Wednesday, May 21, 2014

ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか


[※本記事は,『αシノドス』vol. 142(2014年2月15日配信)掲載の原稿に基づくものであり,刊行版とは一部形式が異なります.PDF版は,こちらからDLできます.]


1. はじめに――利益政治は擁護できるか?

 市民の政治参加が唱道されるとき、しばしば槍玉に挙げられるのは、特定の利害集団や限られた「既得権益者」である。その顕著な例は、中高年に牛耳られた日本社会は若者が投票に行かなければ変わらないとか、産官学が一体となった「原子力ムラ」の岩盤を打ち砕くにはデモが有効であるなどといった言説に見られる。また、社会科学に基づく専門的知見から立案された有望な政策が思うように実現しないときにも、農協や労働組合といった利益集団が「抵抗勢力」として名指され、その反対を押さえ込む「リーダーシップ」や「突破力」が渇望される。いずれの場合も、敵視されているのは政策過程に巣食う利害関係者=ステークホルダー(stakeholder)であり(注1)、彼らを富ませる利益政治(interest politics)である。

 利益政治はお嫌いだろうか。ある政治学者によれば、「社会保障や教育など、国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策に取り組むことは、利益政治とは呼ばれない」。「ここでいう利益は、特定の地域や集団に対して差別的に配分されるものであり、補助金や税の減免措置、公共事業など裁量的に運用されるものが利益政治の対象となる」(注2)。利益政治が唾棄される理由の一つは、利益が社会内の特定の部分集団へと「差別的に配分される」ことの「不公平さ」の看取にある。「やつらだけズルい」というわけである。

 ならば、自分も恩恵に与かることで、その不満は解消することになろう。同じ学者は、「国民の現実的利益や幸福を増進することこそ政治の使命と考える利益政治が、広い範囲の国民から支持を得てきたことも事実である」と付け加えることを忘れなかった。利益政治に対する攻撃の多くは、利益分配そのものの拒否ではなく、分配の仕方への批判なのであって、別なる利益政治の希求を意味している。

 利益政治そのものの拒否は困難である。「国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策」なるものがありうるかをここで問うつもりはないが、社会保障や教育、あるいは外交・防衛分野の政策にしても、その受益と負担は一様ではありえないから、「不公平さ」は看取されるだろう。熟議(deliberation)を通じた各人の選好(preference)の変容を重視する立場は、私的な利害関心に動機づけられた選好であっても、誰もが受容しうるような公共的理由(public reason)による正当化が試みられるべきだと説く。だが、何が公共的であるかについて合意に達することは難しい。

 この政策はわれわれの誰もが受容しうると言われるとき、その「われわれ」の範囲の妥当性を問わないわけにはいかない。特定の国民だけを差別的に配慮し、その国益(national interest)なるものを追求する態度も、国境を越えた正義(global justice)の実現を目指す立場からは批判されうる。利益政治は部分集団ばかりを富ませるとして疎まれるが、対立の存在を前提とした暫定的な紛争解決の営為としての政治は、本来的に部分性を免れえない。特定の部分集団を「既得権益者」や「抵抗勢力」と名指して批判している者は、批判対象とは対立する利害関心を抱えた、別なる部分集団の一員であるにすぎない。

 より多くの人々により多くの利益が行き渡る政策の実現を目指すなかで、相対的少数のステークホルダーが障害として現れてくることはあるだろう。だが、少数派であれば直ちに排除してよいことになるのだろうか。例えば私たちがある日突然難病を患い、これまで存在も知らなかった国の難病患者支援制度に対して、切迫した利害関心を持つようになる可能性はいつでもある。そのとき、相対的少数の「既得権益者」として指弾されることをもっともだと思うだろうか。少数派が持つ重大な利害関心を多数派の無関心によって圧殺することは、どこまで望ましいだろうか。

 私たちは、ある政策争点のステークホルダーとなることを随意的に選択できるのではない。ステークホルダーになってしまうのである。自らの属する社会について、「こうあってほしい/ほしくない」とか、「こうすべきだ/すべきでない」などといった何らかの利害関心(interest)が形成され、政治を通じたその実現を望むようになるとき、私たちは、多少なりともステークホルダーとして現れることになる。ステークホルダーの政策過程からの排除が意味するのは、市民の政治からの全面撤退にほかならない。


2. なぜステークホルダーなのか? ――ポスト政治の政治主体

 政治を担う主体としての市民一人一人をステークホルダーとして捉え直すことは、一見新奇な、あるいは牽強付会な説に映るかもしれない。だが、権力の正統化手続きとしての民主政治が、権力を行使する治者と権力を行使される被治者との同一性を要請するとすれば、権力から影響を及ぼされるがゆえに利害関心を持つステークホルダーが権力行使のあり方を統制する、集合的な「自己決定」の過程こそ民主政治の本義であるとの理解に、不自然なところはない。

 このような民主政治の再解釈は、社会内のあらゆる政治的決定を各ステークホルダーの合意に基づかせようとする立場として現れる。ステークホルダー・デモクラシー(stakeholder democracy: SHD)の名で呼ばれるこの立場は、未だ理論化の途上にあるものの、徐々に人々の関心を集めつつある。近年になってSHDが注目され始めている背景としては、政治の「脱領域化de-territorialization」や「周辺化marginalization」、さらには「脱政治化depoliticization」の傾向を指摘しうる(注3)。

 ますますグローバルな相互依存を深める現代の世界では、組織・集団の公私や規模を問わず、その決定に伴う不確実なリスクは、法的な境界線を越えて広範囲に拡散しうる。民主政治は決定権力の影響下におかれる被治者=デモス(demos)による支配を旨とするが、今やデモスの範囲が主権国家の境界と一致すると信じられる余地はほとんどない(政治の脱領域化)。

 また、多国籍企業や国際NGOなどの非国家主体が、公式の政治過程における民主的統制を受けることなく大きな影響力を行使しうるようになることで、主権国家の統治機構を中心とする政治システムの機能は、ますます制約されるようになった。現代では、むしろ政治システムの外部にこそ、人々の生活を大きく左右しうる経済的・社会的諸決定を行う、「サブ政治」が遍在するようになっている(政治の周辺化)。

 そして、このように脱領域的に社会の隅々へ影響を及ぼしうるために、どのような諸個人の生にとっても脅威となりうる「公共的」な権力(public power)が顕著に現われてくるほど、政治システムの機能不全は露わとなり、政治に対する不満や反感は増し、政府信頼や投票率の低下、無党派層の増加などが帰結されることになる(脱政治化)。

 以上に述べたような多面的な環境変化により、これまで暗黙のうちに前提とされてきたような「政治」のあり方がもはや通用しなくなりつつある状況を、さしあたり「ポスト政治」と呼んでおきたい。ステークホルダーの語を用いることで、国民、市民、有権者といった従来の政治主体像を一層抽象化することの意義は、このようなポスト政治の文脈において生じてくる。

 法的権利義務に限られない多様な利害関係の保有に基づいて把握されるステークホルダーは、予め特定の境界線で区切られた集団を意味するわけではないので、決定権力が応答すべき越境的なデモスを指示することができる。また、企業がその社会的影響力に応じて配慮・応答すべき主体の範囲を問い直すために論じられてきたステークホルダー概念は、国家・非国家を問わない公共的権力一般の民主的正統性を問うことに適している。

 このようにステークホルダー概念から民主政治を再解釈することで、従来の政治システムが十分に果たしがたくなっている利害伝達回路としての機能を、何らかの形で再整備することができれば、人々の政治的有効性感覚を回復させ、脱政治化に歯止めをかけることも可能になると考えられる。以下では、このようなポスト政治の諸相に応じてSHDが持ちうる可能性について、なお検討を要する課題にも言及しながら、ささやかな素描を試みたい。


3. 政治の脱領域化に対して

 風や水を通じて拡散する放射性物質による汚染は、境界線を知らない。福島第一原子力発電所事故に伴う汚染水の海洋放出が国際的な動揺を引き起こしたように、韓国や中国の沿岸部に設置された原発がひとたび事故に見舞われれば、日本がその影響を免れることは難しい。越境的なリスクを伴う決定を民主的に統制するためには、広範囲に分布するステークホルダーによる熟議を通じた合意に基づき、決定の正統性(legitimacy)を担保しておくことが必要になる。

 影響を受ける者すべて(all affected interests)が決定の作成過程に参与できなければならないとする原理は、民主政治の一つの理想として繰り返し論じられてきた(注4)。この原理に対する伝統的批判は、決定に伴う不確実な影響範囲をすべて包摂しようとすれば、そのために要するコストは膨大になり、何も決定できなくなってしまうというものである。だが、SHDが含意するのはデモスの適正な範囲への再編成であって、ステークホルダーたりうる者たちへの無限開放ではないから、包摂すべきステークホルダーを暫定的にでも限られた範囲へと画定することは、もとより否定されていない。

 とはいえ、過少包摂(underinclusiveness)も過剰包摂(overinclusiveness)も避け、政策争点ごとのステークホルダーを適正な範囲に画定することがいかにして可能であるかについて、定まった回答は現在もない。困難が伴うのは、何がどこまで重視すべき影響であるかを判断するステークホルダー分析(stakeholder analysis)の手続きが、それ自体として政治的に争われうる性格を持つからである。ステークホルダー分析は、誰がステークホルダーであるかの画定を通じて、何が重要であるのかを定義する課題設定権力に与する。

 例えば、原発立地による受益の範囲と、事故発生時の受苦の範囲は重ならないため、建設にあたって事前同意を取り付けるべき「地元」の定義は難しい。そこで何らかの範囲を選択することは、価値判断を離れては行われえないであろう。では、いずれ政治的に選択されるのであり、影響範囲は可能的には無限とも言いうるのだから、どの範囲を選択しても同じだということになるだろうか。明らかに否である。ステークホルダー分析が政治的性格を免れないのは確かだが、そうであるからこそ、分析の委託者と受託者(分析者)は分析の基準を明らかにし、主要なステークホルダーと認められなかった人々からの異議申し立てに対して分析の妥当性を自ら弁護するなど、応答性を確保することが求められる。

 脱領域的な政治に対するSHDの可能性を示す一つの例として、政治理論家テリー・マクドナルドの議論を採り上げよう(注5)。彼女によれば、諸個人は自らが持つ利害関心に応じて政策争点ごとの「ステークホルダー共同体(stakeholder community: SHC)」に属することで、このSHCに責任を負う多様なNGOの活動を介して、脱領域的な政治的影響力を獲得することができる。SHCは国民(nation)のような法的に一元化された「管区(jurisdiction)」ではなく、多元的に生起しうる「構成母体(constituency)」であるため、個人は自らが持つ多様な利害関心のそれぞれを、異なる複数のSHCに代表させることができるとされる。これは、これまで「管区」と考えられてきたデモスを、多元的な「構成母体」=SHCへと分割・再編成することで、政治の脱領域化に対応しようとする構想として注目される。

 政策分野ごとに様々なNGOが政策形成過程へと組み込まれて利害反映を行う例は、EUにおいては顕著に見られるものであり、脱領域的なステークホルダー・デモクラシーは部分的に実現されているとも言える。ただし、現に存在するNGOの活動内容があらゆる利害関心を反映するものになっているかには疑問の余地が大きい。また、個別のステークホルダー、SHC、NGOごとに利用可能な資源の格差によって生じる、決定過程への実質的な影響力の不均衡を、どのように解消できるかも課題である。さらに、有力な国際NGOであるほど、個別の政策分野での影響力を強める一方で専門化・官僚制化の傾向にあり、市民社会一般から遊離しがちであるため、NGOを民主的に統制するための制度的枠組みについても、検討を進める必要がある。


4. 政治の周辺化に対して

 周辺化した政治システムの外に遍在する様々な公共的権力の民主化をその主要な課題の一部と捉えていることは、SHDの大きな特徴である。政治システムの機能がますます制約され、周辺化が進むと、その統治能力を補完する目的で、企業やNGO・NPOが政府と協働して公共サービスの供給に携わる局面が増えるため、こうした多元的な非国家主体の民主的正統性の問題性は、政治学全体のなかでも意識されるようになってきている。しかしながら、非国家主体の内部統治が民主政治の問題として扱われることは、依然として稀である。ここでは特に企業について、SHDの観点から何が言えるかを示しておく。

 企業統治の民主化を進めるためには、その決定機関に労働者やその他のステークホルダー団体の代表を送り込むことを可能にするなど、法的枠組みの整備が不可欠であろう。政策決定のみならず、事業過程全般における社会内のステークホルダーへの応答性を高めるためには、個別事案における司法的手段の活用もさることながら、各種メディアによる監視と世論喚起を通じた社会的圧力、消費行動や投資行動を通じた経済的圧力なども有効な手段となりうる。

 複合的対応の必要性を強調するのは、単一の解を求めることがかえって社会的不利益をもたらしかねないからである。特に、企業に対する法的規制の強化を要求する場合、(よしんば政治システムが十全に機能したとしても)それが国家権力の拡大と諸個人の自由の縮小に陥らないかについては、注意しすぎることはない。遍在するサブ政治に対しては、それを上から統制する統一的枠組みよりも、それぞれに自律的な民主化可能性を備えさせる、多様な取り組みを促進することが望ましい。

 具体的取り組みの一例が、国連グローバル・コンパクト(Global Compact)に見られる。2000年に発足し、13年4月現在で130を超える諸国から1万以上の団体が加盟しているグローバル・コンパクトでは、人権・労働・環境などに関する国際規範を掲げた上で、規範に則した事業改善の評価報告を各企業の自主性に委ね、同時にNGOなど多様なステークホルダー団体を交えた討議の場を設けている。これは、各企業の事業に伴う様々な問題性を、国家によって直接に規制するのではなく、ステークホルダー対話を通じた相互作用により規律しようとする試みと解せる。

 だが、企業が多様なステークホルダーの要求に高い応答性を保つことは、事業の効率性を損ね、業績の低下につながりかねないのではないか。この点については実証的研究を俟つ必要もあり、安易な一般化は控えたいが、多くの場合にはそうはならないと予測される。むしろ、主要なステークホルダーとの対話を通じてその要求を把握することは、企業が公共的権力として求められている役割の範囲と程度を明確化することで、社会への「無限応答」を避けさせる。それは事業に予測可能性を確保することで効率性にも資するであろう。また、先に述べたような社会的・経済的圧力が機能する限りにおいて、主要なステークホルダーを無視した事業が高い業績を保ちうるとは考えにくい。


5. 脱政治化に対して

 脱政治化は、政治システムの機能不全だけを要因とするわけではない。合理的無知(rational ignorance)も大きな要因である。すなわち、積極的に政治参加したところで一人一人の政治的影響力は無に等しく、得られる便益が乏しいのであれば、限りある資源を政治以外の活動に振り向ける人が多いことに不思議はない。そもそも私たちは政策争点のすべてに利害関心を持つわけではないから、あらゆる問題に精通することは非現実的である。メディアを通じて最低限の情報や知識を獲得することだけでも、日々の生活の上ではかなりの負担であるが、そのコストに応じた見返りを直接に感じられる機会は、まずない。

 加えて、政策のパッケージ化の問題もある。例えば安倍政権の経済政策には賛成だが特定秘密保護法の制定には反対であるなど、政策争点ごとに支持したい政治勢力が異なっている場合でも、様々な政策は政党などを通じて一括に選択を求められてしまうため、私たちが争点ごとに政治的影響力を行使することは困難である。このことも、政治的有効性感覚を奪う一因になっていると考えられる。このような障害を克服するためには、政策パッケージを解体して、政策争点ごとに強い利害関心を持つSHCに、優越的な政治的影響力を配分する制度が望ましい。

 今後のエネルギー政策をテーマとして2012年に民主党政権が実施するなど、各国で実践されている討論型世論調査(deliberative poll)についての研究では、決定に影響力を持つ小集団(mini publics)への参加は、合理的無知に陥ることを避ける上で有効であるとされている (注6)。それが確かならば、デモスを政策争点ごとのSHCに分割し、決定権力を部分的に移譲することは、脱政治化への有効な対処となりうると考えられる。また、政策がパッケージ化されている場合、公式の政治過程において影響力を行使しうる機会は一回的な投票に限られがちであるが、諸個人が複数のSHCに属して多元的に政治的影響力を行使することができるようになれば、政治システムへの入力機会が多様化され、政治的有効性感覚は高まることが期待される。

 デモスをSHCに分割することには、偏った利害関心を持った少数派による支配を招きかねないとする批判が見られる。もっともな危惧ではあるが、少数派の強い選好を重視することは、多数派の弱い選好を全く無視してよいということにはならないはずである。討論型世論調査において、一定の授権を施された小集団による熟議は、社会全体への応答性に開かれなければならないとされている。ステークホルダー間の熟議においても同様である。

 すなわち、濃厚な利害関心を有する主要なステークホルダーによる熟議と合意は、希薄な利害関心を有する社会全体による監視・審理・承認を経て、重層的に正統化される必要がある。ここにおいて重要な役割を担いうるのが、(特定の地理的境界で区切られた)社会の全体を代表する議会である。多様なNGOがSHCを代表して越境的な影響力を持ちうるという前述の主張に対して、そのような選挙を経ない集団が強い政治的影響力を持つようになり、議会を迂回した政策形成が常態化すれば、公式の民主的正統化手続きは破壊されかねないとの批判が存在する。しかしながら、SHDの構想と議会政治を対立的に捉える必然性はない。

 政治の脱領域化を前提にするなら、地理的境界を前提とするどのような議会も、自らの法的存立根拠である「管区」(法的なデモス)と、自らの決定が実際に影響を及ぼしうるステークホルダー(事実上のデモス)との小さくないズレを抱えており、十全な代表性を独占的に主張しうる立場にはない。そうであるとすれば、脱領域的・多元的に構成されるSHC=「構成母体」を代表するNGOなどは、領域的・一元的なデモス=「管区」を代表する議会の機能を損なうよりも、むしろ補完するものであると言える(注7)。異なる根拠を持つ代表者をどのように均衡させ、どのように調停させることができるかはそれ自体として大きな課題であるが、企業の民主化可能性の追求も含めて、政治における利害伝達の回路を様々に「多回路化multichannelization」することは、全体として民主政治の機能を回復・向上させうるはずである。


6. おわりに

 SHDは理論的に未成熟であり、その制度化には課題も多い。だが、その可能性が遠い未来にしか現れないと考えるべき理由はない。SHDの核心的理念は自己決定であり、「私たちのいないところで私たちのことを決めるな(nothing about us without us)」という素朴な訴えである。それは歴史上の無数の運動のなかで繰り返し提起されてきたし、今なお生活の各局面において、いつでも再提起することができる。

 私たちが利害関心を持ち、ステークホルダーになったときに政治が現われる。したがってSHDの実践可能性は、いつどこにでもある。政治の場を、どこか限られた領域にのみ想定するべきではない。ポスト政治の時代においては、従来の意味での「政治」よりも、いくつものサブ政治の方が重要であるかもしれない。その重要性は人によって異なるだろう。私がかかわる政治とあなたがかかわる政治は、同じでなくてよい。それぞれの政治に身を投じればよい。どのみち、政治からは逃れられないのだから。




(1) stakeholderの本来の語意が素朴な利害関係者とは異なる点については、拙稿「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」『政策空間』2010年9月29日を参照。本稿では日本語での一般的用法にしたがう。
(2) 山口二郎「利益政治」『知恵蔵 2014』朝日新聞出版(コトバンクより)。
(3) 政治の脱領域化と周辺化については、杉田敦「周辺化・脱領域化される政治――政治学の何が問題か」『世界』853号、2014年1月、160-168頁を、脱政治化については、コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方』吉田徹訳、岩波書店、2012年を参照。ただし、「脱政治化」の用法は本稿と同書とでは若干異なる。
(4) Robert Goodin, “Enfranchising All Affected Interests, and Its Alternatives,” Philosophy and Public Affairs, 35(1), 2007, pp. 40-68.
(5) Terry Macdonald, Global Stakeholder Democracy: Power and Representation Beyond Liberal State, Oxford University Press, 2008. より詳しくは、拙稿「マルチレベル・ガバナンスの民主的正統性と公私再定義――ステークホルダー・デモクラシーのグローバルな実現へ向けて」『社会科学研究』65巻2号、2014年(近刊)を参照。
(6) ジェイムズ・S. フィシュキン『人々の声が響き合うとき――熟議空間と民主主義』曽根泰教監修、岩木貴子訳、早川書房、2011年。
(7) Christopher Lord, “Parliamentary Representation in a Decentered Polity,” in Beate Kohler-Koch and Berthold Rittberger (eds.) Debating the Democratic Legitimacy of the European Union, Rowman & Littlefield, 2007, ch. 6.


Saturday, May 17, 2014

濱野靖一郎『頼山陽の思想』合評会


法政大学政治学専攻の公開研究会として行われた,濱野靖一郎『頼山陽の思想――日本における政治学の誕生』(東京大学出版会,2014年)の合評会にて,司会兼評者を務めました.

統治・判断・責任――濱野靖一郎『頼山陽の思想』をめぐって」と題して,西洋政治思想との比較,現代民主政治を捉える上での理論的関心,日本における統治の意味,主権と統治の関係などの観点から,コメントおよび質問をさせて頂きました.

おかげさまで専攻内外からの参加者を得まして,盛会のうちに終了いたしました.ご協力いただいた著者・評者の方々に改めて御礼申し上げます.

なお,私の報告資料にご関心をお持ちの方は,kihamu[at]gmail.comまでご連絡頂ければ,ファイルをお送りします.

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