於:早稲田大学)にて,著者の大井さんから頂戴しました.ありがとうございます.

特集「リベラルの言説――批判的検証」の一部ということで,國分功一郎『来るべき民主主義』の評を通じて,「玉石混交の「リベラル」言説に対する審美眼の構築を目指す」ご論考となっています.

  • 大井赤亥 [2014. 7] 「「リベラル」を見極める審美眼のために」『季刊ピープルズ・プラン』65: 42-49.
    • 1 はじめに――「リベラル」の定義について
    • 2 「リベラルの言説」と民主主義論
    • 3 小平市での都道建設問題と住民投票
    • 4 主権と立法権をめぐる政治哲学の「欠陥」
    • 5 制度の多元性と住民投票
    • 6 結論――「リベラル」を見極める審美眼を

Tuesday, September 30, 2014

福島原発事故に伴う指定廃棄物の最終処分地選定をめぐる政策過程


本日(2014年9月29日),法政大学政治学専攻月例研究会にて標記の報告を行いました.目下係争中の政策課題でありますので,一般の便宜に供するため,報告に用いたレジュメを公開するとともに,註等を省略した内容を以下に掲載します.

指定廃棄物についての公式情報は,環境省の「放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト」にて発信されています.現状とこれまでの経緯については,同省「放射性物質汚染廃棄物に関する安全対策検討会」第1回(2014年4月28日)の資料4「放射性物質汚染廃棄物の発生経緯と現状について」が比較的まとまっているかと思います.

私がこの問題に関心を持ち始めたのは本年5月からと遅く,また急ごしらえのレジュメでもあることから,誤りを多々含んでいるものと危惧します(主としてインターネット上にて入手可能な情報源に依拠し,聞き取り調査などは行っておりませんし,新聞報道も網羅的には参照しておりません).ご叱正・ご批判を歓迎いたします.


1. 指定廃棄物とは何か

  • 2011年3月の福島第一原子力発電所事故に伴い発生した、一定量の放射性物質(1kg当たりの放射性セシウムの濃度が8000ベクレル超)を含む汚泥、汚染稲わら、浄水発生土、焼却灰など。1都11県に、合計14万トン以上が一時保管されている。
  • 福島県を除き、相対的に量の多い宮城・茨城・栃木・群馬・千葉の5県については、11年8月公布の「放射性物質汚染対処特措法」と、同年11月11日に閣議決定された国の「基本方針」に基づき、県内処理のための最終処分場を建設することが予定されている。残りの7都県については処分方針が決まっていない。
  • 処分にあたっては、稲わらなど可燃性廃棄物は仮設焼却炉で焼いて、容量を削減する。焼却灰や不燃性廃棄物を地下に埋め立て、コンクリートで蓋をする。数十年後に放射性濃度が一定程度減衰した段階で、作業用空間も埋設。
  • 現状は、ごみ焼却施設や浄水施設、下水処理施設、農家の土地などに仮置きされており、保管の長期化と分散管理を問題視する環境省は、各県内の最終処分場建設を急ぎたい考え。福島県内への集約は「福島県にこれ以上の負担をさらに強いることは到底理解が得られない」として、これを否定。
  • 環境省は最終処分場立地を円滑に進めるため、1県当たり10億円、5県に合計で50億円の「地域振興費」を交付する方針。


2. 各県の状況

 2. 1. 宮城県 
  • 一時保管されている指定廃棄物は約3,300トン(稲わらなど農林業系副産物が約2,240トン、浄水発生土が約1,010トン)。稲わらが多く、全体の3分の2が登米市にある。個人の農地を借り、ビニールハウスに遮光性のカーテンをかぶせた状態で保管。14年3月で当初約束した保管期限は切れたが、最終処分場は決まらず。ほかに、白石市の浄水場では550トンの汚泥を保管。
  • 環境省と県、市町村長による「市町村長会議」を12年10月から開催し、13年11月の第4回までに、処分場を県内に1箇所つくる方針と、候補地の選定手法について合意。
  • 処分場立地のために必要な土地の広さ(2.5ha)のほか、次の3つの観点から国有地・県有地の適正評価を行い、候補地が絞り込まれた。
    • ①自然災害の恐れのある地域、自然環境を保全すべき地域、史跡・名勝・天然記念物等の保護地域を避ける。
    • ②年間50万人以上が訪れる観光地の周辺は避ける。
    • ③生活空間との距離、水源からの距離、自然植生の少なさを考慮。
  • 第5回の市町村長会議(14年1月20日)で、最も適性が高いとして、栗原市の深山嶽、加美町の田代岳、大和町の下原の3つの国有林を候補地に選定。
  • 環境省は詳細調査を経て15年3月までには決定し、搬入もしたいとしているが、3首長および住民は反対を表明し、環境省の選定基準に則り、不適地であると主張。
    • 栗原市:選定に使用されたデータは古い。08年の岩手・宮城内陸地震の際、周囲で国内最大級の地滑りが起きた。近くにある栗駒山は火山。周辺には鬼首、鳴子温泉など観光地もある。
    • 加美町:町による現地調査の結果、地質、面積や斜度などが条件を満たしていない。周辺に砂防施設がある。リゾート施設に近接している。原発事故以来、地元米が風評被害を被ってきた。
    • 大和町:自衛隊の王城寺原演習場が近く、誤射の危険性がある。候補地周辺の川が隣の色麻町の水源となっている。周辺には県のレッドリストに載っているオオバヤナギが群生。演習場や産廃最終処分場など、これまで様々な迷惑施設を引き受けてきた。
  • 県は、14年5月から7月にかけ、国と3市町を交えた5者協議を4回開催し、詳細調査の受け入れを促したが、合意には至らず。石原環境大臣(当時)が出席した7月25日の第6回市町村長会議を経て、8月4日の第7回市町村長会議で調査受け入れを決定。
  • 村井知事の受け入れ表明を受けて、環境省は調査着手を各市町に申し入れ。降雪のある11月半ばまでに調査を終えたいとする。栗原市長と大和町長は3市町の足並みが揃うことを条件に調査を容認も、加美町長は受け入れを拒否。同町議会は9月19日、処分場建設阻止を目指して「自然環境を放射能による汚染から守る条例」を全会一致で可決した。
  • 反対住民には、「原因者負担」「発生者責任」の原則に基づき、指定廃棄物は福島原発に戻して、東京電力に責任を負わせるべきだとの主張が根強く、県内処理の妥当性を否定している 。背景には、福島県だけでなく自分たちも原発事故で迷惑を被った被害者であり、これ以上の負担は受け入れがたいとする住民感情がある。村井知事は、震災がれきの広域処理で他県にお世話になったのだから、指定廃棄物は自県内で処理すべきだという立場。

 2. 2. 栃木県
  • 県内の指定廃棄物の量は約1万500トンで、福島県に次いで多い。現在は、農家や事業所など県内約170ヶ所に分散して仮置きしている。
  • 環境省は12年9月、福島県に近い矢板市塩田の国有林を候補地に選定したが、国の一方的な決定に対する地元の猛反発にあい、撤回を余儀なくされた。その後、宮城県と同様の方式による合意形成に方針を転換。13年4月から「県指定廃棄物処理促進市町村長会議」を開催し、12月までに県内1箇所の建設と候補地の選定方法が合意された。
  • 14年7月、環境省は塩谷町上寺島(寺島入)の国有林を候補地に選定。候補地から直線距離4kmにある尚仁沢湧水は一帯の水源となっており、1985年に環境庁の「名水百選」に選ばれたこともあることから、住民は反発。
  • 8月5日、塩谷町議会は候補地の白紙撤回を求める国への意見書を全会一致で可決。9月19日には同じく全会一致で「町高原山・尚仁沢湧水保全条例」を可決。同条例により、候補地を含む保全地域での事業には町の許可が必要とされた。
  • 9月22日、「塩谷町民指定廃棄物処分場反対同盟会」は、県内処理を定めた「基本方針」の見直しを国に働きかけるよう求める要望書を、福田知事に提出。
  • 福田知事は、処分場立地に伴う風評被害への対応を求め、尚仁沢湧水を核に同町を全国にPRする「名水プロジェクト」を例示。石原環境大臣(当時)は理解を示し、対策費50億円のほかにも、地域振興に協力する姿勢を示した。
  • 県は14年8月から独自に設置した県指定廃棄物処分等有識者会議を開催。候補地での地下水に関する調査計画や、詳細調査の評価基準の項目などについて、環境省の選定を検証し、独自の意見を取りまとめる方針。
  • 反対する主張や住民感情などは宮城と共通であり 、市町村長会議でも当初は福島第一原発への搬入を求める声が強かった。塩谷町長はインタビューで、「原発周辺に住民が帰れない土地が出てくるとしたら、そういう場所に集約して処理すること」を、「本気で考えてもいいのではないか」と述べている。矢板市長は仮置き場で保管を続ける案を主張したが、福田知事はこれを否定。

 2. 3. 千葉県
  • 約3,700トンが一時保管されており、特に指定廃棄物が多かった松戸市・柏市・流山市は、集約した保管場所への搬出を県に要望。県は14年度末を期限とする協定を結び、我孫子市・印西市の手賀沼下水処理場へ526トンを搬入し、12年末から保管している。
  • 宮城、栃木と同様、13年4月から市町村長会議を開き、14年4月までに県内に最終処分場1箇所を建設することが了承され、初めて民有地も候補とすることになったが、未だに候補地は提示されていない。
  • 保管期限が迫るなか、県は、14年度末までに最終処分場への搬出ができない場合、発生元の自治体が手賀沼から指定廃棄物を持ち帰り、新たな一時保管を行う準備を進めるように要請。手賀沼への搬入の際に反対運動が起こり、搬入が13年6月で停止した経緯もあるため、期限延長はしない方針。
  • 手賀沼での反対運動にかかわった住民はその後、地元から指定廃棄物が撤去されればよいという問題ではないと語り、県民一般の当事者意識の欠如を指摘している。「私たちは当事者になったわけです。ここから20kmも離れていれば関心は全然湧かなかったと思う、我々も」。

 2. 4. 茨城県
  • 県内の指定廃棄物は約3,500トン。14市町内のごみ焼却場や下水処理施設など15カ所で、遮水シートで覆うなどして仮置き。放射性物質濃度が他4県に比べ低く、焼却灰や下水汚泥が9割を占め、農業系の指定廃棄物がないのが特徴。
  • 12年9月に、最も福島県に近い県北の高萩市の国有地を、国が候補地として一方的に決定。地元の市長・住民らの反対にあって撤回を余儀なくされている。その後、13年4月から市町村長会議を3回開催してきたが、箇所数や選定方法に合意は得られていない。
  • 大量の稲わらを敷地内で保管する農家から早急な対応を迫られている宮城、栃木両県とは事情が異なり、結論を急ぐ雰囲気が高まっていない。

 2. 5. 群馬県
  • 県内では、7市村で約1,190トンを保管。前橋水質浄化センターは市内の下水から出た汚泥の焼却灰など約340トン、高崎市では2つの浄水場で浄水時にたまった土と下水汚泥を計280トン、それぞれ保管している。
  • 県は当初、県内に1箇所ではなく発生元の自治体ごとの最終処分を国に逆提案していたが、のちに国の方針に従うことを決めた。
  • 他県同様、13年4月と7月に市町村長会議を開いたが、結論は出ず、3回目の会議は未定。市長会と町村会でも議論が行われ、市長会では意見が集約されなかったが、町村会は13年10月に、県内処理の方針を見直すよう環境省に求めた。
  • 保管場所に民有地はなく、腐りやすい稲わらなどもない。費用もほとんどが環境省の委託費や東電への請求で賄われていることから、切迫感が生まれていない。

3. 問題の諸相

 3. 1. 当事者意識の欠如――解決の主体は誰か
  • 処理の必要性が明らかであるのに、誰も負担を引き受けようとしない、典型的なNIMBY(Not in my backyard)状況。
  • 宮城県では、処理の必要性・緊急性が可視的だった震災がれきと比べ、一部農地などで保管されている指定廃棄物は、県民一般の目に触れにくい。他県でも浄水場などに保管されていることが多く、地元が保管地・候補地にならない限り、関心を呼びにくい
  • 多くの住民には、自分たちは(も)原発事故の被害地域であるとの意識が強く、処分場の建設は正当な理由のない過重な負担(受益なき受苦)と感じられている
  • 自ら解決すべき問題であるとの当事者意識を持つことは困難となり、国の責任や発生者責任が強調される。
  • 他市町村の廃棄物を引き受けることにも抵抗がある。各県の市町村長会議では、県内1箇所という方針を問題視し、自治体ごとや数箇所での分散保管を主張する声が相当数あった。環境省は分散管理のリスクを強調するが、そもそも県単位での処分自体が行政区画以上の合理的理由を持たず、現に千葉県内では有望な候補地が見つからず苦慮している。地域間の公平と処分上の合理性、どちらの観点からしても、県内1箇所の方針には疑義が寄せられており、処分の妥当な単位には争いの余地がある
  • 震災がれきの広域処理をめぐっては、危険性が疑われる他県の廃棄物をなぜ受け入れなければならないのかが問題となった。指定廃棄物処分の場合、似た構造が同一県内で再現されているとも言える。ただしその際、他市町村の廃棄物の受け入れを求められる自治体も、既に一定の受苦を余儀なくされていることが多い。がれきの場合では、広域処理による負担の分配が(是非はあれど)地域間の公平(連帯)に適ったのに対し、指定廃棄物の県内1箇所への集約は累積的な受苦を生む可能性が高く、地域間公平の実現を困難にする。
  • まして、福島への集約は累積的な受苦を極大化させるものであり、地域間公平を甚だしく損なう。それだけでなく、当事者意識を持たないままでいることを助長し、高レベル放射性廃棄物(HLW)処理をめぐっても同様の対処が繰り返される土壌を育みかねない

 3. 2. 不信の構造――合意を阻むもの
  • 安全性や風評被害への危惧に加え、国への強い不信が、合意形成を困難にしている。
  • 第一に、県内処理の方針が策定された手続きや、候補地選定過程の不明朗さ(後述)。
  • 第二に、一旦候補地として詳細調査を受け入れると、不適地と判断されることは期待できず、引き返せなくなるのではないかという危惧。制度的には保障されている決定過程の可逆性を、住民が信頼できない状況。
  • 第三に、各県で合意形成が難航するなかで、他地域に先がけて引き受けると、他都県分の廃棄物も搬入されてしまうのではないかという潜在的危惧。
  • 第四に、一旦引き受けると、その周辺に別の危険施設・迷惑施設も次々と誘致されるのではないかという潜在的危惧。

 3. 3. 政策枠組みの硬直性――不信を強化する意思決定手続き
  • 県内処理の妥当性(福島県内への搬入の妥当性)をどう考えるかとは別に、政策決定手続きとしての妥当性が問題を含んでいる。
  • 環境省は一方的な候補地指定の失敗を踏まえ、県ごとの市町村長会議で県内1箇所の処分場立地と候補地選定基準に合意を取り付ける方式に転換したが、県内処理の方針は堅持し、文献調査のプロセスは依然として不透明。
  • 政策過程の「上流」で決定された県内処理という枠組み自体が「下流」の政策実施段階で摩擦を引き起こしているため、候補地選定や詳細調査などをいかに丁寧に進めても、反対側には形式的・表面的な対応にしか見えず、不信が強化されるばかりとなる
  • 指定廃棄物が地元にあること、来るかもしれないことで喚起される関心は、HLWを含む放射性廃棄物の処理問題を解決すべき主体としての当事者意識へと発展する可能性を持つものである。だが、現行の手続きでは、政策決定の時点で住民の意見反映の機会がなかったことを反対する根拠として与え、「福島に戻せばよい」という(合理的かもしれないが)安易な対処を主張して当事者意識を持たないままでいることを許している。

4. 解決の方向性

 4. 1. 多段階の社会的合意形成――HLW処理に関する学術会議報告から
  • 日本学術会議が14年9月に発表した報告「高レベル放射性廃棄物問題への社会的対処の前進のために」は、12年の報告で提唱した、HLWの「暫定保管」政策の具体化に向けた社会的合意形成を進めるための考え方を示したもの(日本学術会議 2014)。
  • 政策案の選択の幅として、何を「変えられないもの」と考え、何を「変えてもよいもの」と考えるべきかについて、政策論議の参加者が判断を共有する必要がある。
  • まず一般的・抽象的なレベルでの規範的原則(「変えられないもの」)に合意した上で、より個別的・具体的レベルでの判断(「変えてもよいもの」)についての合意を探っていくべき。以下の諸原則は広範な合意が可能。
    • 安全性を最優先すべきこと(安全性最優先の原則)
    • 国内のどこかに施設建設が必要なこと(自国内処理の原則)
    • 多層的なレベルごとに、地域間における受益と負担が公平であるべきこと(多層的な地域間の公平の原則)
    • 施設建設には、多層的なレベルごとの地域住民や自治体の同意が必要であること(社会的合意形成の原則)
  • 最も一般的な原則について、全国知事会、全国市長会、全国町村長会などの多層的な地域代表団体の合意が得られたら、施設の具体的立地点を選定する段階に進める。
  • 特定地域での立地点選定に先立っては、選定手続きや建設・管理に際する条件(建設の承認手続き、住民参加の方式、情報公開の仕組みなど)などの、より具体的な原則について、当該地域の自治体や市民団体代表などの合意が必要。

 4. 2. 意思決定手続きの改善策
  • 政策の実施過程ではなく、形成過程において複数の選択肢(集約処理、県内処理、分散処理など)と、その帰結(各選択肢における候補地での影響評価)を示す。
  • 候補地選定や影響評価のプロセスは透明化し、市民参加型手法(討論型世論調査、パブリック・コメントなど)による議論喚起と意見反映を経て、選択肢の絞り込みを行う。
  • どのような選択肢を選ぶにせよ、事後的に異なる地域や種類の廃棄物が搬入されたり、追加的に異なる種類の施設が立地されたりすることがないよう、予め政策内容を明確化・限定化し、各県知事や各地域代表団体との合意を形成する。
  • 実際に候補地の調査や処分地の決定を行なうにあたっては、候補自治体および地域住民の広範な合意を条件とする。
  • 合意が得られないのであれば、前の段階に手戻りすることを原則とし、意思決定過程の可逆性を保障する。

Tuesday, August 19, 2014

舩橋先生の急逝


社会学者で法政大学教授の舩橋晴俊先生が,8月15日の朝に逝去されました

今年の4月から法政大学サステイナビリティ研究所のリサーチ・アシスタントをさせて頂いている関係で,同研究所を主導しておられた舩橋先生には,大変お世話になっていました.

わずか4ヶ月ほどの本当に短い間ではありましたが,頻繁にお会いする機会があっただけに,あまりにも突然の訃報には,今なお現実感が持てていません.

これまでの舩橋先生の業績については今更述べるまでもありませんが,2011年の震災以降には,以前にもまして精力的になられたようです.この間に私が知る限りでも,その仕事量は凄まじいものがありました.

たとえば,以下などです.

  1. 原子力市民委員会座長として,脱原子力政策大綱を取りまとめ(4月)
  2. 編者として,『原子力総合年表』を刊行(7月)
  3. 同じく編者として,『A General World Environmental Chronology』を刊行(7月)
  4. 世界社会学会議に合わせて,国際シンポジウム「サステイナビリティと環境社会学」を開催(7月)
  5. 日本学術会議「高レベル放射性廃棄物の処分に関するフォローアップ検討委員会」の「暫定保管と社会的合意形成に関する分科会」委員長として,分科会報告書案を取りまとめ(7月 → 「暫定保管に関する技術的検討分科会」の報告と併せて,年内にも委員会としての提言をまとめる方針とのこと)

これだけの仕事をなさる方というのは,全くもって代えがたく感じます.

年表のことや研究所のことなど,折に触れて今後の構想をうかがっていただけに,また個人的にもこれから更に色々と学ばせて頂くつもりでいたために,残念でなりません.

ご冥福をお祈りいたします.

Tuesday, July 22, 2014

御礼: 杉田 [2014]


こちらはもっと前になりますが,杉田敦先生から,ご編著の岩波講座4巻を頂戴しておりました.ありがとうございます.

ル・ボンについて書かれているということに多少の驚きがあったのですが,読んでみると非常に引き込まれ,得心するところがありました.

  • 杉田敦 [2014] 「ル・ボン――群衆の登場」杉田 (編) [2014: 1章].
  • 杉田敦 (編) [2014] 『国家と社会』岩波書店(岩波講座 政治哲学 4).
    • 序論(杉田敦)
    • I 大衆と組織
      • 1 ル・ボン――群衆の登場(杉田敦)
      • 2 ウェーバー――カリスマの来歴と変容(野口雅弘)
      • 3 ソレル――主体の変容と想像力(金山準)
    • II 自由主義と社会主義
      • 4 多元的国家論――伝統と革新による自由の実現(早川誠)
      • 5 ケインズの政治哲学――経済学における社会と国家(間宮陽介)
      • 6 20世紀前半のマルクス主義――「等価性の世界」における形式と規律(西永亮)
      • 7 ヘゲモニー論の系譜学――グラムシと現代政治思想(中村勝己)
    • III 共同性と政治
      • 8 シュミット――自由主義批判のジレンマ(大竹弘二)
      • 9 ハイデガー――存在論的政治の可能性(小林正嗣)
      • 10 シュトラウス――著者の責任と読者の責任と(飯島昇藏)

御礼: 山本 [2014]


しばらく前になりますが,山本卓先生から,ご高論が収められた岩波講座3巻を頂戴しておりました.ありがとうございます.

最近になって,この時期の思想について勉強し直す必要を強く感じておるところです.

  • 山本卓 [2014] 「社会民主主義――J. A. ホブスンにおける社会主義と民主主義」宇野 (編) [2014: 10章].
  • 宇野重規 (編) [2014] 『近代の変容』岩波書店(岩波講座 政治哲学 3).
    • 序論(宇野重規)
    • I 自由主義の多様性
      • 1 ベンサム――功利主義における倫理と統治(小畑俊太郎)
      • 2 ジョン・スチュアート・ミル――功利主義と代議制(小田川大典)
      • 3 コンスタン――立憲主義の基礎づけを求めて(堤林剣)
      • 4 トクヴィル――権威と自由をめぐる考察(高山裕二)
    • II 社会思想の諸展開
      • 5 プルードンとアナーキズム――〈政治的なもの〉と〈社会的なもの〉(森政稔)
      • 6 ナショナリズム――国民国家とは何であったのか(杉田孝夫)
      • 7 ニーチェ――「神の死」以降の宗教と国家(鏑木政彦)
    • III 新たなる紐帯の模索
      • 8 プラグマティズム――習慣・経験・民主主義(宇野重規)
      • 9 連帯の思想――福祉国家の哲学的基礎(田中拓道)
      • 10 社会民主主義――J. A. ホブスンにおける社会主義と民主主義(山本卓)



Wednesday, May 21, 2014

ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか


[※本記事は,『αシノドス』vol. 142(2014年2月15日配信)掲載の原稿に基づくものであり,刊行版とは一部形式が異なります.PDF版は,こちらからDLできます.]


1. はじめに――利益政治は擁護できるか?

 市民の政治参加が唱道されるとき、しばしば槍玉に挙げられるのは、特定の利害集団や限られた「既得権益者」である。その顕著な例は、中高年に牛耳られた日本社会は若者が投票に行かなければ変わらないとか、産官学が一体となった「原子力ムラ」の岩盤を打ち砕くにはデモが有効であるなどといった言説に見られる。また、社会科学に基づく専門的知見から立案された有望な政策が思うように実現しないときにも、農協や労働組合といった利益集団が「抵抗勢力」として名指され、その反対を押さえ込む「リーダーシップ」や「突破力」が渇望される。いずれの場合も、敵視されているのは政策過程に巣食う利害関係者=ステークホルダー(stakeholder)であり(注1)、彼らを富ませる利益政治(interest politics)である。

 利益政治はお嫌いだろうか。ある政治学者によれば、「社会保障や教育など、国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策に取り組むことは、利益政治とは呼ばれない」。「ここでいう利益は、特定の地域や集団に対して差別的に配分されるものであり、補助金や税の減免措置、公共事業など裁量的に運用されるものが利益政治の対象となる」(注2)。利益政治が唾棄される理由の一つは、利益が社会内の特定の部分集団へと「差別的に配分される」ことの「不公平さ」の看取にある。「やつらだけズルい」というわけである。

 ならば、自分も恩恵に与かることで、その不満は解消することになろう。同じ学者は、「国民の現実的利益や幸福を増進することこそ政治の使命と考える利益政治が、広い範囲の国民から支持を得てきたことも事実である」と付け加えることを忘れなかった。利益政治に対する攻撃の多くは、利益分配そのものの拒否ではなく、分配の仕方への批判なのであって、別なる利益政治の希求を意味している。

 利益政治そのものの拒否は困難である。「国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策」なるものがありうるかをここで問うつもりはないが、社会保障や教育、あるいは外交・防衛分野の政策にしても、その受益と負担は一様ではありえないから、「不公平さ」は看取されるだろう。熟議(deliberation)を通じた各人の選好(preference)の変容を重視する立場は、私的な利害関心に動機づけられた選好であっても、誰もが受容しうるような公共的理由(public reason)による正当化が試みられるべきだと説く。だが、何が公共的であるかについて合意に達することは難しい。

 この政策はわれわれの誰もが受容しうると言われるとき、その「われわれ」の範囲の妥当性を問わないわけにはいかない。特定の国民だけを差別的に配慮し、その国益(national interest)なるものを追求する態度も、国境を越えた正義(global justice)の実現を目指す立場からは批判されうる。利益政治は部分集団ばかりを富ませるとして疎まれるが、対立の存在を前提とした暫定的な紛争解決の営為としての政治は、本来的に部分性を免れえない。特定の部分集団を「既得権益者」や「抵抗勢力」と名指して批判している者は、批判対象とは対立する利害関心を抱えた、別なる部分集団の一員であるにすぎない。

 より多くの人々により多くの利益が行き渡る政策の実現を目指すなかで、相対的少数のステークホルダーが障害として現れてくることはあるだろう。だが、少数派であれば直ちに排除してよいことになるのだろうか。例えば私たちがある日突然難病を患い、これまで存在も知らなかった国の難病患者支援制度に対して、切迫した利害関心を持つようになる可能性はいつでもある。そのとき、相対的少数の「既得権益者」として指弾されることをもっともだと思うだろうか。少数派が持つ重大な利害関心を多数派の無関心によって圧殺することは、どこまで望ましいだろうか。

 私たちは、ある政策争点のステークホルダーとなることを随意的に選択できるのではない。ステークホルダーになってしまうのである。自らの属する社会について、「こうあってほしい/ほしくない」とか、「こうすべきだ/すべきでない」などといった何らかの利害関心(interest)が形成され、政治を通じたその実現を望むようになるとき、私たちは、多少なりともステークホルダーとして現れることになる。ステークホルダーの政策過程からの排除が意味するのは、市民の政治からの全面撤退にほかならない。


2. なぜステークホルダーなのか? ――ポスト政治の政治主体

 政治を担う主体としての市民一人一人をステークホルダーとして捉え直すことは、一見新奇な、あるいは牽強付会な説に映るかもしれない。だが、権力の正統化手続きとしての民主政治が、権力を行使する治者と権力を行使される被治者との同一性を要請するとすれば、権力から影響を及ぼされるがゆえに利害関心を持つステークホルダーが権力行使のあり方を統制する、集合的な「自己決定」の過程こそ民主政治の本義であるとの理解に、不自然なところはない。

 このような民主政治の再解釈は、社会内のあらゆる政治的決定を各ステークホルダーの合意に基づかせようとする立場として現れる。ステークホルダー・デモクラシー(stakeholder democracy: SHD)の名で呼ばれるこの立場は、未だ理論化の途上にあるものの、徐々に人々の関心を集めつつある。近年になってSHDが注目され始めている背景としては、政治の「脱領域化de-territorialization」や「周辺化marginalization」、さらには「脱政治化depoliticization」の傾向を指摘しうる(注3)。

 ますますグローバルな相互依存を深める現代の世界では、組織・集団の公私や規模を問わず、その決定に伴う不確実なリスクは、法的な境界線を越えて広範囲に拡散しうる。民主政治は決定権力の影響下におかれる被治者=デモス(demos)による支配を旨とするが、今やデモスの範囲が主権国家の境界と一致すると信じられる余地はほとんどない(政治の脱領域化)。

 また、多国籍企業や国際NGOなどの非国家主体が、公式の政治過程における民主的統制を受けることなく大きな影響力を行使しうるようになることで、主権国家の統治機構を中心とする政治システムの機能は、ますます制約されるようになった。現代では、むしろ政治システムの外部にこそ、人々の生活を大きく左右しうる経済的・社会的諸決定を行う、「サブ政治」が遍在するようになっている(政治の周辺化)。

 そして、このように脱領域的に社会の隅々へ影響を及ぼしうるために、どのような諸個人の生にとっても脅威となりうる「公共的」な権力(public power)が顕著に現われてくるほど、政治システムの機能不全は露わとなり、政治に対する不満や反感は増し、政府信頼や投票率の低下、無党派層の増加などが帰結されることになる(脱政治化)。

 以上に述べたような多面的な環境変化により、これまで暗黙のうちに前提とされてきたような「政治」のあり方がもはや通用しなくなりつつある状況を、さしあたり「ポスト政治」と呼んでおきたい。ステークホルダーの語を用いることで、国民、市民、有権者といった従来の政治主体像を一層抽象化することの意義は、このようなポスト政治の文脈において生じてくる。

 法的権利義務に限られない多様な利害関係の保有に基づいて把握されるステークホルダーは、予め特定の境界線で区切られた集団を意味するわけではないので、決定権力が応答すべき越境的なデモスを指示することができる。また、企業がその社会的影響力に応じて配慮・応答すべき主体の範囲を問い直すために論じられてきたステークホルダー概念は、国家・非国家を問わない公共的権力一般の民主的正統性を問うことに適している。

 このようにステークホルダー概念から民主政治を再解釈することで、従来の政治システムが十分に果たしがたくなっている利害伝達回路としての機能を、何らかの形で再整備することができれば、人々の政治的有効性感覚を回復させ、脱政治化に歯止めをかけることも可能になると考えられる。以下では、このようなポスト政治の諸相に応じてSHDが持ちうる可能性について、なお検討を要する課題にも言及しながら、ささやかな素描を試みたい。


3. 政治の脱領域化に対して

 風や水を通じて拡散する放射性物質による汚染は、境界線を知らない。福島第一原子力発電所事故に伴う汚染水の海洋放出が国際的な動揺を引き起こしたように、韓国や中国の沿岸部に設置された原発がひとたび事故に見舞われれば、日本がその影響を免れることは難しい。越境的なリスクを伴う決定を民主的に統制するためには、広範囲に分布するステークホルダーによる熟議を通じた合意に基づき、決定の正統性(legitimacy)を担保しておくことが必要になる。

 影響を受ける者すべて(all affected interests)が決定の作成過程に参与できなければならないとする原理は、民主政治の一つの理想として繰り返し論じられてきた(注4)。この原理に対する伝統的批判は、決定に伴う不確実な影響範囲をすべて包摂しようとすれば、そのために要するコストは膨大になり、何も決定できなくなってしまうというものである。だが、SHDが含意するのはデモスの適正な範囲への再編成であって、ステークホルダーたりうる者たちへの無限開放ではないから、包摂すべきステークホルダーを暫定的にでも限られた範囲へと画定することは、もとより否定されていない。

 とはいえ、過少包摂(underinclusiveness)も過剰包摂(overinclusiveness)も避け、政策争点ごとのステークホルダーを適正な範囲に画定することがいかにして可能であるかについて、定まった回答は現在もない。困難が伴うのは、何がどこまで重視すべき影響であるかを判断するステークホルダー分析(stakeholder analysis)の手続きが、それ自体として政治的に争われうる性格を持つからである。ステークホルダー分析は、誰がステークホルダーであるかの画定を通じて、何が重要であるのかを定義する課題設定権力に与する。

 例えば、原発立地による受益の範囲と、事故発生時の受苦の範囲は重ならないため、建設にあたって事前同意を取り付けるべき「地元」の定義は難しい。そこで何らかの範囲を選択することは、価値判断を離れては行われえないであろう。では、いずれ政治的に選択されるのであり、影響範囲は可能的には無限とも言いうるのだから、どの範囲を選択しても同じだということになるだろうか。明らかに否である。ステークホルダー分析が政治的性格を免れないのは確かだが、そうであるからこそ、分析の委託者と受託者(分析者)は分析の基準を明らかにし、主要なステークホルダーと認められなかった人々からの異議申し立てに対して分析の妥当性を自ら弁護するなど、応答性を確保することが求められる。

 脱領域的な政治に対するSHDの可能性を示す一つの例として、政治理論家テリー・マクドナルドの議論を採り上げよう(注5)。彼女によれば、諸個人は自らが持つ利害関心に応じて政策争点ごとの「ステークホルダー共同体(stakeholder community: SHC)」に属することで、このSHCに責任を負う多様なNGOの活動を介して、脱領域的な政治的影響力を獲得することができる。SHCは国民(nation)のような法的に一元化された「管区(jurisdiction)」ではなく、多元的に生起しうる「構成母体(constituency)」であるため、個人は自らが持つ多様な利害関心のそれぞれを、異なる複数のSHCに代表させることができるとされる。これは、これまで「管区」と考えられてきたデモスを、多元的な「構成母体」=SHCへと分割・再編成することで、政治の脱領域化に対応しようとする構想として注目される。

 政策分野ごとに様々なNGOが政策形成過程へと組み込まれて利害反映を行う例は、EUにおいては顕著に見られるものであり、脱領域的なステークホルダー・デモクラシーは部分的に実現されているとも言える。ただし、現に存在するNGOの活動内容があらゆる利害関心を反映するものになっているかには疑問の余地が大きい。また、個別のステークホルダー、SHC、NGOごとに利用可能な資源の格差によって生じる、決定過程への実質的な影響力の不均衡を、どのように解消できるかも課題である。さらに、有力な国際NGOであるほど、個別の政策分野での影響力を強める一方で専門化・官僚制化の傾向にあり、市民社会一般から遊離しがちであるため、NGOを民主的に統制するための制度的枠組みについても、検討を進める必要がある。


4. 政治の周辺化に対して

 周辺化した政治システムの外に遍在する様々な公共的権力の民主化をその主要な課題の一部と捉えていることは、SHDの大きな特徴である。政治システムの機能がますます制約され、周辺化が進むと、その統治能力を補完する目的で、企業やNGO・NPOが政府と協働して公共サービスの供給に携わる局面が増えるため、こうした多元的な非国家主体の民主的正統性の問題性は、政治学全体のなかでも意識されるようになってきている。しかしながら、非国家主体の内部統治が民主政治の問題として扱われることは、依然として稀である。ここでは特に企業について、SHDの観点から何が言えるかを示しておく。

 企業統治の民主化を進めるためには、その決定機関に労働者やその他のステークホルダー団体の代表を送り込むことを可能にするなど、法的枠組みの整備が不可欠であろう。政策決定のみならず、事業過程全般における社会内のステークホルダーへの応答性を高めるためには、個別事案における司法的手段の活用もさることながら、各種メディアによる監視と世論喚起を通じた社会的圧力、消費行動や投資行動を通じた経済的圧力なども有効な手段となりうる。

 複合的対応の必要性を強調するのは、単一の解を求めることがかえって社会的不利益をもたらしかねないからである。特に、企業に対する法的規制の強化を要求する場合、(よしんば政治システムが十全に機能したとしても)それが国家権力の拡大と諸個人の自由の縮小に陥らないかについては、注意しすぎることはない。遍在するサブ政治に対しては、それを上から統制する統一的枠組みよりも、それぞれに自律的な民主化可能性を備えさせる、多様な取り組みを促進することが望ましい。

 具体的取り組みの一例が、国連グローバル・コンパクト(Global Compact)に見られる。2000年に発足し、13年4月現在で130を超える諸国から1万以上の団体が加盟しているグローバル・コンパクトでは、人権・労働・環境などに関する国際規範を掲げた上で、規範に則した事業改善の評価報告を各企業の自主性に委ね、同時にNGOなど多様なステークホルダー団体を交えた討議の場を設けている。これは、各企業の事業に伴う様々な問題性を、国家によって直接に規制するのではなく、ステークホルダー対話を通じた相互作用により規律しようとする試みと解せる。

 だが、企業が多様なステークホルダーの要求に高い応答性を保つことは、事業の効率性を損ね、業績の低下につながりかねないのではないか。この点については実証的研究を俟つ必要もあり、安易な一般化は控えたいが、多くの場合にはそうはならないと予測される。むしろ、主要なステークホルダーとの対話を通じてその要求を把握することは、企業が公共的権力として求められている役割の範囲と程度を明確化することで、社会への「無限応答」を避けさせる。それは事業に予測可能性を確保することで効率性にも資するであろう。また、先に述べたような社会的・経済的圧力が機能する限りにおいて、主要なステークホルダーを無視した事業が高い業績を保ちうるとは考えにくい。


5. 脱政治化に対して

 脱政治化は、政治システムの機能不全だけを要因とするわけではない。合理的無知(rational ignorance)も大きな要因である。すなわち、積極的に政治参加したところで一人一人の政治的影響力は無に等しく、得られる便益が乏しいのであれば、限りある資源を政治以外の活動に振り向ける人が多いことに不思議はない。そもそも私たちは政策争点のすべてに利害関心を持つわけではないから、あらゆる問題に精通することは非現実的である。メディアを通じて最低限の情報や知識を獲得することだけでも、日々の生活の上ではかなりの負担であるが、そのコストに応じた見返りを直接に感じられる機会は、まずない。

 加えて、政策のパッケージ化の問題もある。例えば安倍政権の経済政策には賛成だが特定秘密保護法の制定には反対であるなど、政策争点ごとに支持したい政治勢力が異なっている場合でも、様々な政策は政党などを通じて一括に選択を求められてしまうため、私たちが争点ごとに政治的影響力を行使することは困難である。このことも、政治的有効性感覚を奪う一因になっていると考えられる。このような障害を克服するためには、政策パッケージを解体して、政策争点ごとに強い利害関心を持つSHCに、優越的な政治的影響力を配分する制度が望ましい。

 今後のエネルギー政策をテーマとして2012年に民主党政権が実施するなど、各国で実践されている討論型世論調査(deliberative poll)についての研究では、決定に影響力を持つ小集団(mini publics)への参加は、合理的無知に陥ることを避ける上で有効であるとされている (注6)。それが確かならば、デモスを政策争点ごとのSHCに分割し、決定権力を部分的に移譲することは、脱政治化への有効な対処となりうると考えられる。また、政策がパッケージ化されている場合、公式の政治過程において影響力を行使しうる機会は一回的な投票に限られがちであるが、諸個人が複数のSHCに属して多元的に政治的影響力を行使することができるようになれば、政治システムへの入力機会が多様化され、政治的有効性感覚は高まることが期待される。

 デモスをSHCに分割することには、偏った利害関心を持った少数派による支配を招きかねないとする批判が見られる。もっともな危惧ではあるが、少数派の強い選好を重視することは、多数派の弱い選好を全く無視してよいということにはならないはずである。討論型世論調査において、一定の授権を施された小集団による熟議は、社会全体への応答性に開かれなければならないとされている。ステークホルダー間の熟議においても同様である。

 すなわち、濃厚な利害関心を有する主要なステークホルダーによる熟議と合意は、希薄な利害関心を有する社会全体による監視・審理・承認を経て、重層的に正統化される必要がある。ここにおいて重要な役割を担いうるのが、(特定の地理的境界で区切られた)社会の全体を代表する議会である。多様なNGOがSHCを代表して越境的な影響力を持ちうるという前述の主張に対して、そのような選挙を経ない集団が強い政治的影響力を持つようになり、議会を迂回した政策形成が常態化すれば、公式の民主的正統化手続きは破壊されかねないとの批判が存在する。しかしながら、SHDの構想と議会政治を対立的に捉える必然性はない。

 政治の脱領域化を前提にするなら、地理的境界を前提とするどのような議会も、自らの法的存立根拠である「管区」(法的なデモス)と、自らの決定が実際に影響を及ぼしうるステークホルダー(事実上のデモス)との小さくないズレを抱えており、十全な代表性を独占的に主張しうる立場にはない。そうであるとすれば、脱領域的・多元的に構成されるSHC=「構成母体」を代表するNGOなどは、領域的・一元的なデモス=「管区」を代表する議会の機能を損なうよりも、むしろ補完するものであると言える(注7)。異なる根拠を持つ代表者をどのように均衡させ、どのように調停させることができるかはそれ自体として大きな課題であるが、企業の民主化可能性の追求も含めて、政治における利害伝達の回路を様々に「多回路化multichannelization」することは、全体として民主政治の機能を回復・向上させうるはずである。


6. おわりに

 SHDは理論的に未成熟であり、その制度化には課題も多い。だが、その可能性が遠い未来にしか現れないと考えるべき理由はない。SHDの核心的理念は自己決定であり、「私たちのいないところで私たちのことを決めるな(nothing about us without us)」という素朴な訴えである。それは歴史上の無数の運動のなかで繰り返し提起されてきたし、今なお生活の各局面において、いつでも再提起することができる。

 私たちが利害関心を持ち、ステークホルダーになったときに政治が現われる。したがってSHDの実践可能性は、いつどこにでもある。政治の場を、どこか限られた領域にのみ想定するべきではない。ポスト政治の時代においては、従来の意味での「政治」よりも、いくつものサブ政治の方が重要であるかもしれない。その重要性は人によって異なるだろう。私がかかわる政治とあなたがかかわる政治は、同じでなくてよい。それぞれの政治に身を投じればよい。どのみち、政治からは逃れられないのだから。




(1) stakeholderの本来の語意が素朴な利害関係者とは異なる点については、拙稿「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」『政策空間』2010年9月29日を参照。本稿では日本語での一般的用法にしたがう。
(2) 山口二郎「利益政治」『知恵蔵 2014』朝日新聞出版(コトバンクより)。
(3) 政治の脱領域化と周辺化については、杉田敦「周辺化・脱領域化される政治――政治学の何が問題か」『世界』853号、2014年1月、160-168頁を、脱政治化については、コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方』吉田徹訳、岩波書店、2012年を参照。ただし、「脱政治化」の用法は本稿と同書とでは若干異なる。
(4) Robert Goodin, “Enfranchising All Affected Interests, and Its Alternatives,” Philosophy and Public Affairs, 35(1), 2007, pp. 40-68.
(5) Terry Macdonald, Global Stakeholder Democracy: Power and Representation Beyond Liberal State, Oxford University Press, 2008. より詳しくは、拙稿「マルチレベル・ガバナンスの民主的正統性と公私再定義――ステークホルダー・デモクラシーのグローバルな実現へ向けて」『社会科学研究』65巻2号、2014年(近刊)を参照。
(6) ジェイムズ・S. フィシュキン『人々の声が響き合うとき――熟議空間と民主主義』曽根泰教監修、岩木貴子訳、早川書房、2011年。
(7) Christopher Lord, “Parliamentary Representation in a Decentered Polity,” in Beate Kohler-Koch and Berthold Rittberger (eds.) Debating the Democratic Legitimacy of the European Union, Rowman & Littlefield, 2007, ch. 6.


Saturday, May 17, 2014

濱野靖一郎『頼山陽の思想』合評会


法政大学政治学専攻の公開研究会として行われた,濱野靖一郎『頼山陽の思想――日本における政治学の誕生』(東京大学出版会,2014年)の合評会にて,司会兼評者を務めました.

統治・判断・責任――濱野靖一郎『頼山陽の思想』をめぐって」と題して,西洋政治思想との比較,現代民主政治を捉える上での理論的関心,日本における統治の意味,主権と統治の関係などの観点から,コメントおよび質問をさせて頂きました.

おかげさまで専攻内外からの参加者を得まして,盛会のうちに終了いたしました.ご協力いただいた著者・評者の方々に改めて御礼申し上げます.

なお,私の報告資料にご関心をお持ちの方は,kihamu[at]gmail.comまでご連絡頂ければ,ファイルをお送りします.

Tuesday, April 22, 2014

掲載告知: 「デモクラシーからデモクラシーへ」




一般誌に小論が掲載されました.「本との対話」という,見開き一頁のコーナーの執筆です.

全日本教職員組合が編集する教育誌ということで,主に学校教師の方々の読み物のようですが,一般の方も購入は可能なようです(書店でどのくらい扱っているかは分かりません).

書評ほどでもない,本を題材にしたエッセイをという発注だったのですが,やわらかな調子で短くまとめるのは今の私には難しく,生硬な文でごちゃごちゃとした話をする結果になっております.

雑誌全体のなかでも浮いていることと思いますが,もしお手に取る機会があればご笑覧下さい.

紹介した本は,以下の四点です.「デモクラシー」をテーマに,「この」デモクラシーとは異なるデモクラシーのヴィジョンを得ることの重要性について書きましたが,分量的制約もあり,特に中身のあることは言っておりません.






Thursday, April 10, 2014

御礼: 田村 [2014]


著者の田村先生からお送り頂きました.ご高配ありがとうございます.

2011年の政治学会でのご報告を基にされたものです.

鵜飼さんの『人民主権について』と併せて読むと,何か見えてくるかもしれません…と勝手に思っております.

  • 田村哲樹 [2014. 3] 「構築主義は規範をどこまで語ることができるのか? ――政治的構築主義・節合・民主主義」『名古屋大学法政論集』255: 715-755.
    • 序論
    • 第一節 規範を経験的に語ること――経験的な構築主義
    • 第二節 構築主義と「政治的なるもの」――政治的構築主義と異なる規範の発生可能性
    • 第三節 政治的構築主義は規範をどこまで語ることができるのか?
    • 第四節 政治的構築主義と規範としての民主主義の節合
      • (一)ハンセン
      • (二)マーチャート
      • (三)民主主義の正当化という問題をめぐって
    • 結論

御礼: 清原 [2013]; 清原 [2014]


著者の清原さんにお送り頂いておりました.どうもありがとうございます.

いつもながら鮮やかな分析かと思います.

  • 清原悠 [2013] 「住民運動の地政学的分析」『社会学評論』64(2): 205-223.
    • 1 問題の所在
      • 1. 1 住民運動における地域,住民,運動の意味――当事者概念としての住民運動
      • 1. 2 分析視角――地政学的分析の方法論的位置づけ
      • 1. 3 政治資源/主体としての住民運動とその捻じれ――事例としての横浜新貨物線反対運動
    • 2 横浜新貨物線反対運動と横浜の都市空間
      • 2. 1 横浜新貨物線反対運動の発生と革新自治体との関係
      • 2. 2 横浜の人口増加
      • 2. 3 横浜の宅地開発状況――丘陵地における大規模団地開発とその問題
    • 3 横浜の政治地図
      • 3. 1 飛鳥田横浜市長の誕生
      • 3. 2 革新市政と政治的資源としての「住民運動」
      • 3. 3 横浜新貨物線反対運動の地政学――革新勢力の地域形成を支えた保土ヶ谷区と港北区・神奈川区の条件の差異
    • 4 住民運動の換骨奪胎――住民運動の「父」=飛鳥田/「鬼っ子」=横浜新貨物線反対運動
    • 5 結論

  • 清原悠 [2014. 2] 「〈私的な公共圏〉における政治性のパラドックス――女性団体・草の実会における書く実践を事例に」『ジェンダー研究』16: 79-114.
    • 1 問題の所在――女性が「書く」ことの意味
    • 2 書くことについての先行研究
      • 2. 1 書くことによる解放――綴り・まじわる文化/語り・まじわる文化
      • 2. 2 戦後における書くことの隆盛――モラルの焦土から世界の再創造へ
    • 3 〈書く共同体〉の位相――歴史的文脈と組織論の観点
      • 3. 1 複数性を重視する草の実会――草の実会の会員層
      • 3. 2 活動の基本となる地域グループと連合体としての草の実会
    • 4 媒介としての『草の実』――匿名性・公開性・技法
      • 4. 1 『草の実』における2種類の匿名性――外部に対する名前の見えなさ/内部における顔の見えなさ
      • 4. 2 『草の実』における読む工夫――知らない他者の私的な綴りを読む技法
      • 4. 3 公開性=親密性の演出――〈不特定他者への綴り/特定他者への応答〉の非対称性
    • 5 私的な公共圏の形成――誌上と対面の循環関係が作りだすジェンダー・ポリティクス
      • 5. 1 我が家の赤字家計を語る女性達――「話し合い」と「実行」を媒介する「研究」
      • 5. 2 誌上(書く事)と対面(話すこと)の循環関係
      • 5. 3 書く実践=読む実践が生み出す〈私的な公共圏〉のジェンダー・ポリティクス
    • 6 〈私的な公共圏〉における政治への回路――団体/個人の政治的自由の両立可能性
      • 6. 1 おしゃべりから政治行動へ――会員の意識、コミュニケーションの蓄積、勤務評定問題
      • 6. 2 草の実会/草の実会員の位相――勤務評定問題における決議拒否と署名の論理
      • 6. 3 〈私的な公共圏〉における政治のパラドックスと脱パラドクス化戦略
    • 7 結論

Wednesday, April 2, 2014

掲載告知: 「マルチレベル・ガバナンスにおける民主的正統性と公私再定義――ステークホルダー・デモクラシーのグローバルな実現へ向けて」





雑誌投稿論文が刊行されました.リンク先から,要約および本文をお読み頂けます.掲載誌はオンライン版のみの刊行のため,冊子体はありません.

目次を以下に掲げておきます.

  • 目次
    • I. 序論――ダールのジレンマとガバナンス論の隘路
    • II. グローバルな民主化に向けた複数の戦略
      • 1. 政府の/による民主化――ヘルドのコスモポリタン・デモクラシー
      • 2. 市民社会による民主化と、市民社会の民主化
    • III. マクドナルドのグローバル・ステークホルダー・デモクラシー論
      • 1. 概要
      • 2. 意義と課題
      • 3. 可能なる射程――国連グローバル・コンパクトから
    • IV. デモイの競合と調停――民主的正統性の多回路的実現
      • 1. 代表性と有効性への多回路
      • 2. 応答性への多回路
      • 3. 公私の再定義可能性
    • V. 結論


今回の論文は,政治と理論研究会 第9回(2013年5月8日,法政大学)にて報告した内容に加筆修正を施したものです.研究会にご出席下さった方々に,改めて感謝申し上げます.

加えて一つ,訂正があります.参考文献に挙げている高橋良輔先生のご論文,「国境を越える社会運動と制度化されるNGOネットワーク:空間・運動・ネットワーク」の刊行年が「2009」年と表記されていますが,「2010」年の誤りでした.この場を借りてお詫び申し上げます.

なお,脱稿後に以下の2本の論文に接しました.内田 [2014] はJames Bohmanの議論について,Erman [2013] はTerry Macdonaldの議論について,それぞれ検討を加えており,いずれも拙稿と内容的関連が大きいものです.

  • 内田智 [2014] 「熟議デモクラシー,国境横断的なその制度化の課題と可能性――欧州における討論型世論調査の試みを一例として」『年報政治学』2013(2).
  • Erman, Eva [2013] “In Search of Democratic Agency in Deliberative Governance,” European Journal of International Relation, 19(4): 847-868.

Tuesday, March 18, 2014

掲載告知: 「関係と制度――規範の存立において特別の地位を占めうる事実についての政治理論的探究」



  • 松尾隆佑 [2014. 3] 「関係と制度――規範の存立において特別の地位を占めうる事実についての政治理論的探究」『法政大学 大学院紀要』72: 49-73.


拙論が掲載された紀要が刊行されました.

今回の論文は,これまで同じく紀要に掲載してきた「権力と自由」,「理性・情念・利害」に続く概念論で,利害関係(stake)概念研究の「三部作」の締めくくりにあたります.

これらはいずれも2008年提出の修士論文の一部を再利用したものですが,特に今回の関係論については,以前ブログに連載したものの途絶した「かかわりあいの政治学」を違うかたちで完結させることが,当初の執筆企図にありました.

結果的には,その試みは失敗に終わったと思います.色々と模索はしてみたものの,思うようにはまとまりませんでした.

とはいえ,模索の過程が現われている散らかった駄文であればこそ,何か拾い物があるやもしれません.ご関心の向きにはご笑覧頂ければ幸いです.また,門外漢ながら法学的議論を大幅に扱っておりますので,専門家の方から誤りのご指摘など頂けると嬉しいです.

なお,この論文には一般的な意味で「政治理論」的な議論はほとんど出てきませんので,あしからずご了承ください.われながら,かなり謎な論文に仕上がっています.

目次と抜粋を以下に載せておきます.しばらくするとリポジトリでも公開されることと思いますので,その際には改めて告知いたします.

  • 目次
    • 1. 問題の所在――権利の言説と関係の概念
    • 2. 関係とは何か――意義・定義・類型
    • 3. 関係性と規範――法的権利義務の諸相から
      • 3. 1. 人格
      • 3. 2. 所有
      • 3. 3. 時効
      • 3. 4. 相続
      • 3. 5. 親族
      • 3. 6. 責任
    • 4. 制度の周縁――関係の言説は機能するか


  • 抜粋
 もっとも、意思決定に参与すべき当事者の把握が、本人体験性や関係によらずニーズ概念から一元的に為しうるとの立場から、当事者性概念(ひいては当事者概念)の分析上の意義が解体されるなら、紛争状況に分布する多様なニーズや、より広範な「利害関心interest」の比較衡量に基づいて自己決定権の絶対性も否定可能になるはずであり、そこでは関係のような曖昧な語を用いる必要はなくなる。「人工妊娠中絶や終末期医療をめぐる意思決定過程においては、家族や医療従事者その他のニーズないし利害関心も考慮されるべきである」などと述べればよいからである。また、意思決定過程において各主体の利害関心がどのように反映されているかを経験的に分析するためには、「権力power」概念を利用することが可能である。日常語としての関係から権力概念に還元しうる部分をも除くとすれば、なお残余の部分がありうるかは、ますます頼りない。
 したがって関係概念の分析は、同概念の意味内容に利害関心や権力には還元しきれない部分が存在し、かつそれが意思決定過程の分析において無視できない固有の意義を持つことを解明しながら進められる必要がある。そこで以下ではまず、デイヴィッド・ヒュームの考察を手がかりに関係概念固有の意味内容を見出し、さらに当事者研究における「環状島モデル」を参照することを通じて、この関係が意思決定過程において利害関心や権力に劣らない分析上の意義を有することを示す。その上で、これを新たに「関係性connection」概念として定式化・類型化することを図る(第2節)。次に人格、所有、時効、相続、親族、責任の六項目にわたって具体的法制度の存立根拠を検討しながら、そこにおいて関係性が重要な機能を果たしていることを明らかにする(第3節)。法的権利義務の存立において関係性が占める地位についての検討成果は、制度一般の存立をめぐる考察へと援用されることで、若干の理論的含意を導くであろう。それらを踏まえ、「関係の言説」が権利の言説に並立して用いられる可能性へのささやかな展望を行って、稿を閉じたい(第4節)。

※追記(10/6):リポジトリにて公開されました.

Saturday, February 15, 2014

掲載告知: 「ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか」



  • 松尾隆佑 [2014. 2] 「ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか」『αシノドス』142.


拙文を寄稿した有料メール・マガジン『αシノドス』が配信されました.特集「民主主義をとらえる」の一部ということです.

私などにお声がかかるくらいなので,若手のラインナップになるのかなと漠然と想像していたところ,蓋を開けてみたらかなりの豪華メンバーで,場違い感のはなはだしさに恐縮しております.

内容は,ステークホルダー・デモクラシーについて何か書けということで,必然的に,自分の研究テーマの意義について一般向けに説明するようなものになりました.

以前(2010年)に書いた「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」と題名・趣旨ともに近いですが,多少なりとも進歩が見られるようであれば幸いです(3年半かけてこの程度かと言われかねませんが).

購読してお読み頂くものなのでご笑覧下さいとも言いにくいのですが,とりあえず目次を載せておきます.


  • 目次
    • はじめに――利益政治は擁護できるか?
    • なぜステークホルダーなのか? ――ポスト政治の政治主体
    • 政治の脱領域化に対して
    • 政治の周辺化に対して
    • 脱政治化に対して
    • おわりに


※追記(5/21):本ブログおよびPDFにて公開しました.

Tuesday, February 4, 2014

政治理論研究会


三大学合同の政治理論研究会(於:法政大学現代法研究所)にて,研究報告をさせて頂きました.

「政治的なものとガバナンスのあいだ――企業統治論からの接近」と題して,政治的なものの擁護という立場からガバナンス論をどう評価できるのかを検討する内容でした.

あまりまとまりのない報告になってしまいましたが,今後もう少し煮詰めていきたいと思います.

報告要旨と目次を載せておきます.ご関心をお持ちの方は,kihamu[at]gmail.comまでご連絡頂ければ,報告資料をお送りします.


  • 要旨

 政治的なものの擁護を図るとき、政治学の内外で展開されてきたガバナンス論への態度は両義的なものとなる。それはこの言説が、国家のみが公共を担うものではないと語ることで政治的なものの可能的領野を拓いてきた理論的貢献を伴うと同時に、経済的・技術的な脱政治化と国家権力の再編成を企図するイデオロギーとも目されてきたからである。だが、政治的なものとガバナンスのこの緊張関係は、それほど詳細に分析されてきたわけではない。本報告では、政治と統治のあいだで分節化されうる行政や経営の概念に若干の検討を加えながら、脱政治化に親和的であるように思われがちな企業統治論にこそ、政治理論が対象とすべき政治的なものを見出せることを示し、「あいだ」の分析に一助を為したい。


  • 目次

    • 1. 問題の文脈
      • 1. 1. ポスト政治の時代における政治の擁護
      • 1. 2. ガバナンス論の展開――政治から統治へ? 
      • 1. 3. 本報告のねらい
    • 2. 政治・行政・経営――「あいだ」の探索(1)
      • 2. 1. 行政
      • 2. 2. 経営
      • 2. 3. ガバナンスにおける行政/経営
    • 3. 経営・統治・政治――「あいだ」の探索(2)
      • 3. 1. 経営から統治へ
      • 3. 2. 経営における政治――stakeholder governance
      • 3. 3. 企業統治における政治の恒常性
    • 4. 結論
      • 4. 1. 統治の性格をめぐるメタ・ポリティクス
      • 4. 2. postscript:統治性の罠?


Saturday, January 4, 2014

年始のごあいさつ


年賀状を頂いた方々,ありがとうございます.

都合によりお返事できませんが,今年も何卒宜しくお願い致します.

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